第四十二話
続きです。
よろしくお願いします。
金曜日、午後八時前。
仕事終わり、少し電車に揺られたあと幸に連れられてやって来た都内某所の雑居ビル。その階段を使って、私と幸は三階まで上がった。
「二階じゃないの?」
幸は二階の踊り場を通り過ぎてさらに階段を上がって行く。
私はどこ行くの幸こっちでしょ? と、踊り場の出口、ビルの通路の方を指差した。
「私そんなこと言ったっけ? 三階だよ」
上だよ上と、幸が指を差している。
「うっそ」
「ほんと」
「まじか。やられた」
衝撃。まさかの展開。二階なら階段を使うのも今の私ならありだと思うけれど三階はその倍だ。つまりは無しだと私は思うわけ。
「お婆ちゃん?」
「違うから。お肌ぴちぴちすべすべだから」
「知ってるよ。羨ましいくらいだもん」
「ふへへ。けど幸だってつるつるのもちもちだから」
「そうかな?」
「そうだよ」
「ありがとう。嬉しいよ」
こうして突如始まるバカップルな会話。夏織こそ、いや幸の方がと褒め合って譲り合うヤツ。
お婆ちゃんとか言われたけれど、愛しの幸は私を褒めてくれたからそこは怒らないでおく。私は単純だからそれでいいのだ。
「あと一階。ほら行くよ」
「えーっ」
その代わりというか、再びひょいひょいと階段を上がりだした幸に、けど三階はないでしょ幸、だって倍だよ倍。しかもこの階段の造りは目が回っちゃうヤツだしさと、私はぶつぶつ文句を言いながらも頑張って幸のあとを追った。
「おえ。目が回る」
「嘘だぁ」
「本当だからな」
私は今、なんとか階段を上がり終え、雑居ビルの細い通路を幸の後ろをていていやりながら歩いているところ。
「ていっ。あれ? とりゃ。むっ。おい幸、避けるなって」
「くくく」
それが掠りもしないから、目が回ってくらくらしているせいなのかそれとも幸は後ろにも目があるのかと首を捻っているところ。
その幸は今、くくくと笑っている。
「くそう。また外したか」
知らないビルだし幸がこっちだよって言うから大人しく幸の後ろをなんの疑いもなく素直についていった結果、私は階段で目を回すという酷い目に遭ってしまったのだ。
「おかしい」
「くくくくく」
楽しげに笑う幸の余裕は当然だけれど私の息も上がっていない。私は目が回るのが嫌なだけで、三階まで階段で行くくらいは余裕なのだ。
今ていていしている方がよっぽど疲れるくらいだから。
「ていっ」
「あたた」
疲れるからこれで最後だ当たってくれと放ったゆるふわパンチがぺちっと当たってくれた。
当然わたしはご満悦。どうだ見たかと胸を張る。
「やった。当たったっ。やっぱ正義は勝つんだな」
「はいはい、よかったねー。あはは」
タネを明かせば何のことはない。幸がわざわざ体をずらして当たってくれたのだ。やはり幸は優しいのだ。
「ふふふ」
「着いたよ。ここ」
「おー。この扉の向こうが幸の世界なんだ」
幸は一見して何の変哲もない扉の前で立ち止まり、そのノブに手をかけている。
「そうよ」
「なんか地味」
「あはは。まあそうかも」
他の店のような置き看板は無い。
ここがバーだと分かるのは、扉に貼られている年季の入った小さなプレートにあるお店の名前と会員制とある文字のお陰。
「これは…」
アレだ。気づかれなくてもべつに大丈夫ですと、私の世界と違ってもろに人を選ぶ超隠れ家的なヤツ。
何で見つけちゃうのかなぁ、ウチは一限さんお断りなのよねぇと、そんな台詞を堂々と言えちゃう、高慢で排他的で人を嫌な気分させてくれる、人によってはこの扉だけで、うわぁいかにもじゃん的な印象を受けるヤツだ。
確か幸はひとりで適当に呑み歩いていたらここを見つけたとか言っていたけれど、よくもまぁ、紹介も同伴者もなくこの扉を開けることができたなと感心してしまう。
「うん。私はむりだな」
私は恥も外聞もなく堂々と宣言した。心の声が漏れてしまったのだ。
だって、どうしても人の心の裏を正確に読み取ってしまう、疑い深くて繊細で感受性豊かな私には、初めてでしかもひとりでこの扉を開けるのはちょっと無理だなと思ってしまうから。
「あはは。繊細だなんて笑っちゃう」
「なんでよ」
「だって、ねぇ」
失礼なと、幸をひと睨みしてからまた扉に、正確にはプレートに顔を向けた。このバーの名前がもの凄く気になって仕方ないから。えっ、ってなってしまったから。
私の道、その上にはマイウエイとルビが振ってある。
エがでかいねと幸を見る。ほらここここと指を差す。
そこは放って置きなさいと首を横に振ったあと、幸はぷぷっと吹き出した。
「わかった。そうする」
私は重々しく頷いた。ふと、ネットでさくさく検索できる今の便利な時代よりも昔の、遥かに不便な時代からずっとここに在って、私達のような人種に優しく手を差し伸べてきたのだろうと思えて敬意を払ったのだ。
そんな私の感慨を他所に、幸はまだ肩を震るわせている。失礼だぞとひと叩きすると、幸の震えが酷くなったのは気のせいだと思いたい。
「おいこら幸、返せ」
「かえっ…ぷっ、くくくくく」
そして、返してもらった感慨に浸る私の目には、貼ってあるそのプレートにある『私の道』という名前からして、やはりいかにも古くからあるぞ的な老舗のバーという感じに思える。
『私の道』 会社のお偉いお爺様連中ならきっと、この言葉を目にした瞬間に我先にと歌い出してしまうことだろう。しかも英語で。こわい。
そう想像しただけで、やはり幸はよくこのバーに入っていけたなと思う。怖いもの知らずとは幸のためにある言葉なんだなと思う。
けれど、よく考えてみると、幸にはこういう二世代くらい前の感覚が合っているのかもしれないなという気もする。
「失礼な」
「失礼とは失礼だな。幸こそ失礼だぞ」
私はちゃんと私なりの敬意を払っている。だから私に限っては、失礼なんてことはぽっちもないのだ。
「まったく。どっちがよ」
「「そっち」」
互いにそっちでしょと指を差して、幸は背中を反って、私は前屈みになってふふふあははと笑い声をあげた。
そして私達は、何をやっているんだかと互いに顔を見合わせる。
「あー。そろそろ入るよ」
「ふぅ。わかった」
老舗っぽいからなるべく気をつけよう。幸はいいのにお前は帰れ二度と来るなとか言われたら絶対に泣いてしまうからと、私は気合を入れた。
ただし、幸の恋人として私らしく私なりに。そこは変えたりしない。いつだって私は私だから。
「そうそう」
あ、もしかするとここにはテーブルの代わりにインベーターゲームとかいうヤツが置いてあったりして。あったらちょっとやってみたい。
「そういうのありそうだな。なんつってね」
「ここは確かに人を選ぶけど」
「ん?」
「夏織は大丈夫だよ」
「そっか」
私の想像を格好よくクールに肯定する幸は、続けて何かを言おうとしてそれをやめた。クールな感じはどこへやら、目を泳がせて、あとね、ちょっとだけ高いんだよねと言って、それについてはそれっきり。何がとは言わなかった。
私は首を捻りながらも、ああ値段ことかなと目星を付けた。
「あー、そういえば、そんなゲームが昔、何台かあったみたいよ」
「え。まじ?」
「まじまじ」
渚さんがそう言ってた気がするなぁ、私は見たことないけどねとか言いながらカランコロンと小さな鐘を鳴らして幸は扉を開けてくれた。
「あ…」
渚さんて確か、血濡れたアイスピックをぷんぷん振り回しながら人を追いかけるとかいう悪鬼のように怖いママさんだった筈。
「こわい」
ソレを顔の前に持ってきて、薄ら笑って舌でべろーんとやっちゃうとか幸は言っていた気がする。そんなもの、もはやホラーとしか思えない。
やはりこのバーは色んな意味で怖いなと私は気遅れしてしまった。
「超こわい」
「夏織」
「あ、うん。わかった。絶対生きて帰るから」
「生きて帰るってなに?」
「上手くやるってこと」
あーはいはい、夏織のいつもの癖が出たんだねと、幸は勝手に納得してそれ以上突っ込んでこなかった。
私も夏織をみんなに紹介したい、自慢したいと、私の世界に幸を連れて行ったあと、幸はそう言ってくれた。
その時は凄く嬉しかったけれど、正直言ってこのホラーハウスには入りたくない。できることならスルーして隣のお店に入ってしまいたい。そこからおじ様とおば様の、銀座のーと、少し外れたデュエットが漏れ聴こえてくるけれど、ホラーハウスよりマシ…いや、それもまたホラーかも。
くっ。なんだよこのビルのお店はホラーハウスしかないのかよと私は泣きそうになった。
「夏織」
色々と考えてしまって、ぼーっとしていた私を幸は扉を開けた姿勢のまま根気よく待っていた。その顔は優しく笑っている。
「終わった?」
「ああ、ごめん」
幸がそうしたいというのなら、やはり私に否やはあり得ない。
「よし。頑張る」
私には幸がいてくれるからホラーハウスなんぞは少しも怖くなんてないんだからなと自分に言い聞かせておく。ぽんこつ状態でない限り私にとってこれほど頼りになる女性はどこを探してもいないのだから。
私は魔法の言葉、くわばらくわばらと呟いて怯む足をなんとか前へと踏み出した。
「おじゃましまーす」
か細い声を出しながら、先に入れと誘ってくれた幸の脇を通り、例によって薄暗いバーに入ったその途端、その暗闇から一斉に注がれる私への視線に慄いて立ち竦む。
目がいっぱい。数えてないけれど少なくとも二十個はある。たぶん。
「うっ」
「どうしたの?」
「ほらぁ、やっぱホラーハウスだったじゃんっ。幸の馬鹿ぁ」
「えっ。ホラー、なに?」
私は頑張ろうとしたけれどいっぱいあるそれに耐え切れず、私に続いてバーに入った幸の袖を掴んでさっと幸を前に出し、素早くその背に隠れてしまった。怖かったから。いくら幸が傍にいてくれても怖いものは怖いのだ。
べつに幸を盾にするつもりはさらさら無かったけれど、私がこうして咄嗟に動いてしまったのは、単に私の危機回避能力が異様に優れているからでそこに他意など存在しない。
私には幸を犠牲にしてまで自分だけが生き残るなんてつもりは無い。そんなことは二度としない。たぶん。
今わたしのしたことは、ライオンに気づいたガゼルが本能のまま必死に逃げるヤツと同じ。弱い立場にいる生命は、一瞬の判断の遅れが命取りになってしまうのだから。
取り敢えず生き残った私は考える。
ああくそう。けれど私は何時ぞや私の世界に連れて行った幸のように、何があっても堂々としているつもりだったのに。あとで幸に、さすがは夏織だねと髪を撫でてほしかったのに。くっ。
咄嗟に掴んだ幸の袖をそのままに、私はもう危機は去ったかなと幸の肩越しにひょこっと顔を出してみる。はい残念。
いまだ注がれる私への興味深々な視線。私はすぐに顔を引っ込めた。
「こわい」
いや待てよ。こうして幸の背に隠れるとしても丈はともかく幅はどうかなむりっぽいよなと、なぜかそこだけは冷静に判断して、私がなんだよくそうと思っていると、さっちゃんの後ろにいる子は誰なのよとかあれが噂のさっちゃんのとか可愛い子だねとか、そんな囁き、にしては随分と大きな声が聴こえてきた。ねぇ幸、トイレはどこなのと訊きたくなってしまう。
「超こわい」
私の世界ではまず無かったことだからというか何というか、私が馬鹿をやって指を差して笑われたり見られたりしてしまうことはあっても、それは多少なりとも気心の知れた仲間内の話だから、何も知らない人達にこうしていつまでも興味を持たれることに、私は全く慣れていないのだ。
私は幸の袖を握る手に力を込めた。ふと、そこだけしわしわになったらごめんね幸と私は思った。
そして私は思いついてしまった。私の危機に救いの手が降りてきたのだ。よく考えれば今までなんの役にも立っていないソレに、私は手を伸ばして縋ってしまったのだ。
「幸っ、今のうちにっ」
「なっ、なになにっ」
私は幸を引っ張った。びびびと何かが裂ける音がしたけれど気にしない。幸とふたりで生き残ることが先決だから気になんてしていられないのだ。
「ふぅ。成功か?」
息を吐く私の後ろでカランコロンと音を立てて扉が閉まった。
そう。私はすぐうしろにある扉を開いて一目散、幸とともに、見事このホラーハウスから脱出してやったのだ。
「ちょっと夏織」
幸は笑っていながらも呆れていた。大丈夫だって言ってるでしょうと半笑い。
「幸にはあの目ん玉いっぱいが見えなかったの?」
「目ん玉?」
私が更に説明しようとしたところに、あ、さっちゃんいらっしゃい。いま来たのと声を掛けてくる女性がいた。
買い物袋を下げながらにこにこして幸に手を振るその姿はふわふわな柔らかい感じがする、見た目は私と同系統の、それでいて中身は明らかに似て否なる女性。
私はゆるふわを意図して使っているけれど、その女性からは天然物の匂いがする。常にふわふわを発動している感じがする女性。
「あ。渚さん。えっと、まあ、そうですね」
「ななな渚さんっ?」
まさかこのふわふわな女性が血濡れたアイスピックをべろべろ舐めるのかと、焦る私に視線を向ける幸と渚さんこと血濡れたアイスピックママ。
幸の説明と違って、ふわふわな感じがするけれど油断は禁物。私は頼りなく身構える。
「この人が?」
「はい。夏織です。夏織、ママさん、渚さんだよ」
「屋敷夏織です。幸がお世話になってます」
警戒しながら挨拶をすると、やはりよろしくねと柔らかくふわふわに返してくれた。私は幸の言うことと随分違うなと首を捻る。不思議と会話が成立しているのだ。
「可愛い子だね。さすがさっちゃん」
「いやぁ、まぁ、あはは」
「幸。曖昧に笑ってないでそこは乗っかっておけって」
「ふふふ。夏織さんの言う通りよ。素直に喜んでいいんだからね」
まあ、立ち話もなんだからお店に入ろうねとは血濡れたアイスピックママの言。
私の努力はどこ吹く風、幸の奴までそうですねとか言っている。
「ああ」
私達のそばにいてふわふわした血濡れ…渚さんがいつ取り出すか分からないアイスピックを警戒しながら、私はもはやこのホラーハウスから逃れる術はないことを知ったのだった。
「くそう」
「大丈夫だよ夏織」
「いや、べつに取って食われるとは思わないけどさ。この視線はつらい」
「あはは。けど大丈夫」
もう一度お店に入るとまた視線を浴びてしまった。
幸は私の腕を握る手にもう片方の手を優しく添えたと思ったら、私の握る手をぐりっと捻って強引に引き剥がし、その手をがしっと握ってくれた。それと同時に幸は私に体を寄せた。前にもあった恋人アピールというヤツだ。
幸のそれは、顔には柔らかい笑みを湛えつつも何となく、縄張りに入ってきたはぐれのヤツを、しゃーと威嚇しているチーターとか豹とかピューマみたいな、そんな獰猛さを連想させる。幸の体つきも細くて力強くてしなやかだから。
私はその握られた手をじっと見る。
強引に手を捻られてちょっと痛かったけれど凄く嬉しくもあるし、今の今ではとても心強くもある。これでは、ぐりっとなって痛かったぞと文句の言いようがない。
仕方ないから私は手から幸へと視線を移し、敢えてゆるふわーく微笑んだ。幸は、かはと音を出しながら優しい微笑みを返してくれる。そこに獰猛さは微塵もない。
「さーち」
「かーおり」
と、いきなり微笑みながら見つめ合っていい雰囲気になった私達をがん見して、このまま抱き合ってキスとかするんじゃないかしらと、あちこちからはっと息を飲む音が聴こえるけれど私達は無視をする。今はこっちが大事だから。
「おりゃ」
「おっと」
「なっ…避けた、だと」
「くくく。甘いね夏織」
なんと幸の奴は、幸の右足を狙って踏みつけた私の足を、ひょいと足を上げて見事に避けて見せたのだ。
突然の私達の攻防に唖然としてしんと静まり返った一拍の間を置いておおっと湧く周りの女性達。
キスじゃなかったのかとか、あの鋭い踏み付けを避けるなんてさすがさっちゃんだねとか、よっ、千両役者とか言ってきゃいきゃいと盛り上がっている。
そして私はここで、幸が扉の前で言っていた高いという意味に気がついて納得した。千両役者なんて掛け声は今の時代なかなか出てくるものじゃないのだから。それは明らかに昭和のソレだ。
私は思わずその声のした方へ顔を向けた。よせばいいのに向けてしまった。そしてそっと、けれど出来るだけ早く顔を背けた。
目が合った女性がすっごく怖い顔をして私を睨んだから。なんでバレたのか分からないけれどそれが堪らなく怖かったから。
私はここに来てから怖い思いしかしていないように思う。
「もう帰りたい」
もはや泣きそうな私は自ずとそう呟いて、助けを求めて幸を見る。
けれど、私が顔を向けた幸は幸で、夏織が何をしてくるつもりかなんてこっちは最初からお見通しなんですよーと、べろべろべーとかやって笑っている。
「ベー」
私はいま泣きそうにのに、なんだよまだ続いてたのかよと思うし、幸の得意げな顔も正直イラっとくる。今もその姿勢のまま、上げた足をぷらぷらさせながら私を嘲笑っている。
「ふぅん。そう」
幸がそのつもりなら私も負けてはいられない。私は意識を切り替える。
私はとっくに気づいていたのだ。いま幸の体を支えているもう片方の足は、片足を上げている以上、いくら幸だとしても上げることはできる筈がないのだと。
馬鹿め油断したな幸と、私は素早く二の矢を放ってやった。勝ち誇ったその鼻っ柱をぽきりと折ってやったのだ。ふはははは。
「ぎゅうぅぅ」
「あだだだだ」
そう。私は見事に幸の足を踏んでやったのだ。当然これはぐりっと捻られたら折れてしまいそうなくらいか細い私の手首のお返しだから。実際は折れなかったけれど痛かったから。
それに私の靴はいつものぺったんなヤツだから大丈夫。ヒールの高いヤツだったら足を踏むなんて卑劣な真似は絶対にしない。
これは満員電車で踏んだことも踏まれたこともあるからこその判断。私は優しい淑女だから。
「ふふふ。ざまぁ」
握ったままでいた私の手を離し、痛くもない癖に大袈裟に、あだだあだだとぴょんぴょん跳ねる幸。さすが千両役者。私はその姿に笑ってしまう。
「ふふふふふ」
すると周りから、彼女すごいね、あのさっちゃんがやられているよとか可愛い顔してさっちゃんより強いんだね怖いよねとかラスボスが高笑いしているよ恐ろしいねとか、私は三つの元号を経験しているけどそれが問題あるのかしらとか、好き勝手に言っているのが聴こえてきた。
その瞬間に私は全てを理解した。
最後のヤツは私のミスだ。そうなると、なるほど幸は私が一目置かれるようにしてくれたのだ分かる。私の踏んだ足はあまり痛くない筈だけれど、敢えてその身を犠牲にしてまで。
「なるほどそういうことか。ありがと幸」
私が私を可愛く睨む幸にお礼を言と、幸は睨んだ顔を呆けた顔に変えて、夏織はなにを言ってんのと首を捻った。
敢えてとぼけてみせる幸は皆まで言うなと伝えているのだ。さすが幸だと私は感心してしまう。
私は分かったよと頷いて、幸の想いは伝わってるよと伝えるためにちょっとだけ幸を褒めるておくことにした。
「やっぱ幸はさすがだな」
「なんのこと?」
ぽんぽんと肩を叩いて腕を取って私から幸の手を握る。
途端にもの凄い笑顔を向けてくる幸に、私は少し心配になったけれど、ここは幸の世界だから幸の中ではプライベートということになっているのかなと思って、それを頭から追い出した。幸がそうなら私はもちろんそれでいいのだ。
「こっちだよ」
「あ、うん」
再び私の腕を絡めて手を握り、彼女は私のものですとアピールをして歩く幸は、ここに居る全ての女性から声をかけられている。私はその横で余所行きの顔を作っている。ゆるふわな微笑みを浮かべているのだ。
「かは。さっちゃん久しぶり。彼女さん可愛いね」
「かはっ。本当だよねー」
「あはは。ありがとう。私の恋人、夏織っていうの。夏織、こちら、真里奈さんと美波さんだよ。おふたりはね、恋人同士なの」
「あ、やっぱりそうなんですね」
幸に背を押されて前に出されてしまった私は、幸の奴、前に出すとか余計なことをしやがってと思いつつも、言った台詞におふたりともお似合いですぅ凄ぉく素敵ですぅという気持ちを込めておくのを忘れなかった。
ただしあくまで大人の女性として。このおふたりの年代だと、軽く浮ついた感じでは馬鹿にしていると思われるから逆効果だと私は分かっているのだ。
そして私は分かっていた。幸が丁寧な口調で話すということ、そして真っ先にこの暗いテーブルに連れて来たこと。
つまりこのおふたりはこのバーの超常連さんで重鎮なのだ。幸は粗相をするなと、敵に回すとちょっと面倒だからねと、私に分かりやすく教えているのだ。
そしてバーの中でもこのテーブルの周りだけがやたら暗いということ。
照明の光が届かないというよりも敢えて電球を外している感じを受ける。デーブルの上の仄かに光るランタン的なヤツが無かったら、よほど慣れていなければ誰が座っているのとかよく分からないくらい暗い席。
それらを元に私は全てを悟る。思わず幸を見てしまう。みなまで言うなと幸は微かに首を振る。よしきたオッケーと、私も微かに頷いた。
「夏織です。よろしくです」
私は当然、ゆるふわーく挨拶をした。初めましてで幸の横で少し緊張を隠せない保護欲をそそる女性という感じ。
「「はかはか」」
「あ、大丈夫ですかっ」
おふたりに近づくことも忘れない。ただし触れるか触れないかくらいのところ。おふたりは恋人同士だから、自分で言って何様よとは思うけれど、万が一にも揉める要素を残してはいけないのだから。
「「がっはぁ」」
おふたりは何する間もなくいってしまった。なにこの可愛い小娘はとかなんとか呟いて。
してやったりの私はまたも確信する。おふたりの内のおひとりがさっき私を睨んでいた女性だと。
けれど解決。どうやら私のゆるふわな攻撃は、年齢層の高いこの世界でも十分通用するようだ。ふふふ。
こんな調子で私はここにいる女性達をかはかはさせながら、幸はいちいち自慢げに私を紹介しながら最終目的地、バーカウンターの前にいる。
このバーに着いてからなんだかんだで、四十分は経っている。殆どというか全て私のせいだけれど。
あたしゃ疲れたよ幸と、幸の方へ少し体を預けると、幸は私の掛ける体重を苦にもせず、私をしっかりと支えてくれる。
「ありがと」
「いいよ」
幸が私を撫でてくれる。撫でられる髪の感触が心地よい。
ここに来て、ようやく私達はバーカウンター、幸のいつもの席に辿り着いたのだ。
「よいしょっ、と」
幸の隣に腰を下ろして直ぐに私は謝った。
「ごめん幸。疲れたよね。それに袖が…」
「私は平気。夏織はそんなこと、気にしなくていいの」
幸はびびびとなった袖を摘んでひらひらさせながら、夏織ったらひとりで慌ててて、あはは、なんか面白かったよと、幸が満面の笑みを向けてくれた。
自業自得。それは分かっているけれど、幸の笑顔を見ればそれだけで、私の全ては癒される。
「うんっ。ありがと幸」
愛しさいっぱい、嬉しさいっぱいの返事をして、私もまた満面の笑みを幸に向けた。
「えーと。あった」
そして私はバッグからソーイングセットを取り出した。びびびとしてしまった幸の袖をちくちくするためだ。
「これだな」
袖の色に近い糸を選び、その先をひと舐めして、よっ、あれ、それ、くそっ、通れっ、やった通ったと、バーの暗さのせいで私が苦労して針に糸を通すそのあいだ、幸は優しく見守ってくれていた。ふへへ。
「じゃ、ちょっとじっとしてて。すぐだから」
「はーい」
長…暑くなりましたね。皆様ご自愛くださいませ。
ちな、なんの脈絡もありませんが、私の人生を三文字で表すと、無邪気だそうです。あはは。
いい大人がイタい気もするけど大丈夫。夏織も一緒。いけるいける。
読んでくれてありがとうございます。