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woman  作者: しは かた
36/102

第三十一話

続きです。

入れたい話があったので長くなってしまいました。


よろしくお願いします。

 


「おお?」


 私に続いて幸が足を踏み入れた瞬間に少し、というか明らかに雰囲気が変わった。

 騒がしいという程ではないけれど、それなりに(ざわ)ついていた店内がほんの一瞬だけ静かになって、聴こえていたのは流れる音と私達に気付いていない人達が出す音だけになったのだ。そのせいで私の口から驚きの声が出てしまった。もちろん、こうなった原因は幸にある。



「すごいな。この感じは初めてかも」


 すぐに戻って来た騒つきの中、いまだに幸の姿をじっと見つめている女性達が何人もいる。ざっと見回してみても両手に余るくらいはいる。

 私はかっこ綺麗で颯爽とした幸の持つ容姿ゆえの影響力というか他を圧倒する雰囲気を自然と醸し出している幸に、さすがは幸だなぁと感心していた。


 そして私はこれ見よがしに、幸の腕に私のそれを絡めて手を繋ぐ。

 何となくしてみた示威行動。それは、このバーに於ける不文律、今ここにいる女性達に自制を求める暗黙の了解的なヤツだ。

 つまり私は、この女性は私のだから余計なことはしないでね、お願いしますねはい残念と、アピールしてみたのだ。


 それのお陰で幸への興味の視線は殆ど無くなった。

 私のアピールが正確に伝わらなかった人も居るようだけれど、まぁ、興味を持つのは自由だしどうするのかは当人次第だから、私は誰にともなく不適な笑みを浮かべるだけにしてその視線は放っておく。

 ここに幸を連れて来ることで、こうなる可能性があることを私はちゃんと分かっていたのだから。


 それに私は万が一の心配はこれっぽっちもしていない。だって幸は私のことが大好きで大好きで仕方ないわけだし、幸の恋人として私以上に相応しくてよく出来た恋人になれる女性がいる筈ないのだから。たぶん。

 だから大丈夫。全然平気。



「この感じって?」


 繋がれた手を優しくもしっかりと握り返してくれた幸が何のことかと首を傾げている。


「みんな、じゃないけど幸を見てたから」


「そうみたいね。なんか照れちゃうな。あはは」


 そう言いつつも注目されることに慣れているだろう幸は、多くの視線を意に介さず、涼しげな顔をして余裕で受け流している。繋がれた手に満足してふんふんと歌でも口ずさみそうな雰囲気だ。

 そして、今も感じている筈の興味の視線もなんのその、私に体をぴたりと寄せてにっこりと微笑んだ。

 幸はそうすることで、この女性は私のですよ、だから手を出してはいけないよとアピールしているのだ。それが凄く嬉しくて、私の不敵な笑みが素敵な笑みに変わっていくのが分かる。それは幸せのあまりに自然と浮かんでしまうヤツ。ふへへと微笑む私の顔はだらしなく緩んでいるに違いない。


 でもね幸、私がこのバーで口説かれることなんてもう何年もないんですけどと私は思った…いや、それはそれでなんか泣きそうだし。


「くそう」


「なぁに」


「なんでもない。にしても幸、照れるとか言って全然照れてないじゃん」


「まぁね」


 大きく波打つ髪を耳に掛けながらにっと微笑む幸を見て相変わらずかっけーなぁもぉと私は思った。




 午後七時半。私は幸を連れていつものバーにやって来た。幸を恵美さんに紹介する為だ。

 今週の頭、転職の話はちゃんと考えてくれているのかと恵美さんからメッセージがやって来たのだ。

 タヌキのスタンプが付いている意味が私にはどうしても理解できない、何となく不快な気分にさせるそのメッセージには、夏織を鍛えてあげるからとか早く一緒にばりばり仕事しましょうねとかなんとか、私が最も恐れ危惧していたことも書いてあった。こわい。


 私はあまりのこわさにぶるぶると震えながらも、私のことはともかくとして凄く優秀な人がいるよ、幸だけどと、あることあること伝えて推してみたところ、何ですって、是非とも幸さんに会わせなさいと喰い付いてくれたのだ。


 転職の話は幸自身が凄く興味を持っているし、これでいけるぞ大丈夫だと本能がそう理解したのだと思う。そのメッセージを読んだ途端、私の震えはぴたりと止まった。

 私は安堵のため息を吐いて、わかった連れていくねと返信しておいたのだ。


 ちなみにこれは余談だけれど、私はついでにタヌキのスタンプ付けるとか意味わからないし送ってくる意味なくないと、自分でもよく分からないけれどどうしても送ってくる理由を訊きたくなって恵美さんに伝えてみた。


 少しして返ってきた来たメッセージには、夏織がタヌキに似ているからに決まってるでしょう、今更何を言ってるのかしら変な子ねと、呆れたふうに書かれていたのだ。


 私はそれを見ながら再びぶるぶると震えてしまい、暫くのあいだ体育座りをしながらこわいこわいと呟き続けていたような気がする。なぜ気がするのかというと、私にはそこから先の記憶が定かでなくて気づいたらベッドの上でいつもの朝を迎えていたからだ。超こわい。


 とにもかくにもそんなわけで、きっとタヌキのことなど私の妄想だったと思うことにして、私は今夜、私の世界に幸を連れてきたのだ。




「あ、幸。こっち来て」


「はーい」


 いつもの席に着く前に、私は幸をオーナーの麗蘭さんには紹介することにした。年齢の話はタブーだからとこっそり伝えると、普通は女性にそんなこと訊かないでしょう、夏織ったら何を言っているのという顔で見られてしまった。


「あれ?」


 その昔、恵美さんにそれを言われた私は一体どんなふうに思われていたのだろう。そんな疑問が頭に浮かぶ。いくら若かったとはいえ、私だってわざわざ釘を刺さなくてはならないほど空気を読めない人間ではなかった筈なのに。


「おかしい」


 あとで恵美さんを問い詰めなければと私は思った。




 麗蘭さんはカウンターのいつもの席に陣取ってゆったりとグラスを傾けている。近づく私達の方に顔を向けて、ゆらゆらと手を振ってくれた。


「麗蘭さんこんばんは」


「いらっしゃい、夏織さん。じゃあ、凄く綺麗なこちらの方が?」


「はい。私の恋人、幸です」


「市ノ瀬幸です」


「いらっしゃい、麗蘭よ」


 何となく龍虎の邂逅を思わせる幸と麗蘭さんは、挨拶もそこそこに私のことを話し始める。

 やれ甘いものが好きとか、我儘だとか毒を吐くとか、最近肉が…いやそれはいいかなとか。

 麗蘭さんは優雅な仕草でそれを聞きながら私に目を向ける。


「よかったね。夏織さんの話をしている幸さんの顔はとても優しい顔をしているから。きっと夏織さんのこと、大好きで仕方ないのね」


「えへへ」


 麗蘭さんはそんなことをそっと教えてくれたあと、再び幸と何やら話し出す。


「私はですね」


「あらそうなのね」


「そんな感じですかね。あはは」


「なるほどねぇ。うふふ」


 見た感じといい纏う雰囲気といい、やはりこのふたりは同じ匂いがするなと、私はあははうふふと談笑しているふたりの姿を見てそう思った。



「夏織さん」


「なんですか?」


 その麗蘭さんが私を見て、夏織さん、いつもより姿勢がいいね、気持ちはわかるよと、幸の隣でくっついて隠しきれずにふんすと自慢げな私の様をくすくす笑う麗蘭さんにそう言われてしまった。

 麗蘭さんは私が愛しの幸を自慢したくてうずうずしているのを分かっていたのだ。


「なんか恥ずい」


「あはははは」


「うふふふふ」



 そのあと私はほんの少々、幸の自慢をさせてもらったというか麗蘭さんがさせてくれた。

 少々なのは幸の良さを語るには時間が足りなすぎるから。だからほんの触りだけを麗蘭さんに聞いてもらった。幸は凄く優しくて、甘やかしてくれて、守ってくれるとか。


 私が嬉々として話す、他の人からすれば本当にどうでもいい惚気た話を、麗蘭さんはいちいちうんうんと頷いて笑顔で聞いてくれていた。そのあいだ、幸は少し照れながらも私の隣で微笑んでいた。


「ね、幸」


「私に言われてもなぁ」


「でも本当のことだから」


「ふふ。夏織さん、ごちそうさま」


「こちらこそ、お粗末でした」


「何それ。あはは」


「うふふ」



 私は当然、目の前で手の甲を口元に当てて優雅に笑っている麗蘭さんに突っ込まなかった。表情にも出さず微動だにすらしなかった。だってもしも麗蘭さんにそんなことをしてしまったら、確実に出禁になってしまうから。毒を吐いたり思ったことを素直に口にするのもいいけれど、場合によっては長いものに巻かれておくのもありなのだ。そうして世界は回っていくのだ。


「そうそう」





 そして私達は今、私のいつもの席に着いて頼んだお酒を飲みながらこれまた適当に頼んだ摘みを食べている。


「これ美味しい」


「足りなかったらまた適当に頼むから」


「うん」


 幸はえびパンをぱくぱくと食べている。凄く満足そうで私も嬉しい。

 私は定番の野菜スティックを齧りつつ、もの凄く気になって仕方のなかった、本日のお勧め的なヤツ、何かの唐揚げにかぼすを添えてを、また何かなのかと思いながらもついつい頼んでしまったソレを箸で摘んでじっくりと観察している。


「うーん」


 先ず形からして凄く怪しい。先入観からなのかもしれないけれど、何となくげこげこと鳴くアイツの脚にも見えなくもないの。もはやそれにしか見えないの。でめたん的な何か。


「け、けろっこか?」


「ん? コロッケ? 唐揚げでしょう?」


「え」


「ん?」


 何か噛み合っていないけれど置いておく。今はそれどころではないのだから。

 もちろん、里香さんの作るヤツだから美味くない筈がないのは分かっているけれど、けろっこかもしれないのだからコレを口に運ぶのにはもの凄く勇気がいることも確かなのだ。


「あ、これ美味しい。うん、かぼすも合うよ」


「へ?」


 幸の声に顔を向けてみると、幸は既に、もぐもぐと何かの唐揚げを美味そうに食べていた。

 まじか凄いなさすが幸。げこげこの脚のように見えるヤツを全く気にしないとは。



「ねぇ幸。それ何の肉だと思う?」


「さぁ? 鳥か豚か、もしかしたら魚かも。たぶん牛肉ではないと思うよ」


 もぐもぐやっている幸はやはり腹ぺこ、美味しければ何だっていいんだよと、残りを口に入れてからまたひとつそれを手に取って、唐揚げの真ん中、ちょうど関節っぽいところに齧りついた。

 そんな姿も様になっている幸は手喰いの似合う女性でもあるのだ。見ていると、ワイルドでしょう? と声が聴こえてくるくらいカッコいいのだ。



「ほぼほぼ全部じゃん」


「あはは。私にわかるわけないよ。強いて言うなら、そうだね、これは…」


 幸が、うーん、何だろうと、齧ったところを真剣に見つめだす。私は答えを期待して、つい幸の方へと身を乗り出していた。


「これは?」


「謎肉だね」


「そうきたかぁ」


「だから、私にわかるわけないって。あはは」


「幸に訊いた私がアホだった」


「だね。あはははは」





 そしてそれから暫くは私達の席にやって来る知り合いの常連さんとか店の人達に幸を紹介していた。そのたびに、こんな綺麗な人が夏織さんのいい人なんてねーとか夏織さんも隅に置けないねーとか言われていた。


「いい人って。昭和だなぁ。よく知らないけど」


「あはは」



 それが一段落して、さて幸といちゃいちゃして過ごしていようかなと思ったところに恵美さんがやって来た。



「夏織。お待たせ」


「あ。恵美さん、お疲れ様」


「お疲れ様」


「何飲む? 食べ物は?」


「取り敢えずビールかな」


「わかった」


 私は席を立って店員さんを掴まえた。それから向かいに座る幸の隣に移動する。それを待っていたかのように恵美さんは私の座っていた席に腰を下ろした。私はそこを指差した。


「あっためといたから」


 何を言っているのよと恵美さんは笑いながら、向かいの幸に会釈をしている。幸もそれに返している。


「夏織の言っていた通り綺麗な人ね」


「そうだよ。幸はかっこよくて綺麗で優秀で聡明なの」


「ちょっと夏織。ハードル上げないでよ」


「いいのいいの。本当のことだから気にするなって」


「ふふふ」


「もう、まったく」


「いつもこんな調子?」


 ええ。あ、聞いてください、この前もですねーとか言って幸が私について何か話をし始めたけれど、私は幸の嫌がることは何ひとつしていない筈だらか気にしない。たとえしていたとしても、幸は私にはとても優しいし愛されているから大丈夫。

 実際、麗蘭さんの言う通り、幸は口ではぶつぶつと言いながらも、いま私について話をしているその顔には笑みが広がっているのだから。



「ふふふ。けどかわいいと思うのよね?」


「まぁ、結局そこに落ち着くんですけどね」


「私も似たようなものよ」


 私のパートナーもこの前ねとか言いながら恵美さんはぽんと幸の肩を叩いた。その顔はやはり嬉しそう。恵美さんが陽子さんをどう想っているのかよく分かる。恵美さんはきっと幸せなのだ。


 午後八時半。いつもの時間。恵美さんは相変わらず時間に正確だった。



「むり」


 私は確信してそう呟いた。私を置いてけ堀にしている幸と恵美さんには聞こえない。ふたりはいい感じで話をしているし、これならきっと大丈夫だと、私はほっとして息を吐いた。



 そして私はあらためて恵美さんに幸を紹介する。


「もう必要ないかもだけど、幸だよ。それで、恵美さん」


「よろしくね」


「こちらこそ」


 互いに手を出してにこやかに握手を交わしているのを横目に見ながら、これで私の仕事は終わったぞと、私はビールを飲み干して摘みに手を伸ばしそれを口に入れた。

 その途端、口の中いっぱいに広がる醤油と生姜ベースの味にかぼすの酸味。そこに隠れているのはほんのり香るニンニクとチリ。さくっと揚がった衣と柔らかい肉の感じがまた美味い……美味い?


「げ」


 そう。私は何かの唐揚げをそれと意識せずに食べてしまったのだ。


「うわぁ」


「どうしたの?」


「幸どうしよう食べちゃった」


「どうしようって、美味しいよね?それ」


 幸は私も食べようとか言って何かの唐揚げ摘んで頬張った。私の想いは全く伝わらなかったのだ。この腹ぺこめがっ。


「そうなの?、私もいただくね」


「え」


「どうぞ。美味しいですよ」


 幸につられた恵美さんも何かの唐揚げを戸惑いなくぱくりと口に入れ美味しいとか呟いてから、やって来たビールをこくこくと飲んでいる。


「まじかぁ」


 なぜにふたりともこのげこげこ鳴くヤツの脚っぽいこの唐揚げを普通に食べられるのだろう。いや、私も食べてしまったけれども。


 そのあとも、もうひとつとか言って何かの唐揚げに手を伸ばすふたりを見て、私は勇者だなぁと思いながら、それがお皿から消えてなくなるまで食べ続けていたふたりを見ていた。



 その恵美さんのモードが一瞬で切り変わる。


「それで幸さん。そろそろいいかしら?」


「ええ。もちろんです。その為に来たようなものですから」


「そうね」


 にやっと不敵に笑い合う幸と恵美さん。できる女性は今が笑うところなんだなと思ったけれどなぜ笑ったのかは私には理解はできない。


「こわい」


 私は余裕で恵美さんについていける幸はさすがだなと感心しながらも、ふたりの会話をラジオか何かだと思うことにして大人しくお酒を飲んでいることにした。

 会話に入れなくても寂しくはない。それこそ私の望むところ。だって飛び火されたらこわいから。



 やけにつまらないラジオ番組だなと思いながらも暫く私は頑張った。

 情報その他を一方的に垂れ流すTVやラジオは必ずしも観たいものや聴きたいものを観せてくれたり聴かせてくれるわけじゃない。つまらなかったら消してしまえばいいのだけれど今はそうはいかない。ここに座っている限り、それに耐えなくてはいけないのだ。


「つらい」


 手持ち無沙汰な私はグラスが空になっていることを思い出し、お酒を頼もうかと店員さんを掴まえようとしたけれど私は席を立つことにした。

 たまにはカウンターで直接頼むのもありかなと思ったからで、決してこれ以上聴いていられないと思ったわけではないの。ただちょっと、バーぽいっことをしてみたくなっただけだから。ほんとほんと。



「よいしょ」


 話し込むふたりを置いてとことことバーカウンターまでいく途中、麗蘭さんが誰かと話をしているのが見えた。

 私はここでも邪魔をしないようにちゃんと端っこに立って今夜はバーテンさんをしている男装の麗人っぽい真希さんに合図をする。


「真希さん、ジンライムください」


「わかった。すぐだからちょっとまっててね」


「ゆっくりでもいいですよ」


 真希さんが、大丈夫、超特急で作るからねと、素早くお酒を作り出すのをぼんやりと眺めながら、端っこの席に腰掛けてカウンターテーブルにお金を置いた。この感じが私の中ではバーっぽいのだ。


「あ、そうだ真希さん。何かの唐揚げって何の肉ですか?」


「え。あ、ああごめん夏織さん。私の口からは言えないんだ。里香さんに止められているからね」


「知ってるの?」


「まぁ、ね。もしかして食べちゃった?」


「ちゃったって真希さん、それすげーこわいんですけど」


 にやっと笑った真希さんはくるっと私に背を向けて棚のお酒を取って黙々とお酒を作りだした。私は返事を待っている。



「っておい、真希さん、なんか言えって」


「ははははははは」


「いや、そんなかっこいい声で笑われてもさぁ」


「うはははははは」


 そんな不毛な会話のあと、結局、何も教えてもらえないまま私は脚をぶらぶらさせてお酒を待っている。私は諦めたのだ。



「綺麗な女性だね」


「幸ですか? ふふふふふ」


「夏織さんもかわいいけどね。実は私のタイプ」


 悪戯っぽくにやついた真希さんは私の前にお酒を置いて、私の置いたお金を取った。私はグラスを取って口をつける。ついでにナッツの鉢に手を伸ばしてそれをぽりぽりと齧った。これも私の中ではバーっぽい。


「そういうのは一年くらい前に言ってほしかったな。そしたらフリーだったのに」


「そうか、遅かったかぁ。残念だよ」


「というか、真希さん恋人いますよね?」


「うん、いるね。うはははは」


「もぉ、なんだかなぁ」



 低めの声でひと笑いしたあと、ごゆっくりと言った真希さんは忙しくお酒を作り始めた。私はここでも邪魔をしないように、椅子を回転させて幸と恵美さんを視界に収まるようにして暫くここで大人しくしてお酒を舐めていることにした。



 ここから幸の顔が見える。恵美さんは後ろ姿しか見えない。あのモードの厳しくも迫力のある顔を見なくて済むのはありがたい。

 見える幸の顔はえらく真剣だ。


「かっこいいな」


 そう思う反面、これからの人生を左右する決断なのだから当然といえば当然のことだと思う。


 幸は私が話を振ったことを特になんとも思っていないだろうけれど、寧ろチャンスだわと喜んでいるみたいだけれど、負担を掛けちゃったかなと、私は少しだけ申し訳ない気分になった。

 けれど、もし今の気持ちを伝えても、幸は私に向かって微笑んで、気にしないでいいよと言ってくれる。そうやって私を甘やかしてくれる。

 そして私はまた調子に乗ってしまうけれど、幸はいつだって私を私らしくいさせてくれる。


「ありがと幸」


 私は今なお真剣な顔をしている幸にこっそりお礼を言った。


「ああ」


 そういえば先週、ある記事を読んだあと、幸にしては珍しくあんな顔して怒っていたっけなと、視線は幸に向けたまま、私はふとその出来事を思い出していた。






「やっぱりなぁ」


 私がその声に顔を向けると、幸は見ていたスマホを床に放り出そうとして、それを一度躊躇したあと、ちらっとソファの方を見て、あらためてそれをそこに放った。


 隣に座る幸に寄りかかっている私は、何かに怒っていても冷静さを失わないとはさすが幸だとうんうん頷きつつ、めぼしい物件はないかなぁと再びタブレットに目を落としそれを弄りながら問いかける。


「どうしたの?」


「んー、棄却だってさ」


「あー、あれか」



 犯罪被害者給付金のヤツだ。

 すぐに何のことかと思い当たった私はそう返しながらも、タブレットから目を離さずに一所懸命に物件を探している。

 スクロールして通り過ぎた中に良さげなヤツがあったような気がしたからだ。


「あった」


 私は値段、場所、広さ、築年数なんかをぱっと確認する。悪くないと思う。


「お、コレはなかなかかも」


 私は、ちょっとコレ見てよと幸にタブレットを向けたけれど、幸は少し不満そうに私を見つめている。


「夏織は気にならないの?」


「なってたよ。悔しいし頭にくるけど、結局いつものことでしょ」


 そんなもの、今に始まったことじゃないじゃんかと、私は(あざけ)て笑ってやる。

 この国の法律が私達のような人間を認めず定義していないのだから、私達のような人間が裁判で何らかを争った場合、結果は大体はそんなもの。凄く不愉快でムカつくけれどそれも今更な話。



「まぁ、そうだけど。でも、内縁関係を認めた判決だってあるんだよ」


「そうだけどさ。裁判したって上手くいかないことの方が断然多いことくらい幸だって知ってるでしょ」


「それは…まぁ」


「けど幸が気にするなんて珍しい。どうしたの?」


 不満そうに頬を膨らませている幸は可愛いけれど、普段、こういった話題に対してお年寄りのように達観している幸だけに、この反応は珍しい。


「私達にだって起こるかもしれないんだよ。だから、他人事とも思えなくてさ」



 私達はそのうち一緒に暮らし始める。つまり幸は、そのカップルと私達を重ねてしまったのだ。色々と想像してしまって、それで怖くなったのだ。

 大丈夫、私は幸を置いて死なないからなんて言えないし、それは幸もそうだ。


 それだけでなく、もしも長年一緒に暮らすことで事実婚とか内縁関係を認められていればその裁判の行方は変わっていた筈なのにと幸は考えているのだ。それは私もそうだ。


 幸とふたりで男女の夫婦と同じように生活を共にして平穏に年月を重ねても、波乱万丈にわちゃわちゃやって過ごしても、結局、私達は他人のままいってしまうかもしれない。世界が変わってそうじゃなくなるかもしれない。そんなこと分かるわけもない。



 私は不満そうで怯えている愛しの幸を抱き寄せて、よしよしと髪を撫でた。


「ねぇ幸」


「なぁに」


「怖いのはわかる」


 悩んだり落ち込んだりすることはあるし、それが尽きることはない。何かあればどっぷりと浸るのもいいと思う。

 けれどこの先どうなるか、分からないから分かるまで、私達が進んで行ける方向へ私達なりに進んでいくしかないんだぜっと、私は少し体を離して幸に微笑んでみせた。



「な」


「うん」


「愛してるから」


「私も。愛してるぜっ夏織っ」


「ちょっ、声でかいな」


「あはは」



 私達は抱き締めあってキスをする。同性愛者。ビアン。法的にもそれ以外でも宙ぶらりんで不安定な立場と違って、私と幸、互いにとって確かなものが今ここにあると、私も幸も確信していた。




 と、週末にあったちょっとした出来事を思い出していたら私のジンライム、グラスは既に空になっていた。


 私はお金をカウンターに置いて真希さんにバーっぽく合図を送ってみる。

 真希さんが気づくように人差し指を立てた手を高く上げて注意を引いたあと、そのままその指をグラスに向けた。

 真希さんグラスが空になっちゃったからこれお代わりくださいと伝えたつもりで。


 すると真希さんはにこにこしながら私の望み通りに私のところにやって来た。

 このあと真希さんは、さっとお代わりを作って私の前に置いてくれるのだ。それから置いてあるお金を手に取るのだ。


「超バーっぽいな」


 そう。私はバーっぽいことができて大満足。嬉しくて楽しくて私はいま満面の笑み、ふふふと笑い声を出してしまう。

 けれど、そんな私に真希さんは言い放った。


「夏織さん、なんか言えって。わからないよ」


「えぇぇ」


「うそうそ。うはははは」


「なんだよもうっ。私のバーっぽいヤツを返せっ」


 くそうくそうとカウンターテーブルをばんばんと叩く私。それを見ている真希さんの笑い声が一層大きくなった。


「うはははは。夏織さんは面白いね」


「それ全っ然っ、嬉しくないから」




「夏織ったらなに騒いでるの?」


 いまだくそうくそうとやっている私の隣に幸が座ってきた。その顔は呆れながらも微笑んでいる。


「あ、幸っ。終わったの?」


 私は幸が隣にいることが嬉しくて、私の頭からバーっぽいことなどもうどこかへ行ってしまった。


「今日のところはね。かなり前向きに捉えてもらえたわ」


「うぉっ、恵美さんまでっ」


「驚くことないでしょう」


 気がつけば私の周りには幸や恵美さんだけでなく、麗蘭さんや真希さん、里香さんや莉里ちゃん、他にも顔見知りの常連さん達が集まっている。

 私はこの状況に戸惑って、一体これはどういうことなのと首を傾げて幸を見る。かはっと声を出した幸の手が私の手を優しく握った。



「みんな夏織さんと幸さんを未来を祝福したいの。応援したいのよ」


 麗蘭さんが私に向かってそんなことを言う。周りのみんなは微笑んで私達を見ている。


「まじでですか?」


「「「「「「まじまじ」」」」」」


「うっ」


「なに夏織。泣くの? 泣くなら私の胸で泣きなよ。ほらほら」


 いつもと少しだけ違う台詞のことは置いておいて、私は幸の胸に顔を押し付ける。


「ううっ、さちー」


「あはは」



 私は泣いてなんかいない。応援してるとか、私達に幸あれと祝福してもらえることが嬉しくて、これ見よがしに幸といちゃつきたくなっただけだから。うぐ。



 みんなはははと笑っている。それは面白いとか馬鹿にしているとかじゃなくて、幸せなそうな様子を目にするとつい微笑んでしまう感じのヤツ。

 この場合は私達。私達を見てみんな何かを感じてくれたのだ。お偉い世間様からはいまだに認められない私達の関係を、ここにいるみんなはちゃんと認めてくれるのだ。


 きっと次にこのバーに来た時はみんなにからかわれてしまうだろうけれど、みんなで笑って過ごせるのなら私はそれで構わない。


 決して広くもなく、月に照らされるくらいの明るさしかない私の世界。それでもこうして多くのものを私にくれるこの私の世界。今夜のことは特別だけれど、いつもと同じ。今のところは変わらない、いつもここに在る私の居場所のひとつ。


 ここに集う女性達は私も含めていずれ変わってしまう。どうか変わらないでと私は願う。いつまでもここに在ってと私は願う。ここは私の原点なのだ。変わらないものとかいつまでもとか、そんなものはどこにも無いのだけれど。



「ねぇ幸」


「なぁに」


「何でサイズを省いた?」


「なんのこと?」





先日久しぶりに出社しました。

まあるくなった顔を見てみんな笑ってくれました。

いいのいいの。うぐ。


読んでくれてありがとうございます。

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