第四話
あけましておめでとうございます。
お正月はいかがでしたでしょうか。
私は体重を増やしてやりました。つまり私の勝ちということです。はっはっはっ。
では続きです。
よろしくお願いします。
「まさか泣くなんて。くくく」
「いや、ふつうに泣くでしょ。あと忍べ」
「無理。それにしてもかわいかったなぁ」
「う、うるさい。かわいいとか言うな」
私と幸はぶつぶつと言い合いながらバッグを肩に、お昼ご飯の入ったレジ袋を手に下げて、例のスイーツのお店ではなくてオフィスにあるだだっ広い休憩スペースの奥、窓際に向かって歩いている。
午後一時を過ぎてもそれなりに人のいるテーブル席の一画を避けて、人の居ない窓に面した一人掛けの席に並んで座ることにしたからだ。
それはべつに、周りのうるささに負けないように声を張るのが億劫だからであって、私がほんの少しだけ悔し涙を零したあとの顔を見られないように人目を避けている訳ではない。
「この辺でいっか」
「そうね」
この私が滲ませた悔し涙をほんの少しだけ零した理由はだだひとつ。私の限定お芋のパフェがまたもお預けになってしまったからだ。それを受け容れた時、私は悔しさのあまりに自ずと涙を滲ませていた。
そしてその原因は私達が遊び過ぎたせいで失った時間。こればかりはいくらまあまあ優秀な私でもどうしようもないのだ。
そういえば昔の人が言っていたっけ。時間は時として優しくて、時として残酷なものだと。時間はあってないようなものだと。
それを痛感したばかりの私も心の底からそう思う。
「はぁ」
「くくく」
「だから忍べって幸。聴こえてるから」
「あー疲れた」
私より先にビルの自動ドアを歩き抜けたあと、どこか誇らしげに胸を張っている幸はそんなことを言ってはいても、私はまだまだいけるけどもう終わりなのかしらといった感じで爽やかな笑顔を見せている。息を切らしてへばっている私とは全然違って余裕の表情だ。
「ほん、とだよ。幸速、すぎ。怖かっ、た」
「あはは。元陸上部だからね。このくらいは当然よ」
「そう、だった、っけ?まさか、の競歩?」
「いや、走り幅跳び」
「なん、だ。そんな、オチがあっ、たんだ」
「まぁね。あはは」
幸はあははと笑いながら私の横で腕をぐるぐると回したり腰に手を当てて背を反らしたりしている。私はその有り余る元気はどこからやって来るのだろうかと思いながら、そんな姿も様になっている幸を見ている。
やはり幸は凄かった。結果として私は幸に捕まらなかったけれど、私達がたったいま演じた、私達の間で長く語り継がれるであろうゴール間際のデットヒートは幸の勝ち。
幸は私に追いついた次の瞬間、私の肩をぽんと叩いて笑顔でお先にーとか言ってそのままビルの出口を歩き抜けて行ったのだ。とても素人とは思えない競歩ぽい感じの、あの、くいっくいっくっいっくいっという独特な歩き方で。
その際、私は幸の着ているコートのせいで幸のお尻のかわいい動きを見ることができなかった。私は密かに、ほんの少しだけ、頑張ったせめてものご褒美としてそれを期待していたというのに。
「くそう」
そして追い抜きざまの幸の見せたあの笑顔。それは幸が時折見せる頗る笑顔。薄っすらと掻いた汗さえもエフェクトされたかのようにきらきら光ってすっごく眩しかった。
対して私は迫り来る幸のプレッシャーとか恐怖なんかを感じていたし体力的にももう限界だったから、人様に見せてはいけないくらいの必死の形相をしていたに違いないのだ。
「ん?」
その幸は今、私の横で屈伸を始めている。さすが幸。一体どうしたというのだろう。
まあいい。取り敢えず幸は放っておこう。
とにかく私は負けてしまったわけだけれど、きっと幸は私と違って、これはもはや競歩なのではと、かなり早い段階からそう考えていた筈だ。
だから幸は走らずに、なぜ私に付き合っていたのか不可解で謎だった早歩きのまま私を追って来て、なおかつ私を捕まえずに先にゴールしたのだ。
つまり幸は。勝つためにただただ勝負に徹することを選んだということだ。
「なるほど。そういうこと、ん?」
屈伸を終えて今度はアキレス腱を伸ばし始めた幸を横目で見ながら私は考える。
さ、さすが幸。一体何をしようとしているのだろう。いきなり走り出したらどうしよう。そしたらやっぱり止めた方がいいのだろうか。
ま、まぁいい。見なかったことにして今は幸のことは置いておこう。
えっと、つまり前述したことを踏まえると、今回の私の敗因は、勝負へのこだわりの無さと意識の切り替えの遅さにあるということだから、それを理解した以上、まあまあそこそこの私がその過ちを二度と犯すことなどあり得ない。
それに今、私の横で余裕な顔をして体を動かし続けている幸を見ていると、私の中に何とも言い様のない闘志がめらめらと燃え上がってくるのを感じる。それは否が応でも燃え上がる炎。触れたら確実にやけどしてしまうくらいのヤツだ。ふふふふふ。
だからもし次があるのなら私は絶対に負けたりはしない。
いいか幸。首を洗って待っていろ。今は精々仮初めの勝利に酔いしれているがいいさ。だが幸よ、覚えておくといい。私は次は絶対に負けたりなんかしない。次こそは私の本気を見せつけてやるからなっ。その時は背後から私の勇姿を思う存分その目に焼き付けるがいい。わはははは、はははは、は?
はあ?
いや何だこれ。変だから。おかしいから。
「はぁ。私の方こそ一体何を…」
「ねぇ屋敷」
「ん?ああ、ちょっと待ってて」
私に向けて手を出している幸が目に入る。私はバッグに手を突っ込んで目当てのものを素早く取り出してそれを幸に渡す。
「はい」
それにしても私は一体何を考えていたんだか。まったく、わざわざリベンジするとか考えるなんて血迷ったとしか思えない。そんなことあり得ないから。疲れるし。
「伝わったんだ。ありがとう屋敷」
「余裕で伝わるでしょ。幸のことなんだから」
「そっかそっか。うんうん」
かなり満足そうな幸の声を耳にしながら、私は軽く頭を振ってリベンジ云々と考えていたことをさっさと頭から追い出してやった。
追い出してやったけれど、満足げで嬉しそうな幸の様子を目に映しているうちに私は分かってしまった。
「ああ、そっか」
私は幸とわちゃわちゃと遊んでいたことが凄く楽しかったのだ。次の機会があるのなら、幸となら、疲れるけれどまたやってもいいなと思うくらいに。幸となら何度でもしたいなと思うくらいに。
「そういうことか」
そう。つまりはそういうことなのだ。
よかった。私は血迷ってなんかいなかったんだな。ん、よかったのか?と、そんなことを思う私の横目に映る幸は今、無駄に体を動かしていたせいで薄っすらと掻いた顔と首の汗をハンドタオルで押さえるように拭いている。
私の渡したハンドタオル、ちゃんと洗って返してねってあとで言わないと…
…いや、やっぱりそのまま返してもらうことにしよう。
「よしっ」
切れていた息もすっかり落ち着いて気を取り直す私。そして隣には汗を拭き終わったあと、くるりと返した左手首をじっと見ている幸。その姿は何かを確認しているように見える。もしかすると手首を虫に刺されて痒いのかも知れない。可哀想に。幸ったらツイてないね。
私は痒くないから手首は見ない。なんとなく見てはいけないような気もするし。
「幸、そろそろ行くよっ」
「屋敷」
じゃあ、お店に着くまでまたおすすめの話をしてあげるからねと、私は幸に声を掛けたけれど幸は静かに首を振った。その真面目な様子と表情から私にはもう嫌な予感しか浮かばない。
私は幸が何かを言葉にする前に耳を塞いで歩き出した。幸も後からついてくる。
「あ、ちょっと。屋敷、待って」
「何も聴こえないです」
なぜだろう、いま幸の言うことを聞いて止まってしまうと今日はそこより先に進めない気がする。ここまで来てそれはないでしょと思う。だから私は止まらずに歩いていく。幸も後ろをついてくる。
「屋敷、ちょっと待ってって言っているでしょっ」
「何も聴こえないです嘘じゃないですほんとです」
「こら、待て屋敷」
すると幸は、今からお店まで行って並んでまで食べる時間は残念だけどもうないよ。私達はある程度時間に融通が効くけど、さすがにそこまではできないわよねとでも言いたげに、あわわわわーと声を出しながら耳を塞いでいる手を声のリズムに合わせて塞いだり離したりしながらお店に向かってとことこ歩いている私の首根っこをむんずと掴んだのだ。幸が。この虫刺されの幸めがっ。
「待ちなさいってば」
「ぐぇ」
私は抵抗しようとしたけれど、ここで駄々をこね始めてさっきと似たようなことを繰り返すわけにもいかず、午後のアポに遅れるわけにもいかず、悔し涙を滲ませながら幸の言うことに渋々同意したのだ。
「今日は諦めよう。ね、屋敷」
「…った」
「屋敷?」
「わかったっ」
「なっ、や、屋敷」
「な、によ。うぐ」
「なんでもない。くくくくく」
幸は私の肩にそっと手を置いて微笑みながら優しく諭すように声を掛けてくれたけれど、歯を食いしばって目に滲ませた涙を零さないように頑張って堪えている私に気付いた途端、ぷいっと顔を背けてくくくくくと忍び笑いっぽい声を出して笑い始めやがったのだ。
「笑うな」
「むり。くくくくくくく」
「ならせめて忍べ」
「えっ。なにそれ。くくくくくくくく」
「だから忍べって」
忍び笑いっぽいのになぜか忍ぶことをしない幸がくくくと笑っているあいだ、私は滲む涙が溢れないように澄み切った冬の青空を見上げていた。
「青いなぁ」
「まさか泣くなんて。くくくくく」
む。だからそこ、せめて忍べって。
ががっこごっ。
えっと、幸は一体何を考えているのだろう。これはどういう…
「元気出して。はいこれ、屋敷にあげる。それと、こっちは半分こしよう」
「えっ?えっ、いいの?ありがと、幸」
窓に面した席に並んで座るとすぐに、なんだかいつもより私の視界いっぱいの幸が持っていたレジ袋からがさごそと音を立てながら取り出して私の手に置いてくれたのは栗あわ大福。それとテーブルに置かれた黒蜜ときな粉たっぷりわらび餅、ざっと十二個入り。
私は幸の優しい気遣いと渋いセンスに嬉しさが込み上げてきたけれど、ふと浮かんできた限定お芋のパフェの姿とのあまりのギャップにまた落ち込んで、幸に暗い顔を見せてしまった。
「ごめんね屋敷。今日はそれで勘弁してね」
「そういうわけじゃ…」
幸は申し訳なさそうに両手を合わせて苦笑いをしながらそんなことを言った。
けれど私は、今日は時間が無いねと判断した幸のせいだなんて思っていない。幸を怒ってなんていないし恨んでもいない。だって、私も時間的に厳しいことは分かっていたんだから。
私は幸に甘えて馬鹿みたいに拗ねていただけ。だから幸が申し訳ないと思う必要なんてない。
お芋のパフェはまた次がある。たぶん。
それに私は恵美さんからお墨付きを頂いた大人の女性だから、悔しくたって悲しくたってそこそこ我慢もできる。
「幸。わたし幸のせいだなんて思ってないよ」
「そっか」
「うん。馬鹿みたいに拗ねてただけ。こっちこそごめん幸。あと、コレありがと」
「あはは。屋敷はそんなこと、気にしないでいいの」
私がいただいた栗あわ大福を両手でありがたく掲げてみせると、申し訳なさそうに少し困った顔をしていた幸は笑ってくれた。
その笑顔を見ていると、いくら落ち込んだからといって幸に甘えて馬鹿みたいに拗ねていたことがなんだか凄く恥ずかしくなる。
「ごめんね幸」
「たから気にしなくていいって」
「うん」
けれど、私は私。こんな私もまた私。こんな私は知っている。
いつからかこうして幸に甘えるようになった私のことを、幸は嫌がることなく受け入れてくれていることを。
こんな私を気に入ってくれて、気に掛けてくれて、時には幸を困らせてしまっても、甘えるたびに気にしなくていいと笑ってくれる幸には本当に敵わないと思う。幸は本当に素敵な女性だと思う。
そしてできることなら末長く、それこそ一生を閉じるまで、甘える私をどうか受け入れてくれないかなと思う。私の傍にいてくれないかなとそう願ってしまう。
ねぇ幸。私は幸が好き。私は幸と同性だけど、女性だけれど、私じゃ駄目かな。
私は隣に座るいつもより私の視界いっぱいの幸に視線を向けたまま、そのうち必ず伝えようと思う言葉を思い浮かべていた。
「食べようか。あまり時間もないし」
「うん。で、幸」
「なに?」
「近くない?」
「そうかな。このくらい、いつもとそんなに変わらないと思うけど」
「そっか」
そう答えたものの、私は戸惑っている。
実は、幸は私の隣に座って私に栗あわ大福をくれる前に、ががっごこっと音を鳴らして椅子ごと私の方に寄せてきていた。
パフェの悲しみとか私の馬鹿さ加減とか幸の申し訳なさそうな顔とか栗あわ大福とかわらび餅とか、色々と気を取られて失念していたけれど、私は幸がそうしていたのを目にはしていたのだ。
幸はいつもより凄く近い。幸のいつものいい匂いも殊更強く感じている。
けれど幸はいつもとそんなに変わらないと言った。それなら私は、幸がそうした意味をどう捉えればいいのだろう。
「まあいいじゃない。ほら、食べるよ」
「うん。そうする」
にっこり笑った幸がどういうつもりでそうしたのかはよく分からないけれど、幸は幸なりに私を慰めようとしてくれているのだと思うことにした。そういうことにしておけばいいのだと思うことにした。今はこれでいい筈だ。
「はい夏織、これあげる」
「えっ。と、あ、ありがと幸」
いま凄く驚いたけれど、やはり幸は私を慰めてくれているように思う。
その証拠に幸は私の傍で、私の好きなプチトマトをくれたり、好きなタマゴサンドと嫌いなたまねぎが入っているツナサンドを交換してくれたり、ふっくらお稲荷さんもひとつくれたのだから。
さらにはデザートとして買った黒蜜ときな粉たっぷりわらび餅を半分くれると言ってくれたし、私のために栗あわ大福を買ってもくれたのだから。
「夏織。ツナサンドもらうからこっち食べなよ」
「う、うん。あ、ありがと」
こんな感じで嫌いなものと好きなものを交換してくれる幸に、惜しげもなく甘い物をくれると言う幸に、ありがと幸。私は幸のこと、本当に超大好きだからねと、渡されたふたつ目のタマゴサンドを食べながら私がそんなことを思うのは至極当然のことだと思う。
はっ。まさか餌付けされているとか?いや、ないな、ないない。
そう思って何となく幸の顔を窺うと幸はふふふと微笑んでいた。
なんだかあやしい感じがする。
「私は四つくらいでいいかな。あとは夏織が食べてね」
「いいの?それじゃ食べたうちに入らないよ」
「いいの。私はそれで充分だから」
「そうなの?じゃ遠慮なく。ありがと幸」
きな粉にまみれたわらび餅に黒蜜をちゅーっとかけて、幸のお許しが出たからには一切の遠慮もなく私はそれに手を伸ばす。
「いっただっきます」
「はいどうぞ」
「うん。うまいっ。幸、これ美味いよ」
「よかったね」
幸は喜んでわらび餅を食べている私を見て微笑んでいる。そして左手首に視線を落とし、あ、そろそろ時間がとか言い出した。
「夏織、わたし先に行くからね。今から準備しないとばたばたしちゃうから」
幸はそれだけ言うと食べていたものとバッグを持ってさっと立ち上がった。
私はもぐもぐ噛みながら頷いた。わらび餅を頬張り過ぎたせいでもごもごとしか話せないのだ。
「じゃあまたね、夏織」
「う、うん、また。ありがとね幸」
私がようやくわらび餅を飲み込んで声をかけた時には、しゅたっと手を上げた幸が一度も振り返らずに足早に去って行くところだった。そんな姿も様になっている幸。
「さすが幸。かっこいいわ」
そして私はふと思いつく。
遅れてしまった私の返事はきっと幸には聴こえていなかっただろうから、後でメッセージを送ることにしよう、と。そうすれば今日はもう少し幸と繋がっていられるから。
「あー、びっくりした」
それにしてもと、私は幸が去ったあと脱力して、くでっとだらしなく椅子の背に寄り掛かってしまった。
もちろん私は気付いていた。幸が私の呼び方を下の名前に変えて呼んでいたことを。
私は敢えてそれに触れなかった。幸から夏織と呼ばれることは凄く嬉しかったけれどなんかこそばゆい感じもして、もしそのことを突っ込んでしまったら幸がどう反応するか分からなかったし、自分でもどう反応していいのかよく分からなかったから。
この休憩スペースに来てからの幸は私にはかなり謎だった。それでも幸のしたことは私にはどれも嬉しいことではあったけれど。
これはもしかするともしかするのかも知れない、なんて期待を膨らませるには充分過ぎるほどの出来事だったと思う。というか今はまだ思いたい、くらいにしておく。
油断して調子に乗ってはいけない。焦ってもいけない。私は方針通り粛々と事を進めていくのだから。
「うん。美味かった」
少し時間は掛かったけれど、私は気を取り直して残っていたわらび餅を美味しく食べ終えた。
そして次なる獲物、栗あわ大福に手をつけようとして、なんとなく虫に刺されてしまった気がする左手首をくるっと返す。
「あ、そろそろ戻らないと」
私はさっと立ち上がって食べ終わった物と栗あわ大福、それとバッグを持ってとことことこの場を後にした。
「今の感じ、なんか幸っぽいかも。ふふふ」
読んでくれてありがとうございます。