第五十三話
続きです。
よろしくお願いします。
「じゃっ、また何かありましたらよろしくお願いしますっ。ではっ」
「はい。ご苦労さまでした」
季節は更に進んで十二月、最初の週末の日曜日、午後二時半。元気のいい業者さんをお見送りしてから扉を閉めて鍵をかける。業者さんに出したスリッパを片付けて、私は玄関からリビングへと続く五歩くらいだけある廊下を、幸と色違いのスリッパをぺたぺたと鳴らして歩きリビングの扉に手をかけた。
「へへへ」
そう。今や我が家となったこの部屋には廊下があるのだっ。廊下ってなんかいいなぁと私は思った。
「おー」
でかいかなと思っていたヤツは、眺めてみれば決してそんなことはなくてあくまで壮観。私はそう思うことにした。
幸はローテーブルの下に引いたラグをころころしている。私は一度幸を見て、楽しそうだなおい、と思いながら再びそれに目を向けた。
「やっぱでか…いや、壮観。うん、壮観で」
私がいま何を見ているのかと言うと、リビングの扉を開けてその右側、いま設置されたばかりの、リビングの壁の半分以上を占領して天井で固定され、その真ん中やや左寄りにテレビを、その下にプルーレイのヤツを置いた、高い場所にも届くように三段の脚立を横の部分から取り出すこともできちゃう優れもののシステムラック的な棚。
引っ越しするにあたって私がほしくて買ったヤツだ。
私はこの、組み換え自由なラック的なでかい棚を気に入っているし、返品する気もさらさらないから、でかいとか壮観とかはもはやどうでもいいことだと、私は頭からそれを追い出した。気にしたら負けだから。
それから私はその太い木枠に手を添えて、ぐいぐいとやって確認してみた。
「おー。やっぱ頑丈。びくともしないなっ」
これはアレ。なぜか沸いてくる衝動に駆られてついついやってしまう、特に意味のないアレだ。
私はそれをしながらその横にある二つのダンボールに目を向ける。
昨日の午前中、引っ越しの荷物の搬入が終わってから、幸とふたりで今この時間までかけて、ようやくそれだけになった。
私は女性だから、当然、服だの小物だのと物が多かった。とはいえ、要らないものは処分したし、所詮はひとり暮らしの荷物だからさほど時間はかからないだろうと私は思っていたけれどそんなことは全然なかったのだ。
片付けにこれだけ時間がかかったのは、引っ越し屋さんが帰ったあと、私達が荷物を開けてはいちいちいちゃいちゃしていたから。
「おっ。この下着可愛い。けど見たことないよ」
「値札付いてるでしょ。まだおろしてないヤツだから」
「ふーん。そっか」
「やめろ幸。サイズを見るなって」
「べつにいいじゃん。生を知ってるんだしさ」
「生とか言うな」
サイズを見るならショーツじゃなくてこっちのを見て慄いていればいいでしょと、私はブラをふわりと放ってやる。金具とか付いていて危ないから。
それは見事にびーろーんとやってくくくくと笑っていやがる幸の目を隠すように頭に乗った。
「んお?」
「広げんな。それ見て泣いてしまえ」
「あはは」
「あははじゃないぞっ。私は痩せたんだからなっ」
「あーはーはー」
「真顔。くそう」
とか、新しく買った容量四百五十リットルはある冷蔵庫とか広めなサイズのセミダブルのベッドが配達されてはいちゃいちゃしていたから。
「幸。冷えないから扉ぱたぱたしちゃだめだから。あと三時間、幸は冷蔵庫に近寄っちゃだめだから」
「わ、わかってるよ」
と言いつつあれこれ覗きたくてうずうずしているのがまる分かりの幸が立ち上がってキッチンに行こうとするたびに、それをやめろと制止するのも結構大変だったのだ。
「絶対行かせないから」
「夏織ったら笑える。私を舐めないでよね」
「カバディカバディカバディカバディ」
「それっ」
「カバっ、たあ」
「うわぁ。止められたぁ」
夏織の癖にぃ、と、幸は悔しがる。ふっ、甘すぎるな幸と、私は不敵に笑ってみせる。相手を煽る定番のヤツ、幸に向けた手の甲をいくいとやって、どっからでもかかって来いと幸を挑発する。
それを見た幸は、むむっとか言って、そっちがそのつもりならとその目を鋭くさせる。
「あ。たんま」
明らかに幸の顔つきが変わった。幸が本気になると終わらなくなってしまうから私は慌てて両の手のひらを幸に向けた。
「ごめん、やっぱなしで。疲れるから。面倒くさいし」
「あはは。それっ」
「うお? カバデっ、とりゃ」
「おー。やるねぇ」
「まあね。余裕…じゃないから。おわりおわり」
「ほいっ」
「やぁ。カバディカバディ、って、幸、もうおわりだって」
「やだ。うりゃ」
「はいカバディー」
「くっそう」
「つ、疲れる」
何度かそうやって遊んだあと、私が疲れ切ってぐったり転がっていると、傍にきた幸が私の頭を腿の上に乗せて夏織は体力ないねーと、笑いながら撫でて頬にキスしてくれたり。私は唇を尖らせでここにもしてと催促する。
「幸」
「ん」
「ふふふ。嬉しい。にしても幸は柔らかいな」
「ん?」
「いや、だって膝枕したまま頬にキスとか私にはできないから。お腹がつっかえて曲がらないしさ。は? なんだとっ。ほっとけやー」
「ぷっ。いたた。ちょっとどしたの? あはははは、痛いってば。あはははは」
私がついにおかしくなってばしばしと幸を叩いたりとか。
そうやって暫く幸に甘えていると、今度は、ごろごろ、ごろっと冷蔵庫から音がする。
「む」
それを聴いて、ちょっと見てくるよと、私の首をぐきってやって素早く立ち上がった幸の奴。
「うわっ」
私のあげた不満の声にも気づかずに、氷のスペースを覗いて嬉しそうに声を掛けてきたり。
「ててて首が。くそう。幸の奴め」
「ねぇ夏織。氷ができてる。十個くらい」
「ふーん。よかったね。季節的にも初氷だな。でも幸、それ捨といて」
「なななっ」
なんで捨てるのせっかくできたのにと言いたげな幸は驚いてフリーズしている。ぽんこつ幸のご帰還だ。私は呆れながも笑ってしまう。
「いやいや、そのリアクションおかしいから。最初のは捨てろって言ってたでしょ」
「なんとこと?」
「え? とことってなに?」
「なななっ。またやったっ」
「また?」
「かおりー」
「なに? どしたの幸。なんだかわからないけど、まぁあれだから。大丈夫だから。気にすんなって」
「ううー」
「よしよし。へいきへいき」
キッチンから駆け寄って私に抱きついてきた幸を優しく抱いて、訳も分からないまま、おーよしよしとひたすら慰めたりとか。
「ううー。かおりー」
「うんうん。幸ならいけるって」
「頑張る」
「うん」
幸は確かに噛んだけれど、幸がなぜそうなったのか、私はいまだに分かっていないのだ。いや、べつにいいんだけどさ。
そして極めつけがこれ。
「このマットレスにして正解だった」
「ねー」
ふたりで転がって寝心地を確かめていたら、体を起こしてぽよんぽよんと跳ねだした幸。その反動が伝わって少しおえってなるけれど、やはりこういう時の幸はは子供みたいだなと思いきや、幸は、女性にも多くいる大人特有の持病的なお悩みを口にした。
「腰によさそう」
「幸って腰痛持ちだったっけ?」
「最近ね。ほら、勉強してるとさ」
直座りだと結構腰にくるんだよねと幸は腰を捻っている。あぁぁと声が出てしまう、ぱきぱきと音を鳴らす気持ちいいアレだ。
「三十一になったばっかなのに、幸はもうお婆ちゃんなんだな」
ほら、お婆ちゃん。とんとんしてあげるからうつ伏せになってと、私が幸に寄っていくと、ありがとうとか言いながら幸が私を抱き締めて耳元で囁いた。
「私は夏織より二ヶ月も若いの。なのにお婆ちゃん呼ばわりする夏織なんかこうしてあげる」
幸はふうっと私の耳に息を吐いた。それは左耳。当然うひゃひゃとなってしまう。
「うひゃっ。ちょっ、息を吹きかけるなって。うひゃひゃっ」
「ふーっ」
「うひゃあ。んっ。んんっ」
そのまま襲われて、私が腰砕けのへろへろのへろになったりとか…
「このっ、このっ、このっ。えろ女っ」
「あはは。いやだった?」
私はぷうと頬を膨らませて幸を睨むけれど、幸は余裕の笑みを浮かべている。幸はちゃんと分かっているのだ。
私の答えは決まっている。私が幸に愛されることを嫌がるわけがない。悔しいけれどそれについては幸の勝ち。だから私はへろへろのパンチをお見舞いしながら言ってあげた。
「このっ。けど」
「けど?」
「もっと。し、て」
「がっはぁぁぁ」
「ふふふ。幸ったらおもしろっくしゅっ、くしゅっくしゅっ」
なんか寒くなったなと、私の隣で身悶えて蹲る幸の胸へとぐいぐいとやって強引に潜り込んで、くしゃみのせいで少し出てしまった鼻水を何気なく幸で拭きながら更にぐいぐいやっていると、これなら寒くないでしょうと、幸が私を包み込んで、優しく抱いていてくれたりとか。
こうしてふたりでただ抱き合っていると、私の中にじわりと染み込んでくる愛しさとかもう最高かよと思いながら、それが溢れそうになる頃に私は幸にその思いを告げる。その声は少し鼻が詰まっていた。
「幸。私ね、今すごく幸せだよ」
「私もよ。夏織」
「うぐっ」
「よしよし、泣かないで」
「死ぬまでわだじのぞばにいでね」
「いやよ。死んでも一緒。離さない。あたた」
私は顔をぐりぐりと擦り付けた。私も痛いから幸にも少しだけ我慢してもらう。なにせ、ほんの少し膨らんだとはいえ依然として慎ましくも薄っぺたな幸の胸だから多少の痛みは付きものなのだ。
「ほんと?」
「ほんと」
「…ふぐっ。ざぁぢぃ」
「うんうん」
だから私は気にしない。そんな言葉を聞けて、私は嬉しくて嬉しくて、堪らなく嬉しかったから。
「痛かったねっ」
「もう。夏織ったら」
こんなふうだったから、片付けはなかなか進まなかったけれど、すごく面白かったしはしゃぐ幸はとても可愛かったし愛してももらえた。いってしまったあとも、私を離さないとまで幸は言ってくれた。
そんなことはいってしまわないと分からない。私達がいったあと私達がどうなるのかなんて分かるわけもない。
ただ消えてしまうのか、魂とやらが残るのか。なおも愛しい人を見守っていられるのか。風になって世界を回るのか、そこに私は居ないのか、いずれまた生まれ変わるのか。
幸の言ってくれたように、いってしまったあとも、果たして私達は傍にいられるのか。
「どうなんだろ」
「私は見つけるよ。また夏織を見つける」
「だとしたら嬉しいな。なら、私は幸を待ってる」
「ほんと?」
「ほんとだから」
けれど、その先が何も分からなくても、幸の想いを知れて、幸がそう想ってくれているだけで私には充分だった。そんなふうに想われて、想ってくれる女性がいる私は本当に幸せ者だから。
「嬉しいなぁ」
だから片付けが遅々として進まなくても、えらく疲れてしまっても、私が片付けの申し子でも、そのことに文句などありはしない。
それは大事な大事な宝物。私達の家で過ごした、なんの遠慮も憂いもない愛しの幸との大切な思い出だから。私の宝物がまたひとつ増えたのだ。
だから私はそれを心の中にしまい込んで、絶対に無くさないように鍵をかける。無くさない。失くさない。
そうしておけばきっとまた逢える。
幸がそう言ってくれたのだから、その先に何があるのか分からなくてもこれからはそう思うことにする。
なら私達は永遠だ。
「ふへへ」
昨日のことを思い出してだらしなく笑ってしまった。まぁ、今日も業者さんが来るまでは似たようなものだったけれど。
とにかく、これで残ったダンボールの中にある雑貨なんかを棚に移せば私の分の片付けは終わり。あとは来年、幸の分を片付ければ全て完了というところ。
だから今、クローゼットや収納棚にできた隙間が酷く寂しく思えるけれど、四月には全て埋まることが分かっているのだから私は泣いたりなんかしない。
「ぞうぞう…」
そして私はこのでかい棚の隣に小洒落たいい感じのタンスを置くつもり。冷蔵庫とか洗濯機とか必要な物、いい機会だからと買い替えるものはそれで終わり。
そう。それで終わりなの。くっ。
使えるものは使って、あとは必要に応じて買っていけばいいでしょうとは幸の談。それを聞いた時、私は耳を疑った。
「夏織」
「なに? 真面目な顔して」
「あのね」
幸の奴は少し前から、家具を新調することについて私なりに考えたんだけどねとか言い出して、その言い種はまさに渋ちんのけち。
そう。けちの奴は、渋ちんのさちさち女に成り下がってしまったの、だ?
「あれ? けち? さち? お、似てる。だからか」
「ん?」
それまではふたり楽しく、これいいねーなんて言って色々と検索していたというのに。くっ。
「なんでだめなの?」
「夏織は家を買ったのよ。これからは抑えるところは抑えていかないと。ね?」
抑える? はっはっはっ。まったく幸の奴、わけの分からないことを。抑えるなんて知らない。そんなの要らない。私の辞書に楽しいことを抑えるなんて言葉はないのだ。
「やだ。絶対買う」
「あのね夏織」
「なによ」
「浮いた分、甘くて美味しいスイーツ達をたくさん買えるかもよ?」
「はっ」
にやあと私に悪い笑顔を向ける幸は今、ほら、最近できた駅地下のアレとか凄く美味しいらしいよと、とても素敵なことを言っている。不思議とけちけち幸も素敵に見える。きらきらと差す後光さえ見えてしまう。もはや崇高な何かとしか思えないくらい。
なるほど納得、我慢をすれば今まで我慢していたお高いヤツとかお取り寄せのヤツとか美味いヤツをいっぱい買えてしまうってわけ。
それはまさに、損して得取れほら超ラッキー的なヤツ。
「さちすてき」
「くくく」
幸を褒め称える私に向かって更なる笑顔を浮かべた幸が、それにねーとか言っていた。私は頭がいっぱいでそれどころではなかったけれど、幸の楽しそうな雰囲気は私にひしひしと伝わっていた。
「私達はこれから一緒に暮らすでしょう」
「うん」
「世間じゃどうか知らないけど、私達は夫婦になるわけ。ふ、う、ふ」
分かる? と、幸は私を見ている。スイーツで浮かれていた私は、突然夫婦とか言われて、聞いたことないけれどそれは甘くて美味いのかなと少し考えてしまった。
「夫婦? それって美……はっ」
「ね」
「うふふ。そうかぁ、夫婦かぁ。夫婦ねぇ。うふうふ、うふふふふ」
「そうよ。だから、私の妻で夫の夏織の無駄使いに口を出すのも夫兼、妻たる私の役目なの。ね。わかるでしょう? ハニー?」
「うんっ。そっか。わかったダーリンっ」
いきなり欧米の人みたいな呼びかけはともかく、夫婦だなんて照れちゃうなもうと浮かれてどうかしていたことに私が気づいたのは少しあとの話。
あとの祭りというヤツだけれど、私は夫で妻のだ幸を説得しようと頑張った。
「ねぇダーリン。このあいだ話したアレ、買ってもいい?」
「うーん。だめだよハニー。せめてボーナスまで我慢してくれ。そうしたら私が買ってあげよう」
「それまじ?」
「まじまじ」
「やったっ」
的な会話をしていちゃつく私達は救いようのない程のバカなカップルだった言えると思う。
けれど、私達はもうすぐ夫婦になるわけだから、こんな会話をしても全然平気。大丈夫。
楽しいものは楽しいの。私達はどこもおかしくないし変でもない。
それに、今のこの国では夫婦になんてなれないのだからせめてそのくらい許してほしいところ。
密やかに隠れてひたむきに、必死になって愛を囁き合う私達は誰にも迷惑をかけてないのだから、私達をいじめる人達にこんなことまで文句を言われる筋合いは絶対にない。はーはーはー。
「けっ」
ということで、甘くて美味いヤツは必ず買うとしても、それ以外のこと、家具を新しくすることについては、私はけちけち幸の言い分を受け入れた。
幸は私達がふたりで過ごした思い入れのある家具とかを処分したくないんだろうなと思ったから。
幸は私のように、腹立たしことがあればなんでもかんでもなかったことにしようとはしない。嬉しいことなら尚更そう。
私達が恋人として過ごした時間がそれほど経っていなくても、そこには幸にとって楽しい思い出がいっぱいというヤツなのだ。それは私もそうだから、私は分かってしまったのだ。
それでも私はああ言えばこう言う幸を相手にそれはもう頑張った。ゆるふわを駆使しつつ、指をびろびろして念を送ったりもしたのだ。
私はそうやってまあまあそこそこの底力を見せつけてやったのだ。幸が首を縦に振るまで、時には床の上とか時にはベッドの上なんかで、日々駄々を捏ねまくってやったのだ。
それにしても、私の底力とは一体なんだろう…いや、泣いてないし。
「アレとかも買っちゃおっかな」
「だめよ」
「やだ。絶対買う」
「だーめ。あれは要らない。余計な出費。ある物を使うの」
「やーだーかーうーのー」
私はついに、ゆるふわも何もなく手足をばたばたしてひたすら駄々を捏ねてやる、恥も外聞もない捨て身の攻撃を幸にかましてやったのだ。
その効果は意外も意外、抜群だった。
「かはっ…も、もう。仕方ないね。棚とタンスだけだからね」
「よしゃっ。やったっ。ありがと幸っ」
最後はとてもゆるふわーく幸を翻弄してやった。私だって締めるところは締められる大人の女性だから。
「ぐはぁ」
こんな感じ。その時は嬉しかったけれど、幸に勝った気はしなかった。それは今もそうなんだけれど深くは考えない。だって勝ってなくても買ったから。
「ふふふ。なんつってなっ」
そんなわけで、私はこの組み合わせ自由なラック的な棚と、その隣に置くつもりのタンスだけは、幸との交渉の末にそれらを新しく買う権利を勝ち取った。
夏織はローンがあるけど私にはないからねと、あと必要な物は私が買うからと幸は言ってくれたけれど、甘えてばかりはいられない。私は自立したいい大人の素敵な女性なのだから。幸はたまに、私がねだる甘くて美味いヤツを買ってくれればそれでいいのだ。
「壮観だから」
リビングに戻った私は棚を眺めている。少し離れて両手を腰に当てて、うん、よし、とか口にしちゃう、みんなもやっちゃう定番の型で。この型をとる前に、埃を払うように手をぱんぱんとやってみても絶対似合うヤツで。
「大丈夫。でかいけど思ってたより圧迫感はないな」
いけたいけたと私は幸に顔を向けた。
その幸は、私が業者さんの相手をしているあいだ、幸は珍しくもクイックル的なヤツを持って、リビングとかキッチンをうろうろして、おー、すごいねー、コレってこんなに埃が取れるんだねーと感動していた。それはまるで、私が初めてソレを使った時のリアクションだった。
「まさかぁ」
「ですよね」
私が苦笑いを浮かべていると、ラックを設置していた業者さんも私と同じような顔をしていて、ははは、楽しそうですねとか言っていた。
そしていま幸は、敷いてあるラグをころころでころころしている。幸の周りにはなんだかがいっぱい付いている剥がした粘着シートが散乱している。
「これもよく取れる。なんか癖になりそう」
「ねぇ幸。ちょっと」
私は幸に声をかけた。呼ばれた幸は上げた顔を私に向けてから、さっと立ち上がってころころを持ったまま私の側にやって来た。
手を前に出して私に向けるその姿はまるで、埃がいっぱい取れたから褒めてくださいと言いたげだ。
「タロだな」
私は自慢たっぷりに差し出されたころころをじっと見た。それって埃というよりラグ本体の繊維じゃないのと私は思ったけれど口にはしなかった。幸は楽しみながら頑張ったから。
掃除しましたと、ちょっと膨らんだ胸を張る幸。私はそんな幸を、可愛いから褒めてやるかなと思ったけれど、先ずは私も色とか配置とか、使い勝手と見た目を追求し尽くしたカスタマイズ、見た限りこの部屋に完璧にフィットしたラック的な棚を選んだ私のことを幸に褒めてもらうことにした。
「どうこれ?」
「いいねー。なんかでかいけど」
「でかくないからっ」
大丈夫。でかいとかそんなこと気にしない気にしない。もはや忘れた私はまたラック的な棚に目を向ける。幸もまた、でかくていいねとうんうん頷いてラック的なヤツを見ている。
私と幸はいま同じ定番の姿勢でもってラック的なヤツを眺めているところ。
「うん。いいな」
「うん。でかくていいね」
少し気になる言葉があったものの、まさにほんこれ幸せがいっぱいというヤツだ。
「ここに小物とかを置いたら取り敢えず片付けが終わる」
「そうだね」
幸が私の肩を抱く。私は幸に体を寄せ、その肩に頭を乗せる。その途端に甘い空気が私達を包む。私達はいま確実に薔薇色に染まり始めたのだ。
「あのね幸」
「なぁに」
「ころころし過ぎだから。ラグが痩せちゃうから今日はもうしないでね」
「なななっ」
また驚いて固まる幸。やはり幸は面白い。
「ふふふ」
十二月には入った最初の週末、寒風が吹く中、どうにか引っ越し作業を終えた。
私は引っ越しするにあたり、部屋の物を殆ど処分するつもりでいたけれど、幸がお金と物を大切にしようと主張した結果、この部屋には私の物が捨てられずに配置されている。
ローテプルとかソファは幸の使っているヤツを持ち込むことにもなって、それがやって来たら今この部屋にある取り敢えずの私の物を色々処分するとか、ちょい面倒くさいことになっている。
けれどとにかくっ、昨日私はついにっ、マイホームにっ、引っ越したのだっ。
「くぅぅぅ」
私は固まる幸から離れると、両手をぎゅっと握り、体を前屈みに丸めてくぅぅぅとやってから、嬉しさ爆発という気持ちを思い切り込めて、全身のバネを使って大きく跳ねた。
「やった、やった。やったっ」
ぴょんぴょんと跳ねる私を見て、いつの間にか動き出していた幸は、夏織ったら面白いねあははと笑っているけれど、幸だって毎回飽きもせず、この部屋に来ては、おおおーとやっていたのだ。
私だって嬉しいものは嬉しいのだ。私は暫く、喜びの舞を幸に披露し続けてやったのだ。
「おぇ。はしゃぎ過ぎた。気持ち悪い」
「あはははは」
幸がよしよしとやってくれる。一緒にいればこんなこともできちゃうの。
「ふふふ」
あと、残念ながら幸はまだここに引っ越していない。
私は少なくとも三月までは引っ越さないよと幸は言った。
えーっ、なんでと訊きそうになったけれど、私はすぐにピンときた。来てしまった。
ああと納得した私のその顔を見て幸は、そういうことよと微笑んで頷いた。
それは今の会社との兼ね合い。たかだか三、四ヶ月でも、私達の住所を同じにするリスクは負えない。廃棄されるまでは記録として必ずどこかに残るから。
べつに半年も無いんだから、幸の住所なんてそのままでもいいじゃないと思うかもだけど、幸の真面目な性格からしてもそれはあり得ないから私は何も言わない。万が一にもバレたりして幸の経歴に傷が付くのも私は気に入らないし。
つまり幸は、私は来年にはいなくなるからまぁいいとしても、夏織は変わらず勤めていくのだから、残る夏織に何かあっては後悔しても仕切れないからねと伝えてくれたのだ。つまり幸の気遣いということだ。何もないかもしれないけれど不要なリスクを避ける。そういうことだ。
「くそう。やっぱ面倒くさいな」
「それでも必要だと思う。やりすぎだったとしても損はないんだから」
「損はあるから。あと三ヶ月は一緒に住めない」
「寂しい?」
「まあね。けど我慢する。必要だから。代償だから」
それにこの先ずっと幸とは一緒だしその内の三ヶ月くらいなんてことないからと、私は力強く宣言してやった。お預けなのは仕方ないなと笑ってやった。
「さすが夏織」
幸が私を抱き寄せる。私の髪をよしよしとしながら、ごめんねと待たせちゃうねと言ってくれる。
「幸のせいじゃないでしょ」
「そうだけど。夏織が寂しがると思うとやっぱり気になるよ」
愛しの幸はまったく悪くない。私達からすれば、悪いのは受け入れてくれないくそみたいな今の社会なのだ。
私達はどうしてこんなことすらも我慢をしなくてはいけないのか。それをさせておいて、お偉い人達はなぜ平気な顔をしていられるのか。悲しんで泣いている人がいるとは思わないのだろうか。私にはさっぱり分からない。
人の痛みが分からないような鈍感など、人として致命的だと私は思う。敢えて無視する人達も同じことだ。
他に重要なことがあるからといつまでも後回しにされるし、何かあってもすぐに忘れられる。そうやって回る世界の端で、それでも生きる私達はいつまで耐えればいいのかな。
「幸のせいじゃないよ」
私は首を横に振って微笑んで、愛しの幸の唇にそっと触れた。私の唇で啄むように何度となく。幸はそれを嬉しそうに受け入れてくれる。応えてくれる。
「ねぇ」
「なに?」
そしてまた火がつくのだ。
「いい?」
幸に。
「きて」
「かはかは」
「ぐうかわ」
初期のプロットを逸脱して早半年以上が経ちました。ようやくここまで来た感があります。皆様もお付き合いありがとうございます。
けど平気。いけたいけた。
ということで、もう少し続きますのでよろしくお願いします。
読んでくれてありがとうございます。