第二話
あらためまして、ブックマーク、評価、ありがとうございます。
続きです。
夏織は頑張りました。温かく見守ってやってください。
よろしくお願いします。
「だから起きたらむくんでいたんだよね」
「飲み過ぎるくらい楽しかったのね」
お誘いを受けた私はとあるバーにいる。通い続けてもう十年にもなるこのバーのテーブル席に座って、向かいの女性と話をしながら少し癖のあるサンペレグリノにブラットオレンジの果汁が入ったヤツをちびちびと飲んでいる。美味い。
今はだいぶ良くなったとは言え、まだ顔がむくんでいるし昨日の今日だからお酒を控えているんだけれど、これはこれでお腹が膨らんでしまうかもと、私は少し後悔していた。それに酔ってしまった昨日のことも。
「まぁ楽しかったよ」
「そう。それはよかったわね」
「でも途中から酔っ払っちゃってよく覚えてなくて」
「そう。それは間抜けよね。笑っちゃう」
そう言って本当にふふふと笑い始めたその女性は、このバーで知り合ってもう十年にもなる三つ年上の恵美さんだ。ふふふふと口に手を当てて笑う姿は愛らしくも様になっている。
「ふふふ、間抜け」
「うるさいなぁ、自分でもそう思ってるから」
学生の頃、私が初めてこのバーを訪れた時に一番最初に話しかけてくれた女性が恵美さんだった。
緊張して扉の側でおどおどしながら立ち竦んでいた私を見つけて声を掛けてくれた女性。
そのまま導かれるように席に着いて、飲み物を手にお互いの自己紹介を終えるや否や、私が堰を切ったように私の抱えていたモノを話し始めてしまったその全てを、長い時間親身になって真剣に聞いてくれたとても優しい女性
もしも私に姉がいたのなら、きっとこんな感じなんだろうなと思わせてくれる女性
『夏織さん。それはね、ここにいるみんなが葛藤しながら悩んで苦しんで歩いて来た道なの。私も同じ。だから貴女も大丈夫。顔を上げて周りを見てみなさい。みんな笑顔で楽しそうでしょう?』
そう言って、初対面でどこの誰かも分からない他人の私を励ましてくれた女性
こうしてバーに通い始めて、恵美さんや他の女性達と話をしているうちに、私は私がビアンであることをちゃんと受け入れるこができて精神的にも凄く楽になれた。
それ以来、恵美さんとはたまに連絡を取り合って、時間が合えばこうして一緒に席に着いてお互いに話をしたり聞いたりしている。
そうそう。これは恵美さんには内緒の話なんだけれど、その当時、とても親身になってくれた恵美さんのことを私は当然のように好きになった。でも恵美さんには恋人が居て私の入る余地なんて少しも無かったから、私は気持ちを伝えることはしなかった。
結局、私の恋は儚く叶わぬものに終わってしまった。
「なんてこともありました」
「懐かしい。夏織ったら分かり易くて。ほんと、いちいち可愛かった」
「えっ、うそ。バレてる?」
「さぁどうかな。でも夏織の気持ちは嬉しかったよ。うふふ」
「バレてるじゃん」
今、うふふと微笑んで私を見ている恵美さんは、真っ直ぐな黒髪セミロングがよく似合っていて、気の強そうなくりくりっとした目とよく見ると茶色ではなく薄い翠にも見える瞳を持つ、その上品で落ち着いた物腰と性格からはとても想像できないキャリアウーマンを地で行く女性だ。
今日は少しだけオフィスに顔を出して来た帰りなのよと、休日出勤をちょっと一階までゴミ出しに行ってきたみたいに言われても、特に意識の高いわけでもない私には休日なのにお疲れ様でしたとしか言えない反応に困る話ではある。
「あ、そうだ。陽子さんは元気ですか?」
「相変わらずよ。でも今はさすがに寝ていると思う。夜勤が明けても残って仕事をしていたみたいだから」
「あー。それは陽子さん、ご愁傷様だね」
「伝えておくね」
私が恵美さんの恋人の陽子さんに向けて、ちーんと声にして手を合わせると、恵美さんはくすくすと笑った。
「それで。夏織は本気なのね?」
「本気。とにかく私は幸がいいの。今の私にはストレートとかビアンとか、そういうの関係ないから」
中休みのような何てことのない会話のあと、恵美さんは再び私の話に戻した。
恵美さんは、ここで落ち合って飲み物を頼んだあと直ぐに私の決意を話し出した私を止めることなくあの時と同じように真剣に聞いてくれていた。
その恵美さんがふと押し黙ってしまった。私はどうかしたのと首を傾げて恵美さんをみつめた。
「恵美さん?」
「少しうらやましいかな」
「なにが?」
「そうやって熱くなれるところ。自分を信じてるって言うのかな、こと恋愛に関しては、良くも悪くも落ち着いてしまった私には、そんなエネルギーはもう無いから」
「陽子さんと何かあったの?」
「そういうことではないの。陽子と暮らせて私は幸せだから。それを失うつもりなんかないの。それとこれとは別な話よ」
「じゃあ、さらば青春のって感じのヤツ?」
「そうね。ええ、そんな感じ」
恵美さんは少し寂しそうに微笑んでいる。その微笑みは失くしたものを寂しげに懐かしんでいるように見える。
それはたぶん、なんの根拠もなく若いというだけで自信に溢れ、私は何だってできる筈だと思い込める十代から二十代前半特有の無敵感とか万能感とかそんなもの。
こと恋愛に関してと言うのなら、好きという想いだけで思い切り突っ走って、笑って泣いて喜んで悲しんで。そうやって夢中になって結局は傷ついて、それでも色鮮やかに輝いていた日々のこと。
この私でもたった一度だけ、そんな時があった。それなら恵美さんにもそんな時があって当然だ。
「そっかぁ」
私にもいつかそう思う日が来るのだろうなと、私はやけに切なくなってしまった。
そう遠くないいつか。もうその足音は私にも聞こえている。きっと、幸とのことにケリがつけば、直ぐにでも追いつかれてしまうかも知れない。
「何にしろ、今回は大丈夫よとは言えないけど、夏織には何とか叶えて欲しいと思っているからね」
足音は聞こえても、振り返らなければいい話。その影を目にしなければいい話。いつかは必ず追いつかれてしまうものだけれど、それは今じゃない。
私は感じている切なさを振り払うように笑顔を見せる。
「ふっふっふ。任せなさい。わたし頑張るからさ」
私は敢えて、楽しそうに微笑んだ。
ともあれ昨日、幸と飲みに行った時から私は私を偽ることを、隠すことをやめた。小出しにするつもりでいるけれど、幸への気持ちを隠すことなく本当の私を幸に見て貰うことにした。
「幸、何にする?」
「ビールで。屋敷は?」
「私もビールで」
並んで歩いていた私達は目についた店に入って、今は向かいあって席に着いている。
お互いに見やすいようにメニューの向きを逆にしたり、少し身体を捻ったりしながら、何を食べようかとそれを見ていると、さっきまで隣にいた幸がその分だけ遠くなってしまった気がしてなんだか寂しくなってくる。
「乾杯」
「かんぱーい」
けれど、やって来たお酒とか適当に頼んだ食べ物を摘んでいる幸の楽しそうな顔を見ながらいつものように楽しく会話をしているうちに、その寂寥感は早々に消えて居なくなってくれた。
「あ、これなかなか美味しい」
「どれ?うん。美味いね」
いつもより早いペースで飲んだ四杯のお酒が気持ちよく回ってき始めた頃、よし、今から攻めるぞいざ出陣と、私は気合を入れた。
確か男性は二の腕に触れられるとどきっとするとか女性は髪を撫でられると嬉しいとかなんとか、そんな都市伝説があった気がするけれど、二の腕はまったく関係ないし、向かい合って座る幸の髪を何の脈絡もなく立ち上がったり手を伸ばしたりしていきなり触れるのはどうにも不自然過ぎる。だからこれは没。
私は五杯目のお酒を口にしながら少し考えて、できることからやってみることにした。
先ずは私の想いを込めて熱く幸を見つめてみる。手始めとしては悪くないだろうと思って。
「なに?顔になんか付いてる?」
そんなこと言い出して自分の顔に手を当てて確認し始める幸。
ああ、幸。違うの。違うから。そうじゃないから。今のは私の熱い眼差しだから。
「ちっ。失敗か」
「ん?」
いや、待った。ここは幸の勘違いを利用して、私が拭いてあげるからね的な感じでもいいかも知れない。うん。そうだ。それがいい。よしっ。
「幸。取れてないよ。私が拭いてあげるからちょっとこっちきて」
「取れてない?ならお願い」
幸がテーブル越しに乗り出すことで私に近づいてくる幸の綺麗な顔のどの辺りを拭こうかなと、バッグから素早く取り出したポケットティッシュを手に私は考える。その結果、やはり口元にソースが付いているよ的な感じでいくことにした。
「ここだよここ。ここにソースが付いてるの」
私は手を伸ばして幸の口元を拭った。その時に私の指が幸の頬に触れるようにすることも忘れなかった。完璧。
だだだってささ幸は今、か、確実にどどどきっとしたはは筈だから。よ、よし。
「ん。ありがと屋敷」
「う、うん。どういたまして」
「屋敷?」
「な、何でもない」
待った。おい私。馬鹿なの?なんで噛むの?なんで幸から顔を背けるの?触れた私が照れて動揺するとかマジあり得ないからね。私は攻める側だから。照れるな私。ほら、気を取り直してがんがん攻めるのよ。
内なる声に頷いて、私は勢をつけようとグラスを呷ってお代わりを頼んだ。
「すいませーん。お代わりください」
そんな私を首を傾げて不思議そうに見ている幸。 もしかすると幸には私が挙動不審に見えているのかも。それなら今の失敗も含めて挽回しなければ。よし。
幸はまだ私をじっと見ている。その痛いものを見るような視線に耐えながら、私は幸にお代わりどうすると訊くのを忘れない。幸のグラスがほぼ空になっていることは確認済みだから。今度は私が得意な甲斐甲斐しく世話を焼く作戦だから。
「幸は?」
「私も貰う。同じので」
「分かった。あ、こっちも同じヤツください」
これは完璧。え? なぜって、幸と飲む時はいつもやっていることだから。慣れているこの作業に関しては私にミスはひとつもあり得ないの。
「幸、もっと食べるでしょ?」
私は続けてテーブルにあるサラダとおでんの盛り合わせ、チャンプルー的な炒め物を指す。
私が取り分けちゃうからねと、取り皿と取り箸を手に可愛く言ってみる。
「うん」
「オッケー」
これも完璧。ん? なぜって、しつこいな。いつもしていることだからよ。
私はどれにするとか訊きながら慣れた手つきでお皿にささっと盛って幸に差し出した。その際、受け取るために手を出した幸の指先に触れることも忘れなかった。
「ありがとう屋敷」
「う、うん」
ちち、違うから。わわ私は触れた指先に照れて動揺したんじゃないんだから。お礼を言った幸の笑顔にちょっとどきっとしただけだから。作戦は上手くいっているんだから。
「はっ」
「ん?」
待った。もしかして、いつもしていることをしても全然意味無いんじゃないの。だってこれって意外性とか何もないし、私達の間では至って普通のことだから。これじゃあなんのアピールにもならないじゃない。マジかぁ。なんだよもう。
「くそ。失敗か」
「屋敷?」
幸の声には答えずに、私は再びグラスを空にしてお代わりを頼んだ。
「すいませーん。おかわりくらさい」
は? なぜって、うるさいなもう。いちいち訊かないでよ。
失敗続きでとても飲まずにはいられない気分になっれしまっらららろ。
「ちょっと屋敷。ペース早くない?なんか揺れてるけど。大丈夫?」
「ん?わらしはまらまだらいじょぶらよ」
らっれ、揺れれいるのはわらしじゃなくて幸ららら。この店ららら。れしょ?
「あーあ、もう。飲み過ぎだよ屋敷」
「うふふふふ、なんかたのしーれ」
そのあとのことは、お酒のせいで気分良く笑っていたことは覚えているけれど、どんな風に過ごしていたのかよく覚えていない。
手を替え品を替え、不自然だろうが何だろうが、やたらと幸に触れようとしていた気もするけれど、気づいた時には夜中の三時を過ぎていて、コート以外は着の身着のままベッドの上だったから。
ただ、幸の匂いに包まれていた時間があったような気がしている。送ってくれた時がきっとそうなんだろうと思う。
そして、唇には私の物とは違うリップの色と香りがあったような気もしている。
それはふと目を覚ました夜中の三時過ぎ、何気なく口を擦った私の手の甲についたもの。幸の色。幸の残り香。寝ぼけていたから定かではないけれど。
そのまま二度寝した私は、メッセージの受信音で目を覚ました昼近く、起き抜けに鏡を見て驚くことになった。
「うわぁ、むくんでる。化粧も落としてないし。あー、飲み過ぎちゃった」
むくんだ顔を見ながら私は思う。私はもう三十歳。これが歳相応ということか。
「と、こんな感じだったかな」
「微妙ね」
「あ、やっぱり」
「でも、その子もいつもと違う夏織には気づいたんじゃないかな。それだけでも違うとは思うけど」
「そうだよね。昨日のことを引いてるわけでもないみたいだし」
そう言ってスマホを取り出して、幸から送られて来たメッセージを恵美さんに見せた。
屋敷を送ったのは当然私だ。少々重かったぞ。部屋の合鍵は預かった。返して欲しければ来週ランチを奢れ。
ps 無造作に合鍵を置いておくな。不用心だぞ。この馬鹿ちんがっ
「ぷっ。ふふふ。面白い子なのね」
「うん。面白くてかっこよくて、綺麗で魅力的なの。幸は」
「あら、それはごちそうさま」
それはいつの時代の台詞なのと、私は突っ込まない。恵美さんに怒られそうだし、今日はお酒を飲んでいないからそんなヘマはしない。でもね。
「恵美さんもそうだったから。凄く素敵だった。私はね、恵美さんのこと本気で好きだった」
恵美さんは私の言葉に驚いた顔をした。そして凄く嬉しそうな笑顔を浮かべ始めた。
十年も前の話。私と恵美さん、今も紡がれているそれぞれの物語のほんの一部分。青い春。
けれど、無かったことは無かったこと。今の私がただ伝えたくなっただけの言葉。
恵美さんが失くしたと思っているものは、形を変えて私の中にある。恵美さんが懐かしむ誰かの中にもきっとある。いつか忘れてしまっても、私の中に、誰かの中にあることに変わりはない。そんなものだと私は思う。
「夏織も言うようになったのね」
「でもそうでしょ?」
「そうね。そうだよね夏織。ありがとう」
「えへへ」
素敵な笑顔を浮かべたまま恵美さんは、すっと手を伸ばして私の髪を撫でながらそんなことを言った。
夏織も大人になったのねと、褒めてくれたようで私も嬉しくなって照れてしまった。
「上手くいくといいわね、夏織」
「うん。ありがと恵美さん」
私は幸に、ただ貴女が好きというだけでなくビアンであることも伝えなくてはならない。乗り越えるハードルは高いけれど、私はやってやるのだ。まあまあそこそこは伊達じゃないのだから。
「やるぞーっ」
「夏織、いきなり大きな声を出さないで。びくってなるから」
「あ、ごめん」
いつもより早く帰って来た部屋で、私は酷く悩んでいた。
「ところで夏織。その幸さんは本当にストレートなの?」
「えっ。そうだと思うよ。えっと、そうだよね?だいたい私と同じだなんて考えたことないし」
「そう。まぁいいんだけど」
「恵美さん、何で?」
「夏織の話を聞いてなんとなく。夏織の言動にその子が取るリアクションが私達と同じかなって。ただなんとなくなんだけどね」
言われてみると確かに幸はビアンかもと思わせるような雰囲気をたまに醸し出していたような気がしな……しなかったかな。うん、少なくとも私は感じなかった。
私のまあまあそこそこセンサーでは、バーで出会うようなとてもわかりやすい女性にしか反応しないから………いや、泣いてないし。
昨日の夜は私がわちゃわちゃやり過ぎて、幸の反応を確認する余裕はなかった。それに、これまでも私のことを隠すことで精一杯だったから、そんな目で幸を見たことはない。
けれどあの恵美さんがそう言うのなら、何か引っかかるものが私の話の中にあったのかも知れない。
もしも幸がビアンだとしたら、それは私にとって都合のいい話ではある。まさかと思うけれど、幸がそうだったらいいなとも思う。
「うーん。でも、まさかそんなこと」
知りたいことは訊いてみるのがいいかも知れない。今なら余裕で訊けるから。
「ねぇ幸。幸は私と同じなの?」
少し待ってみたけれど、呟く声に答える者など居るわけもなく、私は自分を嘲るように鼻で笑ってしまった。
「アホくさ」
私はよいしょと立ち上がって、もう眠ろうと部屋の明かりとエアコンを消してベッドに潜り込んだ。そしてまたそっと呟いた。
「おやすみ、幸」
クリスマスですね。私にはあまり関係ありませんが……いや、泣いてないし。
読んでくれてありがとございます。