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woman  作者: しは かた
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第四十四話

続きです。


よろしくお願いします。

 


「来年の四月?」


「そう。四月の一日(いっぴ)。そこにするつもり。というかそこ。恵美さんにもそう伝えるよ」


 あ、そうそうそう言えばと、幸は大事なことを何でもないように伝えてきた。けれどその目はめらめらと燃えている。幸は新しい挑戦にわくわくしているのだ。


「ふーん。じゃあいよいよだ」


「まだ半年も先のことじゃない」


 十月でしょ、十一、十二、と、幸は指を折って数え始めた。


 分かっていたことだけれど、なんというか、私が恋心を抱いていた時もそうでない時も、課やフロアは違っても、私達は知り合ってからずっと互いの近くに居たのだ。

 だから、私が寂しさを覚えてしまったとしてもそれは仕方のないことだ。


「そっかぁ」


「一、二、三月」


 私がため息とともに吐き出した呟きに幸は気付かない。数え終わるとにっこり笑ってその手を私に向けた。


「ほらね」


 幸は進む。向かうと決めたら真っしぐら、自分の選んだ道を迷うことなく思うように。

 ただし、そうなるまでには色んな可能性を熟考して一つの答えを出しているのだ。


 それもまた幸らしくもあり、幸が幸たる所以のひとつでもあるところだと思う。

 そしてそれは、私が幸を好きな理由のひとつでもあるのだから、こうして寂しさを感じてしまうのは私の自由だけれど、だからといって何かをどうこうすることはない。

 それは必要なこと、私が、私達が支払うべき代償というヤツだから。その先に素敵な明日が待っている。それは必ず訪れる私と幸の望んだ嬉しくも幸せな未来。そういうことだ。



 私は時に、こうした幸の用意周到なところや(のち)の猪振りを羨ましく思う…ことはない。

 あれこれ色々と迷いながら進む私もまた私。私の場合は、転んでもすぐに忘れてまた進んではまた転ぶ、七転び八起きというヤツだから。


 すぐに忘れちゃうからまた転んじゃうんだよと、そんな声が目の前の素敵な女性から聴こえてくる気もするけれど、その女性はそんな私を笑って肯定してくれる。だってそれも私の好きな夏織だからねと言ってくれる。


 幸とのことのように人生の岐路にでも立たない限りはたとえ無様で要領が悪くても、そもそも私はそれを苦にしていないと、そうやってばたばたと生きていくのもいとをかしと、趣があると私が思っていることを、幸はちゃんと分かっているのだ。


 ただし仕事については別だから。そこそこな私らしく私なりになるべく無駄なく要領よく簡潔に済ませている。筈。いけてる。



「いや、わかるから」


 片手じゃ足りないよと手を出す幸に私は呆れたように半笑った。顔に出してしまった筈の寂しさを隠すようにして。私を理由にはさせないようにと頑張って。


 けれど、馬鹿な私が口にしたのは想いとは裏腹な言葉だった。私は私の感じた寂しさを少し分かってもらいたかったのかも。

 つまり、私は幸に甘えたのだ。少しだけ。私は甘ったれだから。



「けど幸、半年なんてすぐだよ」


「そうかな?」


「そうだよ」


「まぁ、そうかもね」


 かもねじゃなくて絶対そう。半年なんてあっという間。あっという間に過ぎ去って幸の居ない日々はすぐに訪れてしまう。いま感じている寂しさはすぐに現実になってしまう。


 けれど、一つのことを除けば、私を取り巻く環境が変わることなくずっと続いていくなんてことはありはしない。今までだってそうだったしこれからもそうだ。

 変わってほしいと願っているものはいまだに何も変わらないのに、大切に思っているものは、凄く大事にしているものは、どれだけ願っても失くなって、あるいは無くなってしまうのだ。

 それは相対的にはイコールなのかもしれないけれど、当たり前のようにあったもの、大切に、大事に思っていたものほど私の元から消え去っていったように感じてしまう。そういうものほどなくした時の喪失感は大きいものだから。


 今回のこともその内の一つ。思えば大事な当たり前のようにあった幸との日常だから失えば当然、悲しくもなる。


 そうは思っても実際にはまだ失っていないのだから、失う辛さを想像するだけで悲しくなって泣いたりなんて私はしない。私は幸にちょっと愚痴っぽく甘えたいと思っただけだから。

 それに私はもう、押しも押されもしない素敵な大人の女性なのだから、自分の感情くらいちゃんとコントロールできる。してみせる。大人の私にはそんなのはちゃいちゃいだから。


 うっ


 ふらっと会いに行ったり会いに来てくれたり、幸と二人、時には花ちゃんと三人で、例のスペースでコーヒーを飲みながら馬鹿な話をして笑ったり、休み明けに一緒に通勤したりオフィスから一緒に帰ったりすることができなくなるだけ。


 そう。ただそれだけのことだから。


 その時間がどれだけ大事で大切でも、それが私の頑張るための(かて)の一つであっても、私がそれを心から楽しみにしていても、失くなったって全然平気、私は大丈夫。なんてことはない。そんなのちゃいちゃいだから。


 うぐ


 大体において幸の転職は、私達が一緒に暮らすに当たっての面倒事をなるべく回避するための布石のうちの一つに過ぎないのだから私がそんなことくらいで泣くわけがない。泣いでじまっだら優じい幸が気にじでじまうじ。


「うぐっ」


「なぁに夏織。もう寂しくなっちゃったの?」


 バレてしまった、というか幸は最初から分かっていたのだと思う。優しい目をして夏織らしいねと私を見ている。いつものように変わらずに泣きそうな私を気遣ってくれる。

 あのね、夏織が寂しいならべつにやめてもいいんだよと優しく笑っている。夏織にそんな思いはさせないよと、冗談なんかじゃなく幸は本気でそう思ってくれているのだ。幸は優しくて私に甘いから。

 もしも今、私がそうしてほしいと頷けば、幸はすぐさまそうするよとなんの躊躇もなくそう言ってくれる。私は幸に深く愛されているのだから。ふへへ。



「へいきだから」


 場所や時間が変わっても、何も変わらない幸がいることを私は知った。切に望んでいたことは望んだ通りだった。だから私はもう大丈夫。


 私はかぶりを振った。

 それに、幸には幸の人生がある。幸は一緒に生きていこうねと私にそれをくれたけれど、私は幸には私の傍で幸らしくいてほしい。

 それは私の望みでもあるのだから、寂しいだの悲しいだのと揺れ動く私の感情ごときで私が幸の枷になるつもりはぽっちもない。そんなのは単なる我儘でしかない。私は幸の暗ーくて深ーい海の底まである私への愛に応えるのだ。


「ほんとは?」


「すごく」


「あはは。知ってたよ。おいで。あ、ここではちょっと無理か」


 腕を広げようとして周囲を見渡したあと、がっかりした顔を見せてくれた幸。私はそれを嬉しく思う。そして、幸に余計な心配をかけないようにしなければと思う。


「まあね。けど私は大丈夫。幸とはずっと一緒だから」


「そうだよね。嬉しいよ、夏織」


「幸は幸の思うままで」


「うんっ。ありがとう。私、すっごく楽しみなんだよね」


「知ってる」


 あ、獲物だ。やってやる。そんな感じに幸は笑う。

 さすが幸。ぼーぼーと燃え盛る生命、私は生きているんだぞって力強さを感じる。

 そして私も微笑んだ。ほんの少しだけ強がって。



 想像すると悲しくなる。必要だからと理解していても、幸がそれを望んでいても、その話を振ったのが私だったとしても、今までが楽しかっただけに、それが失くなってしまうと思うとよけいに寂しくなってしまうから。


 うぐっ


 涙目な私に、そういうところが夏織らしくて堪らないなと幸は優しく微笑んだ。声を出さずに、す、き、だ、よと、唇の動きで伝えてくれた。

 こんなところでと思いながらも私は今更ながら照れてしまった。


「せ、青春か。て、ていっ」


「あた。あはは」


 照れ隠しとはいえ、こうした私の暴挙でさえも幸は優しく受け止めてくれる。

 幸は笑っている。やはり幸は私には凄く相性の良い、掛け替えの無い愛しの女性なのだ。



 その幸は、伝えたからねと再び目の前の大盛りのナポリタンを口いっぱいに頬張ってもぐもぐと食べ始める。その横には齧られたホットドッグもある。あとポテト。

 それを口に入れるたびに頬張ってもなかなか減らないことを嬉しがっている幸は、私にはもう、優しさが服を着て夜ご飯を食べ散らかしているようにしか見えなかった。


「ああ、なるほど」


 そして、ナポ三に対してホットドッグ一という割合で食べているところをみると、もしかするとこの場合、幸にとってホットドッグはチェイサー扱いなのかもしれないなと私は思った。


「おいふぃい」


「誰も盗らないから落ち着けって」


 ほら、ケチャップが頬に跳ねたからと、私は自然に手を伸ばしてそれを指で拭った。

 もう何度目かも分からないそれのせいで手持ちのティッシュがなくなってしまったのだ。これを続けていたら私の指が赤く染まったまま落ちなくなってしまうかもしれない。その手で食べる私の卵サンドは少しケチャップの匂いがする。

 けれど拭くたびにありがとうと微笑む幸を目にすると、いつものごとく私は胸がいっぱいになった。






「どうする? 私のところに行く?」


「は?」


 幸がくいくいっとやってみせる。馬鹿なの幸と、私は即座に否定する。


「絶対嫌だ。あのホラーハウスには二度と行かないから」


 つまりこれはアレ。初めてのお化け屋敷で怖い思いをして、子供心にもの凄く苦手になってもう二度と入らないとからなと、嫌だ嫌だとその入り口で座り込んで、私はここから一歩も動かないぞと泣いて周りを呆れさせてしまうアレ。


「もう、夏織。ホラーって」


 私の理由がアレだと気づいた幸はやはり呆れ顔。けれど私は気にしない。嫌なものは嫌なのだ。


「だってもろホラーだったじゃんか。血濡れたアイスピックママとか怖いから。トラウマものだからなっ」


 だからマイウエイだけはあり得ないと首をぶんぶんと振ったあと、私はおえと頭を抱えた。

 頭がくらくらするほど激しく嫌がる私を見て、幸はわざとらしく、はあとため息をついて左手の親指と中指をこめかみに当てた。


「怖いなんてそんな大袈裟な。楽しかったくせに」


「はーはーはー。ねぇ幸」


「なぁに」


 楽しかったとか何を言っているんだこのぽんこつはと、私は幸に向けて中学の時の英語の村、村、うーんと…川? 山? 谷?

 ま、まぁ、とにかく、そのお爺ちゃん先生がしていたように自分の唇を指でとんとん、ルックルックとやってやる。


「い、や、だ」


 私はぽんこつ幸に分かり易く伝わるように丁寧に発音してやったのだ。完璧。

 幸は、あーそんな先生いたよねーと笑っているけど伝わった筈。大丈夫、だと思うけれど念には念を押しておく。今の幸は確実にぽんこつだから。


「とにかくそういうことだから」


 私の断固とした態度に、あんなのは渚さんの冗談だよ、決まってるでしょうと幸が苦笑う。けれどその目は本気で笑っている。

 私の必死さを面白がるとか、幸はいま確実にぽんこつだ。


「そんなに嫌がらなくてもいいでしょうに。渚さんは優しくていい人なんだからさ」


「じゃあさ、幸はなんで逃げたの?」


「だって怖いもん」


「はあ?」


 私は固まった。

 幸はくくくと笑っている。だって夏織、アイスピックなんて危ないしとか言っている。


「さすがにあれはさ、ふつう誰でも逃げるでしょう?」


 幸、お前なぁと私は思う。


「ていっ」


「あたた」


 へらへらと楽しそうにそんなことを言いやがる幸になんかイラっとしたから、私はテーブルの下で幸の脛をえいえいと小突き、痛がる振りをしている幸に堂々と宣言をした。


「とにかくっ、暫くマイウエイには行かないからなっ。マイウエイには行かないからっ」


「はいはい。わかったよ。くくく」


 私は大事なことだからちゃんと二回言った。そのお陰かは分からないけれど、私の熱意はは幸に伝わった。よかった。幸は分かってくれたのだ。


「行かないから」


「わかったって」




 トラウマになった気がして仕方ない、あの血濡れたアイスピックの夜。

 万が一、営業妨害で訴えられると面倒だから私は誰にも話さない。だから今から触れることはここだけの話にしてほしい。



 私は頑張って言い訳をしたけれど渚さんは全く聞いてくれなかった。時折ふひひと笑いながら氷をがしがしと削っていた。その目を私に向けたまま。

 私はにょろにょろに睨まれたげこげこのようにその場を動けずにいた。さっきトイレに行っておいて本当によかったなと軽く現実逃避をしていたのだ。


 幸は逃げたから見ていなかったようだけれど、渚さんは削る氷が無くなったあと、私の想像通りにアイスピックをべろーんとやったのだ。もちろん私から目を離さずにふひひと笑いながら。こわかった。


 それを目にしてしまった瞬間に、命の危機が竦む気持ちを上回ったのだと思う。何かの呪縛から解き放たれた私も幸のあとを追うように一目散に逃げ出して、麻里奈さんと美波さんのテーブルで暫く匿ってもらったのだ。そこは異様に薄暗いから隠れるには絶好の場所だと思って。



「わるいごはいねぇがぁー」


 そんな声が段々近づいて来て、私は、なまはげなの? と怖いながらもぷぷぷっと吹き出して、小さくしていた体を隣に座る真里奈さんの陰に隠れるようにさらに縮こまっていた。震えながら。


「んんん? このあたり、なぁんがにおうなぁ」


 と、鼻をくんくん鳴らしながらアイスピック片手にそのテーブルの横を通っていった時は、私は込み上げる恐怖と笑いに耐えきれずに、知らずのうちに麻里奈さんに抱きついてしまっていた。まさに二つの理由で震えながら。


「かおちゃん大丈夫よ。渚さんはね、たまにああなるのよ」


「そうだよかおちゃん。それに、まだ人死は出てないからね」


 そう。余談だけれど私はいつの間にか、かおちゃんになっていたのだ。そう呼ばれるのは小学校以来。いい大人の女性ふたりがなんとまぁ、短絡的であることかと私は思ったのは内緒だから。



「えぇぇ。人死って」


 向かいの美波さんはくすくすと笑いながら手を伸ばし、私の髪を優しく撫でた。

 かおちゃんや人死はともかく、私はこのままここで縮こまって、震えたまま重鎮のお姉様方の側でなまはげ的なイベントが終わりを告げるのを待っていることにしたのだけれどその目論見は甘かった。幸がやらかしてくれたのだ。



「ああーっ」


 と、声を上げて、私を置いて逃げやかったぽんこつのくせに、私とお姉様方のやり取りをどこかから見ていたらしい幸がこの浮気者めーと乱入しできたのだ。悪戯っ気満々な、もの凄い笑顔で。


「こらー、離れろー」


「ちょっ、幸、やめろって。見つかるって」


「うるさーい。この浮気者ー」


「どう考えても違うだろこのぽんこつめがっ。あたたたた」


「離れろー」


「だからひっぱるなってばっ」


「かおりー」


「名前を呼ぶな馬鹿っ」


「ん? 夏織だとぉ。その声は…やっぱりぞごにいだのがぁ」


 そのせいで渚さんには見つかるわ、お姉様方や周りがけたけたと笑いはじめるやらで、あたかもそれはマイウエイ劇場にようこそというヤツだ。

 その昔、微妙に流行った客を巻き込むタイプの芝居のように、わちゃわちゃする私達とそれを見て笑う他の常連客という、私には理解不能でわけの分からないカオスな状態になってしまったのだ。


「おかしい」


 幸は確か、このバーは落ち着いて静かに飲めるとか前に言っていた筈なのに。



「おかしい」


 そして気がつけば私の髪がツインテールっぽくなっていたという不思議。

 そんなもの、トラウマにもなるというものだ。


 けれど、当然わたしのツインテ姿は貴重だから、全てが終わったあと、私は幸にスマホを渡して写真をいっぱい撮ってもらった。

 長さが足りないから純然たるツインテとはいかなかったけれど、私は凄く可愛かったから。似合っていたから。幸も喜んでくれたし。ふふふ。




「いや、色んな意味で超こわかった。疲れたし」


「あはは」


「笑うな。幸のせいだぞ」


「違うの。あれはね、台本通りなの」


「嘘つけ」


「あはは。バレた?」


「ツインテ可愛かったからいいけどさ」



 と、そんなことがあったあのどっと疲れてしまった恐怖体験からちょうど二週間が過ぎた九月最初の金曜日午後七時半、私と幸はふわふわ卵サンドがやたら美味しいらしいよと幸がどこからか仕入れてきた情報を基にそのお店、どことなくマイウエイを連想させる渋い感じの昔ながらの喫茶店へとやって来て、夜ご飯を食べながらそんな話をしていたところ。


 言ってもふわふわ卵サンドは軽食だから、腹ぺこ幸にしては珍しいチョイスだし夜ご飯としては物足りない筈だから、これは何か裏があるなと思って、そこに行きたいと幸が言った次の瞬間、私は自ずと訊いていた。


「ふわふわとか。嫌がらせなの?」


「え? なんで?」


「違うのか。ならいいけど」


「なに? 変なの」


 ふわふわとか渚さんを彷彿とさせるワードを使うとか、今の私になんなのよと思ったけれど、まぁ私自身もゆるふわだし、幸に惚けている感じはないから、きっと私の穿ち過ぎだなと、私はそう思うことにした。

 けれど、これこそ本命。私は視線鋭く訊いてみた。


「じゃあ嫌味なの?」


「なんの話なの?」


「幸は痩せたいの?」


「いや。特には」


「あっそ。ていっ」


「なんでっ?」




 私は素直にふわふわ卵サンドのセットを百五十円プラスして飲み物をコーヒーゼリーに変えたヤツを頼んだけれど、メニューから顔を上げた幸は店員さんを呼んで、なぜかナポリタンのセットを大盛りでと頼んでいた。

 幸は痩せたいわけではなかったらしい。私はさっき割と本気で蹴ってしまったことを素直にごめんねと謝った。幸ははいはいと適当に頷いていた。それどころではなかったから。


「ごめんね」


「べつにいいのにそんなこと。あ。あと、このホットドッグもお願いします。ポテトも付けてください」


 あんた細いのによく食べるね逆じゃないのあっはっはっはと、私達を交互に見て豪快に笑った失礼な女将さんのような恰幅の良い年配の、女性だったと思われる人が去っていったあと、私は幸に理由を訊いた。


「なんで?」


「やっぱり足りないかなと思ってさ」


 さもありなん。私は頷きながら幸らしいその理由に納得した。


「なるほど。じゃあ卵サンドはいらないの?」


「夏織のをひとつもらうから」


 それも食べてみたいんだよと、すがる目をする幸のなんとあざと可愛いことか。その目が私に、何食べてるのくれるよねと私の前でヨダレをだらだらと垂らしていたタロを思い出させる。


「いいよ。あげる」


「やった」


 わーい。これでいっぱい食べられるぜと喜んでいる幸はいま確実にタロだ。それでいいのか幸。


「いいのいいの」




 そして今、幸はナポリタンとホットドッグとポテトを、私は素直に頼んだふわふわ卵サンドを食べ終わったところ。

 私はコーヒーゼリーを、アイスコーヒーを飲みながら、少し呑んでから帰りたいと言った幸の要望を受け入れて、どこにしようかねと話をしていたところ。けれどマイウエイは見事に回避したところ。



「もう近場でいいよね?」


 そこら辺に何かあるでしょと、ホラーハウスに行きたくない私は率先してスマホで検索する。

 目当ての候補はすぐに見つかって、あったよ幸ここでどうよとそれを幸に向けた。


「いいよ」


「よかったぁ」


 危機は去ったと私は胸を撫で下ろしてコーヒーゼリーを完食した。

 それからバッグを漁って財布を取り出して立ち上がり伝票を取った。


「行こう」


「うん」


 幸の気が変わらないうちに次の店へととっとと向かうのだ。私はとことこと歩き出す。


「ねぇ夏織。やっぱりさ、マ」

「い、や、だ」


 私は幸を振り向かずにきっぱりと言ってやった。私の背後で席を立った幸がくくくと笑っている。






 適当に見つけたお店は割といい雰囲気で落ち着いたバー。バーとは本来こういうものだ。


「いい感じ。マイウエイとは全然違う。ね」


「だからたまたまだって。いつもはあんなんじゃないんだってば」


「へー」


「違うからね」


 本当はマイウエイはここよりももっといい感じなんだからねと幸が力説しているけれど、私はまるで鼻をほじりながらそんな話は興味ないんですけどというように返事をしておく。


「ふーん」


「くっ。伝わらないっ」


 幸は口惜しそうにしているけれど、そんなもの伝わるわけがないでしょと私は思った。



 蝋燭ランタンの小さな火がちらちらと揺れるテーブル席に着いて一杯目のお酒が揃ったところでお疲れ様とグラスをちょんと付け合ったあと、幸は真面目な話だよと私をじっと見た。


「ねぇ夏織。家探し少し急がない?」


「え? それはいいけど…」


 私はその続きを言葉にしなかった。私はなぜ幸がそうしようと言ったのか、それが分かってしまったのだ。


 幸はさっきの私の寂しそうな顔を見て、泣きそうな顔でこっそり甘えていた私を見て、転職をする前に一緒に住み始めることを考えたのだ。

 そうすれば私が寂しがったりしないから。幸は毎日わたしの元に帰ってくるのだから、それなら夏織も大丈夫だと考えたのだ。


 やはり幸は優しくて私に甘い。私にはその思い遣りがとても嬉しい。


「ありがと幸」


「私も同じだからさ」


 何気なく過ごすあの時間が失くなってしまうのは、私も凄く寂しいんだよと幸が言う。

 私達は何年近くに居ると思ってるのよと、その顔はさっきの私と同じく寂しげだ。

 寂しく思うのは夏織だけじゃないんだからねと幸は言った。


「幸…」


「けどね」


 けどそれよりももっと大事なことが私達にはあるでしょうと幸は言う。

 そのために何かを失うことは私達に求められる代償、必要経費みたいなものだからねと、だから私は前を向くのよと幸は言った。


 寂しげだった表情は鳴りを潜めて、今またその目はめらめらと燃えている。痛くないからと目に入れられたら確実に燃え尽きて灰になってしまうヤツだ。



「やっぱ幸はかっこいいな。可愛いし」


「なっ、なによもうっ」


「顔真っ赤っか。もしかして照れた?」


「ま、まあね」


「やっぱ幸は乙女だな」


「やめなさいっ」


「あだっ。ちょっと幸。暴力は駄目だから。暴力はんたーい。断固はんたーい」


「はーはーはー」



 声に合わせて右手を挙げて、いつ何時も平和を愛する私のシュプレヒコールに乾いた声で笑ったあと幸は微笑んだ。あはは、楽しそうと呟いている。

 今ふたりで暮らすことを想像し始めた筈の幸の顔は楽しげだ。私もそれを妄想してみる。すると幸と同じように自然と笑みが浮かんできた。


「くくく」


「ふふふ」



 暫く自分勝手に思うがまま妄想したあとに、我に帰った私はふと、大人の女性がふたりで宙を見つめながら薄ら笑うその光景は、側から見たらどんなものかと笑ってしまった。



「ね、夏織。どうだった?」


「楽しみしかないな」


「私も。私達なら絶対楽しいよね。だから、ね」


「わかった」



 いつまでもあれの方がこれの方がと探していても切りがない。どこかで踏ん切りをつけるならこれがいい機会だと思う。

 もっといい物件があるかもと思うのは当然の心理だけれど、まあまあそこそこの私が買うのだから、まあまあそこそこの物件になるだろうけれど、幸とふたりであとはなんとかするだけだから。

 私には優秀で聡明な幸がいるから大丈夫。幸にきちんと精査してもらえはいいのだから。




「今のところ条件に近いヤツはそんな感じ。幸も気になる物件があったら教えて。まぁ幸も見たことあるヤツだけど」


「わかった。見てみるね」


「うん。よろしく」


 私は幸にスマホを渡した。そして私達の邪魔をすることなくさっと置かれたリンゴのコンポートに手を付ける。幸が食べていいよと言ってくれた甘くて美味いヤツ。

 一口食べれば口の中は天国だ。


「幸、これすっごく美味いよ」


「よかったね」


「うん」


 スマホから顔を上げて、自分のことのように嬉しそうに微笑む幸はかはかはだ。その幸の前にはもう空になった一杯目のグラスがあった。


「ん」


 私はフォークを置いてバーテンさんに向けて指を立て、空のグラスを指差してみた。


 無言で頷くバーテンさんが幸のお代わりを作り始めるのが見えて、私は財布から取り出した英世を二枚をテーブル置いた。それを取ってくれるかくれないかはまだ分からない。


 飲み物を作る様子を何となく見ていると、作り終えたそれをグラスに注ぎ、すたすたとやって来てさり気なく幸の前に置いた。

 それから私の用意しておいたお札を手に取ったついでに半分ほど残っている私のグラスに目を向けてから、本来会計は後ですけど今回だけ特別ですよと、お釣りを置きながら囁いて、他のお客さんに対応するためにすっと去っていった。ではごゆっくりとか言いながら。



「ね、ね、幸」


「なぁに」


 物件を見ていた幸が、どうしたのと私に視線を移す。やはり幸は今のやり取りに気づいていなかったみたい。


「お酒きたよ」


「ありがとう」


「なんか今、超パーっぽかった」


 私は幸に、お代わりきたよグラスを指してから、今あったことを教えてあげたというか聞いてもらう。

 そう。私は猛烈に感動していたのだ。この店とバーテンさんの雰囲気も相まって、超バーっぽい感じがしたからだ。


「そうなの? よかったね」


「うんっ」


「くくく」


 再びスマホに向かう幸の笑う声を聴きながら、私も再びフォークを取ってリンゴのコンポートを口に運んだ。


「うん。美味いなコレ」



 そう騒ぐ私の前で幸がグラスをくいっとやりながら、なになに、ふむ、この金額と夏織の年収を考えると頭金をとかぶつぶつ呟いて、私のスマホを真剣に見ている。

 私はそれを眺めながら大人しく甘くて美味いリンゴのヤツを食べている。



「ああ」


 私はスイーツを食べて、幸はお酒を呑んで、居心地のいい空間と一緒にいて居心地のいい私の愛する女性。幸とこうして過ごす夜。これは絶対に変わらぬものだと、私は分かってしまった。


「ふふふ」


 そう。私はまたしても決して変わらぬものを見つけてしまった。私は今日だけで、それがふたつもあることを知ってしまった。


「ふふふふふ」


 穏やかな週末の夜がまたひとつ、私達の傍でゆっくりと更けていく。

 この先もこんな夜が幾度となく繰り返されるのだ。




 私と幸。


 やった。永遠だ。





ながーい上にゆっくりと進んでいますが、それは私の意図するところ。私は夏織と幸に目一杯いちゃいちゃしてもらいたいのです。書いている時は楽しくて読み返してみるとhappyな気持ちになれるから。


皆様にもそう感じていただけているなら幸いです。幸だけに。やるな私。なんちゃって、あはは。あだっ。


きっと大丈夫。いけるいける。


読んでくれてありがとうございます。

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