第三十話
続きです。
よろしくお願いします。
「柔かぁくなれー」
私は今、ぐいぐいと圧力をかけて豚バラ肉のブロックを煮込んでいるところ。私はコイツをとろんとろんのぷるんぷるんにしてやるつもり。
「美味くなれー」
そして、圧力鍋の蓋は取れないから、外から愛情という名のスパイスも入れているつもり。両手の指をびろびろとやって何か気みたいなモノを送るのも忘れない。
「美味くなれー」
これで完璧。さぞかし美味いヤツができるだろう。
「ふふふ」
日曜日、午後五時。もう少しすると幸がやって来る。私は料理をしながらそれを待っているところ。
「ただいまー」
かちゃと鍵を回す音がしてドアが開く。そして元気よく姿を見せた幸の顔には、例えようのない程の頗る笑顔が浮かんでいる。全ては上手くいった。私は分かっていたけれど幸の顔はそう語っている。
「幸っ」
私は持っていたお玉、幸がわたし専用だからと言っていたそれを置いて、これまた幸専用の小さな鍋の火を止めてからとことこと幸の傍まで寄って幸を抱きついた。
「おっと。どうしたの?」
私は抱きついたつもりだったけれど、上がり框のお陰で幸よりも少しだけ高くなっていたからいつもと違って私が幸を少し上から包み込む感じになった。
「ふふふ。おかえり幸」
私がそう声をかけると幸はもう一度ただいまと言っってくれた。私は今、二つの理由で嬉しくて仕方ないの。
先ずはこれ。
今まさに幸の口から出た言葉。私の部屋にも関わらずただいまと言ってくれたのだ。
つまりそれは、幸が私の元に帰ってきたよと思っているということだ。これからは毎回それを聞かせてくれるかもと期待してしまう。
「ふふふ」
「なんか嬉しそうだねー」
「幸がただいまって。なんか凄く嬉しくてさ」
「あーそっか。そういえば自然に出てたよ」
「ね、ね、おかえり幸」
「ただいま夏織。あはは」
私の方が高くなっているといっても幸の頭は私のおでこくらいところ。幸は私の肩にちょこんと顎を乗せたあと、私の頬に頬を寄せて体を預けてきてくれた。私の首すじ辺りで、すうーっと鼻で深く息を吸って、夏織の匂い、凄く落ち着くんだよねと呟いている。
あのね幸、それは私も同じだからと私は思った。
私達は無言で抱き合っている。感じる幸の温もりになんか幸せだなぁなんて私が思っていると、夏織と囁く幸の声が聞こえてきた。そこは右耳、スイッチはない。だから私は全然平気。
「よかったね」
「うん」
「それと、ほんとにありがとう」
「いいのいいの。私も嬉しいんだから」
「うん」
幸が自分の親と向き合って、お互いに抱えていた蟠りが溶けて流れて無くなって、仲直りできたというか元通りになれたこと。これが二つ目の理由。
幸は今、その背を押した私にお礼を言ってくれた。確かに私は幸の背中を押したけれど、私は思ったことを伝えただけ。
その辛さに泣いていたのも、苦しんだのも悲しんだのも、それを長い時間耐えてきたのも、覚悟を決めて勇気を出して一歩前へと踏み出したのも、それは全て幸がしたこと。そしてそれは昨日、実を結んだ。
頑張ったのは幸なのだから私は幸の傍でそれを喜ぶだけでいい。だって私は、愛しの幸が幸せなら私も幸せなのだから。幸だけに。
「なんつって」
「おー、百点。ご褒美あげる」
「やったっ。で、なに?」
なにと訊きつつ幸が手に持っていた美味そうなスイーツ、袋のロゴから察するに、あの有名なフロマージュ的なヤツのことだろうなと私は思ったけれど、幸は妖しく微笑んだ。
「これよ」
妖しくにやついた幸がいきなり私の唇に触れる。とても優しくてそれからすぐに深くなって、私の中を余すことなく動き回っている幸はやはり幸。大胆で繊細で優しくて力強い。
私も私らしく夢中になってそれに応えているうちに、幸の唇が離れた途端、私は力が抜けてへろへろの腰砕けになってしまった。
「大丈夫?」
幸が私を心配して覗き込む。私はさらに体の力を抜いた。ちょっと甘えたくなったのだ。
幸はかかる私の体重を諸共せず、ずずずと後ろに脚を滑らせて海老反るようにでろんと体を預けている私を余裕で支えている。
「だめもうへろへろ。運んで幸」
「よしっ。まかせて」
幸は手に持ったままでいたバッグとか荷物を床に落として、私が、あ、美味そうなスイーツがと声を上げる暇も与えずに、寄りかかる私の膝と首に腕を回してお姫様抱っこをして……はくれずに、回した腕に力を込めて自分のお腹に乗せる感じで私を持ち上げた。
「ねぇ幸。ここはさ、お姫様抱っこじゃないの?」
「だって私、荷物も持ったままだし、まだ靴も脱いでないんだよ?さすがに今は無理だねー」
幸はそう言って、また少し重くなったかなと微笑んで私をそっと床に降ろした。私はその呟きをなんのことやらと聞き流してやった。幸は昨日、頑張ったのだからそれに免じて許してやることにしたのだ。私は優しいのだ。
「残念。けどしょうがないな」
「あとでしてあげる。これはお礼ね」
「やったっ」
よっしゃと喜ぶ私を優しく見つめる幸に、私はちょっとお願いしてみることにした。
ねぇねぇと少しはにかんで人差し指を咥えるように口に当てて、幸の服の袖を摘んでちょんちょんと引くのも上目遣いも忘れない。
「今度はちゃんとベッドまで運んでね?」
「え」
「そしたら私を好きにしていいよ?」
「ぐぐぐ」
「ぐぐぐ?」
「ぐっはぁぁぁ」
堪えようとしたのか、幸は少し溜めたあと、結局は我慢しきれず盛大にいってしまった。絶対に運んでみせるからとかなんとか言いながら。
私は頑張ってねと蹲る幸に声をかけておいたけれど、うんうんと頷く幸を見ながら、できてもできなくても幸は毎回私を好きにしているのに忘れているのかなぁと笑ってしまった。
このままもう少しいちゃいちゃしてもいいかなと思ったけれど、幸はいってしまったし、いつまでもここにいても仕方ないし、ご飯を作っている途中だったなと私はキッチンへと歩いていく。そこで私はふと気づく。
「はっ」
私はなぜに、あの伝説の中の伝説、裸エプロンをしなかったのか。ご飯を作っているタイミングで幸が帰ってくるなんて今はまだ中々ないことだったのに。くそう。
「失敗か」
「くくく」
くそうくそうと悔しがる私の背後で、何かに気づいた幸がまた今度お願いねとか言いながら、くくくくくくくと笑っている。
「お待たせ幸。食べよう」
「うん。美味しそう」
「じゃ、いっただっきます」
「いただきます」
午後六時半。私が腕によりをかけた晩ご飯、奄美地方の伝統料理、出汁というかスープをかけて食べる美味いヤツ、鶏飯と、圧力鍋でぐいぐいやってやった、幸のために大きくカットした豚の角煮が八つと、あとサラダ。幸はビールをぐいっと飲んだあと、角煮が柔らかいとか鶏飯とは一体なにかしらとか言いながらそれを頬張って美味しそうに食べている。
「美味しい」
「いっぱい食べてね。てか、ここにあるだけだけど」
「ふぁふぁふぇふぇ」
たぶんまかせてと言った幸の箸は止まらない。私は毎回見ていて飽きのこないその食べっぷりについ顔が綻んで、幸を見つめてしまう。
たまにその頬に鶏肉なんかを付けている幸は、それを指で取って、これは何だと確認してからひょいと口に入れたりする。
私がその行動を見ていることに気がつくと、幸はにこっと笑って美味しいよと言ってくれる。私は胸がいっぱいになってあまり食べられなくなってしまう。最近はいつもそう。
なのにっ、なぜか体重は落ちない。全く持って腑に落ちない。幸が買って来てくれた、冷蔵庫で私を待っているフロマージュ的なスイーツは当然、計算の外。だって別腹だから。そういうものだから。そこは絶対に譲らない。
「ねぇ」
呼ばれて私が顔を向けると、ほんとにお代わりないの? と、幸が私を見つめている。
お皿を見れば幸の角煮は無くなって、鶏飯はあとふた口くらいしか残っていない。よく食べる方の幸には少し物足りなかったのだ。
「むむっ」
幸の食欲を見誤るとはなんたることか。この私としたことがと、私は残っていた角煮をひとつ差し出して、鶏飯をお皿ごと取り換えてあげることにした。
「これあげる。あとこれは取り替えっこしよう」
「いいの?」
「いいのいいの」
「やったっ」
「ふふふ」
こうして幸のご飯を用意をしたり世話を焼いたりすることは、私にとっては楽しくて仕方ないもの、望んだもの。だから私は幸せなのだと、もぐもぐ頬張る幸を見ながら私はそんなことを思っていた。
「ご馳走様でした。美味しかったぁ」
「お粗末様でした」
少し休んで私達はキッチンに立つ。洗い物とか後片付けは一応、二人でするんだけれど、私の後ろに立っている幸は、何かを口ずさみながら私を抱いて、いつものように甘えているだけで特に何かをすることはない。
けれど、これをしてねと頼めば幸は、はーいと動いてくれる。ただ邪魔だから退いてと言っただけでは駄目なのだ。
「幸、じゃまだからせめて大人しくして」
「またまたぁ、嬉しいくせに」
「まあね」
「ほら。えいっ」
「わわわっ。やめろって」
「あはは。ほれ」
「あぶなっ」
「あはははは」
「ていっ」
「あだっ」
「ざまあ」
「やったな。それっ」
「うわわわわ」
幸も私も今とても楽しい。私達はこんな感じ。幸が笑って私も笑う。これ以上、何かいる?
私達なりのいちゃいちゃをしながら片付けを終えた私達は、というか私はいまフロマージュ的なヤツを食べている。美味い。
すぐ横で私にくっついて座る幸はお酒を手にして、珍しくちびちびとそれを飲んでいる。たぶん昨日飲み過ぎてしまったからセーブしているのだと思う。私はもちろんセープしない。昨日食べたナポレオンパイ的なヤツは大まかに三等分したのだから決して食べ過ぎてなんかいないし、いま食べているコレも美味いからいいの。考えては駄目。
「そうそう」
「で、私と父さんはちゃんと仲直りできた」
「よかったね」
「うん。幸の方はどんな感じだった?」
私のことを話したあと、幸の方はと話を振ると、幸は待ってましたと嬉しそうに話しを聞かせてくれた。
結果はお互い分かっているけれど、聞きたいし話したいのだ。
「私はねー」
「うん」
私は今、お高めな値段と度数を誇る美味しいお酒を持って実家に帰って来たところだ。
これが祝杯になるのかやけ酒になるのかはまだ分からないけど、どちらにしても私は呑む。だから無駄な出費にはならない。さすが私。夏織ならその手があったかさすが幸、天才かと褒めてくれる筈だ。
「ただいま」
と、声を出すも、その声は普段のものよりも低くて掠れていて、私はかなり緊張していることに気がついた。
両親とは昔のようになりたいけど、私ひとりがそれを望んでいてもなぁと思ってしまっているのだ。
「あ、きたきた。おかえり幸」
ひょこっと顔を出してくれたのは環だった。今日のことは伝えておいたけど、私は環を呼んではいないからたぶん親が声を掛けたのだろう。
なんだかなと私は思う。私はべつに怒っているわけじゃないし謝らせたいわけでもないけど、それでも、環がここにいるということの意味を考えれば、親としてそれはどうなのよと、環に助けてもらおうなんて情けないと思わないのかという気持ちになる。そしてつい、親に対して挑むような気持ちが湧いてきてしまう。
「いや、とりあえず落ち着けわたし」
なんでも勝ち負けに結び付けようとするのは私の悪い癖だなと大きく深く息を吐いた。
「環、来てたんだ」
そだよー、健一もいるよーと、私達家族には何も問題などないと言わんばかりののんびりとした環の声に私の緊張は解れていく。その環はにこにこしながら私の前までやってきた。
「ふたりは?」
「健一をあやしてる。もうデレデレよ」
「ふーん」
「どした?」
「べつに」
顔も見せないなんて、やはり私には会いたくもないのかと失望と怒りが湧いてくる。夏織の考えは残念ながらハズれたみたいだよと、私はため息を吐いた。
「はぁ」
「ちっちっちっ」
環が人差し指を立てて、幸が考えているようなことはないんだぞとそれを左右に振っている。
「どこが?」
「ふたりとも緊張しちゃってるんだよ。それだけ。幸もそうじゃないの?」
「まぁ、そうだけど」
考えてもみなよと環は続けた。指は立てたまま、腰の辺りに握った拳を当てている。昔から環が見せる、説明したりアドバイスをするときのポーズ。しょうがないなぁよく聞いてとお姉ちゃん振っている感じのヤツだ。
「いい幸。長い間ぎくしゃくしてて、会話もなくて、連絡は殆どがわたし経由でさぁ、それでいきなり普通に接しろなんて、それはいくらなんでも無理なんじゃないのとお姉ちゃんは思うわけよ」
「けど、姿も見せないなんて、やっぱりそういうことじゃないの?」
「それは違うよ」
「そんなの嘘だね」
「ねぇ幸、父さんも母さんも歳をとったよ。本当にいつまでもこのままでいいの?」
「それは…」
老い先短いとはまだ思わないけど、順番通りなら親は先にいってしまう。こうしているあいだにも過ごす日々は徐々に少なくなっていく。その内の約八年を、私達は無駄にしてしまった。
それでいいのだろうかと私は考える。踏み出すと決めたのは私。夏織も今頃はちゃんと親と向き合っている筈だ。大丈夫、いけるいけると言ってくれた夏織を想えば心強くなる。
「父さんも母さんも幸を待ってるよ。ちゃんと幸を待ってる」
環はくるりと振り返り、腰に手を当ててままリビングの方を指差した。
お姉ちゃん然とした環のその懐かしい姿に、私は自然と笑みが溢れてしまった。
環は、姉さんはずっとこうだった。私が同性愛者、ビアンだと知っても、結婚しても一児の母になっても何も変わらない、私にとって有難い存在なのだ。
私はもう一度深く大きく息を吐く。もう迷うことはやめた。当たって挫け…いや、砕けろだ。
「分かったよ。たま姉」
「その、たまだけを強調する呼び方はやめなさい」
「あはは」
父と母はリビングにいた。そこにやって来た私の姿を認めるとふたりの顔に緊張が走ったのが分かる。それは私も同じこと。一瞬の沈黙がその場を支配する。
「だぁだぁ」
母の横にいる姉の子健一は、私達の微妙な雰囲気に気づく筈もなくぺしぺしと母の腿を叩いてご機嫌だ。その様子を見ていると、私の気持ちが和んでくる。それはふたりも同じこと。思わずといった感じの、だらしなく顔を綻ばせている父と母が私の目に映る。
「ああ」
私もそんな顔で見られたこともあった筈だし、実際に優しかった父と母の笑顔を覚えてもいる。そう思うとなんだかいける気がしてくる。
健一のお陰と言うべきか、緩んだ空気がこの場に漂い始めていた。
「ま、ごゆっくり」
環は明るくそう言って私の肩をぽんと叩いたあと、健一を抱き上げて奥にあるダイニングテーブルに着いた。どうやら環は少し離れて見守るスタンスみたい。本当に必要な時以外は口を出さないでいるつもりなんだろう。
私はソファに腰を下ろし、父と母に向き合った。
「こうして面と向かうのも久しぶりだね」
「ああ」
「そうね」
私の声が嗄れていた。緊張して乾いた口の中を潤そうと無い唾を無理に飲み込んだ。続けて何か話さないとと思うけど喉がひりついて仕方ない。私は、ちょっとタイムと立ち上がって飲み物も取りに行くことにした。
「何かいる?」
「あ、あー、いや、大丈夫だ」
「母さんは?」
「私も大丈夫」
「わかった」
「幸」
私は立ち上がりキッチンへと向かおうとしたけど、父が慌てたように私の名を呼んだ。私がなによと答える間もなく、すまなかったと声が聴こえた。それに続くようにして、今までごめんなさいという母の声も聴こえた。
私はそれを背中で聴いたけど、振り向くことはしなかった。
大丈夫。ふたりが絞り出した声は私には本心からのように思えたから。私の視線の先にいた環がにこにこと笑って私を見て頷いたからそうなんだと分かる。
あとは私の出方次第。それで全てが変わるのだ。
「私は変わらないよ、変われないの。それに私は病気でも異常でもないから直すもなにもないの。私は私。これが私。それでも私はふたりの子供なの、娘なの。ごめんね、こんなんで」
私は振り向いてそう言ってやった。嫌味のひとつも混じっていたのは、やはりその昔、カムアウトした時に言われた言葉に傷付いていたからだ。
そして今わたしが言ったことは、昔、親に言えずに呑み込んだヤツ。本当に悔しかったし悲しかったし辛かった。私はそれをようやく吐き出すことができたのだ。
「幸…」
私の目から何かが流れていたけど、今はそんなものはどうでもよかった。私はずずっとすすり上げ、ふうっとひと息吐いてから、悲痛な顔をしている父と母に向けて微笑んだ。
「あー、すっきりしたー」
思いの外、明るい声が出た。親は謝ってくれたし、燻って痼りになって私の胸に引っかかっていたずっと言いたかったことも言えた。他にも何かあったかもしれないけどこれで充分、私は満足した。だから私は微笑むの。
「幸はそれでいいのね?」
健一をあやしながら環が訊いてくる。その顔は私と同じく笑っている。さすが幸だとうんうんと頷いて。
「うん」
「だってさ。父さんも母さんもよかったねー」
呆気に取られていた父はそうかとほっと息を吐いていて、幸の気持ちを考えられなくてすまなかったと、幸のことが心配だったと言ってくれた。その横で母も頷きながら涙を浮かべている。
そしてそのあとふたりはもう一度、頭を下げて謝ってくれた。私がもう十分に伝わったよ微笑んで見せると、ふたりも私に微笑んでくれた。私と母は泣き笑い。けど家族みんなが浮かべたそれは、心からの微笑みだ。私はとても嬉しかった。
「あのね父さん」
「なぁ幸」
「どうぞどうぞ」
「いや、幸から言ってくれ」
「…えっと、なんでもないよ」
「幸は」
「そういえば」
「幸からどうぞ」
「いや、母さんから話してよ」
そんな感じで私と親との間にはまだ少しぎくしゃくとしていた。そのことに互いに苦笑いを浮かべていると、環がグラス三つと私のお土産、強くて美味しくてお高いお酒を持ってやって来た。それをなみなみとグラスに注ぎ、それぞれの前に置いた。
「さぁ呑め。私は健一が乳離れするまで呑まないからね。ちくしょう。うらやましい奴らめ」
「環」
「環」
「たま姉」
「幸。その呼び方はやめなさい。私に玉がないみたいでしょうが。まぁ、ないけどね」
てへっと笑う環。呆れた母が空かさず突っ込んでいた。
「ちょっと環、やめなさい」
「「「あはははは」」」
「じゃあ、乾杯っ」
「「乾杯っ」」
お酒の力も多分に借りて、私達は少しずつ親子に戻っていった。
環がさっと作って出してくれる摘みを口にしながら、幸は手間のかからないいい子だったとか、それに比べて環の方はとか、昔の俺は凄かったんだからなとか、母さんは綺麗だったのよとか、いやいや母さんは今も綺麗だよとか、そおぉなんて言いながら照れて頬に手を当てていたりとか、それを見ていた環がなんだコイツらはとひいていたりとか。
私がその場の雰囲気にやられて泣いてしまったりとか。
時計を見れば午後三時。私達家族がぐでんぐでんに酔っ払うには十分な時間があった。
私はお酒を呷ってやった。美味しい。そして嬉しい。
「そんな感じだよ」
私はもう大丈夫だと、幸は微笑んでいる。そこには少しの影も落ちていない。もう落ちることはないと確信しているように見える。
よかったねと思いながら、私は幸の話を聞いて素直に思ったことを口にした。
「なんていうか、幸のお姉さんは凄いな」
「そうだね」
「幸、わかってる? たぶん環さんは自分から顔を出したんだって。それに乳飲み子の、健一君だっけ、その子を連れて来るのも当然、計算してっていうかさ」
幸は何を言っているのかと私を見た。そのあとすぐに腑に落ちたように何度も頷いて、さすがたま姉だわと納得していた。
「それに気づく夏織もすごい」
「私は、ほら、幸のことだし、きゃっきゃん的に見る…」
「なぁに? きゃっきゃん的? あはは」
「う、うるさいな。もうっ。ていっ」
「あはははは、あだっ」
私は噛んだ噛んだと私を指を差して笑う幸のおでこにでこピンをお見舞いしてやった。
「それでねっ」
「うん」
今も、ねぇねぇ聞いて聞いてとおでこがまだほんのり赤い幸はさっきから止まらない。
これから実家に顔を出すたびに段々と遠慮もなくなって元に戻っていくと思うと、幸は凄く嬉しそうに話している。
父さんは勉強ができて橋が一つの大学を出たとかスポーツも得意で国体に出たとか、母はすごく頭が良くて東の大学を出たとか、環は自由人で絵とか写真を撮るのが上手くて芸術家肌な感じだとか、私はそんなふたりから全てを受け継いだ超スペシャルな子供なのよと本当に嬉しそう。
「ほうほう」
「でねでね」
「うん」
幸はきっと、こうして家族のことを話したかったのだと思う。幸にとって本当は大好きで自慢の家族のことを。
その幸は溜まりに溜まったものを今、あれもこれもと私に聞かせてくれている。もしかして今夜は徹夜なの? と思ってしまうくらいの勢いで。
まぁ、それならそれでべつに私は構わないんだけれど。
ああ、幸は本当に嬉しそう。あははと笑って話をする幸を見ていると私は堪らなくなってくる。
「ね、みんな面白いでしょう?」
「ふふふふふ。確かに笑える」
「ねー」
「環さんはある意味突き抜けてるな」
「ねー。それでねー、あとねー」
私はそれをにこにこと聞いている。じわりと浮かんでくる涙を、時々幸に抱きついてこっそり拭いたりなんかして。
昔、奄美大島で食べた鶏飯は凄く美味かった。
イケるイケる。
夜空には星がいっぱいで、流れ星だらけで、天の川もよく見えて、ホタルも飛んでいました。
読んでくれてありがとうございます。