第三十六話
続きです。
よろしくお願いします。
午後九時過ぎ。
世間一般的には宵の口、夜はまだまだこれからだ的な時間、私は幸の実家にいる。
幸の両親と環さんは、遠慮することないよ、なんなら泊まっていけばいいと言ってくれたけれど、常識的にはそろそろお暇するべき時間。
誰ひとり頷くことはなくたって、私は常識の塊が服を着ているみたいな人だから、どうしようかなと思っているところ。
「うーん」
「くくく」
そう思った途端に幸は忍んで笑いだしていた。それは今も止まらない。ふるふると小刻みに震えていやがるのだ。
けれど幸は、今日は名実ともに美味いお酒をほんとに嬉しそうにくいくい呑んでいたから、今の幸はもの凄くご機嫌な単なる酔っ払いでしかなのだ。たぶん。
そう思えば、笑い出したタイミングが明らかに私を笑ったように思えても、幸は偶然にもそのタイミングで何か楽しいことを思い出して笑っているだけで私の常識云々なヤツを笑っているわけではないのだろうと、私はかなり好意的にみてそう思うことにした。
だから今回は制裁は加えないであげるのだ。私も気分はいいし、やはり私は優しいから。
「そうそうぅぅぅ」
「ここね」
そう思う私の傍で幸はいまだにくくくと笑っていやがる。
「くくくくく」
ともあれ無事にことを終えて、私と幸は市ノ瀬家のリビングにいる。けれど今ここに幸の家族の姿はない。幸の両親は寝室で前後不覚になっていて、環さん一家はもう帰ったから。
そして私は今日、見事にことをやって退けた。
もしも私達の同胞が今日あったことを知ったなら、夏織さん凄いね信じられないよと、私はもはや、あの界隈では伝説になってしまうくらいの活躍だったと思いたいほどだ。
私達は、私と幸が前に進んでいくための山をまた一つ超えたのだ。
「あああ」
実際のところ、幸の両親は最初からウェルカム的な感じではあった。同性愛者とかそういうのは気にしていないからね、関係ないからねみたいな感じだった。
それでも私と幸の両親のあいだには、私には私の、彼らには彼らの理由に基づいた緊張とか不安とか、猜疑心的なヤツが確かにあった。私は彼らが私に見せてくれている姿勢が本心なのかと思っていたし、彼らは私が幸を託すに相応しい女性なのかと、この女性で大丈夫なのかと思っていたと思う。
始終わたしの隣にいた幸は余裕の笑顔を浮かべていた。夏織なら大丈夫だよと、うちの親もねと、その態度で示してくれていた。それで充分だったけれど、私は私できちんと確かめたいと思っていたのだ。
だから玄関先での挨拶が終わってリビングへと招かれたあとも、互いを値踏みするように私達は話をしていた。
私はそこで、同性愛者をどう思いますかとか、幸の相手が私では嫌ですかとか具体的なことを訊ねたりはしなかったけれど、嫌われることや蔑まれることに敏感な私達には、さすがに私のセンサーがまあまあそこそこであっても、相手がどう思っているのかはなんとなくでも伝わってくるものなのだ。
ちな、幸の持つ優秀なセンサーなら、そんなことはすぐにまるっと完璧に分ってしまう…いや、泣いてないし。
真面目な話とか馬鹿話とか、そんな話をしていくうちに、幸の両親は、私の父さんと同じように私の隣に座る幸が凄く幸せそうにしているのを目にしてとても嬉しかったのだと思う。そのうちに、幸と似た優しい目をして笑顔を向けてくれるようになった。だから私はそこで値踏みすることを止めた。本心だと、大丈夫だったと納得できたのだ。
すると彼らは唐突に、いま私の思ったことを見透かしたかのようにどうか幸のことをよろしくお願いしますと言って頭を下げてくれた。
その真摯な態度と幸を想うもの言いに、私は涙が出そうになってしまったから、下を向くと溢れちゃうなと思って真っ直ぐに前を向いたまま、ただ、はいと返事をした。ありったけの幸への想いと、幸を愛してくれて、私達を認めてくれてありがとうございますという気持ちを込めて。
そしてそれはたぶん伝わっていた。幸の両親は私と同じように泣きそうな顔になっていたから。
ただ一瞬だけ、おお、夏織さんはそんなふうにもなれるんだ、意外だわ、みたいな顔をしていたのは気になるところではあったけれど。くっ。
私達に優しくない人がいっぱいの世間様からはもちろん、普段はフラット寄りな人達からでさえも私達の関係は理解も歓迎もされないだろうから、この先も親としての心配事は当然尽きることはないだろうけれど、頑張ってふたりで生きていくよと手を取り合って寄り添う私達を見て、話を聞いて、その絆を理解して、多少なりとも安心できたのだと思う。
ただ、幸のお父さんが私の父さんと一つ違うところは、娘を奪う君を殴らせろとはならなかったこと。
時々、幸をよろしくと何度か頭を下げてお願いしてくれただけだった。そして、それは幸にも言えることだからなと付け加えていた。
さすが出来の良い幸のお父さん。男親の嫉妬を随所に見せていた面倒くさい私の父さんとはわけが違うなと私は思ったけれど、それでも父さんの嫉妬はなんとなく私の顔を綻ばせてくれた。
そう。面倒だと思いつつも私はそれが嬉しかったから。
「で、やっぱり美味いヤツは美味いから、もう一度その、苺パフェDX2020を食べたいなと思って、また列の後ろに並んだんですよ」
「夏織ったらそんなことしたのっ?」
「えっ、普通じゃん」
「ほ、ほう」
「そ、それで?」
「そしたら、私のちょうど目の前で限定パフェ、本日の分はおしまいですよーって言われたんですよね。一時間も並んでいたのにですよ。くそう」
「ぷっ」
「ぷっぷっ」
「だから、普通にヨーグルトパフェを食べてやりましたよ。ええ。あれはあれで凄く美味いから当然ですね。ね、幸」
「え、私それ食べたことないよ」
「あはははは」
「ふふふふふ」
遠慮せずにたくさん食べてちょうだいねと言われた目の前で山積みのようになっているマカロンを遠慮なく口に放り込みながら、私が日頃のどうでもいいような話をすると、幸の両親は笑って聞いてくれた。もちろん環さん一家も。
「やっぱ美味いですねコレ」
「太るよ夏織」
「なんのこと?」
「「「ぷっ」」」
普段の私を見てもらう。だから私は遠慮はしない。そうやって家族の中に入っていこうとする私のことを、幸は隣で優しい目をして微笑んでくれていた。
「それにしても夏織さんは観ているとなんか面白くて話すとなかなかおかしいね。しかもこんなに可愛くて素敵な女性が幸の傍にいてくれるなんて、ありがとう夏織さん。幸をよろしくお願いします」
「本当にねぇ。夏織さんありがとう」
「幸も夏織さんを大切にしなさい。こんな面白おかしい人は中々いないと思うからな」
「そうよ幸。あなたは真面目過ぎるところがあるからね。その分、夏織さんはあなたにぴったり合うと思うわ」
「うん。わかってるよ」
と、こんな感じで幸の両親は私に頭を下げてお礼まで言ってくれた。
私はなんかおかしな台詞が付いていたような気がしながらも、私の方こそ幸がいてくれてこそですと先ずは素直に頭を下げた。
そのあとすぐに、いや、観ていると面白いとか話すとおかしいとか、それなんかおかしくねえですかと、観覧の観とか絶対に字面がおかしいし、わたし珍獣じゃないんですけどと私は思ったし、実際、珍獣じゃない旨を私はちゃんと伝えておくことにした。やはり伝えたいことは伝えておかないといけないのだから。
私は幸を肘で小突く。
「あたっ」
「幸。わかってるじゃないから。おかしいから」
私はびしっと言ってやった。
幸はいきなりの攻撃に驚いて目をぱちくりとしているけれど、思い当たった瞬間に、いや違うって、そういう意味じゃないんだってばと言い訳を始める始末。
それを尻目に私は次に幸の両親と、既にあはは笑っている環さんと旦那さんを鋭く見据えて言ってやった。
「いや、珍獣じゃないから。おかしいとかおかしいから」
どうよ? 私はばしっと言ってやったわけよ。真顔で。そしたらみんな固まっちゃったわけよ。
「ふん」
私の鼻息だけが響いたその一瞬の沈黙のあと、なぜかまた、あははははとみんなに笑われたけれどたぶん、伝えたいことは伝わった筈。みんなが困った顔をして、そういうことにしておこうか的な感じで笑っていたように見えたのは私の気のせいだと思う。大丈夫。いけた、筈。
私は笑い声の響く中で、やってやったと満足してもう一度、荒い鼻息を出した。
「ふんっ」
そんな中、みんなの笑い声が収まってもなお一人だけツボにハマった奴がいた。私に憚ることなく笑っていた環さんだ。
環さんは何がそんなにツボにハマったのか私にはよく分からなかったけれど、珍獣、珍獣だって、あはははは、ひーっ、あははははと笑いのスイッチを入れていた。
何時ぞやの幸と同じように暫く戻って来られなかったのだ。そのせいで凄くお腹を痛そうにしていた。環さんたら可哀想。
だから私は笑い続けていた環さんにちょっと鼻から息を吸ってみてくださいとお願いしてみた。
「んがっ」
完璧。
期待した通りの見事なまでのその音に私は笑ってしまった。
幸もみんなも一瞬驚いたあと、お腹を抱えて笑っていた。
「ひーっ、んがっ、あはははは、んがっ」
その環さんはその音を気に入ってくれたらしく、自らんがんがっとやりながらお腹を押さえてのたうち回って、私の目論見通りさらに暫く帰って来られなくなった。
お腹が痛いと苦しみながら笑って転げ回るその姿を見て、珍獣なめんな笑い過ぎでしょざまぁ見ろと私は思っていた。ふふふ。
その環さんは私にも健一君を抱かせてくれた。初めてのことだから、小さくて壊れそうか感じがして恐る恐る私の体で包むように抱いた。
幸を抱く時と同じ、これも命だなと私は感動していた。
「だあ」
「はいはいなんでちゅかー」
私が健一君を抱く姿に幸の両親は少し複雑な顔をしていた。それはきっと、孫を私が抱くことで嫌な気分になったのではなくて、何となく悲しくなったのだと思う。私が私でなければ、ビアンでなければそういう人生もあった筈だと思ったのだと思う。
「私は大丈夫ですから」
「そうか」
「そう」
「はい」
けれど私には命を産むつもりもそんな機会もない。そのことに何かを思うわけでもない。だって私は私だから。それは幸も同じ。
ただ願わくば健やかにと思うだけ。健一だけに。
「上手いね」
「ですよね」
「あはは」
こんなふうに、みんなで笑ってというか、私が笑われていただけのような気もするけれど、理由はどうあれ、みんなで笑って過ごすことができて私は凄く楽しかった。
「そうそおおおうぁぁ」
「ここかな?」
それから幸の両親は、環さんの料理と私が一品だけさっと作ったザーサイと豆腐の美味いヤツを摘みに大好きなお酒をぐいぐい呑み続け、泣き上戸で笑い上戸な姿を曝けたあと、今より少し前に酔い潰れてしまった。
そして先ほど、その酔い潰れてうーとかうへへとなっていた二人を、私と幸、環さんと旦那さんでどうにか寝室まで連れていって、ベッドに放り込んだのだ。取り敢えず今は眠っている。
同じようなペースで呑んでいた気がする幸は、目は少しとろんとしていてもまだまだイケるよとけろっしている不思議。
「くぅぅおおお」
「ここが硬いね」
「あだだだだ」
そのあと環さん一家は、夏織さんまた近いうちに会おうねーと、私のあげた玩具を握ったままむずがることもなくすやすや眠る健一君を胸に抱いて、あとはよろしくと帰って行った。
私のことや私達のことをなんの戸惑いも違和感もなく受け入れていた旦那さんの印象も悪くないというか今のところは凄くいい。
元からそうなのか環さんの影響なのかは分からないけれど、あんなふうに偏見のない人がいっぱいいてくれたなら、私達を取り巻く世界は自然と変わっていくんだろうなと私は思った。
「ね。くぅぅぅぅ」
「そうだね。なかなかいないけどね」
こうして今は幸とふたりきり。取り敢えずお互いの親との顔合わせは上手くいった。私達は受け入れられたのだ。
「はぁ、よかったな」
私は小さく呟いた。ほっとして肩の力が抜けて知らず知らずに大きく息を吐いた私にとっては寛がしいことだけれど、今までわいわいと楽しく騒がしかっただけに、やけに静かになったなと一抹の寂寥感も覚えてしまう。私は凄く楽しかったのだから。
「くぅぅっ、あー、そこっ。きくぅ」
「ここね。気持ちいいよねー」
そして私がこれ幸とソファに体を預けて思い切り脱力していたところを隣に座っていた幸が、よしよし頑張ったと頭を撫でたり肩を揉んだり肩甲骨の裏をぐいぐいして私を癒してくれているところ。そのあまりの気持ちよさに、あああとかおおおと言葉にならない呻き声が私の口から漏れ出してしまっているところ。
「はぁ。余裕だと思ってたけどやっぱ疲れた」
「お疲れ夏織。大丈夫?」
「うん。へいきへいき。なんたって認めてもらえたから」
「だから大丈夫だって言ったでしょう?」
「うん。感謝しかないな」
「普通だよ。自分達の娘のことなんだから」
「まぁね」
それはそうだ。私達がストレートであれば、もしくはこの社会に同性同士の恋愛に理解があって差別や偏見が無かったなら、こんな気苦労とか怯えとか悩みとか、そんなものを感じる必要すらないのだから。
そんなことはあり得ないけれど、今の社会がそうでなくても、親なんだからと期待してしまうのは当然のこと。だから幸の言い分はよく分かる。私は、自分の親については仲が良いから大丈夫かなと、幸よりももうちょっとお気楽に考えていたけれど、当時、親に期待していたのは私も同じだったから。
色々と覚悟はしていても、普段は達観しているようでも、私達は心の奥底では、そうだったらいいなと期待しているところはやはりあるのだ。
そして今日、私達の願いは叶った。私達の親は私達の期待を裏切ることはなかった。お互いに長いあいだ拗れてしまっていたけれど、結果としては、私と幸の期待通りの親だったのだ。幸の言う通り当然だとも思うけれど、やはりそこには感謝もある。
「けど幸だってやっぱり嬉しかったでしょ?」
「まぁね」
両親は期待に応えてくれた。そう嬉しそうに微笑む幸がまた私を撫でてくれた。
マッサージありがと幸、もういいよと、私は癒しのお礼を伝えて少し幸に体を寄せると幸は私に腕を廻してもっとこっちにおいでよと引き寄せる。
「ふふふ」
「なぁに」
「ありがと」
「そんなこと気にしなくていいよ」
「うんっ」
こうしてまったりとしながら幸に寄り添う私は目の前のテーブルに目を向けた。
午後九時半。そこには私のための淹れ立てのコーヒーと、まだ氷ができてないけどまあいいかと、幸がグラスを空にするたび注ぎ直してはストレートのまま美味そうにちびちびと呑んでいるタリスカーとそれの入ったグラスがある。逆にそれだけしかないとも言える。
そのグラスを傾けて、うん、美味しいと呟いている幸の声を聞きながら私はカップを手に取って、それをひと口飲んでほっと息を吐く。何か足りなくても、それは温かくて苦くて美味かった。
そして私は再びテーブルに目を向ける。残念ながら私のために幸の両親が用意してくれた甘くて美味い某フルーツパーラーの限定ケーキとマカロンはとっくのとうにそこにはない。主に私が食べちゃったから。
そのテーブルをじっと見ていると、その閑散とした様に私はまたしても一抹の寂寥感を覚えてしまう。
あれ? この感じ、さっき私が覚えた寂寥感はこのせいだったのかなと思ったけれど、いや違うでしょ、さっきのヤツとは別物だからと思うことにして、私はその寂しさを口にした。
「ケーキもマカロン美味かったな」
「くくく。よかったね」
「もうないの?」
「ないよ。あはは」
やっぱそうかと思ったけれど私はいや待てよ、他にも何かあったような気がするなと考える。確かに何かを目にした筈。
「うーん」
そして思い出した。
あとでみんなで食べようねと、環さん一家が買ってきてくれたけれど、結局わたしの前に出てこなかったヤツ、超有名ななんとかロールケーキがどこかで私を待っていることを。
「アレかっ」
「ん?」
疲れていた筈の私はそれを微塵も感じさせない素早さでソファからすくっと立ち上がって、さて一体どこに隠してあるのかなと、手を双眼鏡のようにしてみたり、獲物を狙うような鋭い視線をあちこちに向けてみるけれど、それが届く範囲には見当たらない。
「ないな。おかしいな」
「夏織、なにきょろきょろしてるの?」
「ねぇ幸。ロールケーキが見当たらないんだけど」
「ああ、環の持ってきたやつね。あれなら奥の仏間にあるよ。先ずは仏様にって環が持っていったから」
あっち。と、幸が指を差している。
「けど、私がお線香をあげさせてもらった時はなかったんだけど」
「あー。持っていったのはそのあとだね」
「そ、そっか」
そういうことなら仕方ない。図々しくも仏間に入り込んでお供え物を持ってくるわけにはいかない。いくら私でもまさかそんなことはしない。私は力なくソファに座り込む。
「食べる? なら、取ってくるよ」
幸はやらしいじゃなくて優しいから、それを取りに行こうと立ち上がろうとしたけれど私はそれを止めた。
私は今や素敵な大人の女性だから、幸に首を横に振って見せて、未練たらたら泣く泣く我慢をすることにしたのだ。
「…いい。我慢する。だ、大丈夫だから」
「泣くの? おいで」
「うっ。さちー」
もはや台詞をおいでだけで済ますことにしたらしい幸が私を呼んだ。私は迷わずその胸に飛び込んだ。
「あだっ」
「いたっ」
そこは微妙に固かったからちょっと痛かった。けれど私はそんなことは気にしないでぐりぐりと顔を擦り付ける。
「さちぃ」
「いてててて」
「わたしも痛いから大丈夫」
「なに言ってるの? あたた」
私がこうしてしまうのは、今日幸はずっと私の隣にいてくれたけれど、いちゃいちゃはできなかったから私は甘えたくなってしまったのだ。ロールケーキは明日食べればいいのだから、私はそんなことで泣きはしない。
「さちー」
「はいはい」
私がこうして泣きたくなったのは、私が疑っていたことなど少しもなくて、しかも快く受け入れられてほっとしたからだから。
今になってその実感が湧いてきて、私に向けてくれた笑顔や言葉が本物だったなと、そう思えてしまったからだから。
私はきっと、幸の両親が向けてくれたあの笑顔を忘れることはないだろう。私達は少なくとも、互いの身内から愛されていると思えたから。
「うぐっ。さちぃ。よかったよぉ」
「うんうん」
「さちぃ」
「おー、よしよし」
暫くすると落ち着いてきて、私は幸の胸に預けた顔を上げてありがとと微笑んだ。意図したわけじゃないけれど、涙に濡れた私のゆるふわな効果は覿面、幸は可愛くいってしまった。
「かは」
「ふふふふふ」
幸が事前に大丈夫だよと言ってくれていた通り、幸の親は私をあたたかく迎えてくれた。それは幸のお陰でもあり環さんのお陰でもあり、そして何より、私の人徳の致すところでもあったと思う。
「ねぇ幸もそう思うでしょ?」
「え。ま、まぁそうだねー。ぷっ」
「ん?」
幸は何を言っているのかなと言葉に詰まったあと、私をよしよしとする手は止めず顔を背けて忍びだした。
「くくくくく」
「なぜ忍ぶ」
「だって、夏織の人徳ってなんだっけか」
「ていっ」
私の人徳について幸が何かを言い切る前に、私は幸の脇腹に肘を押し付けてそれをぐりぐりとしてやった。幸はそこが弱いから。私は少し前にそのことを発見していたのだ。
「うがぁ」
変な声を出しながらびよんと跳ねてソファに転がる幸。私は満足しつつツッコミを入れておく。
「怪獣か」
私はふふふと笑いながら、テーブルにあるコーヒーに手を伸ばそうと幸から目を離してしまった。
「うがー」
「わわっ」
幸はすぐに復活すると、怪獣宜しくうがぁと叫び、私を押し倒してマウントを取った。
「ちょっ、幸、やめろって」
「いやよ」
とろんとしていた筈のその目はいま明らかにことをする時のヤツ、唇の角を上げて観念しなさいと私を見つめている。その幸の手が私の頬に触れて、私は動揺してしまった。
「えっと…幸?」
「大人しくして私に任せなさい」
このまま襲われてしまう。直感的にそう感じる。
私は慄きながらも幸の妖しい眼差しとか雰囲気や、こんなところでと、恥ずかしさやどきどきしてしまったことで私の体から力が抜けてしまった。
「覚悟して」
妖しく微笑む幸が顔を近づけてくる。キスをしてくれるんだと、私はつい目を閉じてそれを待ってしまった。
「うひゃひゃ」
幸は私を襲った。
よくもやったな、倍にして返すからねとかなんとか私の左耳に囁いて。
「いや、うひゃひゃひゃ」
「かわいい」
「うひっ。い、いやだ、って」
「知らない」
「ひゃーっ」
ぽかぽかと幸の背中を叩いたりしたけれど私は抵抗虚しく蹂躙されてしまった。
幸が満足するまで、私はあまりのくすぐったさに体を強張らせて身悶えていた。この酔っ払いの幸めがっ。
「はぁ、はぁ、疲れたぁ」
「お疲れさま。大丈夫?」
「このっ、このっ」
「あはは」
「ねぇ」
「なぁに」
「明日、これからのこととか、ちゃんと話さないと」
「そうだね。今夜はもう無理そうだしね」
「うん。無理そう、ていうか絶対無理」
幸は断言する私を不思議そうに見たあと、両親の寝室のある二階へと顔を向ける。その顔には笑みが浮かんでいる。
私はさっき幸があっちと指を差した方をじっと見ている。この顔には口惜しさが滲んでいる、絶対。
「どうしたの?」
「ううん。べつに」
「そう」
私が顔に浮かべている苦虫に幸が気づいてそう訊ねてくる。明日こそは絶対に食べてやるから待ってろよと思いながら私は首を横に振った。
「私達もそろそろ引き上げようか。お風呂入る?」
午後十時を回って、幸は少し眠たそう。楽しく呑んだけれど、肉体的にも精神的にも疲れているのだろう。今日のところはさすがに私も疲れてしまった。
「うん。そうするか」
「じゃあ、私の部屋にいこう」
「分かった。でも幸、これ片付けてからだから」
「えー」
立ち上がろうとする幸をがしっと掴まえて、私はテーブルの上を指す。幸は露骨に嫌な顔をして今日くらいいいじゃんと駄々を捏ね始める。
いつもの癖に今日くらいとか何を言っているのやらこのぽんこつはと思うけれど、確かに今日は疲れたし、もう、説得するのも面倒くさいから私は幸を追い出してあげることにした。
「やっておくから私の眠る場所とかお風呂の用意を任せるから。やっておいてね」
「オッケーわかった。まかせとけ」
よほど嬉しかったのか、グラスに残るお酒を呷って幸はとととととという足音とともにあっという間に消えていった。
「ふふふ」
ひとり残った私はテーブルのにあるお酒を片付けて、空になったグラスとコーヒーの残るカップを持ってキッチンに入り込んだ。他にも洗う物はないかなとそこらを見回して、これ以外にはないことを確認する。
幸の実家でこうしてひとりで洗い物とか、この感じはなんだか幸の嫁っぽいなと、私はにやついてしまった。ふへへ。
「さて、いくか」
片付けを終えて、全ての電気を消して階段を上がる途中で、幸の部屋へと向かう私は気づいてしまった。
「はっ」
幸の部屋ってどこなのよ? と、思ったけれど、これから探検を始めてしまえばいいのだと思いつく。
すぐに終わってしまうけれど、それはそれで楽しいものだから。
先ずは一階からだなと、私は階段を降りた。目指す先はひとつ。
あっち。
そう。要冷蔵とか本日中に召し上がれとかだったらヤバいから、先ずはそれを確認しなくてはいけないのだ。下手をすると泊まると決めた意味がなくなってしまうのだから。
「いやまじあぶなかった。気づいてよかったな」
ただ確認するだけだから。本日中なら食べるけど。てか食べないと悪くなっちゃうから。
いつものように長くなりました。けど、読んでくれている皆様はもう慣れっこだと私は思うから、きっと大丈夫、へいきへいき。
読んでくれてありがとうございます(๑˃̵ᴗ˂̵)