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woman  作者: しは かた
31/102

第二十六話

続きです。


よろしくお願いします。

 


「ふほふほ」


「はふはふ」


 四月の後半、ゴールデンなヤツがやってくる少し前、私は花ちゃんと夜ご飯を食べている。オフィス近くのビルにある小洒落た居酒屋で、ビールを飲んで適当に頼んだ創作料理的なヤツを摘んでいるところ。


「外かりかり。美味しいねこれ」


「うん。中はじゅわってなってて熱いけど美味い」


「そしてビールが合う」


「ほんとだよね」


「「ぷはぁぁ」」




 この店にくる前、例のスペースで私達は落ち合った。当然、幸も誘っていたけれど幸はここに居ない。

 取引先の人と飲むから今日はむりなんだよねごめんねと言われてしまったのだ。

 まぁ、そんなことは普通にあることだから私はがっかりなんてしなかった。泣いたりなんてしなかった…ふぐっ。


 がーんと落ち込む私を花ちゃんが、お前は子供かと笑っていた。私が泣きそうになったり落ち込んだりするといつもしてくれるように、あり余る胸を張って両手を広げながら。


「ほら屋敷。泣くなら私の胸で泣きなよ。FだよF」


「ううっ、花ちゃんっ…ん?Gじゃないの?幸がそう言ってたんだけど」


「わたし痩せたんだよ。三キロも。その分、胸も落ちたんだけどね」


「まじでですか?」


「まじまじ」


 花ちゃんは勝ち誇るようににやりと笑った。

 そう言われてみると、まだまだ私と同じ部類、いわゆる標準的な体型だけれど、花ちゃんは少し細っそりしてきたような感じがする。

 私はそんな馬鹿な筈はと窓に映る私をじっと見てもう一度花ちゃんに視線を戻し、それを何度か繰り返してみた。


「お、おかしい」


 私の目がおかしくなってしまったのか、私はごしごしと目を擦ったり、まぶたを閉じてそれを優しく揉んでみたり、星を見るように遠くのビルの赤く点滅している電灯的なヤツをじっと見たりして目の調子を整えてみた。


「はぁ、屋敷。もういいって」


「だめ。ちょっと待ってて」


 花ちゃんは呆れているけれどどことなく余裕。私はその横であわわとしながら必死の形相。

 私は再び窓に映る自分と花ちゃんを比べてみた。


「む」


 やはり花ちゃんの方が細く見えてしまう。私達のように至って、ふ、ふふ普通の体型なら、胸が大きい方が太っているなと錯覚してしまうにも関わらずだ。


「ぐぬぬ」



 その花ちゃんは今、けどまぁ、胸の見た目はあまり変わらないからさと、それを両手で持ち上げていた。

 確かに見た目は変わらないしまだまだ重そうだし、それでほんとにFになっちゃったのと思うけれど、そんなことは今はどうでもよかった。知りたいことは他にある。私は今とても焦っているの。


「ずるいよ花ちゃんっ。どうやって痩せたの?」


「内緒」


「教えろー。この裏切り者ー」


 私に内緒で痩せるとは何事かと、私は花ちゃんに迫り行く。私が襟首を掴んでぐいんぐいんとやっても花ちゃんは楽しげに笑っている。


「ははははは」


「はけー」


「ははははは。内緒」



 いつものだだっ広いスペース。私と花ちゃんの楽しくて遠慮のないいつものやり取り。それは私にとって凄く大事で大切なもの。ありがと花ちゃんと、私はいつもそう思うのだ。


「でもさ」


 と、花ちゃんは私に真顔を向けた。その目の奥は笑っていたけれど。


「いくら屋敷より細くなったからって、たかだか三キロ痩せたぐらいじゃぁ、市ノ瀬ならきっとどんぐりの、いや違うな、目くそが鼻くそを笑っているなんて所詮はくそ同士なのに笑っちゃうとか言うだろうなぁ」


「えっ」


「私達はくそ扱いだよ、屋敷」


「な、なななんだってー」


「許すまじ」


「許すまじ」


 くそう、幸の奴め。覚えておけよと私は思った、と思った?


 ぶぶー。


 ふふふ。





 そして今、ビールからそれぞれ違うお酒を手にしながら私達は話をしている。


「春はどこいったんだろね」


「最近毎日暑いよね。あとでアイス食べよう」


「太るよ」


「なんのこと?」


 私は既にあとでアイスを頼もうと決めている。今日も暑かったから仕方ない。もはや例のスペースでのことなど私の記憶にはない。私はそうやって身軽に生きるのだ。

 そして、春を探して太るよとか訳の分からないことを言った花ちゃんも、メニューにあったデザートのところを真剣に見ていたから何か狙いを定めている筈。



「昼間は緑が目に染みるようになった」


「あー、わかる。景色が一気に変わった気がする。気づいたら緑、みたいな。あとさぁ、虫とか出てきたよね」


「そうだね」


 なんか妙に眩しくて目が痛いんだよなと、花ちゃんは目を細めている。私は虫が出てくるのは嫌なんだよなぁと顔を顰めてしまう。


「その顔。台無しだよ屋敷」


「お互い様だから」


 お互いの嫌そうな顔を見た私達は、なんだその酷い顔はと笑ってしまった。



「ねぇ花ちゃん。ちょっと訊きたいんだけど」


「なによ」


「花ちゃんは結婚とか、どう考えてるのかなって」



 それは、私と幸のこともあってなんとなく訊いてみたくなったこと。


 私達のこれから先のこと、一緒に住むつもりだとかそういったことを伝えた時、花ちゃんは私達に、市ノ瀬はまぁいいとして、屋敷、お前は途中で投げ出すなよと、長い付き合いのある私については、あとアレもとかソレもだなとか特に性格について的確に指摘してくれた。

 私は花ちゃんらしく頑張りなよと私達を励ましてくれた花ちゃんがこの先どうするのかなと思ったのだ。



「どうってなによ?」


「いや、いつするんだろうって思って」


 花ちゃんには学生時代から、もう十年は付き合っている彼氏がいる。私も何度か会ったことがある某有名企業に勤める山口さん。

 私は全く興味はないけど良い人だと思うし実際そうだ。けれど、花ちゃんの口から結婚話が一向に出てこないからどうしてかなと思っただけで深い意味はない。


 けれど、深い意味はなくてもそれこそ花ちゃんのことだから気にはなる。私にとって花ちゃんは幸せになるべき、ならなくてはいけない女性なのだから。


 考え方や状況は人それぞれだし事情が許さないなら無理だけれど、基本的には私達のような人種と違って、その気になってお金に余裕があればことはスムーズに運ぶ。結婚できるのだ。


 私と幸はそうはいかない。面倒で厄介なことだらけ。かといって、私はべつに自身の抱えているモノとか立場とか、今の私を可哀想だとか不幸だとは思っているわけでもない。

 ただ、それでも私の立場からすれば、目の前にぶら下がっている人参的なヤツ、甘くて美味いお菓子になぜ喰いつかないのかなと思ってしまう。難なく食べられるのだからさっさと食べちゃえばいいのにと思ってしまうのだ。



「そりゃあ、私だっていつかはするよ」


 前に訊いた時と同じように、花ちゃんは自分のことなのにあまり興味なさそうにしている。


「まぁ、それはそうだろうけどさ…あれ?もしかして花ちゃん、山口さんと別れちゃったとか?」


「ふはははは」


 私は何かに触れてしまったのかも。いきなり高笑いする花ちゃんに少々怖さを感じてしまう。見開いたその目が私を捉えて離さない。


「こわい」


 なんか怖いから、私は右に左にと体をずらしてみるけれど、右にずれても左にずれてもばっちりと目が合ったまま。まるでどこに立っても目が合ってしまうという気持ち悪い騙し絵というか写真みたいな感じ。


「超こわい」


 そして、いきなりぴたりと笑いを収めた花ちゃんはやけに真剣な顔で私を見つめている。私の名を呼ぶその口調もやけに真剣だった。


「屋敷」


「な、なに?」


「屋敷はいつから私に彼氏がいると錯覚していた」


「は?」


「いつからよ?」


「いやいや、花ちゃん彼氏いるじゃん。私も知ってるやまぐっさんじゃんって、あれ?まさかそれも違うの?」


「ふっ、ふはははは」


「あー」


 私は分かってしまった。花ちゃんいま私で遊んでいるのだ。花ちゃんにとって私のことはからかい易いのか、こうして遊ばれることは昔からよくあることだった。


「もう、花ちゃんさぁ」


「ははははは。はー、歳をとっても変わらないね、屋敷は」


「歳をとったとか言うな。いや、とったけどさ」


 またやったなと、私が頬を膨らませて花ちゃんを睨むと、屋敷は相変わらず素直で単純だけど可愛いね、いやごめんごめんと手を合わせて誤った。


「でも、実際、歳をとったよね。私は三十二だよ」


「まぁね。私は三十になった」



 ふと、会話が途切れた。花ちゃんは遠い目をしている。

 私はなんとなく、過ぎ去った日々を思う。私は私なりに頑張って生きてきた。黒いヤツとか、恥ずかしいなと思うことは多々あるけれど、恥ずべきことはひとつもない。そこに相応の自負はあっても後悔はない、と思う。大丈夫。



「けどまぁ屋敷の変わらないその素直さは美徳だね」


「馬鹿にしてるでしょ」


「違うよ屋敷。私にそれは無いからさ、素直にすごいなと感心しているんだよ」


「そっか…って素直にってことはあるんじゃん、花ちゃんも素直さ持ってるんじゃん」


「屋敷は細かいな。ははははは」


「…まったく」



 いつものやり取り。私はまったくとか言いつつもこっそり微笑んで、ちょっと前にやって来た明太子餅チーズイカあさり海苔のピザに手を伸ばす。


「まだあったかい、ていうかあっついなこれ」


「ほー。私も食べよう」


 するとどうでしょう。私が一口食べてそれを口から離した瞬間、チーズが私の鼻の頭にぴたっとくっ付いてしまったのです。


「う?」


 下に垂れるならまだしもなぜか上に張り付いてきたチーズ。それが鼻水のように上唇くらいまで垂れ下がっている感じがする。私は思わず笑ってしまう。


「ぷふふ。ねぇ花ちゃん見てこれ」


 私はふふふと笑いながら、ねえねえ花ちゃん、こんなことありえないと思わない?と自分の鼻を指して、花ちゃんにこの不思議な現象を見てもらった。


「ふははは。さすが屋敷。チーズが鼻に付くとはわけわからない。ははははは」


「だよね。ふふふふふ」


 そんなことある?面白いなとふたりでひと笑いしたあとに、いまだ鼻に垂れ下がっていたそれを、私は頑張って舌で舐めとってやった。




「屋敷。さっきの話だけどね」


 美味いなと、あらためてピザをもぐもぐしていると花ちゃんが話を元に戻した。

 今度はちゃんと教えてくれるつもりみたい。その声は真面目ながらも嬉しそうだ。



「結婚?」


「そう、それ。するよ。来年に決まったというか決めたよ」


「まじ?」


「まじまじ」


「花ちゃんおめでとうっ」


 それを聞いて、私は自分のことのように嬉しくなった。そんなのは当たり前。だって、私の大好きな花ちゃんのことなのだ。花ちゃんが嬉しいのなら私も嬉しいに決まっている。


「ありがとう」


「わたし、なんだか凄く嬉しいよ」


「そう。実はね、私もなんだか嬉しいみたいなんだよ」


「なんだそれ。ふふふ」


「なんだろね。ははは」


「でも、ほんと、おめでとう」


「ありがとう屋敷」


 花ちゃんは少し照れくさそうに微笑んだ。その幸せそうな顔はとても可愛いくて眩しかった。




 からかわれたり嬉しい話を聞きながら食べて飲んでと私達のお腹もいい感じに膨れたところで最後の仕上げをしないとなと、私はメニューを手に取った。今はそれを花ちゃんとガン見しているところ。そして私達の視線はあるメニューの写真に釘づけになっている。


「あれは…これだね」


「うん。すごいねこれ」



 私は三種のアイスを、花ちゃんはミニ苺サンデーを頼もうかと思っていたけれど、私達はというか花ちゃんは見てしまった。見つけてしまった。

 何かに気づいた花ちゃんが私をちょんちょんとやって小さく後ろを指差したのだ。


「屋敷。あれ」


「なに?…うわっ、なにアレでかっ」


 私が指された方に振り向くと、私達の席の遥か遠くにいる女性四人組がきゃいきゃいしながら一つのどでかいパフェをシェアして食べていたのだ。

 その姿が私の闘争心に火をつける。それはきっと花ちゃんも同じこと。だから先に火がついた花ちゃんは、わざわざアレを私に見せたのだ。


「ふっ」


「さすが屋敷。そうこなくちゃ嘘だよね」


 負けていられない。私は花ちゃんに向き直って頷いた。それから少しだけお腹を揺らしてまだまだいけることを確認して号令を待った。

 ちなみに花ちゃんの確認はもう既に終わっていた。浮かべている余裕の笑みに、さすが花ちゃん頼りになるなと私は思った。



「屋敷。いくよ」


「当然でしょ」


 私はゴーサイン受けて、すいませーんと店員さんを呼ぷ。その声は弾んでいた。そして私の目にはこちらにやって来る店員さんと花ちゃんが残っていたピザを片付けているのが映っている。


「さすが」


 普通ならここで、えー、これからあのパフェ食べるんだよ、なにしてるのよと、ツッコむところかもしれないけれど私は違う。

 私は今、もぐもぐと頬を膨らませている花ちゃんにますますの頼もしさを感じている。だから称賛の声をあげるのは当然のことなのだ。



「えーと。お二人だけだとかなりキツいと思いますよ?しかもたらふく食べた後ですよね?どうします?」


「「いきます」」


「あ、はい」



 店員さんが、では少々時間をくださいねと言って去っていく。

 まったく、たらふく食べたとは失礼な店員さんだなとは、私も花ちゃんも思わなかった。食べたから。美味かったから。


「おお」


 見れば花ちゃんは目を閉じて静かに瞑想している感じ。まさか眠っていなければ、それはアレ。心を整理整頓するとかいうヤツだ。さすが花ちゃん、なんか素敵。


 そんなことを思いながら私は早くこないかなと決戦の時を待っている。





「ゔゔゔ、ざぶい」


「ちょうさぷい」


 結果を言えば成功したけど失敗したみたいな感じ。

 ちゃんと食べ切ったアイツは美味かったけれどアイス多過ぎだったのだ。そのせいでいま凄く寒い。花ちゃんはがたがたと震えているしその唇はもはや紫色だ。

 それを見て私はすぐに温かいお茶を頼んだ。もちろんふたつ。私だって凄く寒いから。



「あったかいヤツがあってよかったよ。ずずー」


「ほんと。ずずー。あー、生き返る」


「もし無かったらお湯割のお湯だけを頼むところだったね」


「それはあれ?ラムネサワーのラムネだけくださいみたいな?」


「そうそう。そんな感じ。なんか面白いねそれ」


 今度そうやって頼んでみようと花ちゃんがまだ少し震えながらお茶を両手で持って笑っている。私も何かないかなと考えている。梅酒の梅だけとかハブ酒のハブだけ…は、ないな。


「ないない」




 体はだいぶあったまった。

 いやほんと寒かったねとふたりで話をしていると、花ちゃんがあのさぁとこの日何度か見せた真面目な顔をした。



「どうしたの?」


「私が結婚を決めた理由なんだけど」


「うん」


「屋敷、お前だよ」


「うん?」



 私がどういうこと首を捻っていると、あのねと、花ちゃんは色々と話してくれた。


 学生時代どうして私に声を掛けたのかとか、それが妹さんと私を重ねたことが理由だったこととか、その妹さんがもう居ないこととか、その妹さんの名前は千春さんっていうこととか、それを覚えておいてほしいとか、私が千春さんと同じ同性愛者、レズビアンと知って入れ込んでしまったとか、千春さんの代わりって訳じゃないけど私を見守っていたかったとか、なるべく側にいたかったとか、こうして仲良くなれてよかったとか、それが花ちゃんの千春さんへのやり直しというか感じなくてもよかった筈の罪悪感からの罪滅ぼし的なヤツだったのかもしれないとか。



「でさ、私は屋敷を妹のように思っているところがあって」


「うん」


「その妹が、屋敷が一生添い遂げようと思える相手を見つけたわけだし、その市ノ瀬にもお願いしたし、私が勝手に心配しているだけなんだけどさ、もう大丈夫かなって。それなら私も先に進もうかなって思ってね」


「そっかぁ」


 私と花ちゃんが知り合った頃、なんで花ちゃんは私をそこまで構ってくれて優しくしてくれたのかを理解して納得した。

 私がビアンだとカムアウトしたあの時もそう。あのお目目ぱちくり固まったのは単に驚いていただけじゃ無かったのだ。

 それからの花ちゃんは妹さんにできなかったことを色々と私にしてくれていたのだ。事あるごとに声を掛けてくれたり、私を連れ回して私の世界を広げてくれた理由はそこにあったのだ。


「そっかぁ」



 そこまで話した花ちゃんは、ふうと息を吐いてひと呼吸入れた。

 私はお酒を頼むために店員さんを呼んだ。花ちゃんも何か飲む?と訊くと笑ってうんと頷いた。




 花ちゃんのそのグラスを持つ手は筋張っている。少し緊張して手に力が入っているのだと分かる。


「どしたの花ちゃん」


「いや。怒っているかなと」


「なんで?」


「代わりじゃないって言ってもさ、どう受け取るのかは屋敷の自由っていうか、それに私が千春のことで屋敷を利用したような気もするし、だから…」


「花ちゃん」


「な、なによ」


「私はね、花ちゃんが構ってくれて嬉しかったよ。ありがと花ちゃん」


 私は頭を下げて心からのお礼を伝えた。顔を上げると、花ちゃんは口を開けたまま固まっていた。


「それに、花ちゃんが声を掛けてくれなかったらさ、私達はこうして仲良くならなかったでしょ?そんなの絶対嫌だから」


 花ちゃんは開けっぱなしていたその口を閉じてそっかと小さく頷いた。


「そうだよ。私はね、後輩として友達として、それから妹としても花ちゃんのこと大好きだから」


 私は心からの微笑みを花ちゃんに向けた。

 花ちゃんは許されたと思ったのだろう、ほっとしたのだろう、可愛い顔を次第に崩し、眉を顰めて下唇をぎゅっと噛んで涙を懸命に堪えている。


 私は手を伸ばしてグラスを握っていたままの花ちゃんの手に触れた。たぶんそのせいで花ちゃんの目から涙が零れてしまった。

 当然、私はバッグからハンドタオルを出しておくのも忘れていない。間に合わなかったけれど、それを花ちゃんの手にそっと握らせる。


「なぐ、よ」


「うん。花ちゃん、お疲れ様でした」


「うぐっ」



 いま花ちゃんが泣いている理由は私が怒っていなかったからとか私に感じていた罪悪感から解放されたからじゃない。それは違う。


 花ちゃんは代わりじゃないと言ったけれど、私に千春さんを重ねているというか、普段は意識しなくてもどうしたって重ねてしまう時もある。それは間違いない。私はそれでいいと思う。


 その私がお礼を言ったことは、大好きと伝えたことは、花ちゃんにとってはありがとうお姉ちゃん大好きだよと、千春さんがそう伝えてくれたと思えたのだ。だから花ちゃんは泣いているのだ。

 そして花ちゃんは、ずっと抱えてきたその罪悪感だとか自分だけが普通に生きているという後ろめたさを、ようやくその肩から降すことができるのだ。


「花ちゃんは頑張った」


 私のハンドタオルで顔を隠して静かに泣いている花ちゃんにはその呟きは聞こえない。

 そして私はちょっとうるっとしながらただただ花ちゃんを見ている。微笑んで。




「その顔、台無しだよ」


「だよね。ははは」


「知ってた花ちゃん?最初の頃はさ、わたし花ちゃんのこと、なんだこの人うざいなって思ってたから」


「いろいろ台無しだよ、屋敷」


「ふふふふふ」


「ははははは」



 花ちゃんがはははと笑っている。その声は鼻声だ。いっぱい泣いたから。

 屋敷にはやられたなぁと、いま目の前で笑っている私の大好きな花ちゃん。私にはそれが一番なの。大事なの。大切なの。



「ねぇ花ちゃん、これからもたくさん構ってね」


「もちろんそうするよ、夏織」





花ちゃん結婚するってよ。

くそう。くそう。くそう。

私は地団駄を踏んだ。はい残念。


読んでくれてありがとうございます。

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