第五十五話
続きです。
超長いですけどよろしくお願いしてもいいでしょうか?
暮。週の半ばを過ぎた木曜日、午後八時、ドアホンが鳴った。
「おっ」
鼻唄をやめてキッチンを出る。リビングの扉の横にある画面を覗いてみると幸が鍵を開けている。私はにんまりとしてリビングを出た。お出迎えだ。
「いそげいそげ」
暮。十二月。つまり師走。それはやけに気忙しく感じてしまう時期。
今年もそれがやって来たなと思ったら、ソイツも忙しない世間と同じように慌ただしく走り去ろうとしている。
年の瀬を迎えて今年もあと一週間を残すのみ。あとは年末年始のお休みまでさくっと流すだけだから楽勝なのだ。
私はリーウーマンとしてこの忙しい時期をほぼ無事に乗り切ったのだ。
そして残すところあと一週間ということは、今日は十二月二十四日。つまりはイブということ。
「ただいまー」
「おかえり幸」
五歩くらいしかない廊下をぱたぱたと小走って、どこにも手を掛けずにかっこよくブーツを脱いでいる幸に今日もお仕事ご苦労様でしたと声をかけると、幸はうむうむと鷹揚に頷いた。
「お腹すいたから先にご飯ね」
「あれ? 私じゃないの?」
「それはあと。楽しみはとっておくの」
「なーんだ。つまんないの」
なによぉ、好きな物から食べるくせにぃと、上目遣いで可愛く肩を落とすこと約三秒。それが伝わったと確信してから大袈裟にため息を吐いて幸の頬にキスをしてぷいと横を向く。
ゆるふわ攻撃六の型(意地悪なんだからぁ、もう知らないってやるヤツ)
べーっ、とっ舌を出して今はこれで我慢してあげる的な、この我儘ちゃんめって感じも忘れない。
「つーん」
「かはっ」
「ふっ」
もはやちゃいちゃい。幸はあえなくいってしまう。
蹲るその横にしゃがみ込み、かはかはが落ち着くまでよしよしと背中を撫でる。そのあいだ、大丈夫? つらいねーとか言ったりして。
「かは、もう平気。かは」
「そ」
じゃ、幸は手を洗ってねとその背を押す。幸は返事の代わりにかはっと手をあげて、私にバッグを渡してから洗面所に入っていく。私はそれを受け取ってリビングに続く扉を開けた。
「ふふふ。新婚ぽい」
題して新妻が帰ってきた新妻を迎える一幕。
私達のちょっとした小芝居はこれで終わり。玄関先の話だからすぐに終わってしまうのは仕方ないのだ。
深い所でしっかりと繋がっていても、こういうことはそうのちにしなくなってしまうもの。
続けられたらそれが一番いいけれど、たぶん私と幸も例外ではないだろうから、やれるうちにやれるだけやっておきたいなと私は思っているの。ふふふ。
けれど、それでもやっぱり一緒に歳をとっておばあちゃんになっても、たまにはできたらいいなぁとも思っているの。
「ちょっと夏織。あなたそこのお饅頭食べたでしょう」
「あ? なんだって?」
「お饅頭。食べたでしょう?」
「あ? なんだってか?」
「そこにあったお…はぁ、もういいわ」
「あ? そうだ幸っ。あたし、そこの饅頭食べちまったからなっ。美味かったぞっ」
「そっかー。食べちゃったかー。あれね、カビ生えてたヤツだよ。捨てようと思って置いといたのに。夏織、お腹痛くなっちゃうね。あはは」
「なーんだ。そっかー。はははって、違うっ。幸、騙したなー」
「騙した? 私は置いといただけでしょう。あははー」
「あ、逃げるな。待てやこらー。うっ、ひ、膝にきた。あたた」
「大丈夫?」
「かくってなった。超痛い」
「痛いの痛いのー」
「あ、それはいいや」
「なななっ」
耳が遠くなって体重が膝にきてしまう私とまだ矍鑠としている幸、みたいなヤツ。
「ふふふ…」
…くそう。ほっとけやー。
「「メリークリスマース」」
グラスを合わせた私達は今、私の用意したシャンパンとか摘みとか買ってきたヤツを飲んだり食べたりし始めたところ。
目の前のローテーブルの端っこには小さなツリーと、なぜ買ったと思わせるというか今時よく買えたな幸よと思う、音に合わせて腰を左右に振るキモい動きをするサンタさんがいる。何気にでかくて音を立てるたびに動くから少々イラっとするけれど、その隣にいやがる嫌がらせとしか思えないたぬきのヤツよりかはマシ。コイツまでクリスマス仕様とかまじいみふ。けれど私は妥協してやったのだ。敢えてな。
たぬきを見せつけるように、これどこに飾ろうかなぁと楽しそうにしながらふざけたことをぶつぶつと言っていた幸は、たんたんたぬきのたぬたぬきーと、えらくご機嫌だった。
私がそんな幸に真顔で蹴りを入れてやったのは一昨日のこと。その痛みは幸にとってクリスマスのいい思い出になったと思う。私の気持ちが凄く篭った私からのプレゼントだから。
「痛っ。まさかの本気っ?」
「それ要らない。だから捨ててというか捨てるからかして」
「えーっ。いいじゃん。かわいいじゃん。これも飾ろうよっ」
なにその必死さ笑っちゃう。そう思う私の目の前で、生きていたら確実にいってしまう勢いでソレをぐるんぐるんとぶん回す幸。
その扱いはあり得ない。本当に可愛いと思っているのか甚だ疑問。
「あ? 馬鹿か」
「冷たいっ?」
大体において、クリスマス仕様ということは年一でしか使えない。
当たり前だ。いくら気に入っていても見た目が可愛くても、メリークリスマスと文字が入った服を夏に着る人は北半球にはまずいない。
なら、べつに無くてもいい物だ。なら、捨てても構わない物ということになる。
「そういうことだから結局コレは捨てることになる。明日にでも」
「やだー」
なにその必死さ幸大丈夫? と思いつつも床に転がって延々と駄々を捏ねる幸は凄く可愛かった。
けれど、それとこれとは話は別。私の人生は、ただでさえ不快なことが多いのに年一とはいえなぜそれをわざわざ増やさなければならないのか。
私はこの家に無駄な物を置いておくつもりはない。私はたった今そう決めた。下手に情けを掛けるのは幸のためにならないと思って。
そして私の決意は豆腐よりは確実に固いのだ。
「かして」
「だめ」
私が手を出すと幸はソレを庇うように胸に抱いた。硬くてもなんでもそこは私の特別な場所。もう絶対に許さない。私は決意を木綿に引き上げる。木綿にしたのは絹よりは固いからだ。
「大丈夫。ちょっと捨てるだけだから。それかして」
早くよこせと言いつつも悪いようにはしないからと、私は優しく微笑んであげた。手をくいくいとすることも忘れない。
「ま、待って。あ。ねぇ夏織。ほ、ほら、デパ地下のさ、このあいだ言ってた限定のケーキ。わたし近いうちにあっちの方に挨拶周りに行くからついでに買ってこようか?」
そう来たか。さすが幸はさる者、ソレを胸に抱いて後退りしながらも、私には断りづらいなかなかの提案をしてきたのだ。
「ほほう?」
私は少し考える振りをした。あくまで振り。当然だ。乗っかる振りしてびしっと言ってやるのだ。上げて落とすというヤツだ。
「それまじ?」
「これまじ」
「うーん…」
幸が期待に満ちた目を向けている。ほれ夏織。罠に引っ掛かってしまえと思っているのが分かる。
けれど残念。怒れる私を簡単に懐柔できると思っているとか幸の奴は私の決意を舐めているに違いない。
じゃあ、盛大に落としてあげようっと。
「幸」
「な、なぁに?」
「絶対絶対買ってきてねっ」
「くくく。いいよ。その代わりこのたぬきも飾っていいでしょう?」
「いいよっ」
そう。落ちたのは私。だって私には据え膳的な甘くて美味いヤツを逃すなんてことはできないのだから。それは甘ラーの矜持に関わることだから。己のプライドを取るとか馬鹿だな夏織はと、甘くて美味しいヤツ食べる方がいいに決まっているじゃんと、花ちゃんこと甘ラー先輩に呆れられてしまうから。
それに私の決意なぞは所詮、木綿豆腐よりは固い程度なのだから崩れるのは当たり前。どうということはない。
「いいのいいの」
「くくく」
と、一悶着あったヤツの他に、いまローテーブルにはシャンパンと、でかいお皿の上に所狭しの並ぶ私の手作りカナッペとサラダ、買ってきたローストビーフと定番の鳥の脚を揚げたヤツなんかもある。なにより甘くて美味いケーキも冷蔵庫に入っている。私に食べてもらうのを待っている素敵。
「これも美味しいよ」
「よかった」
カナッペを摘んでもぐもぐとやってはシャンパンをこくこく呑んでいる幸が美味しいよと私に微笑んでくれる。その口が忙しなく動いている。私はそれをとても嬉しく思っているところ。
「へへへ」
こんなふうに幸と過ごして来た今年を振り返ってみれば、私にとって、もちろん幸にとっても激動の一年だった。
今年になってあれよという間に愛しの幸と恋人になれて、ずっと傍に居てくれると言ってくれて、とても重要な意味を持つ、大切な物となったペアのリングもくれた。
それは、今は私と幸の首から下がって服の中、ちゃんと大人しくしているけれど、指にはめればこの関係をひた隠しにする私達に代わって、とても眩しくきらきらと輝いてくれる。
そして幸は勇気もくれた。そのお陰で、私は長いあいだ避ざるを得なかった大好きな父さんと仲直りすることができて、私達親子は再び家族に戻ることができた。
幸もまた自ら一歩前へと踏み出して、両親とのあいだにあった蟠り、誤解みたいなヤツを溶かすことができた。幸はとても嬉しそうにその時のことを話してくれて、私はそのことが凄く嬉しかった。
さらにはお互いの親も私達のことや私達のこれからのことを認めてくれて、対内的には大手を振ってふたりの家を探してそれを買って、まだ私だけだけれど、引っ越しも終えたのだ。
「いや、すごいな」
まさに激動。詰め込んだなぁと思う。私ったら頑張っちゃったなぁと自分では思う。
「よくやったね」
ふと、聴こえた声。私の頑張りを認めてくれた幸の声。ただし幸の視線は目の前にある摘み達に向けたまま、次は何を食べようかなと指を向けて、んー、どれにしようかなとやっている。それでも幸の思いが十二分に伝わってくる。
幸、じゃんじゃん食べてねと私は思った。
「コレもいけると思う」
「そうなの? じゃあこれにしよう」
幸はもぐもぐくいくいとやっている。
私はそのすぐ横で、この一年のあまりの充実振りとやり切った感に、もうすぐやって来る私の今年一年のエンディングにぴったりな曲、どんっどんっどんっ、どんどこどん、どんっどんっどんっ、どんどこどん、風の中のんーんんーと、みんな大好き私も大好き天才的某女性シンガーソングライターの歌が確実に聴こえている。
それは確か、何かの番組のオープニング曲だった筈だけれど、その歌詞の意味を踏まえると激動の一年を締めくくるにはもっともしっくりくる曲ような気がする。
「だな」
それしかないなと大きく頷く今の私の気分はプロジェクトばってん、本来のエンディングの曲、聴かせるギターで入る感じのヤツも好きだけど今回はやっぱこっちで。
ならばと、私はちょっと口ずさんでみることにした。
「どんっどんっどんっ、どんどこどんっ」
私が歌い出すや否や、私のすぐ隣でシャンパンをくいくい呑んでいた幸が、いきなり何を始めちゃったの夏織さんたらヤバくないと、やけに気遣わしげに私を見ているようだけれど、私の中でこの曲は、出だしのこの部分を外すわけにはいかないし、始めたからには最後まで続けようと思うというか絶対続ける。だって私はすごく歌いたいんだもん。
もんて…と思いながらも、私は幸を誘うように手を指揮者みたいにしながら出だしのリズムを話すようにして歌いかける。
「どんっどんっどんっ、どんどこどん」
やってみると結構長いから私もちょっと恥ずいなと思ったけれど、我慢しててここ凄く大事だから、みたいな感じを貫く私はもう止まれない。途中で止める方がよっぽど馬鹿みたいだから。
いまだ、私に何が起こったのか幸に分かるわけもないのだけれど、そこはさすが幸。いま首を捻って眉間に皺を寄せる幸は、これって一緒に歌えということかもね、けど一体なんの歌なのかしらと、私の意図を理解しようと頑張っているのだ。私みたいに理解不能なことを、謎だし放って置けばいいやとスルーしたりしないのだ。幸は優しいから。
「んんんんんんすーばるー」
さん、はいっ。
「るるるるるるぎーんがー」
やった。理解できるとはさすが幸。ちゃんと私の次を歌ってくれる。超愛しているからねと、私はもの凄く笑顔になる。私の声も大きくなる。
「みんなんんんんーんんー」
「るるるーられるるるるるるー」
「んーんんんんー、んーんんーほしはー」
「るるーるるるーあるーのーだろー」
こんなふうにフルではなくても長々と、私と幸は体を揺らして楽しく鼻唄っていた。
それが終わって、面白かったねーとふたりで笑ったあと、シャンパンがなくなりそうなことに気づいた私は、幸の新しいお酒を用意するために立ち上がる。
「超楽しい。ふふふ」
「みーてるー。どんっどんっどんどんっ」
とことことキッチンに向かいながらそう呟いて、やはり私には幸だなと思う私の背を幸の歌声が追いかけてくる。
「はい。これどうぞ」
「お。ありがとう夏織」
「いいよ」
持ってきた氷とお酒、それとグラスを幸に渡しながら隣り合って座り、甘えるようにくっつくと、幸も私に体を寄せてくる。私達はいまとてもいい感じ。私は満足して並べてある料理に手を付けた。
「うん、美味い。我ながら上手くできてる」
「おいふぃよこれ」
幸はカナッペをひと口に頬張って嬉しそう。美味しいよと言ってくれる。
私はその口から溢れて顎に張り付いて落ちそうなイクラを取ったりなんかして楽しく世話を焼いている。
「まだあるから落ち着けって」
「ふぁっへ、ふぉいひぃからふぁあ」
「口に入れたまま喋るなって。よけいに溢れるから」
あーあーもうと言いながら溢れたそれを拾う私の顔にも笑顔が溢れている。こうして幸の世話を焼くのは本当に楽しいから。
「はぁ。けどさぁ、疲れたなぁ」
ね。と、同意を求めるように幸を見ると、幸は私を労るようにそっと頬を撫でてくれた。
「ふふふ」
師走。私は引っ越しから始まって、そのまま仕事が忙しい時期に突入しながらも、平日の夜は、忘年会とか取引先の飲み会の合間を縫って、時間を見つけてはちまちまとこの家の片付けをしていたし、週末になるたびに必要なものを買ったり、幸の部屋から服だの何だのを持ってきたりとか、それは楽しくもあったけれど、この師走の時期、私もとても忙しかったのだ。思い出しただけでげっそりと痩せ細ってしまう…そうなくらいっ。
「くっ」
とにかくっ、この時期仕事が忙しくなるのは、それは仕方ないかなとは思う。それで痩せないのも、まぁ仕方ないかなとも思う。忘年会とかで食べちゃうから。
それでもこのばたばたとする気忙しさの理由はいまだによく分からない。
私としては、みんな落ち着けばいいのにと、そんなに焦ったりしなくてもいいでしょと、全ては気の持ちようなんじゃないのと思うわけ。
頑張ってもだらけていても一秒は一秒だし、なにも十二月だけが特別速くなる訳じゃない。時間の過ぎていくペースは他の月と全く変わらないのだから。
「ねぇ、幸もそう思うでしょ」
へ? みたいな顔をした幸は、切れ長の目を見開いたあと無言のままとても優しく微笑んで私の髪を慈しむように撫でてくれた。
無言で撫でるとか何だろうと少し気になったけれど、私の顔がついだらしなく弛んでしまうからそんなことはどうでもよくなってしまう。
「へへへ」
「そんなこと気にしたことないよ。どんな状況でもやるだけだからさ」
「さすが幸。かっこいいな」
「それにさ、忙しくしていれば夏織だって痩せるかもよ?」
「それなっ」
私は腕を組み、まじ顔でうんうんと頷いた。
そうなの。そこは私もそう思ったの。
「それな」
だから私もみんなと同じようにばたばたとやっていたの。そうしておけば自ずと結果がついてくると思って。浅はかにもなっ。
「で、痩せたの?」
「それなんだけどさぁ」
変わってないのは知っているけど一応訊いてあげる的な幸の口調は至って真面目。けれど切れ長の目をへの字にしているから笑いたいのが分かってしまうというかもう笑っている。
「笑うなこら」
「ちょっと夏織さん。この顔のどこを見てそんなこと言えるのよ」
「目。への字って相当だから」
「き、気のせいでしょ」
「ほう?」
なら間近でよく見せてねと、私は幸の顔を覗き込もうと私の顔を近づけていくと、幸は私の唇にちょん、ちょんとその唇で触れてくれた。二回も。大好きよ夏織とか言いながら。
「へへへ。私も好き」
「よかった。くくく」
私は幸に抱きついた。幸も私を抱き締めてくれた。私には不意打ちが効く。効いてしまう。一緒に過ごしていく中で幸はそれを見つけたのだ。私に限って言えばまさに効果は抜群だっというヤツ。
「もう一度してあげる」
「うん」
幸は私に唇を寄せた。私達の重なった唇は暫く離れては重なってを繰り返して、私はもうへろへろのへろ。幸のなすがままの腰砕けにはなっていた。
「可愛い」
「ふへへ」
ああ、一応言っておくけれど、なんだこれとか思ってはダメだから。ここはにまにましてほしいところだから。
「ね」
「まぁね」
まぁ、確かに結果はついてきたけれどそれは営業成績という副次的産物で本来の目的とは全く違うヤツ。
つまり私は痩せてはいなかった。あんなにもくそ忙しくしていたにも関わらず。
だから今、なんだよくそうと、私は思っているところでもある。そんな私の細い息の根を幸の奴が止めた。きゅって。
「私はちょっと落ちちゃったんだよね」
「成績? へぇ、珍しい」
「はずれ」
今月は前年比百三十五%だからねと、幸はお酒を美味そうに呑んで、膨らみつつもいまだ慎ましい胸を張る。
「またまたぁ」
「ほんと」
ででででは、幸が落としたものとは一体なんなのか。成績でもなくお財布でもスマホでもないときたもんだ。凄く嫌な予感がする。
「ま、まさか、そんな…」
グラスを持つ手がわなわなと震えてしまう。そのせいでグラスの中がテンペストになっているけれど放っておく。溢れていても今はそれどころではないのだ。
私は知りたくなかった。だから訊かない。そんなの分かるから。分かっちゃうから。
「わーわーわー」
「体重だよ」
「ぐっはぁ」
「あはは」
私達は顔を見合わせたままふふふくくくと笑い声をあげた。幸のそれは楽しそうに、私のそれはからっからに乾いていた。あまりのことに心も枯れて口の中も潤いがなくなってしまったから。今、からっからのかっさかさだから。
「くっそう。うらぁっ」
「あた。くくくくく」
「笑うなやー。幸おまえーっ。おりゃあ」
「あだ。あはははは」
それでも悪戯っぽく笑う幸。可愛いからまぁいいかなぁと、それで潤った私もふふふと笑っていた。
「ふぅ」
師走。望む結果は出せなかったけれど、私はそれはもう馬車馬のように働いていたのだ。か弱くて見るからに儚げで、誰もがまろって…守ってあげたくなるようなこの私がっ。
私はまた、ね、と、幸を見た。
「くくく」
その口から出たのは小さな笑い声と私を労る言葉。幸は優しいから。
「お疲れさま」
「ありがと」
「私は全然へいきだけど。体力あるしね」
「だろうね」
ふんってやって、かっちこっちだよと本気で力こぶを作ってみせる幸。
「ほら。ね、ほら。ほら。どう? ほら」
触って褒めてと言わんばかりだから、しつこいなと思いながらも私はそれをつんつんして、おおすごいねーと褒めておく。当然、私も優しいから。
「でっしょう。ほら。こっちも。ね。ほら」
「すごーい」
「でっしょう。ここも。ね。ほら、かちかち」
棒読み攻撃にもめげずに調子に乗るとはさすが幸だわと私が感心していると、幸の奴は服をたくし上げてわたし腹筋も凄いんだよと、とても綺麗に締まって普段から薄っすら六つに割れているヤツを、ふんっとやって私に見せつけてくる。頬も一緒に膨らませているその顔は、なぜに頬もと笑えてしまうヤツ。
「ぷ。い、いや、大丈夫。知ってるし」
「いいから。ほら。ね。ほら。ほら」
私は笑ちゃいそうなのを堪えて考える。
私は生まれてこの方記憶の限りそんなお腹になったことは一度もない。私のお腹は六つに割れることを知らないから。
幸は調子に乗ってほらほらと早くとなんか煩くてうざい。
だから私はしょうがないから触ってやるかとお腹を触るふりをして幸の胸に触れてくいくいとしてやった。
くいくい
「おー。さすがさちかちかち」
「なななっ」
「うーん。そうねぇ」
こうやって夜な夜なおこなわれることと関係なしにあらためて触れてみると、私のお陰か確かに最近は少しは成長して柔らかくなった感じではあるけれど残念ながらその感触はやはりほぼ骨。肋骨だ。
「だな」
それでも幸の裸体は凄く綺麗だと思うし私は全く気にする必要はないと思うけれど、幸の気にしている通り、幸は全体的に脂肪が無さ過ぎるとは思う。その体脂肪率を見るたびに、アスリートなの? 超キャリアウーマンじゃないの? とツッコんでいるくらいだし。
そして私は思いついてしまう。
「かちさちさち」
ぷぷっ。ねぇ上手くない? にやりと笑う私と固まったままの幸。私の両手はまだくいくいとやっている。この感触はまさに幸。幸っぽくて凄く好き。
くいくい
「うん。さちさち」
さすがかち凄いねと、私がさらににやりと笑みを深めると、幸がぶるぶると震え出す。私も少し調子に乗っていたかもしれない。
幸の背には黒いもやもやっとした不穏な空気とそのごごごごごと効果音を表す文字が浮かんでいるのが見える気がする。
「あ」
まっずったな、これ絶対ヤバいヤツだと思って、私は素早く立ち上がろうとしたけれど遅かった。静かに怒れる幸が私の両肩をがしっと掴んだのだ。夏織と名を呼ぶその顔には何も表情が浮かんでいないからとても怖い。
「どこへいくの?」
「あ、あっちだよ。ほ、ほら、お鍋にって、あだだだだだっ」
「かち? さちさち? おもしろいね」
「ぎぶぎぶ、かち、いや、幸。ごめんて。きぶだって」
「うるさいっ。夏織なんてこうしてやるっ」
「うひゃぁぁぁぁ」
「はあ、はあ」
幸の仕返しは苛烈だった。あんなことやこんなこと、さらにはそんなことまで。私の腰は砕け散っていた。もはやどろどろのどろ、力が入らず床にベタっとなった私の姿はたまに道路で見かける轢かれてしまった、生きていれば丸々としていたと思われるげこげこの…なんだとこらー。
「くっ」
「美味し」
幸は凄く満足げにお酒を飲んでいる。私はその横ではあはあしながらげこげこ状態、やはり師走とは疲れるものだなと確信しているところ。けれどさすがにこの場合は自業自得と言えるかもなと思ってもいるところ。
「ごめんごめん」
「いいのべつに。けど夏織、次はないよ」
「はいっ」
「じゃあ、赦してあげる」
神か? と思ったけれど私はただ頷いて立ち上がった。当然、トイレに行くためだ。
次はないと言った時の、私を一瞬だけ冷たく見据えた幸がなんか怖かったから。震えがきてしまったから。切実にトイレが必要になったから。
「くひひ」
すたこら急ぐ私の背後から幸の忍笑いが聴こえる。背筋も凍る別バージョンのヤツが。
「超こわい」
「ふぅ」
「セーフ?」
「まあね」
トイレで全てをなかったことにした私は幸にくっついた。幸もまた、何事もなかったように微笑んで抱くように腕を回してくれた。
「面白かったね。かち」
言ってしまった途端、ゆるふわてへぺろをみせる間もなく私に回した幸の腕に力が篭る。
「かち?」
「い、いや。そ、そんなの言ってない。幸って言ったから。幸って言ったって」
「そう。どうでもいいけど次はないって言ったわよね?」
「い、言ってないと思う、ます」
「そう? それもどうでもいいけど」
真顔の幸の魔の手が私に伸びてくる。ここで気絶できたらどんなに幸せだろうなぁと思いながら私は腰を抜かしていた。
そのあと何があったか言わないけれど、私はもう絶対に幸以外には嫁げないことは確かだから。
私がやらかしたからそれは仕方のないことだし超嬉しいからいいんだけれど、尊厳的にはもはや零。私はやられてしまったのだ。それはもう色々と。くっ。
「あはははは」
「もう笑うなって。ちゃんと消しとけよ幸」
私はよくもよくもと、ていていしながら文句をつける
「いやよ。なんなら私にもしてもいいからね」
「え。まじ?」
「まじまじ。それにさ。私にだけって、そういうの嬉しいでしょう? 今更だけど私は嬉しい」
「そりゃあ、んっ」
これでもう許してあげる。妖しく微笑んで私にくちづける幸のなんと妖艶であることか。有無を言わせないお見通し的なこの感じ。これこそがまさに幸の本質だなと、幸にしっかりと抱き締められながらそれを受けつつ私はそう思っていた。
「疲れたなぁ」
「師走だからねー」
幸が言うなら間違いない。やっぱりそうかそうだよねと納得しながら幸の横、私達は甘くて美味いケーキを食べている。
「うまーい。幸これうっまいよ」
「そう。くくく。よかったね」
「まじ美味いなっ」
私達は仲良しだから私は二つで幸も二つ。といっても幸は必ず私にひとつ分はくれる。私はそれも楽しみにしている。
ホールじゃないのは、予約だしその日に食べたいものが変わってしまうかもしれないし、種類も選べて色々と食べ比べたりもできちゃうからだ。
「んー。うん。こっちも美味いなっ」
「コレも食べる?」
「うんっ」
私はふと、フォークを咥えたまま食べかけのケーキをじっと見た。
これを食べ終えれば私達のイブは終わる。幸との初めてのイブだけに寂しい気がしてくる。
「うーん」
私の食べるペースが少し遅いのはそのせいかも。楽しかったから終わらせたくないのかも。
「お腹いっぱいなの?」
顔を向けるといつの間にか頭に角を付けていた幸。カチューシャに角が付いている的なヤツだけれどなんか変。私は優しいからそれをスルーしてあげて首を横に振った。
「ううん。何かさ、もったいなくて」
なんでスルーするのかしら夏織さんと、幸は頭を傾けて、私を角で何度かえいえいとしたあと、それを外して全てを無かったことにしながら私に言ってくれた。幸は分かっているのだ。
「なるほどね。けど夏織。私達はずっと一緒。変わらないよ。これからもあるの。だから、ね」
「そうか。じゃあ、食べちゃおっかな」
「それがいいよ。はい。私の半分あげる」
「まじ? やったっ。ありがと幸」
「いいよ」
幸はお皿を差し出して、また私の髪を撫でてくれた。
「ふへへ」
ね。幸は私に甘いから。そう考えるとさっきのスルーはよくなかったなと私は反省をする。
では、今更ながらツッコんであげよう。
「そうそう。幸の角、あれさ、付けるの逆じゃなかった? 後ろ前」
「なななっ」
こうして私達のイブの夜は更けていった。
わちゃわちゃやって、愛し合って、ちゃんと臭いの元を絶って、抱き合って語り合っているうちにどちらともなく順番に眠りに落ちる。
残された方はそれを見つめて何か感じたり思ったりしているうちに、やがて眠りに落ちる。
そしてまた変わらない朝が来る。それだけ。
「あ、そうそう。親がねー、お正月
、顔を見せてってさー」
「うちの親もそう言ってた。幸に会いたいって」
私達はベッドの上、抱き合いながら布団に包まってそんな話をしている。じゃあいつにしようかねと話をして二日に私の実家に、三日に幸の実家にしようと決めた。
「恋人というか婚約者を連れて初めての里帰り的な」
「そうかー。あはは。そうなるねー」
幸はふわぁと大きな欠伸をして、私の胸の中に入ってくる。もぞもぞと動くこの感じは、前足で敷物をがりがりやって眠るための場所を整え始めたタロのよう。
「タロ」
「んー?」
「なんでもない」
私は幸が眠り易いよう、いつものように幸に腕を回してこの胸に優しく抱いた。
「楽しみ。けどさ、私、こんな日が来るとは思ってなかったんだ」
「私もだよー」
胸の内にじわりと込み上げてくる何か。言っていて、あらためてほっとしたし嬉しくもあったから。
幸も同じものを感じたのだろう、私を抱く手に力が篭った。
「そっか」
「うん」
まあ、総じて言えば今は幸せ。少ししんみりした雰囲気を変えようと、私は幸に提案する。
「お年賀いるな。甘いくて美味いヤツ買おう」
「お酒も買おうねー。美味しいの」
「そうしよう」
こんな会話をする私達は至って普通だと私は思う。
それが普通だよ、なんて私もみんなも社会もよく口にする。
普通ってなんだろうと思うけれど普通は普通。抱えたセクシャルなモノも今となっては私には普通。
けれど、いっぱい存在するものが普通を決めるのだから私達も普通ですよと声に出すのは難しい。普通とは思われていないし、私もそう思わされているから。
現にこの社会はわざわざLGBTと括りを付けて、私達マイノリティは違うもの、普通ではないものと区別をしている。
そんなことをされれば余計に普通って何と嫌でも気にしてしまうし、そう在りたいなと思ってしまうし、そう思ってほしくもなる。
気持ち悪い。たぶん根底はそこ。
人格とか見た目とかそんなことは関係なくそこ。男女の夫婦のような税金の控除はーとか、優遇するなーとか言っている人達も結局はそこだと私は思う。
私は気持ち悪いのかと、なんだかなぁとか色々と思うけれど私は泣かない。だって私達は至って普通だから。分かってもらえなくてもこの人と成りは普通だから。
隠さず隠れず暮らせるようにしてくれたら、少数派な私達だってその辺に転がっている石ころのように、いつかは在って当然なものに、普通になれるのになと私は思うの。
当然異論はあるだろうけれど、そんなのは知らない。知りたくもない。
まぁ、私はそれを知っているけれど。
「あほくさ」
この呟きは誰に対するものなのか。そんなのはもうどうでもいいことだ。だって私はいつものように、不愉快を蹴飛ばして無かったことにしてしまうから。
「そうそう」
幸は眠った。私の長Tをぎゅとしていた名残があっても、すうすうと立てる寝息は穏やかで、安心しきった寝顔を見せてくれている。ここには嫌なことなんて何もないみたいに。
「さーち」
小さく声をかけて指先でその頬を撫でると幸はううんと唸った。
私は微笑んでから目を閉じた。
ぼんやりとする頭の中、すぐに浮かんできたのはこの一年のこと。つい感慨に耽ってしまう。
「しかしよくもまぁ」
やはり私はそら恐ろしい程に頑張った。やってやったのだ。
幸とのことだから当然といえば当然だけれど、普段が普段だけに、えらいえらいと自分で自分を褒めてやりたくなる。
けれどそれは全て幸のお陰。それはそう。隣に幸が居てくれなければ、私はいまだ何ひとつとして前に進むことはできなかったのだから。
その幸を諦めていた頃を思えば、よくここまで進んでこられたよなぁと思う。凄いことだよなぁと思ったりもする。
普段から力を抜いて適当に生きていながらも、モノを抱えているせいで諦めることもそれなりにありながらも、親しい人達に支えらながら私らしくもどうにかここまで漕ぎつけたのだ。なぜいま太らないまでも痩せないのかが不思議なくらい懸命に漕いだのだ。私らしく私なりに。
支えてもらって頑張って。だからこそ私はこうして幸と過ごしていられるのだ。
私と幸の互いを想う深ーい愛はこの先も続いていくけれど、私達は二心二体。決して一心同体にはなることはない。それぞれに思うことがあるし、どうしても譲れないものがあるし、そこを曲げるつもりも今はないから。それは幸も同じこと。
一緒に生きていくうちに変わるかもしれないし変わらないかもしれないけれど、それをも愛する私達はやはり、見事なまでに完成したのだ。
「だな」
私はいつも、愛情いっぱい注意深く幸を見ている。幸も同じように私を見てくれている。していることはただそれだけだから、愛し続けるということは意外と簡単なことだと私は思う。
だから私達の愛は変わらない。私と幸は永遠だ。
「だな」
ここから始まる幸との生活には、これからは今までとは違った面倒事が待っている。私達が一緒にいるからこそ起こり得るふざけた面倒なヤツが。私達が人生を閉じたそのあともソイツらは最後の仕事を終えるまで消えたりしない。もはや嫌がらせとしか思えない。ほんとに超ムカつく。
「だな」
けれど平気。色々と思い通りにいかなくても、その扱いに文句をぶうぶうと垂れながら、それでも進んでいける方へ幸とふたりで進んでいけばいいだけだから。
今までだってそうだったのだからこれからもそう。私達の生活が変わって面倒くさいことが増えても、私達にできることは何も変わらない。隠れる、逃げる、備える、耐える。ひとつ多いけれど、どこかのお猿さんみたいなものだ。ははは。
まぁ、私には幸が、幸には私がいる。そこが一番の肝だから。なるようにしかならないのだから、私達はそれでいいのだ。たぶん。今のところは。
「さてと」
やって来た眠気を受け入れながら、幸、楽しい夢を見ていてねと私は願った。
「すーばーるーむにゃむにゃ」
「えぇぇ…まじか幸」
いや、凄く楽しかったからそれはそれでべつにいいのかと、私は微笑んだ。
「さらばーすー、むにゃむにゃ」
「…そっちかぁ。いや、いい歌だけれども」
お疲れ様でした。ここへ辿りついていただきましてありがとうございます。
下書きに筆を足したり削ったりしていると、毎回のように長くなってしまう不思議。
けどたぶんへいき。皆様は超猛者だし、私は私だからこれが精一杯なの。いけたいけた。
そして私はお昼を買いに行ってきます。
読んでくれてありがとうございます。