第五十八話
続きです。
いつもと同じです。
よろしくお願いさせていただきます。
※ 11/23 00:26 気になった部分を修正しました。内容に影響は全くありませんです。
「ふぅ。着いた」
雑居ビルの階段を使って二階まで上がり、とことこと通路を歩いてバーの前、私は扉に手を掛ける。
階段を使ったのは使いたかったからで他意はない。思っていたより疲れを感じてしまうのは歳のせい。他に理由は見当たらない。それこそ想像もつかない。
まぁ、優秀で聡明な愛しの幸なら、ほんとにそれだけなの? アレもあるでしょうとニヤついてすぐに別の理由に思い当たってしまうだろうけれど、私はまあまあそこそこな女性だからその理由にはひとつだけしか思い当たることができない。今あげた、私が順調に歳を重ねているということだけ。歳は一年に一つずつ、みんな平等にとるものだからそれはいいのだ。歳だから疲れてしまうことに文句はない。他に理由なんて何もありはしない。
大丈夫。だって私は増えていないのだから。
「そうそう」
「んー」
手を掛けた姿勢のまま耳を澄ましても周りの店からは特に何も漏れ聴こえてこない。ここは大体こんな感じで静かなもの。どこかのホラーハウスだらけのビルとは違うのだ。
「うん、平和って好き」
正月休みも終わりを告げたと思ったらまた三連休がやって来るその週末の金曜日午後七時過ぎ、私はいつものバーにやって来たところ。
「あけましてー」
扉を開けてそう声を出し、私は私の世界に足を踏み入れる。暗がりに慣れてきた目に映るのはよく知る面子と見知った面子。
麗蘭さんは変わらずカウンター席の端にいて、この世界に目を向けながら優雅にグラスを傾けている。いつもの席に視線をやればそこは私のいつもの席のまま。
まだ何も変わらない世界が私を迎えてくれる。本当にありがたいことだなと、私は顔を綻ばせた。
「あ。夏織さんっ。あけましておめでとうございますっ。今年もよろしくでーす」
「あけましておめでとう莉里ちゃん。こちらこそよろしくね」
偶然とは思えない、ちょこちょこと私のそばを通ったふうの莉里ちゃんと挨拶を交わしたあと、さて先ずは麗蘭さんに詣でなくてはと、幸が心地いいと言ってくれた私のペースでとことこと、カウンターへと向かっていく。
けれど、そこに着くまでにみんなと挨拶を交わさなくてはならないから中々辿り着けないことも私はちゃんと分かっていた。
大方どんな世界でも世界とはそういうもの。独りぼっちじゃないのなら、自分のペースで為すがままに進み続けることなんてそう簡単にできることではないのだから。
「はぁ」
仕方ないなとほんの小さなため息を吐いてから私は気合を入れてみた。いざっ。
「あっけおめー」
「あー。夏織さーん。ことよろー」
「おめー」
「よろー」
うわっ、失敗したなと私は思った。
私は気合を入れ過ぎて確実にテンションを間違えてしまった。高過ぎたのだ。これではカウンターに着くまでに蓄えていた養分を使い切って枯れ草のようになってしまうけれどいまさらそれを落とすことはできない。
だってそんなことをしたらきめていた何かが切れたのかと思われてしまうから。そんなものしたことないのに見損なったわ夏織さんもう二度と来ないでねと出禁になってしまうから。くっ。
「おひさー」
「ねー」
「ねぇねぇちょっと聞いてよー。夏織っち」
「なになにー。どしたー」
間違えたせいできゃいきゃい始まってしまったテンションの高い会話をなんとかこなしながら、夏織っちって私は香り豊かなアロマ的な柔軟剤なの? とか、これは疲れるまじ勘弁してほしいんですけどとか、私は凄く自分勝手なことを思っていた。
「「まったねー」」
「うん。またねー」
頑張ってテンションを維持したまま最後に笑顔で手を振って、第一陣をどうにかこなして笑顔そのまま前を見る。
「うっ。まだいっぱいいるし」
こんな時、私にできることなんてたかが知れている。それはもちろん小さく毒を吐くくらい。
「くそう。もうこれやだ超面倒くさい」
「あ、夏織さんだ」
「お。あけおめー」
「「「あけおめー」」」
という感じで始まる新たな会話。疲れることこの上ない。
だからせめて小声で、うわぁうるさいわぁと毒を吐くことくらいは許してほしい。
「むり」
「なにー?」
「なんでもないよー」
お互い似たような年齢にも関わらず、私が高いテンションで始めてしまったからみんな付き合ってくれているのかもだけれど、だから私の自業自得な気もするけれど、これを維持するのは凄く大変なのだ。なんといっても、私は本来、体力のない物静かでお淑やかなか弱い素敵な大人の女性なのだから。
「それでねー」
「へー。すごいじゃーん」
思うことをおくびにも出さないように気をつけながら、私はちらりとこの先のテーブル席に着いている面々を確認してみる。
「オーノー」
「やだー。なんで外人さんなのー」
「「超うけるー」」
超うけなーい。むしろ寒いでしょうよと、私の心の声は酷くなる一方だけれど、目指す麗蘭さんはまだ先の先。空気に触れさせているのだろう、ワインの入ったグラスを優雅に回している。私はあと二、三回はこれを繰り返さなくてはいけないというのにっ。
「おかしい」
この差はどこからくるかしらと私は天井を見上げてぎゅっと唇を噛み締めた。そうしないと溢れそうだから。
「うぐ」
十二月に入って引っ越しと仕事とで忙しく、私は軽くひと月以上はご無沙汰していたから、忘れてられては嫌だなと思って年明けのできるだけ早いうち、バーに顔を出そうと思っていたところ、色々と落ち着いた時にでも顔を見せてね皆も由子もとても会いたがっているからねとクリスマスを過ぎた頃に恵美さんがそんなメッセージをくれて、その由子からも、会って報告したいことがありますえへへと、なんだか幸せそうな匂いのするお誘いがあったのだ。
その際恒例の、恵美さんのヤツはもう諦めたからいいとして、由子のメッセージにも一見すると狸のように見えるアライグマのスタンプがあった。
なんでアライグマなのかと首を捻りながらも私はすぐにそれを消去してやった。ソイツが黒とか灰色とか色的になんかおかしかったから。あの有名なアニメのラスなんとか君とは色合いがまるで違ったから。
結局、いまだ何の動物だったのか分からないけれど訊く気もないし知りたくもない。
ただ私はあの腹ぺこの前で、これ見よがしに美味いものを食べてやろうかなと思っているところ。絶対あげないで美味い美味いと食べ切ってやるのだ。はっはっはっ。
とにかくそんなわけだから、今日行くよと前もってふたりにメッセージを送ったところ、りょ、りょ、と、またしても狸とアライグマが手を挙げているスタンプ付きの返事をもらったのだ。
当然、私は震えながら考えた。
私に会いたいと思ってくれることは素直に嬉しいなと思うけれど、それはそれこれはこれ、ということで、私はその報復としてふたりの食べるヤツにこっそりタバスコをかけてやることを決意したのだ。ひーっ、ごほごほってなる様を笑ってやることにしたのだ。バーには辛いのが得意な人もいるから食べもは無駄にならないからいける。
何にしても狸の恨みは恐ろしいのだから、かのふたりは、この程度で済んでよかったと思うべきなのだ。
「タバスコよーし」
絶対かける。笑ってやる。そんな決意とともにふふふと笑いながら、わざわざ買ったハバネロ入りのそれをバッグに入れた私のことを幸がじっと見ていた。夏織はなんでそんな物をバッグに入れているのと、唖然とした口を隠すようにそこに手を当てて、切れ長の目を見開いていた。
その姿も様になっていてなんか可愛い幸に、私は一応の言い訳をしてみる。
「これマイタバスコだし」
「嘘でしょ」
はい残念。さすがの幸には通用しない。
けれど今回の報復は私にとって大事なことだと私は思うから忘れないように予め入れただけ。だからその、私のおつむそのものを疑うような視線を私に向けるのは居た堪れなくなるから是非ともやめてもらいたい。
「本当だし」
「嘘つけ」
とはいえ私はこれ以上の上手い言い訳を思いつかないから、幸には悪いけれど少々強引にやめてもらうことにした。私は…
「夏織です」
幸は一瞬にして私に向けていた、絶対に何か原因がある筈だから突き止めないと的なMRIのような視線をやめて、眉を顰めて首を少しだけ捻った。
幸は、なに急に自己紹介なんてしていみふだわと思ったのだと思う。あの時の私もそう思ったから。そして幸はすぐに理解してしまった。幸は優秀で聡明だから。
「なっ。もー。夏織のばかー」
黒いヤツと争い始めた幸を見て、ごめんよ幸と私は謝った。
「ごめんごめん」
「でね。わたし金曜日、顔だしてくるから」
「私もお誘いが来たから行ってくるよ」
どうやら黒いヤツを追っ払うことができたらしい幸は何事もなかったように、けれど満足そうに私も渚さんからお誘いのメッセージが来たんだよと、置いてあったスマホを取ってアプリを開き、ほらねとそれを渡してくれた。私は普通にそれを見た。見てしまった。
おいで
きゃー。
たった三文字の、簡潔で明快な文言にもかかわらず、なにか怨念めいたものをひしひしと感じるそのメッセージを見た途端、私の全身の毛穴という毛穴がぶわっと鳥肌をたてた。
私は思わずひっと声をあげて、既に呪われていそうな幸のスマホを放り出してしまった。
「うわぁ」
そのまま呆けたように画面を見続けていては絶対駄目。
だって私はあの怖い歌とともに血に飢えたアイスピックママがそこから出て来てべろーんとやる姿を確実にイメージできてしまったのだから。
「こわい」
「あっ。もう。ちょっと夏織」
幸はなにするのよ壊れちゃうじゃんと、スマホを拾いながら私を咎めている。
不満そうな幸の声を聞いて、それでも幸の声だからとほっとして、少し自分を取り戻すことができた私は、幸にごめんと謝りながらも思ったことを素直に口にした。
なぜ私がこうなってしまったのか、その恐ろしさを私は幸にも分かってもらいたかったのだ。
「幸。そんなの持ってたら来るって。きっと来るって。ヤバいから機種変しなって」
「えーと、なんの話なの?」
私は幸のスマホを指した。けれど幸はちょっとおかしいから取り付く島もない、というかそもそも何も分かっていない。鈍感にもほどがあるぞと私は大きくため息を吐く。
「はぁぁ。いい? 幸」
呪いを舐めてはいけない。このまま放って置くとそのうち幸は取り込まれて、何かあるたびに生肉をべろーんとやるようになってしまうから。
そのたびに変な菌をもらってお腹を壊してしまうのは忍びない。だから私は必死になって説得を試みた。
「だってそのメッセージおかしいじゃん」
「そうかな?」
「そうだよ。それ絶対呪われてるって」
「またなの? まったく何をアホなことを」
幸はすっかり呆れてしまった。私にだけよく見せてくれるポーズ、親指と中指で掴むようにして両のこめかみを抑えて首を横に振っている。
確かに私はこうだけれど、これは幸のため。さっきのタバスコの時とは私の必死さが違うのだ。
「だってそれ絶対あぶないって」
「いいえ、あぶなくない。むしろ夏織があぶないと思うけどな」
「ぐっ。じゃ、じゃあせめてお祓いいこう」
「またぁ。そうやって馬鹿なことを」
「まじだって。だいたい幸はそれ見て何も感じないの?」
「べつに。渚さんはいつもこんなだからさ」
「え、まじ?」
「うん。まじ」
幸は頷いて、また画面を私に向けて履歴を見せてくれようとしている。けれど君子な私は危ないヤツには近づきたくないのだ。
「これすごいから見てみて」
私の隣に手足を使ってぺたぺたと這ってきて、わざわざスマホを見せてくれちゃう幸。その這って近寄る姿がまた来ちゃうヤツを彷彿とさせて、私は竦んで動けなくなっていたのだ。
「見たくないです」
「いいから。ほら」
そして幸はさらに、私に腕まで回してくれちゃう念の入れよう。暴れて逃げようにも怖くて竦んで動けない。恐るべし。これも呪いの影響というやつか。
「毎回おんなじなの。わかりやすいよねこれ」
なんだよやめろよ肩まで抱いてなにすんだよ幸の馬鹿と、私は顔を背けようと頑張ったけれど画面は既に目の前に迫りきてしまった。
「くっ」
私はっ、本気でっ、見たくなかったけれど、既に呪われていたのだろう、目を逸らせずにそれを見てしまった。
おいで
おいで
おいで
おいで
おいで
ひゃー。
嘘でしょう? 幸がスクロールして履歴が遡っていくその画面にあるのは、ずらずらーと並ぶおいでの文字。それだけ。
「超こわい」
来る。きっとどころか絶対来る。あまりの怖さに一瞬気が遠くなって、肩に回された幸の腕もなんのその、私は女の子座わりのままうーんと唸って仰向けに倒れてしまった。
幸はここでも役立たずだったのだ。なんのために私に腕を回してくれたのか甚だ疑問。まったく、この役立たずの幸めがっ。
「あたっ。ぐわぁ」
そのせいで私の腿がぐいってなって、膝と股関節からばきっと可愛らしい音が聞こえてきた。
さらに、倒れた無理な体勢から逃れようと慌てて体を動かしたというか自己防衛機能が働いて自然と体を庇ってしまうように動いたから、私は倒れて跳ねて横に動いて這いつくばってどうにか起き上がって座り込むという凄く変な動きをしてしまったのだ。
「あはは。まったく。なにしてんの夏織は」
幸は呆れて首を横に振って苦笑っている。私なら爆笑していた筈だから、優しい幸は気を遣ってくれたのだろうけれど、どうせ気を遣うのならそんな危険極まりないものを最初から見せないでほしかった。
「大丈夫?」
「大丈夫くないっ。痛いしこわい。ここ、ぐいってなった。ここ、ぱきってて鳴ったからなっ。ここもだそっ。幸のせいだからなっ」
「よく分かんないけど、ごめんごめん」
やっぱり夏織はおもしろおかしいねと言いつつも、優しい幸は私をそっと、あやすように抱いてくれた。
もう怖くないよー痛くないよーなんて言いながら髪を撫でてよしよしまでしてくれた。
「ほーら、もうへいきだよー」
「ふへへ」
私がちょろくておかしいのは今に始まったことじゃないからいいとして、あのメッセージを見ても、あのスマホを持っていても幸は変わらず私に優しくて甘いまま。呪いの影響は受けていない模様。私はそれを確かめるために穴が開くほど幸をじっと見る。
「うーん」
「どうしたの?」
まーた変なこと考えているんだねと、私を覗き込む幸もまたいつもの幸。不審な点はひとつもない。
となると幸は大丈夫。私はそう結論付けて、苦もなく呪いを跳ね返すとはさすが幸だと私は感心してしまった。
「幸はすごいな」
「まぁね。って、なにが?」
「え。幸が」
「いや、だからさ…まあいっか。慌ててて可愛い夏織も見れたし」
「ふへへ」
「それにしてもなにあの夏織の慌てよう。あはは」
「べつにいいでしょ。うるさいな」
笑って呆れて何かを諦めて、最後に私を可愛かったと褒めて面白かったねと笑う幸。それもまたいつもの幸。
こんなふうに、半ば本気で騒ぐ私もだけれど幸も大概、私が絡むと相当おかしいのだと分かる。
けれど私達は超らぶらぶだから、おかしくても何の問題もない。誰にも迷惑をかけていないし、私達はそれで楽しいのだからこのままでいいのだ。いちゃらぶなんてそんなものだ。
「ね」
「そうだね。夏織はいつもかわいいし」
「ふへへ。幸もだから」
「そう? てへへ」
愛しの幸は私を抱いて離さない。さっきと違って私をしっかりと優しく抱いてくれている。だから私も離さずに幸にぎゅっと抱きついて暫く甘えていた。今なら仰向けに倒れることもない。幸がちゃんと支えてくれるから。
「幸。一応、気をつけてね。幸は大丈夫だと思うけど、何かあったらくわばらだから。あんま効かないけど」
「ん? くわばらね。分かったよ。あはは」
「幸。ん」
くくく、やっぱり夏織は可愛いねと、尖らせた私の唇に、幸は唇を寄せてくる。私達の合わせた唇は始めにそっと優しく触れ合ったあと、一度離れて深いものに変わった。私達の唇は暫くのあいだ離れることはなかった。
「もうだめ。へろへろ」
「かわいいなぁ、もう」
幸は私を抱き締め直し、微笑んで私を見つめてくれて、もう一度優しく唇に触れてくれた。
「好き」
「私も大好き」
というわけで週末の金曜日、私は私の世界に、幸は幸の世界、マイウエイことホラーハウスに顔を出す。
私が私の世界に行こうと思うように、幸には幸のしたいと思う他者とのお付き合いというものがある。
幸を通じて私がその人達と知り合いになっちゃったとしても、それは幸のもので決して私のものではない。
その中には、幸と花ちゃん、幸と恵美さんのように私を抜きにしてとても仲良しになる例外はあっても基本的にはそういうものだと私は思う。
そして私は歌が下手なガキ大将ではないから幸の世界は当然、幸のもの。つまり、私のではない。だから行かない。いや、行けない。よし完璧。
「いけるいける。いや、行けないから」
妄想は得意だし楽しいもの。立ち向かう嫌ぁな現実をいっときでも忘れるには持ってこいなもの。だから、時に私に必要なもの。
私は私だから、私はそれをしながら嫌ぁなものを躱してのらりくらりと生きていく。私らしく私なりに。
それは幸も同じこと。私達は対処法が違っているだけで、ものの感じ方や捉え方、思うこと自体はよく似ているから。
「ね」
「まあね」
幸に抱き締められる幸せを感じながら、私のものは幸のものでもいいけれど幸のものは幸のものだから、ことマイウエイについてはこれ以上、どうか私を巻き込まないでねと思っていた。
「そうそう。不動産屋の遠藤さん。早めに連れていかないとね」
「えっ…ああ、それなぁ」
思った矢先、私はさっそく巻き込まれてしまったというかなんというか、気にはなっていたけれど、その約束のことを考えないようにしていたのだ。
幸に丸投げしてもいいのだけれど、実際に買ったのは私だし、お世話になったし、嫌いな人ではないというより人として好きだしどうしようかなぁと悩んでいたのだ。
「うーん」
正直、私はマイウエイにはまだ行きたくない。だって怖いから。また遊ばれてしまうから。お高いお姉様方からすれば、私は程のいい、弄りがいのあるおもちゃだと思われているに違いないのだから。それをどうやって遠藤さんに擦りつけて高みの見物といけるのか、私にはまだいい案が浮かんでいないから。
「忘れてなかったの?」
「えっ…はっ。なんだよくそぉ。その手があったかぁ」
「あはは。らしくないね。もう諦めたら?」
「うーん」
幸は楽しく笑っている。確かにらしくないといえばらしくない。それはたぶんアイスピックママの呪いのせい。結局近いうちにまた行く羽目になるのだろう。
呪いってやっぱりすごいんだなこんちくしょうめと私は思った。
「くそう」
「あはは」
「はぁ。や、やっと着いた。あけましておめでとうございます。れ、麗蘭さん」
「おめでとう夏織さん。いらっしゃい。だいぶお疲れみたいね」
労るように私の髪を撫でる麗蘭さんに私は少し甘えてみた。
「まじ疲れ果てました」
そう言って腕に縋って少しだけ寄りかかる。でろんとはしない。私がそれをするのは幸だけだから。決して、ふたりで倒れちゃうよなと思ったわけではないから。
「うふふ。それなら少し付き合って。夏織さんの待ち人はまだ誰も来てないようだから。ね」
私は振り向くことはしない。確認はしない。麗蘭さんがそう言うのならそうだから。
「はい。喜んで」
その麗蘭さんがここに座りなさいなと隣の席をぽんぽん叩く。足が疲れて喉がやられて乾いていた私はありがたくそこに座った。
「はいどうぞ」
と、今夜のバーテンさんの真希さんが私の前にさっとビールを置いてくれた。それは私がこのバーで必ず頼む一杯目。
真希さんはちゃんと分かってくれているのだ。まさに気の利くバーテン。もうバーっぽくて堪らない。
「あけおめ。夏織さん。いらっしゃい」
「あけおめです。真希さん」
「これはね、オーナーの奢りだよ」
あちらの方からです的に、真希さんは財布を取り出した私を止める。すぐ横を見ると麗蘭さんが微笑んで頷いた。
「いいんですか?」
「いいのよ」
「やったっ。ありがとうございます」
「よかったね。夏織さん」
真希さんは、じゃあ今年もよろしく、うはははは、なんつって、バリトンのような声で笑いながら元いたところに戻ってお酒を作り出す。
それを見ている私は超ご満悦。
「なにこれ超バーっぽいんですけど」
「ここはバーよ」
その呟きに冷静にツッコミを入れてくる麗蘭さんがくすくすと笑っている。
「そうでした。いただきます」
「どうぞ」
私はごくごくとビールを飲んで、ぷはーとやって美味いなと笑う。ついでに私の中でバーっぽい、ナッツの鉢に手を伸ばしてそれを齧った。
「完璧」
横を向けば私を見て微笑む麗蘭さんもグラスに口を付けていた。
「こういうのって、久しぶりですよね」
「そうね。夏織さんはいっつもあの席に行ってしまうから。何か意味があるの?」
確かに私の中では意味はある。それは私が勝手に思っていることだから誰にも話していないけれど秘密ということでもない程度のもの。
それを麗蘭さんがどう思うかは分からないけれど。
「えっとですね、いま私が私でいられるのはこのバーのお陰だし、ここが私を迎えてくれたとき初めて座ったのがあの席で、なんか思い入れがあると言いますかほっとすると言いますか。まあ、そんな感じです。あと、あの席はこのお店何よく見渡せるから」
こことはちょうど真逆の位置ですからと、私は首を回していつもの席に目を向けた。そして私はこう思う。
独りよがりでもなんでもいいから、ここを創ってくれた麗蘭さんや、初めてここに来た頃の私を見ていてくれた恵美さんをはじめとする女性達に救われたという想いをどんな形であれ返したいと私は思うし、まあまあそこそこでしかない私でも、たとえ微力であったとしても、力が及ばなかったとしても、無駄だったとしても、自己満だったとしても私らしく私なりに誰か悩んでいるのならこの手を伸ばしてどうにかしたいと私は思う。
もちろん平気な人も気にしない人もいるから、ただのお節介に過ぎないこともある。
けれど、もしも悩んでいるのなら、こんな私でもいないよりはいた方が、ひとりきりよりはふたりの方がマシな筈だと私は思う。
そしてあの席は恵美さんが悩んでいた私のために、ここには生に恋にと喜んで楽しんだり悩んで落ち込んだりして人生というものを生き生きと謳歌しいる女性達の姿があるんだということを見せてくれた席。人は違えど今もそれを見ることができる席。私も今はその一人だと思える席。
私があの席を好むのはそういう理由もある。
「やっぱりね。見ていないようで見ているのよ、夏織さんは」
「なんのこと?」
「うふふ。すっとぼけてる。ま、らしいわね」
ビールを飲みながら私の思う深くもない底の浅い話を聞いてもらったあと、私はさらに一方的に近況報告とか世間話なんかも聞いてもらった。
「そうなのね」
なんて言って、付き合ってと言いつつもうふふと笑って私の話を聞いてくれる麗蘭さんはさすがな女性。いつかこうなりたいと思わせてくれる憧れ、本当に素敵な女性なのだ。
「はいこれ」
「なんですか?」
先ずは引っ越し祝いよこれあげると麗蘭さんが手に置いてくれたものは、高そうな親指くらいの大きさの私と幸の誕生石そのままのヤツ。こっちの三つが夏織さんでこっちの二つは幸さんにねと言ってくれた。
「おっ。幸の分もあるんですね」
「当たり前でしょう。お祝いなんだから」
「やった。幸も絶対喜びます。ありがとう麗蘭さん」
「うふふ」
それから麗蘭さんは誕生石が一つじゃないことを知って驚いている私に、その石の持つ意味をひとつひとつ教えてくれた。
私のヤツは幸せな結婚とか厄除けとか、今の私にぴったりと合っていたし、幸のヤツは、幸運とか寛大とか潔白とか、まさに幸らしいと思えるものだった。
「おお、当たってる」
「そうなの? ああ、それ、部屋に飾って置くでも加工して身につけるでも好きにしてね」
「はい。ほんとにありがとうございます。大事にしますね。麗蘭さん」
私は心からお礼を言った。もらったヤツを両手で抱えて胸元に持ってきたから祈りのポーズみたくなって、嬉しさから目はきらきらと輝いて、意図せず自然とゆるふわを発動していたらしく、麗蘭さんの頬がほんのりと赤く染まった。
「かは。い、いいのよ。かはかは」
「大丈夫ですか?」
麗蘭さんはひらひらと手を振って平気だからとアピールをした。さすがの麗蘭さんはその言葉通りすぐに落ち着いて、ふーと息を吐いてからいつものようにカウンターの裏に手を伸ばした。
「よっ、と。あとはこれね。あげる」
これ貰い物のお菓子なんだけど食べ切れなかったのよ。とても美味しいのよと風呂敷に包まれた、その結び目からちらりと見える桐の箱に入った物が何かはまだ謎だけれど、明らかに高級な菓子と分かるヤツが現れたのだ。
どかっと置かれたそれに一体何が包まれているのかと私は期待してしまう。視線は釘付け、喉はごくりと鳴ってしまう。
「い、いいんですか?」
と言いつつ包みは既に私の腕の中。ぎゅと抱えて絶対に離さないと力を込める。
私はもう、この美味そうなヤツと離れることなど想像もできない。もらったものは返せないのたから。
「もちろんよ。夏織さんのために用意したんだから」
「やったっ。いつもありがとうございますっ」
それを抱えて超ラッキーと喜ぶ私を麗蘭さんが嬉しそうに見つめて微笑んでいる。
食べ切れなかったなんて絶対に嘘。私のためにわざわざ手に入れてくれたのだから、麗蘭さんにも足を向けて眠れないなと私は思った。
「うふふ。本当に嬉しそうね」
「はいっ」
麗蘭さんがくれた誕生石と美味そうなヤツを持ってほくほく顔の私がいつもの席に着いた頃にはもう八時を過ぎていた。
私はいつものようにお酒と定番のえびパンとかを頼んでそれを待ちながら、ついでに恵美さんと由子、おそらくはその相手、この前とてもいい雰囲気でいちゃいちゃしていた、えーと、彼女の名前は確か美帆さんだったような…そう、歳は私より三つくらい若…下だったような…そうそう。その美帆さんがくるのも待っている。
「ん?」
何かおかしいけれど気にしない。お分かりの通り、私はいまそれどころではないのだから。
テーブルに置いたふたつの頂き物の、さて、どちらを先になんて思いつつも私の手は当然、風呂敷に伸びていた。
「なにかなぁ」
伸びた手は止まらないし、誕生石のヤツは麗蘭さんが丁寧に説明してくれたから大丈夫。
「なっ。これはっ」
開けてびっくり桐の箱の中には確か受注生産のみだった気がする、栗がいっぱい入っている、私の中では伝説の、テリーヌと銘を打ったパウンドケーキ的なヤツがいたのだ。
私は慌てて麗蘭さんに目を向けた。さっきのお礼では足りなかったかなと思って、超超超ありがとうございますと桐の箱を抱えて熱い視線を送ってみる。
麗蘭さんは私の視線に気がつくと、にっこり笑って気にするなと手を振ってくれた。
「超凄いなこれ」
私は感動して暫くそれを眺めていた。いま食べちゃおうかと思うけれど幸にも食べてもらいたいし、花ちゃんにも食べさせたいとも思ったところで私ははたと気づいてしまった。
「ヤバい」
焦って周りを見渡して、恵美さんも由子も来ていないことを確認する。
なぜなら由子はもちろん、実は何気に恵美さんも食いしん坊の腹ぺこ女だから、これを見られでもしたら絶対に食わせろ食わせろと騒ぎ出して全部食べてしまうに決まっているのだ。
「いそげいそげ」
私は急いでそれを包み直してバッグの中に突っ込んだ。周りを見回して、あの腹ぺこ食いしん坊達の姿がないことを確認した。
私は幸と花ちゃんを誘って例のスペースで美味そうな栗のヤツを食べるのだ。
「そうしようっと」
そう思いつつ、私はバッグを覗いてタバスコを取り出しておくことにした。
隙を見てさっと入れられるように手元に隠しておけば完璧だから。さっとやってぴっぴっ、ぴっぴってかけられるから。
「ふふふ。ざまあ」
不敵に笑ってバッグの中をごそごそとやって、ああ、サイドのポケットに入れたんだったなと、そこに手を突っ込んだけれど手はすかすかと空を切るばかりでものがない。
「まじうそ。どこいった」
まさか忘れたのかと焦った私がタバスコの代わりに見つけてこの手に掴んだものは四つ折りの紙切れ一枚。私はそれをがさがさと開く。
「あ? なんだこれ」
るぱーんよんせいさちさんじょう
よこくはしていない
けどたばすこはいただいた
はやくおとなになりなさい
なんちゃって あはは
ついしん
だいすきよ さち
「なんだよもう」
くそう幸の奴。私も好きだよと私は思った。
お気付きの方もいると思いますが、夏織はまだ当初の目的の人物、恵美さんにも由子にも会っていません。
おかしい。なぜこんなことになってしまったのか甚だ疑問ではありますが、楽しく書けたからそれでいいんじゃないかなぁと私は思うのです。
いいのいいの。
読んでくれてありがとうございます(๑・̑◡・̑๑)