第三十八話
続きです。
長がーいです。
よろしくお願いします。
ぼちぼち梅雨も明けようかという七月の二週目の金曜日、お昼過ぎから降り出した雨は仕事が終わった今になってもまだ降り続いている。
その小糠雨の降る中を私は大きめな傘を差して少し足早にバーに向かってとことこ歩いているところ。
今日の午後、早い時間に珍しくも当然といえる由子からのお誘いメッセージが来たのだ。
今夜、会えますかとだけのその内容から察するに、由子に何かあったことは明白だった。私はいいよと返信してから、恵美さんにメッセージを送った。りょ、とかたぬきの写真の話はこの際省いておく。
そして私はオフィスを出る前に、今夜はバーに行くから明日ねと幸にもメッセージを送った。恋人だから当たり前。
やがて来た愛しの幸からのメッセージには、わかった、けど浮気すんなよたぬき夏織とあった。
もはや打ち直すこともしないそのメッセージを見た私が、電車の中でぶるぶると震えていた話もこの際省いておく。
そんなわけでいま私は雨の中を、ふん、ふんと、鼻から少し荒い息を吐き出して、いそげいそげと歩いているところ。濡れちゃうから。
「くそう。やっぱ濡れる。下手か」
小糠雨。こういうミスト的な雨は傘を差していても何となく体に纏わりついてくる感じがしてちょっと鬱陶しい。肩に掛かるバッグについては既に濡れているから諦めているけれど、隠れている筈の体、特に正面も意外とじっとりと濡れてしまうのだ。
まぁ、大雨だって小雨だって何だって、気づいたらいつも濡れているのだから、雨が降れば傘を差しても体が濡れてしまうのは仕方ないとは思う。
けれど、それは決してっ、私が傘を差すのが下手な人だからではない。と、思いたい。
あのね夏織、こんなに濡らして、雨なんだから傘を差さないとだめよ、持っているだけじゃ意味ないのよと母さんに言われ、いや、差したから、使ったからと、雨の降る日になるとこんなやり取りをした子供時代はもう過ぎたのだ。私はもう子供ではないのだから。
「そうそう」
ああ、そういえばかなり前に、わたし下手じゃないよね、幸もバッグとか服とか普通に濡れるよね? 的なことを訊いてみたら、あはは、屋敷は面白いこと言うねーと、幸は気にするなと笑っていたような気がする。幸の奴は一体なにが面白かったのか。
「なんだろう」
それがどういう意味だったのかは今も謎のままだから、憶えていたら今度幸に訊いてみようと私は思った。
「よいしょ」
駅から歩いて約十分。いつものバーの入るビルの入り口付近で傘をばざばさとやって水滴を飛ばし、地面につけた先っちょを軸にしてくるくる回して念には念を入れてから、濡れてしまった服についた水気をハンドタオルを取り出してとんとんと拭う。
「うへぇ。かなり濡れてるな。あ、ラッキー」
私はタイミングよくやって来たエレベーターにひょいっと乗り込んだ。体が勝手に動いたけれど、ふと、目指す階は二階だから階段で行けばよかったかしらと私は思った。
主に痩せるかもという意味で。
「失敗失敗」
「こんばんは」
午後七時過ぎ。静かに扉を開けて店の中に入り、いつもよりかなり小さい声でいつもの挨拶をしてすぐにいつもの席に目を向けると、私を呼んだ由子は既にそこに居た。
「うわぁ、なんだあの感じ」
その姿を目にした途端に私の口から大きな声が出てしまった。
あ、ヤバい。これでは静かに入った意味がないなと若干の苦笑いをしながらも、しかしなんとまあ、あれは酷いなと、どう見てもずーんと沈んでいる由子の様子に私は頭を横に振る。
「重過ぎる」
私はできるだけ目立たぬようにとことこといつもの席に向かいつつも、このあと少し面倒くさいことが起こることをちゃんと覚悟していた。
私の存在はもうばればれで、知り合いみんながいい笑顔で私のことを見てるから。手まで振られてるから。
「こわい」
私は無駄に頑張って、何か御用と取り澄ました顔で歩いてみるけれど、みんなはやはり見逃してくれなどしないのだ。案の定、通りすがるたびに声をかけられてしまう。
こうなっては仕方ない。由子にはもう少しだけ待っていてもらうことにする。
「よっ。ひゅーひゅー」
「なんかここ、急にあつくなったね」
「ねー。あー、あっちっち」
「郷か」
「「「郷?」」」
「いや、知ってるでしょ」
なぜか私は知っている。なら、お姉様方は絶対に知っている。
若ぶるなと私は思った。
「あ、夏織さん、今日も泣いちゃう? なんならほら、今日は私の胸で泣いてみる?」
「……あー、うん、大丈夫かな」
「ちょっと。なによその間は」
「なんのこと? ぷぷっ」
「笑われたっ」
「じゃあ私の胸でなら?」
「ああ、それなら…って、いらないから。幸で充分間に合ってるから」
「じゃあ私のでもいいじゃない。彼女と同じくらいなんだから」
「嘘。あれだと全然足りないでしょ?」
「よくないから。幸の方があ…あ、あと、あれとか足りないとか言うな」
幸の方があると私は思っ…いたいし、私はあの慎ましやかな幸のナニに凄く満足しているのだ。
泣くな幸、私がいるよと私は思った。
「夏織ちゃん、はいどうぞ。これで拭いて」
「ありがと。私の服、雨で濡れてるもんね、って、ハンドタオルとかいりませんー。てか持ってますー」
「でも夏織ちゃん、また泣いちゃうでしょう?」
「泣きませんー。べー」
「…かはっ」
去り際に目をバッテンにしてベーっとやってやる。
真っ赤な顔して、かはっだって。笑える。
ゆるふわなめんなよと私は思った。
「夏織さん」
「もー、いい加減しつこいな、って、れれれれ麗蘭さんっ」
「しつこくてごめんなさいね」
「ぶふっっ」
カウンターではなく、なぜかそこに居る麗蘭さんは微笑んでいる。
私は私のできうる限りの速度で首を横に振る。ばきぱきと骨が鳴る音がするけれどそれどころではないのだ。勘違いとはいえ、しつこいなとか言っちゃったから。謝られるとかあり得ないから。
「愛しの幸さんは元気?」
「へ?」
「元気?」
「あ、はい。愛しの幸は絶好調です」
「そう。ふふふ」
麗蘭さんは笑っている。まだちょっと怖いから、私は震えてしまうけれどたぶん大丈夫。
麗蘭さんは素敵な超大人の女性。よく考えてみれば、勘違いしたことくらいで怒る筈がないのだ。
「セーフ?」
「超大人? それはどゆこと? ふふふ」
「あ、そっち?」
「ふふふふふ」
あ、これやっちゃったなと私は思った。
「ヤバい。超こわい」
と、こんな感じでこの前のことを知り合いや店員さん達みんなにからかわれてしまったけれど私はそれを受け入れる。
それなりに面倒くさいけれど、私の世界の人達はいつでも私に優しくて、私の世界にいる限り、私は何の憂いも感じることなくこうして楽しく過ごせるのだ。それはみんなも同じこと。
落ち込んでいる由子に目を向けて、そのうち由子もそうなれるから、大丈夫だからと私は思った。
「いけるいける」
私は今も由子を見ている。麗蘭さんも由子を見ている。
ここから見ても由子は暗くて落ち込んでいるのがよく分かる。それに気づいた人の中には、その姿を見かねて心配そうに声をかける人もいる。今も由子の肩に手を置いて何か話しかけている女性が見える。
「ねぇ夏織さん。あの子、どうするの?」
「うーん。どうするかなぁ」
麗蘭さんの問いに、私は独り言のように呟いた。
由子は両手でグラスを持ったまま俯いている。側に来て声をかけている誰に対しても反応は鈍い。俯いたまま頷くだけ。
「暗い。暗過ぎる」
「そうね」
しかもよく見ると、誰もが認める腹ぺこキャラの癖に頼んだ摘みに手も付けていない。あれは相当重症だ。
「来てからずっとあんな感じなのよね」
「なるほど」
麗蘭さんは由子の様子に気づいていた。それは当然だ。麗蘭さんは伊達にカウンターに座って優雅にお酒を呑みながら自分の創り上げた世界を眺めているわけではないのだ。
麗羅さんはいつだって、軽く微笑みを湛えながらこの世界を隈なく眺めているのだから。
ただ眺めていたり、適当に声をかけたりするだけで自分から話を聞いたり慰めたり励ましたりするわけではないけれど、近しい人に声をかけてその様子を教えてくれたりする。この場合は私。
いつだったか麗蘭さんは、この店に来てくれる女性はもう、私とは年代がかなり違うから今の子達の問題に口を出すつもりはないのよと言っていたことがある。私を冷たいと思うかしらと言っていたことがある。
私はそれを聞いて固まった。その時は答えづらい、いわゆる巧妙な罠的なヤツだと思ったから。頷いても否定しても駄目なヤツだと思ったから。だから私はただ曖昧に返事をするだけにしておいた。
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。けど…」
「けど?」
あ、やっべ、話し過ぎるとぼろが出るからと、私はつい続けそうになった口を慌てて噤んだけれど、麗蘭さんは遠慮はいらないからその先を話せと微笑んでいた。
その時、顎でくいっとはされなかったことに私はほっとしていた。麗蘭さんにそんなことをされていたら怖くって、私は何でもありませんと口を噤んでそれ以上は何も話さなかったと思う。
もしもその時わたしが口を噤んだままだったなら、今みたいな関係、私が顔を出すたびに、毎回のようにおいでおいでと微笑む麗蘭さんから甘くて美味いヤツとかお土産げとかをもらえるような関係にはなれなかったとも思う。
「けど?」
麗蘭さんはもう一度、先を聞きたいから早くなさいと私に微笑んで見せた。さらに、この罠をどうにかしないと私は大変なことになってしまうと考えていた私の肩に手を置いてしまった。
ここまでするということはやはり遠慮するなということだと私は思ったから、それならばと覚悟を決めて私は遠慮なんてしなかった。私は私だから。
「えっと」
まじ怒らないでねと思いながら、色々と考えていた心の動揺を悟られないように頑張って、私は淡々とその先を続けた。
「何も言わなくても、いつもそこにいてくれるだけで、微笑んでくれるだけで、なんか凄く安心できる存在って、絶対に居ると思います」
「…それが私?」
私の時もそうだった。
私が恵美さんと一緒にいてもひとりでいても、ふらっと私の前に現れて、二言三言、当たり障りのない会話をしながら髪を撫でたり肩に手を置いたりするだけだったけれど、私はそれで安心できた。
それは麗蘭さんだからこそ成せた業だと思う。今その効果は私のとき以上だと思う。
こういう言い方は何だけれど、麗蘭さんは、えっと、その、酢いも甘いも噛み分けた人生における大ベテランだから。
その大ベテランの麗蘭さんが慌てず騒がす心配する素振りさえ見せないのだから、私の抱えることはそのくらいのことなんだと、大丈夫なんだなと、私はそう思えたから。
「はい」
私は頷いた。これ以上は絶対に何も言わない喋らない。ほんと無理だからと、ぼろが出ては困るからと、私は内心どきどきだった。
麗蘭さんは、固まりながらも頑張った私に向かって、あら残念、夏織さんは私を年寄り扱いするつもりなのねって言いたかったのにと微笑んで私の髪をひと撫でしたあと、なかなかやるわねこれあげる、限定品でとても美味しいのよと甘くて美味い和菓子をふたつ、この手に乗せてくれた。
と、そんな記憶がある。
「あの暗さ、麗蘭さんはどう思います?」
「失恋」
「なるほど」
「夏織さんは? どう思うの?」
「まったくわかりません」
即答。麗蘭さんが体を引いて私を見た。なに言ってんのあなたみたいな顔をしている。その顔が楽しげに歪んでいく。
「…ふふっ、ふふふ」
よく分からないけれど、私の答えが何かに触れたのだ。麗蘭さんは一拍の間を置いて、ふふふ、ふふふふふと笑い出した。
麗蘭さんがこんなに笑うなんて珍しいこともあるもんだなと思いながら、麗蘭さんが失恋だというのならたぶんそうなんだろうなと、私はいまだ、暗くて重い由子を見ている。
「先ずは話してみます。いざとなったら恵美さんに丸投げしますし」
「ふふふ。そんなこと言って。私は夏織さんなら大丈夫だと思うけど」
「いやいや。私はそんないいもんじゃないですから」
「謙遜? まぁ、そういうことにしておきましょうか」
麗蘭さんとの話を終えて、私は由子の元へと向かう。
その途中、取り敢えずビールといつもの摘み、野菜スティックとえびパンを頼んでおくのも忘れない。私はお腹が空いているのだ。
なので、今回はいやに普通っぽいメニューでよかったなと思えてしまう、里香さん特製、本日のおすすめ、ナチョたっぷりな白身魚のフライ、サルサのディップを添えても頼んでおくのも忘れていない。
今回は大丈夫。魚と書いてある以上、間違ってもげこげことかイモリとかワニとかではない筈だから。
「そうそう」
「お疲れ由子。お待たせって、うわっ」
私に向けられた顔が凄すぎる。目の下に隈があるし化粧もしていないし髪はばざばさだ。元がいいから化粧はまぁいいとしても、髪は元からの癖っ毛が大変なことになっていて、その姿は全体的に枯れている。
あ、夏織さんこんばんはと、無理に笑う姿が痛過ぎる。
「夏織さん。わざわざすいません」
「泣いてるんだ」
「泣いてません」
由子は否定するけれど、泣くのはべつに悪くない。どこかでひとりで泣くくらいなら、ここで泣いてしまえばいい。私もみんなもいるのだから。絶対にひとりじゃないと思えるのだから。
「取り敢えず泣いちゃいなよ」
「大丈夫です」
無理をすんなと私は由子に笑いかける。確かに泣いてはいないけれど、気持ち的には泣いているのだ。
既にいっぱい泣いただろうけれど、まだ泣けるのなら先ずは涙を枯らしてしまえばいいと私は思うのだ。
「そしたら、その、手をつけていない摘みなんかも食べられるようになる」
「ははは…」
由子は私が指した摘みを見つめて力なく笑った。けれど、腹ぺこキャラな由子にはよく効く筈の言葉を私はさらに言ってやる。
「食べないなら私が食べるから。私いまお腹空いてるから」
元から辛くて悲しそうな顔をさらにずーんとさせた由子は、顔をくしゃくしゃにすると、駄目ですこれは私のですと、どうにか声を絞り出して、うぐっふぐっと泣き出した。
「わたし、がたべ、るん、です。うぐっ」
由子は少しだけ顔を上げて目尻のシワがきつく刻まれるほどぎゅっと目を閉じて口をへの字にして泣いている。
随分と残念なその顔に、私は思わずツッコんでしまう。
「その顔ぜったい人に見せちゃ駄目なヤツだから。隠しなって。ほら」
「うる、さ、いで、すよ。うぐ」
そう言いながらも、由子は私が渡したハンドタオルで顔を覆って泣き出した。
私だって誰だって、泣き顔なんて幸を除けばそれなりに酷いものだけれど、由子の中々のそれが隠れたことに満足した。
失恋が辛いのなら、泣くだけ泣いて忘れてしまえばいいと私は思っている。悲しくて口惜しくて私もたくさん泣いたから。
この世の終わりみたいに思えるけれど、世界はそこで終わらない。残酷にも思える現実は何事もなく続いていくのだ。隠れるように泣いて過ごしているうちに、いつの間にか心機一転、気づけばその流れの中に舞い戻っているものだ。引きずりながらでも、何事も無かったかのようにでも、自然と踏ん切りがついてしまうものなのだ。
「大丈夫」
私は泣いている由子を慈愛に満ちた目で見つめている。私なりに。
そして見つめているうちに、渡したハンドタオルは既に雨で濡れているから、もしも少し匂ってしまっていたらごめんなさいと思ってしまった。
「大丈夫、かな?」
そんなことも思っている私はやはり私なのだ。
由子はまだ泣いている。けれど、少し大きかったうぐっふぐっは、今は静かなしくしくに変わっている。今も降る小糠雨っぽいなと私は何となく思っている。じっとり頬を濡らしているというヤツだ。
私は静かな嗚咽を聴きながらお酒を舐めて、由子が泣いているあいだにやって来たヤツ、里香さん特製のナチョたっぷりな白身魚のフライをサルサに絡めて食べている。何度も言うけれど私はお腹が空いているのだ。
それでも泣いている由子の手前、一応、遠慮がちにではある。
「辛…」
「いや美…」
だから、辛いとか、いや美味いなコレと、私はそう思うだけでいつもの台詞を声には出さないようにしている。いくら私が私でも、そのくらいのことはできるのだ。
私はそこまで酷くはないのだ。幸もきっと、そりゃあ、いくら夏織でもそこまではねと、笑って言ってくれるだろう。けれど私の意図を読み取って、でも、夏織はきっと腹ぺこちゃんに気づかれるようもにした筈だと、褒めてもくれるだろう。
「ぞれ、おいじぞうでずね」
「ん?」
由子のしくしくはようやく、すんすんと鼻を啜る音に変わった。
腹ぺこらしく、私が美味いけどやけに辛いなと食べているフライの魅力に負けたのか、それとも泣くのに飽きたのか、もしくは泣き疲れたというべきか。
まぁ、そんなことはべつにどうでもいいけれど取り敢えずすっきりはしたみたい。
暗さは変わらずあるけれど、ずーんはどこかに消えている。
「これ。ありがとうございました」
由子が手にしている私の渡したハンドタオルはきっと鼻水に塗れているだろう。あとで洗って返してもら…いや、謹んで進呈してしまおう。
「それあげるから、大事に使って」
「いえぞんな。ぢゃんと洗っでがえじまず」
「いいのいいの」
そんなやり取りを二、三回して、私はそれを由子に押し付けた。ああよかったと私は胸を撫で下ろした。
由子はずびばぜんべえとか言いつつも、私が指で摘んでいる食べかけのフライに痛いくらいの視線を浴びせている。
私がそれを見せびらかすように口に入れると、あぁぁと悲しい声を出す。
どうやら無事に腹ぺこキャラが戻ってきたのだ。先ずはよかったと、私はまた胸を撫で下ろした。
「美味いよコレ。辛いけど。食べる?」
「いだだぎまず」
私はすんすんしながら手を出そうとする由子を止める。食欲が戻って来たならそれに越したことはない。けれど、先ずは女性としてどうなのよとしか思えないその顔をどうにかしないと駄目だからと、私は由子からお皿を遠ざけて首を横に振った。
「待った。まずはその凄い顔をなんとかしてきなよ」
「それじゃあ戻っできだらなぐなっでるじゃないでずか」
「はぁ、それはないから」
私はそんなに食べないし、コレは元々由子のために頼んだつもりだったから。私はお腹が空いていたけれど、思った以上に食べちゃったから油と辛さで私の空腹はもう満たされてしまったのだ。
「この腹ぺこめ」
お前はどんだけ腹ぺこなんですかと、私がふふふと笑っていると、私の笑顔につられた由子もぷっと吹き出して、少し楽しそうに笑い出した。
そして由子はいま鼻をかんでいる。垂れてるよと私が教えてあげたのだ。
これで急いでトイレに行くだろうと思ったけれど、由子は一切の迷いなくすぐさま鼻をかみだした。
「うるさいな」
「はい?」
「なんでもないよ」
両方の鼻の穴から、つーっと垂れていたのだから仕方ない。いわゆる緊急避難というヤツだと、私は思うことにした。
由子はまだびーびーとやっている。
「絶対でずよ」
それが終わると、残しておいてくださいね、信じていますからね的なことを言い残して、由子はトイレに向かった。急ぎ足なのは女性としてあり得ない顔を早く直したいと思っているからだと思いたい。
私がフライを口に運びつつその背中を追っていると、他のテーブルの脇を通るたびに何かしら声をかけられている。泣いていたことを慰められたりからかわれたり、近づいて来た麗蘭さんに髪を撫でられて、優しい笑みを向けられたりしている。
「よかった」
なかなかトイレまで辿り着けずに、早くしないとフライがフライがと焦っているだろう由子は凄く嬉しそうでもある。
少しはにかむように照れている由子は既に、このバーやここに居るみんなに受け入れられているのだ。
由子を泣かせてしまうような、時には私達すらも泣かせてしまうような外の世界とは違って、ここは優しい世界だから。
「よかったね」
私はそのことをとても嬉しくて思っていた。
「あ、食べちゃった。美味かったけどかなり口が痛いなコレ」
そして私は右手を高く挙げたみた。バーっぽく、マスターおかわり的なことを呟いて。
なんかいいなと思って、私はちょっと、くぅーっとなってしまった。
「ないっ」
「そりゃあ、食べちゃったから」
「なぜにっ」
戻って来た第一声がそれなんだと笑いつつ、私はほら来たよと由子の横を指す。
がびーんと力なく椅子に座り込んだ由子の前に、お待たせでーすと、元気な莉里ちゃんが白身魚のフライを置いたのだ。
「でき立てだよ。頼んでおいたから」
「わっ、美味しそう」
由子はすぐにそれに手を付けた。
そして私の前にはガラスの器に綺麗に盛り付けられたバニラアイス。私はそれがダッツなヤツだと知っている。里香さんが、これダッツだよとこっそり教えてくれたのだ。
「いっただっきまっす」
私もさっそく手を付けた。サルサのヤツがハバネロ的に辛かったから。今回、里香さんの罠はフライじゃなくてソースだったのだ。里香さんは今頃、厨房で笑い転げているだろう。
「美味い。ありがと莉里ちゃん」
「いえいえー」
莉里ちゃんはいつもと変わらない。莉里ちゃんにも抱えるモノはあるのだから、悩むことも落ち込むこともあるだろうけれど、莉里ちゃんはこのバーにいるあいだはそれを一切感じさせないようにしているのだ。私はそれを凄く格好いいなと思っている。私にはそんなことはできないから。
「莉里ちゃんはカッコいいな」
「えー。あの夏織さんの恋人、幸さんでしたっけ。あの人の方が何百倍もかっこいいですよー」
「それはそうだけどさ、そういうのとは違うから」
「ありゃ。そこは認めるんですね。でも、嬉しいです」
莉里は、ごゆっくりーと、ににこにこしながら去っていった。
「いつも明るくて元気な人ですね」
フライをもぐもぐと頬張って、由子はそんなことを言った。そこに他意はないですよと、思ったことを口にしただけですよと、その顔は言っている。
「なんかうざい?」
「…まぁ」
「その気持ちはわかる」
由子は今、落ち込んでいるからそう思ってしまうし、あの元気さがどこか鼻につく感じがしてしまうのだ。
余裕がなければ誰だってそんなもの。ましてや若くて精神的にも大人になっていない由子なら、そう感じるのもそれは仕方のないことだ。
「けど一応言っとくから。みんな由子を気にしてる。さりげなくでも大袈裟でも彼女達なりに彼女達らしく。少なくとも由子に声をかけた人はそうだからね」
「それは…わかっています」
「そっか」
「はい」
「ならいいよ」
私は微笑んであげた。甘えられるうちに甘えておけばいいじゃないと伝えたつもり。
私のような素敵な大人の女性のように人や周りを見て、的確に思いを汲み取るには由子はまだまだ若いのだ。置かれている環境とか立場が立場だから、私達の精神的な成長は、ストレートの人達よりは早いのだけれど。
「私すごく大人げないですよね。ごめんなさい」
「子供が何言ってんだか。ちゃんと分かっているなら今は甘えておけいいから。私の胸なら貸すよ。ほら、DだよD」
「だ、大丈夫ですっ」
「要らないの?」
「要りませんっ」
「ま、コレは幸のだからな。やっぱ駄目」
「えーと、やっぱりちょっとだけ」
「駄目。はい残念」
「えーっ」
ふふんと余裕の笑みを浮かべている私を頬を膨らませて可愛く睨んでいる由子は嬉しいことを言ってくれた。
「いいですよー。私もそういう人、絶対に見つけますからっ。あ、辛。ほれにしれも辛いれすれこれ。美味しいれすれろ」
「うん」
フライを手に取りサルサをつけて、それをぱくぱく食べながら涙目になった由子は高らかにそう宣言をする。
「うん。由子は可愛いから。大丈夫、いけるいける」
「そう思います?」
振られるくらい、少し時が経てばどうということはなくなる。
幸せでも辛くても、百の体験談より一つの経験。その経験が己自身を成長させてくれるし己に自信をくれるのだ。
「うん」
由子は嬉しそうに微笑んだ。その自然な明るさに私は安心したけれど、話し始めてからずっと何かが私の中で引っかかっているのもまた事実。私はそれを口にする。
「あのさ」
「なんですか?」
「由子はなんで落ち込んでいたの?」
そう。麗蘭さんに失恋だろうと言われて、私もそうだと思い込んで話を進めていたけれど、落ち込んでいる理由をちゃんと由子の口から聞いたわけではなかったのだ。
「なんで?」
「えっ…あっ」
私達は固まった。それから互いの顔を見合わせて、何だよそれと笑い出した。
それから由子は何があったのかを、今さなら感じもしますけどと苦く笑って話してくれた。
要は、好きな女性に好きな男性が居て、それがくっ付いてしまったのだと。
同い歳で、高校からの付き合いで、大学は違うけどよく会って遊んでいる。
彼女は可愛くて、背は低いし誕生日も私より遅いけど、私には少しだけお姉さんな感じで、けどどこか間が抜けている。そんな女性だとか。
そうなることは何となく分かっていたとか、もう二年近く想っていたけれど、怖くて何もしなかったとか出来なかったとか。いま思うと、それが悔しくて仕方ないんだとか、やっぱり私は普通とは違うとよく分かってしまったとか。
「なるほど。やっぱ失恋なんだ」
「ぶーっ。軽い言い方ですね」
「そうだった。ごめん。けど私もね、失恋なんてそれなりにしたから」
今となってはそんなの全然へっちゃらだからと、私はははんと笑ってみせる。
私には今の幸との恋が最後のヤツだから。終わり良ければ今までのことも含めて全てよしというヤツなのだ。
「そうですよね。でも今は幸せですもんね」
「そういうこと。だから由子もそうなれるから」
今は笑えなくても最後に笑った人の勝ち。勝ち負けで判断するのはどうかと思うけれど、笑えるようになるのなら、笑っていられる方がいいに決まっている。
「はい」
由子はうんと頷いた。暗さは既に消えている。私にできることはこれくらい。私らしく私なりに、ただ話をしただけ。ほんの少し、フライの力を借りただけ。
「アレ美味かったな。辛かったけど」
少しして恵美さんがやって来た。夏織からスクランブルだってメッセージが来たんだけど、よかったもう平気そうねと微笑んでくれた。
私達の様子から全てを察してくれたのだ。文句のひとつも言わないで。
「ありがと恵美さん来てくれて」
「わざわざすいません」
「いいのよそんなこと」
恵美さんの言う通り、たぶん由子はもう平気。実った恋を失うよりも、実らなかった恋の方が、失ってしまった時はまだ楽だから。
実った美味い果実の味を知らなければ、ただそれを食べてみたいと憧れるだけで済むけれど、一度味わってしまったら、また味わいたいと切に願ってしまうのだ。それは辛くて苦しいものだから。
由子はまた落ち込むだろう。また落ち込むことはあっても、今よりはかなりマシなヤツ。どんな想いだっていずれ過去のものになる。憶えていてもその想いは忘れてしまう。そうやって何度か繰り返しているうちに、必ずこの女性だと思える誰かに出逢えるのだと私は思う。
「私と幸みたいに」
「そうですね。私も頑張ろうっと」
「ごちそうさま、夏織」
「昭和か」
あ、やっべ。
私はつい油断してしまったのだ。落ち込んでいた顔を上げて、私はやってやりますよと、前を向いた由子に嬉しくなってしまったから。
「夏織。それはどういう意味なのかしら?」
恵美さんは真顔。私をじっと見ている。こわい。
由子はふふふと笑っている。
「えっと…」
笑う由子に満足しつつ私は慌ててそっぽを向く。
私は今からそっぽを向いて口笛を吹かないといけないのだから。
いそげいそげ。
少し前になんだかなぁと思うことがありました。
けれど、私は今から甘くて美味いアイスを食べる。だから大丈夫、へいきへいき。
読んでくれてありがとうございます。