第四十話
続きです。
な…
よろしくお願いします。
八月。私の誕生日とお盆休みを来週に控えた週末。私は朝から頑張った。
「忘れ物は…と。ないな」
私はバッグを覗いて確認する。
不本意ながら必要な書類とか契約書とかノートPCは既にバッグに入っていた。昨日、忘れずにオフィスから持って帰ってきたのだ。重くて嫌だったけれど私はえらいから。
一緒に帰ってきた幸は優しいから、貸して、持ってあげると言ってくれたけれど私はひとりでやり切ったのだ。重かったけれどえらいから。
「はっ」
私はいや待てよと、もしもこれを全部忘れていれば今日は仕事をしなくても済んだのかもと、ちょっと思ってしまった。
偶然にも取れてしまったそこそこ大口の契約のせいで変にやる気を出してしまったせいでその可能性を完全に見落としていたのだ。くっ。
「失敗した」
ああ、私はなぜ、やる気なんかを出してしまったのか。いつものようにのらりくらりとやっていれば今も幸と一緒に眠りこけていられたのに。くそう。
慣れないことはするもんじゃないなと、私は自分の愚かさを呪った。
「さてと、そろそろかな」
お前なんか痩せてしまえ、もっと綺麗になってしまえと、ひとしきり自分を呪ったあと、仕事は仕事と私は頭を切り替える。
汗で崩れないように化粧もしたし麻呂っぽくならないように気をつけて日焼け止めも塗った。
暑さ対策として新たに買った幸とお揃いの携帯扇風機も首から下がっている。ぴってやるとぶぃぃんとなる優れもの。さぞかし涼しいだろうと期待している。
カジュアル過ぎないように身に着けたひらひらしたトップスは見た目にも涼しげで、どうにか履いた細身のパンツで締め付けられたお尻は二つに割れるのみ。四つに割れていないことは確認済み。いけた。
そして私は日焼け防止の最終兵器、つばの大きなキャップとグラスの部分がやたらと大きなサングラスを身につけて鏡の前に立った。
「誰? いや大丈夫。私だから」
つまり今、私の見た目は夏対策としては非の打ちどころなく完璧なのだ。私はまだ使用前なのだから当然だ。
私はその出来栄えにこれでいっかと頷いて、バッグを肩に掛けてから、さっちにもひと声掛けておこうと振り返ったところで冷蔵庫が目に入る。
「うーん」
幸のための朝ご飯兼昼ご飯は傷むと嫌だから、作り終えてそれが冷めたあと、全部冷蔵庫に入れておいた。
いくら幸でもチンはできるしパンくらいは焼ける。だからきっと大丈夫、幸ならやれるとそう思って。
それに、最悪、冷たいままでも食べられるようにはしたつもり。
私はそんなものを食べる気にはならないけれど、腹ぺこ幸がもしもそのまま食べちゃったとしても、今朝のあれって冷製ってヤツだよね? 凄く美味しかったよ夏織と言ってくれると思う。もちろん冷製ではないけれど。
「あー」
幸はたまにコンビニのお弁当をチンしないで食べることがある。それを普通に食べることのできる幸だからたぶん大丈夫。幸ならいける。
「幸…」
やはり少し心配になってしまう。
幸。できれば温め直して食べてね、その方が断然美味いからねと私は思った。
いや、幸ならできると気を取り直し、時計を見るとぼちぼち出ないといけない時間。私は洗面所を抜けてお風呂を覗く。
「じゃあ行ってくるから」
さっちに挨拶をしたけれど、さっちはあいも変わらずなすっとぼけた間抜け面を晒しているだけで何も言わない。小馬鹿にしているように私を見ているだけ。
「おいさっち。その顔やめろ」
私は暫し、何か言えよとその間抜け面をじっと見て、さっちは今、はいはいそうですか、せいぜい気をつけてくださいね。遊び相手がいなくなるのは寂しいからねと、ぐわぐわぐわと鳴いているんだなと思うことにして、おーよしよしと人差し指でその小さな頭を撫でた。
さっちはツンデレ。私と違って素直じゃないけれど、どこか憎めない可愛い奴だから。
「じゃあ行ってくる。あとでね」
さっき着替えを終えたあと、私は幸の髪を撫でたり寝顔にキスをしたりと散々名残を惜しんだけれど、もう一度リビングに続く扉を開けて幸にそっと声をかける。
その幸は私のベッドですやすや眠っていて私に答える声はない。
「ふふふ」
けれど私は穏やかに眠る幸の姿に微笑んで、静かに扉を閉めて玄関に向かった。
この私にも私の帰りを待つ人が居てくれる。それが愛しの幸なのだから私が嬉しくなるのは当然だ。
「ふふふ」
何事も始めなければ終わらない。
ということで、じゃあ行きますかと、私は平べったいいつものヤツを履いて部屋を出た。
週末の土曜日。午前八時半。見上げれば青い空にはもくもくと入道雲が湧いている。
うへぇ、今日も一段と暑くなりそう。私は嫌だなぁ思いながら、さっそく日傘を開いて駅へと向かってとことこ歩き出した。
「すでに暑いとか、もうつらいんですけど」
そんなわけで、私は仕事に出かけている。土日休みの完全週休二日制にも関わらず。
「おかしい」
まあ、取引先の本部のバイヤー様から、屋敷さんお願いなんだけどね、来週はお盆休み前でばたばたするから商談は土曜にしてほしいんだけどべつに構わないわよねといい笑顔で言われ、そのお願いというには些か難しい、なにかもの凄い強制力をひしひしと感じてしまうお言葉に加え、私を釣る餌的な、あと例の契約書忘れないでねという有り難いお言葉も賜ってしまった以上、私はお休みの日だし毎日暑いからまじで勘弁してくださいとか、私としてはお盆明けでも一向に構わないんですけどと思いながらも、バイヤー様は私が言い出す多少の無理もたまには聞いてくれるし、新たな契約のこともあるからなぁと、私は笑顔で可愛くお伺いしますと言うしかなかったのだ。お休みの日なのにっ。
「くそう」
そう。世の中とはすべからく、斯くも不条理と理不尽でできている。こうした抗えぬ力はどこにでも在るということだ。私のような所詮雇われの身では、激流に逆らっても良いことなどないのだから、この身を任せて流されていくしかない。
けれど大丈夫。翻弄されているうちに浅瀬に打ち上げられるから。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというヤツだから、そこから岸に上がって次は巻き込まれないようにとっとと避難すればいいのだから。
もしもそこのあなたが人生に悩んでいるのなら是非とも覚えておくといいと思う。他ならぬあなた自身のために。私自身、そんな感じでやってきたし、今のところは意外と何とかなってるから。
「うんうん」
それに今回の休日出勤に限ってはそう悲観したものでもない。
私の仕事はお昼前には終わる予定だから、私はそのあともう少しだけこの暑さの中を頑張って、不動産屋さんにお気に入りにしていた物件のひとつを案内してもらう予約をぽちっとやって入れておいたのだ。
つまりそれは、普段から隠し続けていたせいで自分でもいつ出せばいいのかなと、もはや出しそびれてしまったまま一生使うことは無いんじゃないのかなと思っていた鋭い爪をどうにか出すことに成功したということなわけ。
「ふふふ。やるな、私」
幸はいま転職に前向きで、それに向かってかなり前のめりになっている。その姿は、危ないな、頭から転んじゃうから落ち着いてねと思うくらいの前傾姿勢でやる気に満ち溢れている。
実際、いまボールは幸にある。幸は、私達はあなたをいつでも歓迎しますと恵美さんに言われたのだから。
恵美さんの言ういつでもは、その言葉の通りいつでもだ。幸の決心がついたら、私達の事情が落ち着いたらでいいからねと、つまりはそういうこと。
そういう気遣いができてしまう恵美さんはあの会社でどんだけ凄いポジションに居るのかなと思いつつも、私達を気遣うその優しさに有り難さも感じてしまう。
けれど仕事というものは本来シビアなものだから、いかに恵美さんが気遣ってくれたにしても限度というものはある。
それでもあの恵美さんにそこまで言わせるのだから、やはり幸は聡明で優秀な女性、さすがは幸だということになるのだ。
その、仕事に対する姿勢とか傾ける情熱とか持つ気概とかのお陰なのか、ふたりはすっかり意気投合、転職云々を抜きにしてもすっかり仲良くなってしまった。
「いや…でもなぁ」
そのこと自体はべつにいいというより嬉しいことだけれど実は不安もある。
私はどうか私を巻き込まないでと思ってしまう。三人だけで会うのは危険だから絶対に避けなければと私は思っている。その時の会話を想像すると怖いから。言葉の通じない異国にひとりで居るように思えて孤独に震えてしまうから。
「こわい」
私が恵美さんに幸を紹介してから、ふたりは仕事帰りに何度か会ったりなんかして、互いの行きつけのバーではなく普通に夜ご飯を食べながら話を詰めるというようなこともしていた。
そのたびに私も誘われていたけれど、当然のごとく私はそれをお断りしていた。理由はお察しの通り、やはりその場に居るのが辛いから。
だってね、例えば私がその場にいたとするでしょ。そうするとね、私は幸と恵美さんが意識の高い高度で難解な会話を散々続けているのを聞いているわけでもなくぽつんと置物のように座っているだけで、なんで私はこんなところに来ちゃったのかしらとか思っているわけよ。そしたら恵美さんがいきなり私をじっと見てきたりなんかしちゃってさ。気づくと幸も私を見ているんだよね。ふたりとももの言いたげにして。私は何を言われるのか分かっているから耳を塞ごうとするんだけれど、間に合わなくてこうなっちゃうわけよ。
「夏織。あなたももう少し頑張ってみたら」
「そうだよ。なんだかんだ言ってもさ、結局夏織はやれちゃってるんだからさ」
「わーわーわー」
「こらっ。あなたのためよ。ちゃんと聞きなさいっ」
「聞こえませーん。あわわわー」
「もう、馬鹿なことやって。ちゃんと聞こえてるじゃないの」
私は幸に助けを求めるんだけれど、幸は、夏織ったら耳なんか塞いじゃって、声まで出して可愛いねーと優しく微笑むだけでぽんこつもぽんこつ、反応がずれまくってるわけ。
「それ違うからなっ。このぽんこつめっ」
「なぁに? 夏織は可愛いのに。変なの」
「お前がなっ」
それから延々とそんな会話が続くの。そんなの恐ろし過ぎるでしょ。
と、もはやいじめとしか思えないその光景を想像しただけでも、今もこうして手に汗をかいてしまう。呼吸も少し荒くなっている。
「超こわい」
けれどそれも大丈夫。私はなにも、敢えて好き好んで辛い思いをするようなそこまで迂闊で浅はかな人間ではない。君子というものは危ないヤツに近寄らなければいいだけだから。
危険がそこにあることが分かっているのならそれを避けることは然程難しくはないのだ。
「そうそう」
それならたぶんなんとかなるだろうと、私はそれについては気楽に考えることにしたのだ。
「いけるいける」
とはいえやる気に満ちた幸に感化されたのもまた事実。毎日くそ暑いから私のやる気がどれだけ保つかは微妙なところだけれど、私も私なりに動いていくことにしたのだ。仕事じゃなくて家探しをだけれど。
そういうことだから仕事終わりにちょっと見てくるねと伝えると、幸は、ずるいよ夏織、私も見たいから連れて行けと、ちゃんと起きるから連れて行けと駄々をこねたけれど、平日に頑張れるだけ頑張る幸は今も冷房の効いた部屋で気持ちよく眠っていると思う。
だからたぶん、私の予定に間に合うように起きることは無理だと思う。
おそらく幸は今日も、いつもの休日のようにお昼近くにやっとこ起きて、そのあと冷たいままのご飯を食べて、お腹いっぱい幸せだなぁ幸だけにとか思っているうちに私の予定も終わってしまうからどう足掻いても無理は無理。幸が間に合う筈がない。
「二時には終わると思う」
「えーっ。早くない?」
「さっきそう言ったじゃん。それに幸は勉強するんでしょ」
私は幸が買ってきた、入社したら必ず取得してほしいのよと恵美さんに言われたと言っていた、私にはよく分からないアルフベット三文字の資格、その参考書とか問題集を指差した。
それもまた確実に手首がぐきっとなってしまいそうな分厚くて重いヤツ。
手首はふたつしかないのにそれを三冊とか、その分余計に負担のかかる幸の手首は大丈夫なのかしらと、私は少し心配になってしまう。
「まぁそうだけど…」
「これで決まるわけないからさ。この先もあと十件は見に行くし。来週も見に行くつもりだから一緒に行こう」
「うん分かっ…いやいやいやいや」
今回は幸はゆっくり勉強していてね、はい残念と、笑って諭す私に恨めしげな視線を向けて、いや、それはそれ、これはこれとか言って、絶対に起きてやるからなと幸は気合を入れていた。
「ま、来るなら連絡して。一応、不動産屋さんは十二時だから」
「そ、そんなに早いのっ」
「早くないから。起きられる?」
「ら、楽勝」
「幸。無理すんなって」
「ぶー。馬鹿にして。みてなさいよ」
「ふふふ」
優しく肩をぽんぽんと叩く私を、幸はもう一度、ふんっと私を可愛く睨んから、慎ましやかな胸の前で両手を握って気合を入れて、やってやりますよ的な雰囲気を醸し出していた。
起きる起きられないは別にしても、やはり幸はかっこ綺麗で可愛いなと私は顔を綻ばせながらその姿を見ていた。
それが昨夜のことだった。
「ではこれで失礼します」
「はい。お疲れ様。またよろしく」
午前十一時を過ぎる頃、私の商談も契約も特に問題なく終わった。問題なのは重いバッグと外の気温がもう既に三十度を超えていることと照り付ける日差しだけ。それ以外は順調だったし、嬉しいこともあった。
「屋敷さん。休みにわざわざごめんなさいね。暑かったでしょ、まずはこれをどうぞ」
おはようございますと、目的のフロアに顔を出して直ぐに案内されたブースで待つこと一分後、出された麦茶を飲もうとする私の前に現れたバイヤーさんの手にはピスタチオと餅入り黒蜜きな粉のアイスあった。
「わっ。やったっ」
超ラッキーだなと喜ぶ私は、どっちにする? と訊かれて即座にバイヤー様こと、五十嵐さんはどっちにしますかと訊ねることは忘れない。そこに両方とも美味いんですよねと付けておくのも忘れなかった。
そうすることで、私はどちらもイケるからお先にどうぞ選んでくださいと伝えたのだ。
さすがの私は咄嗟のことでも人としての基本をちゃんと押さえているのだ。
「じゃ、私はこっち。屋敷さんはピスタチオの方ででいい?」
「やったっ。コレも美味いんですよねー。超ラッキーだな、です」
「ははは。屋敷さんはいつも嬉しそうだから、私も嬉しくなっちゃうよ」
偽りなくやったやったと本気で喜ぶ私を見て、五十嵐さんはにこにこしていた。
そして私達は、商談ブース的なところでアイスを食べているあいだ、他社の動向とか世間話とかそんな話をしていた。
「やっぱ美味いですねコレ」
「そう? よかった。あ、そう言えばね、あの和菓子屋さんね、夏の新作出したのよ。美味しかったわ」
「えっ。その話、詳しくお願いします」
「ははは。いいけど、商談はいいの?」
「はっ。そうでした。では」
私は慌ててバッグを開く。ばたばたと書類を取り出してノートPCを立ち上げる。それをしながら残ったピスタチオのアイスを食べて、雑談しながら暑さや日差しもたまには私の役に立つんだなと私は思っていた。
そして午後一時前、私はいま都心に近いマンションの部屋を見ている。
「おー、意外。実際はこんな感じなんだ」
「皆さんそうやって驚きますよ」
「ここ、結構見に来るの?」
「いえ。ここは余りいないですよ。売りは立地の良さだけでそれなりに古い建物ですし」
「なんだそれ」
「ふふふ」
このやけに人懐こい、今もくすくす笑っている女性が私をここに連れてきてくれた女性。
私が不動産屋さんに顔を出した時に対応してくれて、うわぁ、汗すごいですね、くずれ、ま出しましょうと、クーラーをがんがんに効かせてくれた車でここに連れてきてくれたのだ。
「くずれま?」
「くずれま? なんですそれ。車ですよ車。けど少し崩れてますよ」
何かを誤魔化しつつ、何がとは言いませんけどと、彼女は苦笑っている自分の顔の辺りを指でくるりとやって、私に何かを伝えてくれた。
「それまじです?」
「ええ。まじです」
「えっと。トイレは…」
「あちらです」
彼女の有り難い指摘に、私はありがと借りるねとお礼を言ってすぐさまトイレに駆け込んでことなきを得た、のかは、既に晒しながらここまで来たから分からないけれど、とにかくお陰様で私の容姿は再び完璧になった。
私はこれで全てをなかったことにできるのだ。
「すごい。バッチリですね」
「なんの話?」
「えーっ」
いみふだわと首を傾げる私に彼女は驚いて、それからからからと笑らい出した。私のすっとぽけは大抵の人に通用するのだ。
「はー、おかしい人なんですね」
「そこはせめておかしな人にして。ん? 一緒か」
「ぶふっ」
こうしてここに来る前に、化粧崩れとかそんな恥ずかしい出来事があったかなんて私はもう忘れたから今は定かではないし、私は既に興味津々、前向きかつ口うるさい小姑のように粗を探して部屋を見ているところ。
「へぇ」
写真で見たよりもずっと綺麗な部屋。八階建ての五階の角部屋と、日当たりもよくて角とかなんか落ち着くし、広さも収納もなかなかだなと思っているところ。
「ひとりで住むには十分過ぎる広さだと思いますよ」
彼女はたぶん私より少し歳下の女性。人を見ているのかもしれないけれど愛想がよくてぐいぐいくる感じ。目がくりくりの可愛いらしい女性。
今からよろしくと挨拶を交わした時から距離が近い。暑いから外ではやめてねと私は思った。
けれど今は何となく引っかかることがある。
彼女と会った記憶はないけれどどこかで見たことのある感じがする。何となく、どこかにこんな人がいたような、どこだっけ、みたいな感じ。
この感じが何なのか思い当たらないことに私は少しもやもやしてもいるところ。
「いや。ふたりかな」
「へー。そうなんですね。恋人ですか?」
「同居人かな」
私が部屋をうろうろして、クローゼットを開けたりキッチンの装備を見たり洗面所とお風呂を覗いたりと幸との暮らしを思い浮かべて好き勝手にやっていると、彼女はいつの間にか触れるか触れないかくらいの、やたらと近くに居たりするからちょっとびっくりする。
「うわっ。忍か」
「忍って。ふふふ。やっぱり面白いですね」
そう言ってからからと笑う姿にまた私は、どこかで見たような既視感を持ってしまう。そしてやはりやけに近い。彼女は今さり気なく私の腕に触れて、ふふふふふふふと笑っている。
私は少し体を引きながら、なんだったっけなこの感じは思いつつも、それが何なのか考えても出てこないしイラつくしもう面倒くさくなってきたから、きっと彼女はパーソナルスペースというものが無い、ノリの良い、ぐいぐい来る人なんだなと自分を納得させた。
「あ。馴れ馴れしかったですね。ごめんなさい」
「いいよ。大丈夫」
彼女はほんの申し訳程度にその身を引いた。その顔は微笑んだままだ。
私はべつにいいよと手を振って、再びうろうろしながらここにソファ、ここにテーブルを置いて、寝室は少し狭いからタンスは小さめのヤツにすればいけるかなと、幸との暮らしを想像してみる。
あ、そうそう。残念ながら幸はここに居ない。今、クローゼットとかトイレに隠れて、早く見つけてくれないかなぁと、そこでやきもきしているわけではない。
取引先を出て不動産屋さんに向かう途中で寄った和菓子屋さんでお目当の夏の新作、桃とメロンと夏みかんを使った見た目涼しげな丸くてぷるぷるしているヤツをそれぞれ一つずつと定番のきんつば二つの会計を済ませたところで、いま起きた、ご飯いただきますとメッセージがあったのだ。
私はやっぱりなと頬を緩めながらやり方が分かるならチンして食べてねと返信しておいた。
うるさいぞたぬき。けど気をつけて早く帰ってきてね、あまり遅いと私お腹減っちゃうからさと、すぐに返って来たメッセージを見て、もはやたぬきになってしまった私は当然ぶるぶると震えてしまいそうだったけれど、そのあと続く文章を読んだら凄く嬉しくなって、最後のヤツで幸らしいなと思わず笑ってしまったのだ。
「思っていたよりも綺麗だった」
そして、案内されたマンションを出た帰りの車の中、私はそんな感想を漏らした。
「部屋はリフォーム済みですし、マンション全体も築年数がそれなりですから外壁や配管なんかも大規模リフォーム済みです。それは三年前ですね」
「なるほど」
「あそこはあの大震災でも特に被害も出なかったらしいですよ。バブルの頃に建てられていますからしっかりしたものなんだとか」
「なるほど」
まぁ、築年数は問題じゃない。私達は住むと決めたらそこを住み潰すつもりだから。
それがいつなのか、定年が何歳になっているのか今は分からないけれど、五十五とかで早期退職して多めにもらった退職金でどこか田舎の寂れた温泉街のお土産屋さんを居抜きで手に入れて、細々と商売しながら私は甘くて美味いお饅頭とかお土産に囲まれて、幸はその辺りの地酒に囲まれて、隙あらばそれを食べて呑んでと、ふたりで楽しく笑って余生を過ごすのだ。
鬼がお腹を抱えて爆笑するような先の話。晩秋。けれどその季節はいまとても幸せな私達にも必ず訪れる。その時になればあっという間だったなと感じるものだと私は思う。幸とふたりでこれからを生きて、泣いて笑って色々とありながらも振り返ってみればその人生に満足できて、そのときも幸せでいられたならたぶん、私はそれを、よく来たねと快く受け入れることができるとも思う。しわしわになっているのは嫌だけれど。
ともあれ今のところは私の思うライフプランは完璧だ。
幸がいて私がいる。それがどこであれ、隣に幸がいるのなら私にはそれで完璧なのだから。
「どうしますか? 事務所に戻るなら詳しく説明しますし簡単な見積もりとローンのシミュレーションも出しますけど」
「うーん。保留で。今はこの資料だけでいいや」
「そうですよね。まだ探し始めたばかりなんですもんね」
「そうなの。悪いね」
「いえ。これも仕事の内ですから」
お互いに一発目で決まる筈もないと分かっているのだ。営業なんてそんなもの。どうしても欲しい物でもないのなら、何度も通ってやっとこさ、ようやくなんぼのものなのだ。
「近くの駅で降ろしてほしいかな」
「いいですよ」
五分後、車を降りる際、また見にくるかもしれないからその時はよろしくねと伝えると、こちらこそ。私に直でも大丈夫ですし、名刺に裏に個人的な連絡先を書いておきましたから良ければ登録して連絡くれたら嬉しいです。ではまたよろしくお願いしますと、彼女はまた私の腕に触れて、何かを期待するように微笑んだ。
「あのさ。やたら近いのも、ボディタッチングも、あなたのやり方なのかもしれないけどさ、あまりやり過ぎると本気で引かれるからね」
「えっ」
彼女は驚いた顔をして、あれ? 変だな、やっちゃったかな、間違えちゃったかなとかぶつぶつと呟いて、すいませんでしたと謝った。
「まぁいいけどさ」
何のことかと思ったけれど、私はいいよと手を振って、送ってくれありがとうと車を降りた。
「さてと」
走り去る車を見送ることもなく、少し先にある駅に向かいながら私は今思ったことを素直に口に出していた。
「あつい」
外の暑さにやられながら、終わったよ、今から帰ると幸にメッセージを送る。
それから、登録ねぇ、まぁ、ボディタッチングとかやたら近いのはともかく、話しやすかったしどうするかなぁと思いながらもらった名刺を確認すると、主任、遠藤亜紀とあった。
私より若いのに主任とは、さては優秀なんだななかなかやるなと、名刺をくるっと返すと裏には手書きの連絡先が書いてあった。
「うん?」
私は日差しを避けるために駅の階段のところ、日陰に移動してその場に立ったまま、あの感じにこの名前、個人的な連絡先ねぇと、少しのあいだ考える。
感じていたヤツの正体を暴こうと思ったのだ。暑いのに。
「うーん」
暫く考えて、私はついに思い至った。
「いや、やっぱ彼女は知らないな。けど…」
名前については思い当たることはない。やはり彼女は私の知らない人だったから。
けれどあの素振りとか私の抱いた既視感はまた別だ。
「はっ」
私は今になってようやく気づいたのだ。彼女は私の同胞かもと。遠回しに誘われていたのかもと。
彼女の人懐っこさや近さやボディタッチング、それらから抱いた私の既視感はそこに繋がっていたのだと。まさに今までバーで目にしたりされたりした、軽く愁眉を送る的なヤツと同じだったような気がするなと。
「そういうことかも」
いかにも私のまあまあそこそこなセンサーらしく曖昧ながらも今更に、私は思い至ったのだ…いや、泣いてないから。
まぁ終わったことだしべつにいいかと改札にとことこ向かう私の手に持つスマホが震え出した。
私はそれが何を意味するのかもう分かっている。それは幸からのメッセージ。開かなくても大丈夫なくらい自信がある。
早く帰ってこいとか、今日の夜ご飯はなに? とか、近くになったら連絡してね迎えに行くよとか大体そんな内容だから。
「開くけどね」
私は立ち止まって通路の端に寄り、アプリを開いて一応それを確認する。
やったっ。当たったと、思わず顔を綻ばせる。
「よし帰ろっと」
私は持っていた名刺を握り潰した。そっちの意味では全然要らないから。けれど、そこらにポイ捨てはしない。彼女の名前があるし連絡先もある。
それに何よりポイ捨ては人として駄目なヤツだから、ちぎって駅のゴミ箱に捨てることにした。私はモラルを守る人だから。
ちょっとだけ、ちぎったそれがひらひらと風に舞って、まるで散りゆく花びらのようだった的なヤツなら少しは絵になったかもなと想像して、私はにやりと笑ってまたとことこと歩き出す。
「うーん。夜は何にしようかなぁ」
早く帰らないと幸がお腹を空かせてしまうからなと、私は足の回転数を上げながら私の作ったご飯を前に美味しそうだねと喜ぶ幸の顔を想像する。やはりそれだけで嬉しくなってしまう。
そう。私には愛する幸がいる。その幸は今わたしを待っている。
夜ご飯の時間にはまだまだ早いけれど、お腹を空かせてご飯をねだる雛のように口を開けて、まだかまだかと鳴いているのかも。
「腹ぺこめ。ふふふ」
私と幸。
互いのピースが隙間なくぴたりと嵌っていなくても、互いの隙間を十二分に埋め合ってなお余りある想いを捧ぐ私と愛しの幸とあいだには、何人たりともその隙間に入り込む余地など微塵もありはしないのだ。
「そうそう」
けどまぁ、私はそんなことを思ってはいても、悲しいことに、彼女のことは単なる私の思い込みというか勘違いかもしれない可能性は捨てきれないところ。
だって私は彼女からアプローチされていたかどうかなんて今もまだあまりよく分かっていないのだから。
そこはほら、さすがは私のまあまあそこそこセンサーの為せる業というべきところだから。はい残念。
「笑える。まじぽんこつだなっ」
夏織と幸は揉めません。モノを抱えていても、いちゃいちゃしながら先に進んでいくのです。
愛すべき夏織には幸せでいて欲しいと願ってやまない今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
なんつって。
読んでくれてありがとうございます。