第二十九話
続きです。
前半に少しびえろがありますので、苦手な方はお気をつけください。
よろしくお願いします。
私は三つ目のロシア、表面にピーナッツが塗してあるクッキーにチョコがコーティングしてあるヤツをもぐもぐ食べている。
「コレも美味いな」
箱の中のソレが目に入った途端、私の意識はここに舞い戻ってきたのだ。甘くて美味いものが目に入ってしまえば鋭く反応してしまうし、つい手を出してしまうものだから。
そこに異論はあるだろうけれど少なくとも私はそう。折角の機会を逃して食べ損なうなんて私には耐えられないの。
「そうそう」
そして私はずずーっと音を立ててアイスコーヒーだったヤツを飲む。
私はすぐにストローを口から離し、うぇぇと舌を出した。薄くなっていて酷く温かったから。
「さすがこれは…不味い」
片手にロシア、もう片方にアイスコーヒーの容器を持って、椅子にだらんと腰掛けて美味いと言ったり不味いと言ったり、舌まで出して一体何をしてるのこの人はと思われてしまう様を気にもぜす私はまたも幸を想い始めていた。
「幸」
残念ながら確かにいた筈の優雅で必死な白鳥のようだった女性はもはや見る影もない。今日のところはもう見かけることはないだろう。
なぜなら白鳥だったその女性は今というかさっきから、今日の仕事はもう終わった感を前面に出しつつ、脱力して寛いでロシア的なヤツをもぐもぐ食べながら呆けているのだから。
「くそう。あのえろおんなめ」
そしてその女性、私の意識は再びあのえろえろおんな、愛しの幸へと向かっていた。
ゴールデンな五日間、私も幸も夜な夜な存分に愛し愛された。それはもう、体力的に辛いから絶対に痩せちゃったなこれはと勘違いするくらい。
あんなこととかこんなこととか、ひゃー、そんなことまでっ、と、えらく恥ずかしいからもう絶対むりだからと思っていたこともいつの間にやら幸のメニューに加わっていて、私はそれを普通にされてしまったのだ。しかも何度も。
「こわい」
ちなみに幸の夜のメニューにはフルコース一択しかない。幸はおかわり自由だよ、私はするけど夏織も遠慮しないでね、なんてもの凄い笑顔で言っていた。
「超こわい」
幸は私に愛されたあと、私の番ねと嬉しそうにして、今まさに私を好きに愛しているというか好きに弄んでいる。私の全身を、それこそ私の頭のてっぺんから足の先まで漏らすことなく遠慮なくすることなく思うがままに弄んでいる。お陰様で何度も波にさらわれては辿り着いてしまっている私の限界は近い、というかもうむりきつい。
「も、う、だめ」
「だーめ。私まだおかわりもしてないよ?」
「まじ、で、です、か?」
「まじでです」
「じゃ、休憩、さ、せてよ、ちょ、っとたん、ま」
「いやよ」
私が息も絶え絶えに休ませてほしいと懇願しても、幸は頑張りなさいと妖しく微笑むだけで、その唇や指先の動きを止めようとはしない。夏織がどうしても辛いというのならやめてあげるけど、どうする? 耐えられる? なんて、さらに妖しい顔をしてその唇や舌や指先を一旦止めてそんなことを言うこともあるけれど、そういう時は必ず私が辿り着こうとするほんの少し前なのだ。悔しいけれど私がやめないでほしいとお願いすると、幸はさらに妖しく艶のある笑みを浮かべながらもうしょうがないわねいってらっしゃいとか言う癖になかなかそのリズムを上げようとはしてくれず私を焦らすだけ焦らすの。私には長く思える時間それをコントロールされてしまう。私がついに根を上げてもっととお願いすると幸はようやく私を導いてくれる。けど夏織目を瞑っちゃダメよ私にその時の顔をよく見せてねとか言いながら。凄く恥ずかしいけれど私は言われた通りに頑張って目を瞑らないように幸を見つめているともう何度目かもよく分からないほど繰り返された波の凄いヤツが来て私をさらっていく。私は大きな声を出しながら結局は目を瞑ってしまう。幸はそれを見逃さず、残念でしたもう一度よなんて言いやがりながら私を一から弄び始めるのだ。
「もう、むり、だ、って」
「へいきへいき」
「ひ、ひゃあ」
そしてやっと迎えたことの終わり、幸は息が上がってへろへろのくたくたになってしまった私のおでこにちょんとキスをしてくれたあと、私を優しく抱き締めてくれる。
「大好き。夏織」
「わた、しもす、きだよ」
最近は私が記憶を失くすことはなくなった。けれどそれは幸が私に遠慮をしているからとか私を気遣ってとかじゃなくて、毎回思いの丈をぶち撒けられているうちに私が鍛えられたからだ。
つまり記憶があるということは、私のナニな姿を私自身が覚えているということ。そしてことの最中、こうして口ではなんだかんだと言っていても、私は幸にされることを、寧ろ積極的に受け入れて喜ぶようになっていることも覚えているわけ。
だから、この先わたしはどこまでいってしまうのかと少し不安になるけれど、相手が幸ならそれでもいいかなと、それを受け入れる気持ちも当然ある。そうやってあっちにこっちにと揺れ動く乙女心はとても複雑なのだ。
「このっ、このっ、このっ」
乱れた息が落ち着いたところでいつものお約束、私は幸にへろへろパンチをお見舞いしてやる。ことのあとは恥ずかしさもあって私の乙女心はあっち側だから。
「このっ、えろっ、おんなっ」
「あはは」
幸は痛くも痒くも無いみたい。いつものように優しい目をして笑っている。
私は幸のそんな顔を見ることができて、パンチをお見舞いしたことで満足しておくことにして幸の胸にもぞもぞと潜り込んだ。幸はすぐに私に腕を廻してくれた。
「ねえ、私がエロ女なら、夏織はエロたぬ……や、やっぱりなんでもない」
「天誅」
「ふぐっ」
「うわっ」
私は幸の脇腹に肘をついて私の体を起こしてやった。痛くすぐったいというヤツをお見舞いしてやったのだ。その際にうりゃうりゃと肘でぐりぐりすることも忘れなかった。だって私は決してっ、絶対にっ、えろはともかくたぬきなんかではないのだから。
そして幸はいま抱いていた私を放り出して奇妙な声、ふぐぅとか言って右に左にと転げている。器用にもへんてこな動きをしてみせるとはさすが幸だと私は感心しながらも笑っている。
「ふふふ。なんだそれ。やっぱ幸は面白いな」
「ふぐぅぅぅ」
増えてしまってなかなか落ちやがらない私の体重をかけての一撃だから、さすがの幸もどうやらこの攻撃は堪らなかったみたい。少しのあいだ体を丸めておほーとか声を上げてのたうち回っていた。
そして今は、なんだよーとかたぬきは可愛いんだぞーとか言いながらそこを摩って私を可愛く睨んでくる。
「天罰だし。ふふふ」
私は幸の、一瞬で丸まってエビぞって跳ねて、さらに左右に転がるというへんてこなリアクションに満足すると、文句を垂れる幸に構うことなく再び幸の胸へと潜り込んだ。
「もぉ、しょうがないなぁ」
「幸が悪い」
「ははは、まぁそうかもねー」
幸の口調は優しくて、潜り込んだ私を柔らかく抱いてくれる。こうしていると安心できる。ここは幸が私を守ってくれるとそう思える特別な私の居場所のひとつになった。
私がもぞもぞとここに潜り込めば、幸はそのあいだ私の髪にキスをしたりぽんぽんと優しくリズムを刻んでくれる。
「ありがと幸」
「ん? 夏織は気にしなくていいの」
「うんっ」
優しい幸に包まれながら暫くお喋りをして、互いにキスをしたりされたりと存分に甘えたあと私達はお風呂に入る。以前と同じ轍は絶対に踏まないと私が決めたのだ。あんな、女性としての全てを脅かすような異臭騒ぎはもう二度とごめんなの。
「いやアレは酷かった」
「ね。でも騒いでいたのは夏織だけだけどね」
「まあね。あれ?」
私の呟きを拾った幸はほんと凄かったよね、けど気にすんなしとか言って笑っている。
「なんだ。やっぱバレてるのか」
「あれだけ臭ければねー」
「言うなって」
「あはははは」
そしてやって来た週末、私は微睡みながら電車に乗っている。私の実家の最寄駅に着きますよと車掌さんのアナウンスが耳に入って目を開けると窓の外には見慣れた景色があった。
「変わらないな。いや、微妙に変わってるな」
ランドマーク的な高い建物もなく駅前にはコンビニと喫茶店。あとは精々四、五軒のお店、それと信金くらいしかない。
少し歩けばその先に商店街もあったけれど今はその面影はない。子供の頃、足繁く通った溜まり場だった駄菓子屋さんももういない。あるのはやたらと増えた駐輪場とコインパーキングくらい。
信じられる? これでもここは一応、都下なんですけど。三十分くらい電車に揺られれば新宿とか余裕で行けちゃうんですけど。
それなりに利用者は増えているみたいだし、二路線乗り入れているから乗り換えの乗客も多い。なぜ鉄道会社系列の開発会社なり行政なりがこの駅や周りだけ再開発をしないのかなと不思議に思う。
古き良きでもいいけれど利便性も大事。駅前にスーパーひとつないなんて不便極まりないと私は思う。
「ああそうか」
私は気づいてしまった。この殆ど変わらない地元の風景にどこかほっとする気持ちを僅かでも抱けない私はすっかり都会の色に染まってしまったのだろう。今や私は、隙あらば誰もが生馬の目を抜こうとする都会のコンクリートdeジャングルー的な殺伐とした毎日を生き抜くタフで洗練された大人の女性になってしまったのだろう。もう後ろを振り返ることもないというヤツだ。
私には帰って来いよはもう聴こえない。忘れてしまったのだ。私は染まらずに帰ることはできなかった。私に願いは届かなかったのだ。ならここはひとつ、木綿のハンドタオル的なヤツをあの人に贈らなくては…って、あの人? 誰?
「…あほか」
私は自分自身に呆れつつなんのことやらと頭をふりふり座席を離れ、駅に着いた、もうすぐ帰るよと母にメッセージを送るためにスマホを取り出して、開こうとしているドアの前に立った。
そんなわけで、いま私は甘くて美味い手土産を持って地元の町をとことこと歩いて実家に顔を出すところ。
それはもちろん、いまだにぎくしゃくしている父とちゃんと向き合うためだ。私は今日、決着をつける。大丈夫。いける。
それに、もしも父と私の蟠りがなくなって昔みたいになれたなら、私の手土産、気づいたら日本から撤退していて食べられなくなってしまったあの伝説のナポレオンパイ的な美味いケーキ(小)を家族みんなで食べることができるのだ。大丈夫。いける。
私はそういう意味でも頑張るつもり。どうやら私の手土産は伝説のヤツとは味は違っているみたいだけれど、どうしてもそれっぽいヤツを食べたくてわざわざ早起きして遠回りして買ってきたのだからそれを逃すことなど私にはできないしそんなこと想像もつかない。
私は立ち止まりそれをじっと見て、絶対食べるぞ待ってろよと、気合を入れた。
つまりこれは言わば賭け。勝ったら食べるし負けたら食べずに置いて帰る。私はそれくらい強い気持ちで事に臨んでいるのだ。
「大丈夫。食べられる」
たぶん、父に話を切り出せば結果はすぐに分かるのだからそれで終わるとても簡単なこと。
昔のように仲良くなれるのか、それとも今と変わらないのか、はたまた完全に終わってしまうのか、そのうちのどれになっても私はそれ黙って受け容れるつもり。
今頃は幸も親と向き合っている筈だから、ずっともやもやしていた気持ちにちゃんとケリをつけてくるだろう。
私ももやもやと抱えたものにケリをつける。その結果が酷いことになったとしても私達にはお互いがいるし、私には母が、幸にはお姉さんがいるのだから、辛くても悲しくても前を向いて進んでいけるのだと、私はそう思っている。
「そうそう」
駅から歩いて約八分後、私は実家の前にいる。弱気になって足が竦んで動けなくなる前に、私は一応チャイムを鳴らしてから玄関の鍵を開けて中に入る。
「ただいまー」
頑張って明るい声を出して、ここにきていきなり大きくなった恐怖心を何とか抑え、手土産をそこらに置いて踵がほぼ平べったいパンプスをよっこらせと脱いでいると、奥から母がぱたぱたとやって来て私を迎えてくれた。
「おかえり夏織」
「ただいま。はいこれお土産」
私が手土産を渡すために母と顔を合わせた時、私はリビングの入り口に所在無げに立つ父を見つけた。
「あ…」
少しバツの悪そうな顔をしてぽりぽりと頭を掻いている父のその仕草は、私が父を避け始めたあの日以来全く目にすることのなかったヤツだ。
私は瞬時にあの日のこと、聞きたくなかったと逃げるように席を立った父を、私を拒絶しているように見えた父の背中を、その背中が小さく見えたことを、そして母の言葉を思い出していた。
あれから十年。べつにそのあいだずっと父と顔を合わせていなかったわけじゃないけれど、私が実家に顔を出すたびに、私は、そしてたぶん父もそう、同じ空間になんとなく居づらくて、私達は鉢合わせしないように、姿を見せないように、いま思えばくだらない馬鹿な努力を互いにずっとしていたのだ。
「父さん…」
いま私が目にしている父は、あの頃より年をとってシワが増えているし、えっ、髪うっす…って、ま、まぁ、それなりになっている。その体つきも一回り小さくなったようにも思えてしまう。
その父の姿に私はいま何を思うのか。
ああ、私がまだ小さかった頃、仕事で疲れて帰って来ても私の相手をしてくれて、よく遊んでくれて、せがむ私を軽々と肩車をしてくれた父はとても大きくて、怖い夢を見れば父さんがいるから大丈夫だぞと眠るまで側にいてくれて、私の成長を親馬鹿丸出しで喜んでくれた父。私はそんな父が大好きだった。
それはまるで走馬灯のように私の脳裏を駆け巡る父との思い出。私はそれだけで胸がいっぱいになってしまう。やはり私は父のことが大好きなのだ。それがよく分かってしまった。
私は何かに背中を押されるように動き出していた。
「父さんっ」
うちはそんなに広い家でもない普通の家だから父との距離はほんの五メートルくらい。それでも私は父に向かって突進していた。
「夏織…」
と、驚きながら私の名前を呟いてぼけっと突っ立っている父に私は抱きついた。
私が小さくなったような気がするなと思っていても、父はうおっとよろめきながらもちゃんと私を受け止めてくれた。
その父が戸惑いながらも私の肩にそっと手を置いた。その手は私の記憶通りやはり大きくて温かい。
父はきょどっているのだろう。私の後ろで母がくすくすと笑っている声がする。きっと背中を押してくれたのは母だ。私は確かに母の手が添えられたのを感じたのだから。
「ねぇ、父さんはさ、私のこと嫌いなの?」
私は父にしがみついたまま顔を上げて訊いてみる。父ははっとしてびくっとなったけれどとても力強い声で私の問いに対する答えをすぐに聞かせてくれた。
「そんなことあるわけないぞ」
「じゃあっ」
「ああ。ごめんな夏織。傷つけちゃったな。父さん大人げなかったな。ほんとにごめんな」
「うっ。私もごべんなざい」
私はもはや半べそだ。その私の頭を父の手が撫でている。最初は恐る恐るだったけれど今は懐かしい慣れた手つき。よしよし夏織はいい子だなと伝えてくれるそれは、私が成長するうちに気づいたら失くなってしまったヤツ。
私は童心に帰ってその感触を味わっていた。こんなことはもう二度とない、たぶんこれが最後なのだと分かっているのだから。そんな気がしているのだから。
父もそれが分かっているのだろう、撫でるその手はなかなか止まらない。母は後ろで笑っている。私は変わらず半ベソを掻いている。
覚悟を決めて一歩前へと踏み出してみれば、こうしていとも簡単に、けれどようやく私達は元の形に戻れたのだ。
「えと、と、父さん、もういいや」
「あ、ああ。そうだな」
「ふたりとも照れちゃってまぁ」
「う、うるさいな」
「う、うるさいぞ、母さん」
「ふふふふふ」
慌てて文句を言った私達に、声まで揃えちゃってなんだかんだでやっぱり親子だねぇと母は笑った。父は照れてしまってそっぽを向いている。私はいくらなんでも三十にもなって父に抱きつくとか頭を撫でてもらうとかかなり恥ずいんですけどと思っていた。
それでも再び迎えることのできたこの時間は、私達家族が確実に元に戻ったと言える時間だから、後から恥ずかしくなって黒いヤツがやって来ても、幸に話して泣き虫だねとからかわれても、私は喜んでそれを受け入れてやるつもり。
「そうそう」
「夏織?」
「どうした?」
「なんでもない」
私の呟きに対する問いかけは二つ。久しぶり聞いた父と母の重なった声に、私は凄く嬉しくなって半ベソのまま微笑んだ。
「おかえり夏織。まぁ、そのぉ、なんだな、すごい顔だな」
「ただいま父さん。けどそこはほっとけって」
「ふふふふふ」
そして午後三時前。落ち着いた私達の前には私の手土産、ナポレオンパイ的なヤツがある。それを三人で食べながら話をしている。
「美味いなコレ。早起きしたかいがあった」
「たしかに美味しいね。ありがとね」
「そうだな。美味いな。ありがとう」
「いいのいいの」
家族の思い出話とか私の仕事の話とか父さんの萎れていた十年間の話とか、俺達もな、LGBTな、そういうの勉強したんだぞ、なぁ母さん、なんて会話に花を咲かせているうちに、最近どう? 的な近況報告みたいなものになった時、私は幸のことを切り出した。
「えっとね、私いま恋人がいる」
「えっ」
「市ノ瀬幸っていう女性。結婚は、できないけど、私達、そのくらいの気持ちでいるの。覚悟もあるの。だから彼女と一緒に暮らしていくつもり。そのうち家も探し始めるから」
母はそれを知っているからにこにこ微笑んでいる。心配の方が大きい筈なのに、なんかワクワクするわねーなんて言ってくれる。
その隣にいる父は固まってしまった。その顔や雰囲気が何となく不機嫌そうに見えて、やっぱり心の底では認めていないのかな、無理なのかなと私には思えてしまった。
「わたし、やめないから」
少し刺のある口調でがっかり感を隠しながら私が挑むようにそう言っても父は顔を少し歪ませて見せて横を向いてしまう。
「夏織」
「なに」
母が私を呼ぶ声に、私は不機嫌な声を隠さず返事をしながらも私は目線は父に向けたまま。そんな態度を取るのなら私のことなんてずっと認めなければよかったのにと、私は父を睨んでいる。
「そんな顔しない」
「でもさぁ」
「あのね、お父さんはね、悔しがっているだけなのよ。俺の娘が娘が盗られるってね。そんなこと許せるかってね。そうよね、父さん」
「は?」
私は間抜けな声を出してしまった。その私の視線の先で父はそっぽをむいたま頷いていた。私は分かってしまった。なるほど父はよくも娘をと、幸に嫉妬しているのだ。それが父の不機嫌の原因だったのだ。
「えーと、つまりそれは俺から娘を奪っていく君を殴らせろやこら的な?」
「そうそう。ね、悔しいのよね?」
「ああ」
「ほらね」
またしても不機嫌そうに頷いている父を、母は笑って見つめている。私はふたりを交互に見ながらなんだそれと笑ってしまった。
「ふふふ」
「俺だってな、夏織がそういう人を見つけてくれて凄く嬉しいんだぞ」
「認めてくれるってこと?」
「ああ、もちろん」
「やったっ。ありがと父さんっ」
私が嬉しさのあまりに満開の花が咲き誇るくらいの笑みを父に向けてお礼を伝えると、父は微笑んで頷いてくれたあと再び複雑そうな顔をしている。母は私達を見ながら嬉しそうに笑っていた。
娘を嫁にやる気持ちは男親にしか分からない。私と幸では戸籍上も、データも書類もどれをとっても嫁にやるも何もないけれど、こうして幸に嫉妬してくれるということは、本当に私を、私の抱えているものを認めてくれているのだということになる。
父にはもう、相手が男性とか女性とか関係なく、ひとりの男親として娘の幸せを喜びつつも奪っていく相手に嫉妬もしているのだ。そんな姿を見せてくれるなんて嬉し過ぎる。
「ヤバい。なんか泣きそうだし」
「夏織の泣き虫は変わらないね。よしよし」
「けどな、やっぱりなぁ」
私はまたも半ベソ、母は私の横にやって来て私の髪を撫でている。そして父は今、けどなぁ悔しいものは悔しいんだよなぁとかぶつぶつと言っている。
「美味い。さすが母さん」
「そうでしょう。もっと褒めなさい」
「すごいすごい」
「はっはっはっ」
「父さん痩せた気がする」
「ん? そうか? そういやぁ夏織は少しまあるくなったか?」
「あ?自分だって髪の毛どこやった」
「はっはっはっ。これは一本取られたな」
夕暮れ時。こんなふうに、一家団欒、どうってことなくもない会話が少し混じるものの、母の作ってくれた私の好物、五目ちらしを食べたあと父は珍しくお酒を過ごして酔っ払って、今はぐうぐうとソファで眠っている。
父はきっと、過ぎた時間を埋めたことでほっとしたのだと思う。父はずっと笑顔でご機嫌だった。幸について話した時も、父は素敵な人でよかったなと言ってくれたのだ。
「ぐぅぅ、ぐわぁぁ」
「うるさいな」
「ふふふふふ」
私と母は父のいびきを聴きながらテーブルにいてコーヒーを飲んでいる。そして目の前には私のために大きめに切り分けられたナポレオン的なヤツがいる。残しておいても仕方ないからねと母が出してくれたふた切れ目。
「いっただっきます」
食べてしまえと言われたからには当然わたしは遠慮なく、いただきますと手を合わせ、素早くフォークで一口大に切り取ってそれを口に入れた。
「やっぱ美味いねコレ」
「よかったね」
「うんっ」
「ねぇ。母さんが言ってくれたんでしょ」
半分ほどを食べたあと、私はフォークを咥えながら、眠っている父に顔を向けてそう訊いてみる。母が私達のために何かをしないわけがないからだ。母は頷いてさすが私の娘、分かっているねと微笑んだ。
「そうよ。いい加減にしないと二度と戻れないよって。娘を失うよってね」
「そっか。ありがと」
「いいのよ。だって夏織はそのつもりだったんでしょう?」
「まぁ、そうかな」
母は分かっていたのだ。そして母は、間に合ってよかったよととても嬉しそうに笑った。
「でさ」
「なに?」
「さっきも言ったけどわたし、幸と一緒に暮らそうと思ってて、それって私達にとっては結婚と同じことなんだ。それで一度、幸を連れてこようかなって。これからのことも話したいし、会ってくれる?」
「もちろんいいわよ。こんな我儘な娘を好きになってくれるなんて、幸さんは絶対いい人よね」
「そこは否定できないな」
そのあと私は、一緒に暮らすに当たってマンションを買おうと思っていることとか、どうローンを組むのかとか、必要なものとか、私達が考えていることを伝えた。
万が一の時には力を貸して欲しいなと、お願いしますと頭を下げてお願いしておいた。
「まかせなさい」
「さすが肝っ玉。頼りにしてる」
「いいわよ。お父さんも、いいわよね?」
「ああ。いいぞ」
その声に、私がソファに目を向けると父は起き上がっていて私を見て頷いた。
「夏織。俺もできるだけのことはするからな。安心していいぞ」
「うん」
「その代わり、あれだ。やっぱり幸さんを一発なぐらせ、いってぇ」
いつの間にか父の後ろに移動していた母がその頭頂部をスリッパでぱこーんと叩いたのだ。頭を抱えて痛がっている父は、母さんここはダメだろ髪の毛がーとか言いながら立ち上がる。母は笑いながらも慌てた素振りで逃げ出して、父がその後を追っていく。私はふたりを眺めながら、大爆笑でドリフ的なコントの終わりに流れていたヤツを、ててて、てってれってってと小さく歌っている。
うちの定番。両親のいちゃいちゃを見せつけられるのは些かうんざりするけれど、今日ばかりはとても楽しく思える。色々と戻ってきたなと実感できるから。だから私はいま二階でぱたぱたと追いかけっこをやっている父と母に向けてそっと呟いた。
「ただいま」
どたんばたん聴こえてくる音にいい歳してよく動けるなと私が感心しながら、ふと、幸はどうしているかなとスマホを手に取って画面を見ても幸からのメッセージは来ていない。
私はほっと胸を撫で下ろしてほくそ笑む。午後九時過ぎ。きっと幸は今頃、酒豪の家族と一緒に美味いお酒を飲んでいるのだろう。この時間まで連絡がないということはそういうことだ。
「よかった。いけたいけた」
そして私はぼちぼちふたりを止めるかなと思って立ち上がったけれど、もう暫くいちゃいちゃさせておくのもありかなと思い直して椅子に座って残りのナポレオン的なヤツを優雅に食べ始める。
「うん。ほんと美味いなコレ」
私は今にこにこだ。
何となく、志村うしろうしろを思い出したのでちょこっとだけ触れてみました。居なくなってしまうと今更ながらその凄さが分かる気がします。
今話も安定の長さでした。けど、へいきへいき。いけるいける。
読んでくれてありがとうございます。