第十七話
続きです。
よろしくお願いします。
午後八時半前。仕事帰りの金曜日、私はいつものバーにいる。テーブル席に座って追加したハムとソーセージの盛り合わせ、パンとサラダを添えて、えびパンと定番の野菜スティックを、向かいに座っている若い女性と食べ終えて一息ついているところ。
そして今、私はソルティなドッグを、彼女はスプモーニをそれぞれ飲みながら、お土産だよとこのバーのオーナー、出会ってから十年経った今でも全くと言っていいほど変わらないとても美しくて、昔からの源氏名的なヤツを今も使い続けている五十歳くらいだと思うけれど訊くと出禁になるから訊いては駄目よと恵美さんから何本もの釘を刺されている麗蘭さんからもらったピーナッツを溶かした黒糖でコーティングしてある、カリカリと歯応えがよくて一度食べだしたら止まらないあとを引く甘くて美味いヤツを、これまた向かいに座る若い女性と忙しなく口に運びながら今は他愛のない話をしている。
「あー、あそこの学生さんか。優秀なんだ」
「いえそんな、なんとか受かった感じです」
「ところで由子はタヌキ好き?」
「へ?…あっ」
由子は何かを察したようで気づいた途端にすっと視線を逸らした。何となくだけれど、私には彼女が笑いを堪えているようにも見える。
「おいこら察するな」
「な、何のことですか?ふふ」
私が彼女の話を聞いたことで、どうやら彼女はひとまず落ち着いたようだった。ぎこちなくても多少暗くても笑えるのならそれでいいと思う。彼女のために追加したハムとかソーセージとかえびパンなんかももりもり食べていたし、いま食べているこのお土産を摘むのも止まらない。いつも言うことだけれど食欲があるのは凄くいいことだから。
「美味いよねこれ。ぽりぽり」
「はい。癖になりますね。ぽりぽり」
「ほんと。ヤバい。ぽりぽり。止まらない」
「ふふ。ぽりぽり」
私がバーにきて暫くは、私はひとりこのテーブル席で恵美さんを待っているところだった。
そう。だった、なの。
「おぉぉ?」
昨日の午後九時半頃、キッチンにいてトースターの中をじっと眺めていた私の側に置いてあったスマホが鳴った。恵美さんから進捗状況を報告しなさいとやけに事務的な言葉使いのメッセージがやってきたのだ。
たぶん恵美さんはまだオフィスにいて仕事モードだったんだと思う。さすがキャリアなウーマン。既にお風呂から上がり、家で美味しい焼き芋を作るには的なレシピをいくつかスマホで調べたあと、今まさにお芋を直にトースターで焼いているのを眺めつつあと十分くらいかなと呟きながら冷凍庫にバニラアイスを控えさせているそこそこな私とはわけが違う。
「うーん」
そして私は何となく、働き方改革?はんっ、それで私が止まるとでも?仕事が上手く回るとでも?という恵美さんの声が聞こえてきた気がして、詳しいことは明日金曜日、バーでとだけ入力してメッセージを返してみた。
だって、いま下手を打ってしまうと私と幸のことを報告したあと、恵美さんからそれはよかったわねところで夏織ももう少し仕事にやる気を出しなさいとかもう家に帰っているなんて甘いわねとかメッセージなのにふつうに説教されそうでこわいし面倒くさいし、私は熱い焼き芋と冷たいアイスのコラボをゆっくりと楽しみ…じゃなくて仕事の邪魔をしては悪いと思ったから。
「ん?」
けれど、すぐに返ってきたメッセージは、りょ、と手を上げた全然可愛くもなんともないタヌキのスタンプのみだった。
「これは…」
そんなっ。まさか恵美さんまでもがと、私は震える手で持つスマホの画面を暫く見つめたまま、これをどう判断すべきなのかなと悩んでしまった。
チーン
「あ、焼けたかな。おいもおいも」
そして今日の午後遅く、例の休憩スペースで私と幸はコーヒーを飲みながらなんてことのない話をしていた。昨日の焼き芋のこととかそんな話。
「あのね、それでね」
「うんうん。あはは」
私達がこうしているのは時間が合えば一緒に休憩しようと決めたからだ。
さっきまで花ちゃんも居たけれど、忙しいからとワッフル的なお菓子の最後のひとつをささっと手に取って先に戻っていった。
「あーっ、花ちゃんっダメっ。それは私のワッフル的なヤツだからっ」
「屋敷、油断したね。今日は私の勝ちだから。ふはははは」
花ちゃんは悪魔っぽい高笑いしながら去っていく。私はその背に言い放ってやった。もう、ワッフル的なヤツは戻ってこないけれど。
「この悪魔っ。体重が七十キロを超えてしまえっ」
「あはは」
花ちゃんのことだから変に気を遣っているわけではないと思う。私が買ってきた、ワッフルでフルーツとかクリームを挟んでいるお菓子がなくなってしまったからでもないと思いたい。持っていったのは花ちゃんだし。
「くそうあの悪魔め」
「まあまあ、夏織、落ち着いて」
「わ、わかった」
「また泣くの?」
「な、泣かないし」
「泣くなら私の胸で泣きなよ。ほら夏織、AだよA」
「ん?…いや、大丈夫だから」
「なななっ」
そうそう。幸は昨日から花ちゃんを花ちゃんと呼ぶようになった。昨日ふたりでランチをした時に色々あったんだよと花ちゃんは笑っていたし幸は遠い目をして頷いていた。
「色々とね。あの黒いヤツとか超こわかった。ね、市ノ瀬」
「うっ。花ちゃんやめて」
「ふーん。そうなんだ」
私は詳しいことは訊かなかったけれど、何にしてもふたりが仲良くなってくれて私は嬉しい。幸は恋人で花ちゃんは先輩で友だち。私はふたりが大好きだから。
「むむむ、恵美さんてたしか…」
「はぁ。幸、何にもないって言ったでしょ」
「そうだけど…はっ」
昨夜、メッセージで送っておいた今夜の予定をあらためて伝えると、恵美さんて確かあのと幸は少し疑いの眼差しを向けてきたけれど、げ、花ちゃんだめーとか呟いて何かを追い払うかのように頭を振り、そのあとなぜか身悶え始めてしまった。
「や、やめてっ。来ないでー」
「ふふふ。幸ったら面白過ぎ」
私がそれを、いきなり面白いことするなんてさすが幸と思って身悶える様を楽しく見ていると、暫くして落ち着いた幸は疲れた顔をしながらそれなら私も顔を出してくるよと言っていたから、幸はいま私と同じように行きつけのバーに行っている。
私には私の、幸には幸の世界がある。それは同じ世界でも、そこには今まで築きあげてきたものが在る、お互いがそれぞれに大切にするべき世界だと私は思うから、幸に招かれでもしない限り幸の世界に足を運ぶつもりは私にはないし、幸もそう思っていると思う。
明日からの週末はまた幸とデート。今回は私の部屋と私の街をぶらぶらすることになっている。
まぁ、ほぼおうちデートみたいなものだけれど私は全然気にしない。幸と一緒に料理をしたり買い物をしたりいちゃいちゃしたりのんびりしたり、日々の暮らしというか生活というか何というか、そうやって過ごすことができるのなら私はそれで充分満足できるのだから。
そして午後七時。私はバーの扉を開けた。私が辺りを見回しながらいつものテーブル席を目指していくと、私に気づいた麗蘭さんがカウンターの席からおいでおいでと手招きをしているのが目に入った。私はとことこと側に寄っていく。
「いらっしゃい夏織さん」
「こんばんは。麗蘭さん。お久しぶりですね。何かありました?」
麗蘭さんは大したことじゃないんだけどねと首を横に振ってから、これなんだけどとB5くらいの大きさの袋を四つ、私に差し出した。
「あげる。ちょっと旅行にね、そのお土産。美味しいのよそれ」
「やったっ。いただきます」
ろくに何かも確認しないで喜ぶ私。それを見た麗蘭さんは、やっぱり夏織さんはあげ甲斐があるねと微笑んでいる。
私としては麗蘭さんが美味しいと言うのなら間違いなく美味いと思うからそれでいいのだ。
「いいのいいの」
それから少し話をして、お礼を言ってカウンターを離れようと背を向けたところに、よかったわね私も嬉しいよと麗蘭さんの声が聴こえた。私は振り返って思い切り微笑んだ。
「はいっ」
「うふふ」
そして再びいつもの席に向かう。何も言わなくても恋人ができたと分かるなんてさすが麗蘭さんだなぁと思いながら私はひとりテーブル席に着いた。
「なにかなぁ」
さっそくもらったお土産の袋を遠慮することなく開けながら定番の野菜スティックとえびパン、それとビールを頼み、袋に手を突っ込んで先ずはひとつまみ食べてみる。
「うっ、超美味い。なんだこれ」
袋の表と裏を確認しながらとかりかりして甘いお土産の美味さに感動していると、夏織さんお待たせとすぐにやってきたビール。私はそれを受け取ってごくごくと飲んだ。
「あー、美味い」
そのあとやってきたえびパンと定番の野菜スティックも加え、それをもぐもぐと口にしていると、暫くしてひとりの若い女性がバーに入ってきたのが目に映る。少し気になったからそのまま見ていることにした。
「うーん」
その若い女性はぽつねんとそこに立ったまま始めはきょろきょろ周りを見渡していたけれど、誰かを探す感じでもなく、店員さんに声をかけるでもなく、とっとと席に着くでもなく所在なさげにおどおどとそこに立っているだけで、遠目で見てもその様子から緊張しているのがありありと分かる。
「ああ」
私は立ち上がる。恩返し、ということでもないけれど、もしもあの女性がかつての私と同じなら、凄く気になるし放っては置けないと思うから。
「よいしょっと」
きっと、私を見つけてくれた恵美さんもあんなふうに私が見えていたのかなと、浮かんできた苦笑い、それに少々感傷的な気分になりながら私はその若い女性のところまでとととと足早に近づいていった。
その女性は近くで見るとやはり若かった。二十歳を超えたくらいに見える。そのお肌はまだ水を弾くのかしらと思わずじっと…いや違うから。
背は私より少し低いくらいだから百六十センチはあるだろう。鎖骨まである少し癖っ毛な感じのウェーブがかった濃い茶髪が少々野暮ったい気もするし服装や肩に掛かるバッグはまだ学生のそれっぽい。
その辺りはまぁ、それぞれの年代で流行りがあるから仕方ないにしても、まだ似合いもしない大人のブランド物を身につけていないのにはとても好感が持てる。それに、施されているナチュラルなメイクは彼女の整った顔立ちによく似合っていると思う。
素材は凄くいいから髪型とか色に気を遣えば絶対大化けすることになるから頑張ってねと思いながら私は声をかけた。
「がんばんは」
「えっ、がんばん?あ、こんばんは」
何か口走ったような気もするけれど、私は何事もないふうを装ってしれっと彼女を誘った。
「あのさ、よかったら少し話をしよう。私の席にきなよ」
「えっと、あ、あの、わたしは…」
「この店、ていうかこういうとこ初めてでしょ。だからおいでよ」
「えっと、はい。す、すすいまそん」
私が話しかけたらよけいに緊張して噛んでしまったみたい。ヤバい、彼女、面白いかもなんて思いながらも、私は彼女を早く何とかしたくもなっている。だから私は席にいくよと背中を押して彼女を促した。
「いこう」
席に戻る途中、私は店員さんをつかまえて彼女のための甘いスプモーニと私のソルティなドッグを頼んでおくのも忘れない。
「そんとか笑える」
「え、あ、すすすすいまそん。ああ、また」
「ふふふふふ」
まさかの天丼ってヤツ、でいいんだっけ?私は笑ってしまった。
「私は夏織。そう呼んで」
「はい。夏織さん」
「あなたは?」
「真嶋由子です」
「じゃあ由子でいい?」
「はい」
と、いま私の向かいには二十歳になって間もない真嶋由子さん、略して由子が座っている。私は開けて置いてあったピーナッツのヤツの袋の口をそっと閉じた。何となく恥ずかしかったのだ。
「そんなに緊張しなくても、っていってもまぁ、今はむりか」
「すいまぁ、せん。夏織さん」
「ふふふ、笑える。けどいちいち謝らなくていいから」
恥ずかしいなと思ったけれど甘い物もは緊張を解すし精神安定上いいと私は思うから、私は袋の口を開けてそれを勧めてみることにした。
「食べる?美味いよこれ」
「あ、いえ。大丈夫です」
「ピーナッツアレルギー?」
「いいえ」
「じゃあ食べなよ。甘くて美味いから」
じゃあひとつだけと由子は私が差し出す袋に手を伸ばし、それを口に入れてぽりぽりと齧った瞬間、彼女の表情が和らいだ。やはり甘い物は偉大だった。
ちなみに私もついでに食べている。だって美味いから。
「あ、美味しい」
「でしょ。美味いよね。じゃんじゃん食べて。もらい物だけど」
そうだと分かっていても、自分が何者なのかをまだ認めたくない気持ちもあるのだろう、席に着いて軽い自己紹介を終えてピーナッツを摘んですぐ、由子は私はたぶん同性愛者、レズビアン、だと思いますと顔を俯けた。
「話したいことがあったら話してみて。ちゃんと聞いてるから」
「はい。えっと…」
私は由子を促した。向かいに座っている由子は詰まっているモノをひとつずつ吐き出すようにゆっくりと話し始めた。
やってきたスプモーニを手渡すと由子は一口飲んで甘くて美味しいと呟いた。それから両手で抱えるようにグラスを持ってちびちびと飲みながら、ゆっくりと抱えたモノを吐き出していった。
やがて、抱えていた怒りとか嘆きとか、お酒のせいもあるのだろう、昂ぶってきた感情に引きづられるように、ひとつひとつ吐き出すようだった由子の語りは徐々に饒舌になっていく。
何で、どうして、けど、でも、誰にも、だから、変わらない、むり、バカみたい、それでも、結局、疲れた、それなら、なんてことを際限なく繰り返し繰り返し。
そして今も由子は話し続けている。私はそれを黙って聞いている。彼女は溜め込んだものをこうして誰かに吐き出すことすら初めてのことなのだから全部吐き出せばいいんだよと思いながら。
「そっか」
「はい。長々とすいません」
「いいのいいの。取り敢えず落ち着いたみたいでよかったよ。お代わりは?お腹は空いてる?」
「あ、はい」
「わかった」
私が誰かいないかなと周りを見ると、このバーの店員さん、いつも元気な莉里ちゃんがにこにこしながら私達のテーブルの側にいた。
「さすが」
「なんのことですかぁ?」
「ううん。なんでもないよ。莉里ちゃん、注文いい?」
きっと莉里ちゃんは忙しく動きながらも、目についた私達の話が一段落つくまで様子を窺っていたのだと思う。こうした気の使いようはさすがだなと思う。
モノを抱えている以上、大なり小なりみんな同じ。最初に通る道も同じ。それが分かっているからこうしてさり気なくも優しくなれるのだ。
「よろこんでー」
「居酒屋か」
「…ぷ、ふふ」
その表情は少し暗いけれど笑えるのなら大丈夫。私はそう思いながら、莉里ちゃんに注文しつつ、目線の端に捉えたままの由子を見ていた。
「私は嫌でした。何でってどうしてって今も思います。けど、変わりたくても変わらないんですよね」
「まぁそうかな。私はそうだった」
「ですよね…やっばり」
由子は両手で持っていたグラスを傾けた。それを見た私も自分のグラスに口をつけた。あまり美味くない。彼女の様子から昔の私を頭の片隅に思い出したからなのかも。
「なんかまずい」
「ふふ、私もです」
私は思わず舌を出す。由子も不味いと思っていたようだ。まあ、そうだと思う。楽しくないのに飲むお酒だから。
けれど由子はまたこくこくと飲んだ。私もつられてまた口をつける。
やはり不味いけれど見ている相手が何かをすると自分もつられて同じことをしてしまう時もある。私はこれを知っている。この法則の正式な名称は確か…アレだ。絶対アレ。
そんなことを思いながら私はグラスを空にしてやった。今は私につられたのか、由子もグラスを呷って空にしていた。
「ほんとうに不味いですね」
「だよね。ふふふ」
それでも私達はお代わりを頼んだ。飲まなきゃやっていられない時もあるの。私は乗り越えることができたけれど、由子はこれから。何か少しでも力になれればと気持ちを楽にできればと思う。
「みんな、かどうかはわからないけどさ、似たようなものだよ。私もそうだったし」
「嫌なんですけど、好きになる気持ちは止まらなくて結局は女の子に恋しているんだと認めちゃう。そんなことないって思いたかったのに」
「うん」
「色々と調べたりもしたんです。学術的なことから個人のブログとかまで。これこれこうだから理解してあげよう、認めてほしいわかってほしい、苦労も多いけどいま幸せだから大丈夫、そんな内容でした。嫌な書き込みとかもたくさん見ました。それも酷いやつばっかり。私にも向けられているみたいに感じて凄く嫌な気持ちにりました」
「うん」
「けど、いま私の好きな人もやっぱり女性だし、もう四年?五年?どうしても変わらないからもういいやって思ったんです」
「うん」
「そろそろ私が変わらなきゃと思って、切り替えなきゃと思って、二十歳になったから、今日ここに来てみたというわけです」
「そっか。私も同じ。よく分かるよ」
「はい」
「独りでよく頑張ったね」
「うっ。ありがとう、ご、ざい、ます」
それから少しのあいだ由子は泣いていた。私はあのとき泣いたかな、あとで恵美さんに訊いてみようかな、なんてことを思いながら私はお酒を飲み干してやった。
「不味いなぁ」
由子が吐き出したモノの一部を纏める大体とそんな感じだった。それは私が昔、恵美さんに聞いてもらったモノとあまり変わらなかった。
「大丈夫」
それはつまり、十年経ってもこの国は、いや、この国の本質は何も変わっていないということだ。
確かにパートナーシップ制度を導入する自治体が増えているけれど、結局は地方自治体の制度に過ぎない。国ではないから法律になることはない。私達が私達として望んでいることが法によって保証されることはいまだない。
LGBTとはこんな人達だよとアナウンスされたり報道されることも増えて、それを目にすることも検索すれば簡単に調べることもできるようになった気がするけれど、私たち性的マイノリティをLGBTと取扱説明書付きで纏められたところで、こんなことがありましたと報道されたところでいまだ何もしないこの国の本質はこれからも何も変わりはしないのだ。
「大丈夫」
それに、なぜか定期的に耳にする私達についての差別的な発言を、言葉が足りなかったとかもしも誤解があったならと注釈付きで取り消したり撤回している人達がいることにももう慣れた。あーまたかという感じ。そんなもの、もはや気にもならない。ここにいる私達はたぶん平気。もう慣れたものだし分かっていることだから余程のことがない限り不安はあってもいちいち気にしたりしない。
けれどこれは別だ。何も変わっていないからいま目の前で暗い感じではあってもようやく笑顔を見せた由子のように、かつての私や幸のように、悩んでいても誰にも、頼れる筈の親にすら相談できずにたった独りで泣いて苦しんでいる若い子達がいつまで経ってもあとを絶たない。
身内の心無い一言が特に私達を傷つける。それが精神的に私達を殺す。私はそう思う。
投げつけられるかも知れない心無い言葉に怯えてそれを口にしてしまえば拒絶されることを、責められることを分かっていながらも、心のどこかで受け入れてほしいと願っているだけのまだ若いこの子達に一体何ができると言うのだろう。
そんなことは分かっている。何もできはしない。かつての私達のようにそういうものだと割り切れるようになるまでただただ独りで耐え忍ぶだけだ。
まったく、私にとっては本当にくそみたいなこの社会。
全てを救えとは言えないし言わないけれど、せめて手の届く範囲でいいからどうにかしてほしくなる。いま泣いている子がここにもいる。それだけで堪らなくなる。
「大丈夫」
泣き止んだ由子に私は微笑んだ。安心してもらうための精一杯の微笑みだ。由子も今日見たうちで一番の微笑みを返してくれた。敢えてね。
「大丈夫だから。ね」
「はい」
由子の苦悩や不安は消えてなんかいない。これからもそれを抱えていくのだ。それでも彼女は微笑んでくれた。もちろんこの私を気遣って。
若くてまだ精神的に幼い彼女にこんなことをさせる本当にくそったれなこの社会。むりに微笑む子がここにいる。本当に嫌になる。
「くそう」
由子はいま微笑んでいる。ちょっと悲しげに見えるけれど彼女は前を向いて抱えているモノを受け容れて生きていくと決めたのだから、そのうちに心から笑えるようになると思う。そうなってほしいと思う。
そう。今ここにいる私達のように。心から。今は無理でもせめてこのバーにいるときは笑顔でいてほしいとそう思う。
「ヤバい」
「たしかに」
そして今、麗蘭さんからもらったお土産のふた袋目が無くなろうとしていた。
「ダメだ。止まらない。ぽりぽり。由子、止めて」
「ちょっとむりっぽいです。ぽりぽり」
「だよね。ぽりぽり」
今は午後八時半前。そろそろ恵美さんがやってくる時間。私が駄目だったとしても恵美さんがいてくれる。
だから由子は大丈夫。いけるいける。
このままでは帰るまでに全て食べ尽くしてしまう。それもどうかと思うけれど美味いものは美味い。私はもうひと袋開けるべきかやめておくべきかと悩み始めていた。
由子は苦笑いを浮かべながらも期待して私の手というか私が持ったままのピーナッツの袋をじっと見ている、気がする。
「うーん」
「夏織。お待たせ。やけに深刻な顔をしているけど、どうしたの?」
と、すぐ側でした声の方へ顔を向けると恵美さんが私の隣に座ろうとしているところだった。
由子は首を傾げている。どなたですかとなくなりそうなピーナッツの袋から手を引っ込めて恵美さんに顔を向けている。その手にはちゃっかりピーナッツが摘まれていて、それをぱくっと口に入れてぽりぽりと齧った。
「あ、恵美さんお疲れさま。ピーナッツ美味過ぎ問題だよ」
「ピーナッツ?何言っているの夏織。お疲れさま。ええと、こちらの方は?」
「十年前のわたし。由子」
「ああ、なるほど。そういうことなのね。初めまして。恵美よ」
「初めまして。真嶋由子です」
お互いに挨拶を交わしているのを眺めながら私は顔を綻ばせる。
これで由子は大丈夫。いけるいける。
本日在宅ワーク。隙を見て投稿しました。
読んでくれてありがとうございます。