第四十三話
続きです。
よろしくお願いします。
「かは」「かは」「はうっ」「はぁ」「尊い」
「ん?」
聴こえた多くの声の出所はこのバーにいる女性達。私は出していないしため息も吐いていないから。
「あー」
私はすぐにピンとくる。夏織に目を向けて、ああこれのせいねと納得する。
どうやら私の隣、暗くて見にくいなとか呟きながらほんの少し破れた袖をちくちくとやり始めた夏織の一連の様子にみんなやられていってしまったみたい。
周りに視線をやれば、はぁ、なにあれキュンときちゃうよとか言いながら羨ましそうに私達を見ていたり、胸に手を当てたまま蹲る女性もいる。あの様子からして、たぶん、はうっと声を出したのはその蹲った由紀さんだろう。あはは。
「ちょっ、幸。動くな」
「あ、ごめん」
「危ないから」
「うん」
「え。さっちゃん? え? え?」
まぁ確かに、今どき当たり前のようにソーイングセットを携帯している女性も珍しい。それをさっと取り出して、ちゃちゃっと繕い始める女性なら尚のこと。
当然わたしは持っていないし、たぶんここのみんなもそうだろう。私は夏織が初めてだった。
ね。ほらこれ。だから幸、ボタンが取れても大丈夫だからいつでも取れていいからねというか早く取れちゃえばいいのにねというか今さくっと取っちゃえばいいんじゃないの私がつけるからと、夏織はそれを人差し指と中指で挟んでひらひらとして、微笑みながらわけの分からないことを言っていたことがあったのはもう何年も前のこと。
いま思えば完全に私の勘違いだったわけだけど、夏織がストレートじゃなかったらな、なんてちょっと思ったりしたものだ。
そして、ふと、夏織が自分の部屋でひとりちくちくしている様子を想像して、寂しくないのかなとか可愛い過ぎでしょとか色んな想いが湧き上がってきて、胸が締め付けられるようにきゅんとなって、いま直ぐ夏織の元に行って抱き締めたくなってしまった気持ちをぐっと抑えながら、私もまた自分の部屋でひとり、せめて、大丈夫? と、メッセージでも送ろうかなとスマホを取ったけど、その様子に切なくなりつつもかはかはと萌えに萌えていたせいで暫く咽せて呼吸困難ぽくなってしまった私がそのメッセージを送るタイミングを逸してしまったのは最近のこと。いやぁ、あれは中々に危なかった。
「あはは」
だから今の夏織を見て、ここのみんなが私と同じように萌えまくって胸がざわざわしてしまったのは当然のことだと思う。
けど、みんなが萌えてしまったのは、もちろん夏織の様子もそうなんだけど、自然にちくちくし始めた夏織を、ありがとうよろしくねと自然に受け入れている私もまた理由だったりもする。
嫌味ったらしくもなくわざとらしくもない、ごく自然にこうなっている私達がみんなの中の何かに触れたのだ。
何をしていようが私達はこうしたバーではどこにでもいる普通のカップルで、今ちくちくのために体を寄せ合っている私達が何か特別なことをしているというわけでもない。
夏織がこんなふうに甲斐甲斐しく私の世話を焼くことに互いに幸せを感じていても、私達には自然の流れだから特筆すべきようなことは何もありはしないのだ。
幸せそうに過ごすカップルはどこにだっているし、これと似たようなことは毎晩どこかで必ず目にする恋人同士のありふれた触れ合い。それだってただの日常の一コマだ。
いま私達に羨望の眼差しを送っているここにいるみんなも同じ。そうやって恋人と幸せな時を過ごすことは、独り身でないのなら意識せずともみんなもやっていることなのだ…あ、睨みながら泣かないで葵さん。なんちゃって。あはは。
それでもみんなは寄り添い合う私達のふたつの背に、私と夏織の互いを想う溢れんばかりの愛情を、私達がいま体現しているありふれたどこにでもある幸せを、見ていると勝手に顔が緩んでしまうようなほわほわとした和んだ雰囲気を目の当たりにしたのもまた事実。
私達は今、写真や絵画のように切り取られたひとつのシーンだから、それに心を揺り動かされる人がいるのは当たり前。
誰だって恋をすればその女性と、恋人が居るならその女性と、普段から特別意識をしていなくても、心の底ではそんなふうになりたいなと思っている筈だから。そんなふうになれる女性と出逢いたいと思っている筈だから。
けどそれだってここにいるみんなも同じこと。今夜はたまたま私達がそうだったけど、お互いを想い合ったり思い遣ったり寄り添い合ったり、それが心からのものであるのなら、その二人の触れ合いは、側から見ればやはりほわほわとして微笑ましい一枚の絵だと思うから。
そこはまぁ、写真でもいいけどね。
「あはは」
「だから幸。動くなって」
「あ、ごめんごめん」
「さっちゃん…」
あの、頼んだお酒はまだですかと渚さんを見ると、渚さんは片手に空のグラスを持ったまま、もう片手で口元を押さえ顔が真っ赤になっていた。
さっき、そして今さっき、え? え? っと疑問の声を上げたのは渚さんだ。
夏織にやられたのは言わずもがな、私にも向けられているその顔には、驚きと動揺、そして照れという、三種の表情が混然一体となった表情を浮かべ、夏織のちくちくする姿と大人しくそれをされている私を交互に見ている。
「あのー、渚さん。お酒」
私がくいくいっとやってお酒を催促すると、ああごめんなさい、いま作るからねと、慌ててアイスビックを手に取って、あ、間違えちゃったとそれを脇に置き、今度こそお酒を手に取って困惑気味に訊ねてくる。
アイスピック。私は一瞬身構えてしまった。
「ねぇさっちゃん。ふたりはいつもこんな感じなの?」
「ええ。夏織が色々と世話をしてくれますよ。私は夏織に甘えるだけですね」
私は何かおかしいですかねと渚さんに首を傾げてみせる。
「えっ。この完璧なさっちゃんが甘えるのっ?」
「はい。夏織は甘やかしてくれますよ」
「えっと。それって逆じゃないの?」
私、さっちゃんにそんなイメージないんだけどなぁと、渚さんは私と夏織の前にお酒を置きながらそんなことを言ったけど、私は完璧じゃないし夏織に甘えることだって普通にある、というか夏織にいっぱい甘えている。私らしく私なりに。
「いやいや。私だって甘えますよ。夏織が好きにして私も好きにしていると、自然といつもこんな感じになりますね」
まさにこれですこの感じと、私と夏織の間で指を交互に動かすと渚さんは、えー意外だよとますます驚いている。
「はぁぁ。そうなんだねぇ」
「あとは、そうですね。夏織はご飯を作ってくれたり部屋を片付けてくれたりとか、フェイスマッサージとかリンパマッサージなんかもしてくれます。それと、髪も洗ってくれるし乾かしてくれたりもしますよ。最後、冷風でやるとキューティクルが締まるとかなんとか言ってましたね」
ぶぉーってと、手振りでやりそうになったけど、また動くなと怒られるかなと思ってそれはやめておく。
「さっちゃんがやるんじゃなくて?」
「はい。私は大体される方ですよ。実は私、かなりのずぼらなんですよね」
私のことはともかく、夏織の自慢だからと私は堂々と胸を張ってみる。けど、そのせいで結局また夏織に怒られてしまった。
「もう幸。動くなってば」
「あ、うん」
「もう終わるから。あと一分二十秒だな」
「細かいね」
「まあね」
私達のやり取りに、渚さんが、はぁー、さっちゃんがねぇと驚いている。
そして、突如このバーに現れた新鮮なカップルを気にしてか、いつの間にか近寄っていたみんなも私達を興味深そうに見つめていた。
みんなの抱いている私のイメージは、やはり私が出会う皆が抱くイメージと同じ。いつか花ちゃんが言っていた、自然と周りを下に置く、強くて堂々としたかっこ綺麗な女性、みたいな。
けどそれは私の上辺や交わした薄い会話から作り上げた勝手なイメージ。
週に一回も会わないここのみんなならそう思い込むのも無理もないし、私はべつに、本当の私を分かっていてほしいと思っているわけでもない。そんなことを思っていた青臭い時期はとうに過ぎている。
私も他人に勝手なイメージを持つし色々と見誤っているところがあると思うから、それが悪いとは全然思わない。人の本質なんてそうそう分かるものじゃない。付き合いが浅ければ浅いほど、その人と成りを見た目や上辺で判断するのはあたりまえだから。
今もみんなは渚さんと同じように、意外だわとかあのさっちゃんがねぇとか夏織さんてなんか凄いねとざわざわしている。
まぁ、確かに、今までここに連れて来た恋人との絡み方と夏織とのそれは全然違うから、みんながそう思うのもよく分かる。
けど、いつもしたり顔でいるお姉様方のこうした反応はとても新鮮で面白い。私のことを可愛いなとか乙女だなとか言うのは夏織だけ。何となくしてやったりな感じがする。あはは。
私はちゃんと分かっている。
恋人と別れて出逢うたびに、新たな色に上塗りしていたこの心は、今やすっかり夏織の色に染まっているのだ。
私の上を、あるいは下を通り過ぎて行った今までの恋人達とは違って、無理をすることもなくされることもなく、なんの抵抗もなくされることもなく至極自然に染まっていったその色を、私はこれから先、二度と上塗りするつもりはない。染まるのはこれが最後。私にはこれが最後の色なんだと。それは夏織も同じこと。
そう断言できる私のことを、私はとても誇らしく思う。
「うんうん」
私は間近にある夏織の髪を空いている方の手で優しく撫でた。私を染めてくれた愛しの女性を慈しむようにそっと。
夏織は繕っているの場所から目を離さなかったけど、その一瞬だけ微笑んでまたすぐに真剣な顔になった。しかしやけに見にくくなったな、老眼かなとか呟いて。
「「「かは」」」
「「はうっ」」
「「はぁ」」
みんなが再びいってしまった。瞬殺だ。夏織が浮かべた一瞬の微笑みにやられてしまったのだ。
夏織はちくちく繕うことに集中していて、みんながいってしまったことはもちろん、私の視線やみんなの視線、みんなや渚さんが漏らしたため息や、はうっやかはには全く気づいていない。
もしも夏織が今の状況に気づいたなら、なにコレこわいんですけどと私に隠れながら、けど私と幸は超らぶらぶだから仕方ないな、ね、幸と笑う筈。
「汗」
「はいはい」
私がそこらにあった紙ナフキンでぽんぽんぽんと頬を拭くと、やっぱり夏織は微笑んだ。また誰かがかはかはとなっている。
「ありがと」
続いて夏織が、よしオッケー。ペアン鉗子じゃなかったハサミ、ちっちゃいヤツと、ぼそっと言って視線は袖に固定したまま誰もいない空間に手を出した。
みんなは何のことかと固まったけど、私は夏織が汗と言った時点でひとり芝居を始めたのだと分かっていた。
こんなとこでも始めちゃうんだと、私はくくくと忍びながらソーイングセットからハサミを出そうとしたけど片手だからなかなか上手く取れなかった。
「取れません」
「もう。しょうがないな。自分で取るから市ノ瀬さんは下がってなさいこの役立たずめがっ」
「はいはい」
私は分かっているから笑っているけど、渚さんと私達に興味津々近づいてきていた面々はますます持って訳わからんと固まったまま夏織の様子を見ているというか窺っている。
私は忍べず笑ってしまった。
「くくくくく」
ねぇさっちゃん、これは一体何事なのと、みんなが説明を求めるように一斉に私を見たけど私は構わず笑っている。
夏織はそれにも気づかずに、まったく最近の市ノ瀬は弛んでるなとかぶつぶつ呟いて、ソーイングセットから小さなハサミを取り出して糸を切り宣言をした。
「完璧。私に失敗はあり得ないから」
私にかかればこんなものよと、今もの凄く満足そうな顔をしている夏織はなんのことはない、字面はともかくお医者さんごっこをしていただけ。夏織の気分はあの、しくじることのないドクターバッテンなのだ。たぶん。いや、絶対。
「さすがですね」
「まあね」
そして夏織はソーイングセットをバッグにしまいながら、市ノ瀬さん、時間は? と訊いてくる。
私はもう慣れだものだから、空かすことなくちゃんと対応してあげる。
「六分切りました。予定した時間まで残り二十五秒ってところです。夏織先生」
それを聞いた夏織は大きく頷いて、さすが私、珍記録だなと喜んだ。
私は自由になった手でぱちぱち拍手を送りながら、自分で落とすとはさすが夏織先生ですと褒め称える。
「いつも通り完璧な腕前ですね」
「まぁ、当然だなっ」
私達のこのやり取りに周りのみんなは目が点だ。私達についてこられず完全に置いて行かれているけど、夏織はいつものようにまるで気にしていない。もう一度わたしの袖をチェックして大丈夫だなと呟いている。
「くくく」
それで満足した夏織は私に向けて微笑んだ。私をちょっとだけ巻き込んだひとり芝居の幕が降りたのだ。
「幸、終わったよ」
「うん。ありがとう夏織」
私は腕を捻って繕われた所を確認する振りをする。
そこをよく見たところで裁縫道具すら持っていない私に出来などよく分からないし、夏織が完璧だというのならそれでいいのだから。
「ううん。私のせいだから」
なんのなんのと首を振る夏織が周りの状況に気づいてびくっとなった。
「え。なにこれ」
その様子から無事に私の元に戻ってきたのだと確信する。よく分からないけど、なんとなくよかったぁと思ったりもする。
「てか幸。なにこの状況。かなりこわいんですけど。ねぇ幸。なんでみなさんここにいるの? てかみなさん近くない?」
「それはねー」
「え。もしかして幸の言ってたカバディ的なヤツが始まってる? ねぇ幸、私やりたくないんだけど。疲れるし」
「ぷっ」
「ツインテはべつにいいけどさ。やってみたいし」
あ、けど長さが足りないなと、バッグを横に置いて私に顔を向けた夏織がようやくみんなに気がついてそんなことを言った途端、私達は一斉にはははははと笑ってしまった。
これには私も周りのみんなも堪らなかったのだ。
「なになに? 一斉に笑い出すとか超こわい。ほらぁ、やっぱここホラーハウスじゃんか」
笑い声の響く中、きょろきょろと周りを見渡して、おい幸なんとかしろよこの人達すげえ怖えよと、繕ってくれたばかりの私の袖を摘んで引っ張って離さない夏織の新たなその呟きに、私達の笑いは暫く収まらなかった。
「ひーっ、んがっ」
「んごっ。なにこれヤバい。ははははは」
「超こわい」
「「「「あはははははは」」」」
と、夏織のいうところの笑いのスイッチが入ってしまった人達もいて、なかなか笑いは治らなかったのだ。私もだけど。んが。
「夏織。お腹痛い」
「だろうね。笑い過ぎだから」
「いい子なんだね」
渚さんがはいどうぞと、私の前に三杯目の飲み物を置いた。その視線は連れ去られた夏織に向いている。
夏織は今、他のテーブルにいて話を聞かれている。みんな楽しそうに笑っている。夏織も笑っている。
夏織だけは愛想笑いかもしれないけど。暗くてよく分からないし夏織はそれも得意だから。
私にとっては嬉しいことに、けど夏織にはたぶん残念なことに、真里奈さんと美波さんをはじめとする少しお高めの方々に気に入られてしまった。さっちゃんちょっと夏織さんを借りるからねと、両の脇から腕をがしっとされて連行されてしまったのだ。
その時、なんで私がこんな目にと、すごく嫌そうな顔をしていた夏織。
こら幸、笑ってないで助けろやーと、掴まれた腕を伸ばそうと踠いていた必死な顔の夏織に、私はにっこり手を振ってあげた。
あはは。思い出すととても可哀想だけど笑っちゃう。
「いってらっしゃーい」
「あとで覚えてろよ幸。この薄情者っ」
「はいはい」
「あら? もしかして夏織さん、嫌なの?」
「あ、大丈夫です。是非ご一緒させてくださいっ」
重鎮からのその問いに、一瞬で笑顔になるとはさすが夏織と、私はやっぱり笑っちゃう。
「よかった。じゃあ私達のテーブルにいきましょう」
「はいっ」
夏織は既に笑顔満タン、嫌がったことなどなかったかのように振る舞い出して、もうどこへでもいきますよと率先して連れ去られていく。寧ろかの二人を引っ張っている。それはまるで、幸にドナドナなんか絶対に歌わせてやらないからなというように。
「さっちゃん。ほっといていいの?」
あれ。と指を差す渚さん。凄く嫌そうに見えたけどなと呟いた。
「大丈夫ですよ」
なにせ夏織は、諦めると決めたら気持ちの切り替えが早いから。長ーいものに巻かれる技術もぴか一だから。あはは。
「うーん。いい子?」
私は渚さんの作ってくれたお酒を手に取って、首を回して夏織の様子を窺いながら一口啜った。美味しい。
「いや。それはどうでしょう」
夏織がいい子かどうかはさて置き絶対に悪い人間ではない。それはそうだ。
夏織は自分の周りの狭い世界の住人だけを深く愛して、自分にも優しくて素直なだけだから。
特に私や花ちゃん、夏織の世界の住人、そして夏織の両親に対する言動には愛が溢れていて、そこに打算は零ではないけどほんの少ししかない。そこは自信を持って言える。だから私は夏織がいい子だと知っている。
「けどなぁ」
夏織は黙ってさえいれば頗る可愛い。最近は大人の女性として色気というか魅力も増しているし最近は夜の方も積極的になって、あれやこれやと、ぐへへ…って、そこは今はどうでもいいからと、私は慌てて首を横に振って煩悩を追い出した。
まぁ、夏織は我儘だけどなんだかんだで常識人だから……いやいや、可愛いと色気と魅力は確かにそうだけど、人の道は踏み外さなくても常識人とも形容しがたいところも多々あるっちゃある。
夏織は気に入らなければ誰でも何でも無視をするし毒を吐くし、黙っていても普通に態度に出すし目にものを言わせるから決していい子とは言えな気もする。
私はグラスに口を付けてお酒をこくこくとやりながら、果たしてそれを言っていいものかと葛藤してしまう。
私にはそれも可愛らしく思えるところなんだけど。
「なにさっちゃん、その忙しい顔は」
私は考えに合わせてころころと表情を変えていたみたい。
期待した答えを聞けなかった渚さんは、仮にも恋人でしょうと私を見ている。
「いやあのですね、単純にいい子かと言われると難しいんです。けど…」
「けど?」
「けど、私にはいい子だなぁと思える時もあるし、何にも替えがたい存在なのは確かなんですよね」
「ふーん。そっか。ならそれで充分だ」
「はい」
全く持ってその通り。私はそれで充分なんですと頷いて、グラスを呷ってお酒を飲み干した。
そして私は、少しお酒を控えろとプレッシャーをかけてくる鬼、というか悪魔の居ぬ間に命の洗濯、美味しいお酒をもう一杯と、渚さんと目を合わせてから、空になったグラスを無言で指差してお代わりをと頼んでみた。夏織を真似てバーっぽく。ちょっとしてみたくなったから。
「えっと。まさかさっちゃん、虫でも入ってたっ?」
「なっ。伝わらないっ?」
もの凄い勘違いをした渚さんが、愕然とした私をよそにちょっと貸してとグラスを取って、それを明かりに翳しながら外と内を覗いている。
「何もいないよね?」
渚さんがグラスを差し出してきた。それは私が飲み干した空のグラス。そんなものは見るまでもない。
「…いませんよ」
「そうだよね。よかったぁ」
「…お代わりください」
「ん? わかった。待っててね」
「…はい」
「さっちゃんどうかした?」
「…いえ」
結局、お代わりという言葉を口にしてしまった私は、くそうくそうとバーカウンターをばんばん叩いていた夏織の気持ちが分かってしまった。
「くっそう」
「いやまじ疲れた。やっと解放された」
「お疲れ様」
隣に戻ってうへぇとやっている夏織はげっそりと痩せている。あ、いや、照明の感じでそう見える。
その夏織がお疲れ様じゃないぞ幸と私の腕をていてい叩く。なぜ助けにこないんだよとお冠だ。
痛くも痒くもない優しいパンチを受けながら私はそっと微笑んだ。
「甘くて美味いヤツを食べないとやっていられない」
「でも大丈夫だったでしょう」
私は裏に少しだけあるよと、本日のおすすめ的なメニューを渡す。
夏織はそれを受け取って目の前に置いた。今は先ず、離れていた私に絡みたいのだ。甘えるように体を寄せてくる夏織はとても可愛い。
「まあね。話すとみんな面白くて優しい人達だった。けど幸、それとこれとは別だから。ていっ」
「あたた」
「ふん」
夏織はまた私を叩いてから、腕を組んでそっぽを向いた。それが振りだと私は分かっているけどお疲れなのは事実だから、慰労の意味を込めて私は謝った。
「ごめんごめん。次は助けるから、ね」
「え。次とかあるの?」
いやほんと、まじ勘弁してください。体を寄せた分だけ私の視界に広がった夏織の顔はそんな感じ。こわいと呟いて一層疲れた顔になった。
私はそんな夏織に希望的観測を伝えてあげることにした。私達には慣れっこのパンドラ的な希望というヤツだ。
「みんな満足したと思うよ。だからもうないんじゃないかな」
「…本当だな?」
夏織が疑いの目を向けた。ご存知夏織は疑い深いから。
けど私は対処法を知っている。目を瞬いて、自分の中ではとてもきらきらしている筈の瞳で夏織を見つめた。
「うん。この目を見てよ。嘘を吐くような目に見える?」
「うーん」
「どう?」
「確実に濁ってる。幸はもう、戻れないんだな」
幸ったら可哀想にと首を横に振り、夏織はとても慈悲深い顔で私の肩をぽんぽんと叩く。なんか知らないけど、私はもう戻れないんだなというような気がしてしまう。
「幸。色々あったと思うけどさ、大丈夫だから。気にするなって」
「うん。わかった。って、なにが?」
「へいきへいき」
「なにがっ?」
夏織は悪く微笑んだ。
幸もそんなことしてたんだな、けど誰にでもそんな時期はあるしそう思えば幸は何にも悪くないからと、今にも吹き出しそうになって、口元に手を当てた。
「ぷっ。このバーでの黒いヤツ。真里奈さんとかがいっぱい教えてくれた。けど大丈夫。私は変わらず幸を愛し続けるから」
「いやー」
いつの話、何の話と思いながら、私は少しのあいだ、あれのことかなこれのことかなと悶えながら頭を抱えてしまった。
夏織はそんな私を笑っていた。私を見捨てた罰だからなと、私は怖くて粗相するところだったんだからなと言ったあと、あ、そうだった、私ちょっと行ってくるからと、思い出したように席を立って、悶える私に、嘘だけど思い当たる節があるんだ幸ふふふと笑って、小走りにトイレに向かっていった。
「なっ。夏織っ」
「ふふふふふ」
そう。私は見事にしてやられたのだ。
「やるな夏織。あはは」
「大丈夫だった? おそそ」
「なんのこと?」
夏織はすぐに戻ってきた。私の隣に座って余裕で全てを無かったことにしている夏織に渚さんが訊いた。
「夏織さん、何か飲む?」
「あ、っと、ジンリッキーください」
「はいはい。ちょっと待っててね」
渚さんが素早くグラスとお酒の瓶を取った。
気の付くママとかなんかバーっぽいなと夏織はとても嬉しそう。ふんふんとご機嫌になってバッグから財布を取り出してお札を出そうとしている。
お楽しみに水を差すようで申し訳ないけど、教えてあげなくてはいけない。
「夏織。ここ、そういうのは受けてないの。ぜーんぶ伝票だよ。後会計なの」
「…うそだ」
「ほんと」
「まじのまじ?」
「まじのまじ」
普段と勝手の違うバー、ここは私の世界だから少し遠慮したのだろう、夏織はカウンターをばんばん叩くことはしなかった。
ただ私のバーっぽいヤツがと小さく呟いて、その目に涙を浮かべ出した。うぐうぐと啜りあげそうになっている。ならば私のすることはひとつ。
「私もさっきやられちゃったの」
「ぞうな、んだ。うぐ」
「おいで」
「ざぢー」
泣くのと訊かなくても、もはやサイズを省いても、それだけで私のちょっとはある胸に飛び込んでくる夏織。そのうちに微笑んで手を広げるだけでよくなるかもしれない。
サイズを言うとそのたびに、夏織は少し笑うときもあるから。こんにゃろう。
私は夏織を抱きながらそんなことを思った。
そして今、夏織はメニューにあった揚げバナナにチョコレートアイスをつけて、美味いなコレとご満悦。
「よかったね」
「うんっ。えっと、もしかして幸も食べたいの?」
「大丈夫」
「そっか。よかった」
なんだ幸、美味いのに要らないなんてとか言っているけど、あからさまにほっとして、またそれを頬張った夏織はよかったとか言っていた。
「くくく」
私は六杯目のお酒を呑みながら、そんな夏織に一層の愛情を感じている。
「さすがチョコとバナナ。やっぱ美味かったかこのコラボ」
その微笑みとその呟きが私の中の何かに触れる。じわりと来てしまうくらい私には堪らない。
渚さんもカウンターの向こうで微笑んで夏織を見ている。
「かわいいね」
「はい」
「ふふふ。なんだコレ美味すぎる」
時間は止まることなく進んでいく。だから私はこの瞬間も絶対に忘れない。いつか必ず来てしまうその日を迎えた後のために、思い出は多いに越したことはない。それは夏織も同じこと。きっとそう思っているだろう。
「あ、ねぇ幸」
「なぁに」
「ここに入る前に言ってたお高めってさ、値段のこと? 私はあんま高くないと思うんだけどなぁ」
コレ凄く美味いしさと、夏織はしれっとのたまった。
私はなんで今それを言っちゃうのと、一瞬戸惑ってしまった。その隙は悪魔な夏織には見せてはいけない駄目なヤツ。
「あ。幸もそう思うんだ。じゃあ、幸か言うお高めって…」
「ば、馬鹿っ」
「さっちゃん?」
アイスピックママが無機質に私を見ていた。その手にそれが握られた。
助けてくれなかったお返しだからなと、夏織は口元にチョコを付けた顔を伏せて肩を震わせている。
「ふひひ」
渚さんが笑っている。
夏織は堪えきれず、顔を上げてけらけらと笑い始めている。その手にはチョコレートアイス塗れの揚げバナナが刺さったホークが握られている。
私には危機が迫っている。やるな夏織と私は思った。
「あはは」
なんて笑っている場合じゃなかったなと、私は腰を浮かせて逃げ出す準備を始めた。けどその前にやることをやっておかないと。
「あむ。うん、超美味いなっ、あだっ」
「夏織だってノリが昭和とか思ってるよねっ」
「なっ、馬鹿幸っ」
「夏織さん?」
そして私は逃げ出した。背後では、ここここれには深い訳がぁと、必死にいい訳を始める声がする。
「あはは」
長くなりました。お疲れ様でした。
けど、さすが皆様、まだまだ余裕がありますねと私は思った。
あと、私事ですが、薬の量が減って顔のまあるさが取れてきました。が、お腹のヤツはなかなか落ちません。くそう。私は泣きそうになった。
けどへいき。ぶーっと長ーく息を吐くヤツをやれば大丈夫。いけるいける。
読んでくれてありがとうございます。