第十六話
続きです。
人の死について触れている箇所があります。苦手な方はお気をつけ下さい。
よろしくお願いします。
「おととい屋敷とランチしたよ」
「知ってます。そう言ってましたから」
「そう。凄く嬉しそうに話してたな。屋敷は相手が誰なのかは言わなかったけど、まぁ、わかってるよ」
吉岡さんはスプーン片手に市ノ瀬でしょと私をじっと見つめている。私は頷いた。吉岡さんもそっかと頷き返した。
「私はそれでよかったと思ってる」
「本当にそうですか?」
「なによ」
「いえ。べつに」
「うへぇ。これは辛いというより痛いだな」
吉岡さんはカレーをひと口食べたあと、辛いわぁなんだこれと置いてあったラッシーを取って、それをちゅうちゅうと飲んでいる。ほれ見たことかと私は少し呆れてしまう。
「はぁ。だからやめておいた方がいいと言ったのに」
「失敗したな、私もマンゴーラッシーにすればよか、って、そうだったっけ?」
「そうですよ」
「まぁまぁ。そんな顔しないでよ市ノ瀬」
吉岡さんが両の手のひらを私に向けて、どうどう、こわいから落ち着けとやっている。私はその人を食ったような態度に何となくイラついてしまう。
「そんな顔?」
「睨まないでってこと」
「そんな顔してましたか?」
「してるよ。会った時からずっとね」
「すいません」
私は不機嫌を上手く隠せなかったようだけど、吉岡さんは気にするなと手を振った。その何事にも動じない肝の座った感じがまたイラっときてしまう。
「にしても屋敷、凄く嬉しそうな顔してさ、あんな顔初めてみたよ。市ノ瀬、前も言ったけどさ、屋敷のこと、よろしく頼むからね」
「はい。わかってますよ」
あなたに言われなくてもそんなこと、と続けてしまいそうになったけど、どうにか口にしないで済んだ。
その代わりにどうでもいいことを口にした。私は少し落ち着かないといけない。
「いい天気ですね」
「そうだね」
顔を上げて空を見る。隣に座る吉岡さんも同じように空を見上げていた。顰め面をしているのは選んだカレーが辛過ぎて食べたくないからだろう。
「平和だね。このカレーと怒れる市ノ瀬以外は」
「何ですかそれ」
私と吉岡さんは同じベンチに座っている。オフィスの近くにある、環境問題に対して意識の高い建物の五階、出入り自由な緑と風の広場なるところで、暖かい冬の陽射しと若干の冷たい風を感じながら私はテイクアウトしたバターチキンカレーを、吉岡さんはグリーンカレーを食べ始めたところだ。
「市ノ瀬」
その吉岡さんがカレーの入っている容器を私に差し出して縋る目をして薄っすら涙まで浮かべて私を見ている。
「…取り替えます?」
「いい?頼んでおいてなんだけど、激辛だよコレ。おかしいくらいの」
「辛いのは得意ですからいいですよ。はい、これどうぞ」
「やった、ありがとう」
楽しかった屋敷との初デートを終えた翌週の木曜日、私は、今、やはり市ノ瀬は神だったなと私に向けて手を合わせている吉岡さんをランチに誘った。
「うん、普通だ。美味しいねこれ」
「こっちも辛くて美味しいですけどね」
「おー、さすが市ノ瀬。かっこいいね」
週末に屋敷が話してくれた屋敷と吉岡さんの関係。それを知った私は何となく、いや違うかな、明らかに吉岡さんに対抗心を持ってしまった。その関係に嫉妬していると言ってもいいかもしれない。
今こうして話をしていても、どことなく屋敷を思い出させる吉岡さんの屋敷に似た言い回しや仕草がやけに鼻についてしまう。
私はいま屋敷の恋人で私達はビアン同士だから、確固たる土台があるというか何というか、今は行く先がはっきりとは見えていなくても共に向かう先があるといえばある。
でも、吉岡さんはストレート。ストレートであるのなら、たとえ万が一にも恋愛面で交差することがあったとしても、殆どのカップルがいずれまた離れていくことは分かっている。それで上手くいっている人達を私は知らないからそんなことでいちいちやきもきする必要はないことも分かっている。
だから吉岡さんに対抗心だの嫉妬心だのを持つ意味も必要もないんだけど、私の気持ちがどうしてもそれを納得できないでいる。
それを口にすればきっと、吉岡さんにはまたしても子供かよと言われてしまいそうだけど、屋敷にとって吉岡さんはとても大切な存在なのは分かるけど、手に入れることのできた屋敷は私のものだから邪魔をしないでと声を大にして言いたくなってしまう。
私が屋敷との関係をそれくらい特別だと思うのは、当然、私達が私達だからこそだ。屋敷こそが私のよすがだとそう思いたくなるしそう思ってしまう。
まあ、屋敷が私と同じビアンだと知ったのは告白された日なんだけど、そうと知った時は嬉しかったしとても安心したし、私はそのことに何か特別な絆みたいなものを感じたから、日の浅さなんて関係ないと私は思うの。私にだって吉岡さんに負けないくらいの屋敷との日々は確かにあったわけだし。
「ん?市ノ瀬、やっぱりむりだった?」
「え。あ、いえ。余裕でいけますよ」
カレーを口に運ぶ手が止まっていた私を気遣ってなのか馬鹿にしてなのか、吉岡さんは私に声を掛けたあとふふふと笑っている。
またしても少しイラッとした私は全然平気ですよとぱくぱくと食べてみせた。けどさすがにこのカレーはちょっと痛い、じゃなくて辛い。
「おー、さすがだわ」
「全っ然っ、よゆうれすね」
「市ノ瀬、無理するなって。ほら、辛いならラッシー飲みなよ」
そんなことを言っている吉岡さんはさり気なく、取り替えたバターチキンカレーの容器を私の座る反対側、手の届かないところに置いている。いまさら元に戻さないぞとそれを絶対に死守するつもりなんだろう。けど、取り替えた私にだって意地がある。何の意地かはよく分からなくても、辛くて辛くてもとにかくある。
「こ、このくらいへいきれすよ」
「そっか。さすが市ノ瀬。汗すごいけどね」
「くっ」
私はべつに、ストレートな吉岡さんが私の邪魔をするとは思ってもいない。屋敷の嫌がることをするとは思えない。
けど、思ってもいないけど、それでもお願いだからどうか屋敷に手を出さないでと支離滅裂なことまで考えていらいらしてしまう始末。
こうして色々と考えたりもやもやしたりするあたり、結局のところ、私は屋敷と吉岡さんの仲の良さをより知ったことで馬鹿みたいに焦っているんだと思う。本当に馬鹿みたい。それは分かってはいるんだけど止められない。屋敷のくれる愛とは別に、私も吉岡さんと同じように屋敷の信頼もほしい。だから二人の関係に焦っている。本当に馬鹿みたい。
それで私は、どうしても吉岡さんと話をしたくなって、ちゃんと納得したくて今こうしてふたりでランチをしているというわけ。
「で、市ノ瀬。話ってなに?」
私が顔を向けるとその真面目な口調とは逆に、ストローを容器から抜いて縋る目をして私を見ているデジャブ。
「…取り替えますね」
「やった。さすが市ノ瀬、ありがとう」
私は思わず苦笑いをしながらストローを抜いて、吉岡さんに私の容器を差し出した。
取り替えた容器にさっそくストローを差して飲み始めた吉岡さんを目にしながら、私は、いや、これ、この人には絶対敵わないだろうなと思ってしまった。
「うん。美味しいねこれ」
「…よかったですね」
「それで?」
「吉岡さんは…」
「うん」
「吉岡さんは屋敷の、いったい夏織の何なんですか?」
「うん?」
マンゴーラッシーの入った容器を持ってストローを咥えてごくごくと喉を鳴らし、どういうこと?みたいな顔をして私を見ている吉岡さんに、私はもう一度同じことを訊ねた。私の知りたいことはたぶんそれだから。
「うーん。私は屋敷のなんだろうね」
吉岡さんは組んだ足をぶらぶらと揺らしながら前を向いて考えている。私はその姿をじっと見ていようとしたけど吉岡さんが屋敷について考えていた時間は私が思っていたよりも短かった。
「先輩。友人。そんなところだよ」
「ほんとにそれだけですか?」
「お。やっぱ鋭いね市ノ瀬は。そうだねぇ、あとはまぁ、姉だね」
そう言った吉岡さんは、いつか休憩スペースで見た時と同じ、遠い目をしてどこかをじっと見ていた。
「姉、ですか。ほんとに?」
「他になにがあるってのよ」
「それは…」
言い淀む私を吉岡さんが探るように見つめだした。私はそれをちゃんと受け止めようと、やけに真剣な吉岡さんの表情にたじろぎつつも見つめ返す。
「まさかと思ったけど市ノ瀬、おまえ…」
吉岡さんのその真剣な表情は、段々と呆れたものへと変わっていく。その間わずか十秒くらい。
「はぁぁぁ」
そして吉岡さんは首を横に振りながらとても大きなため息を吐いたあとこう言った。
「馬鹿なの?いやごめん、違うわ。市ノ瀬って馬鹿だったんだな」
馬鹿だったのかと呆れている吉岡さんは市ノ瀬が私と張り合うとかまじいみふなんだけどと頭を振っている。
「でもそれはっ」
私がムキになって反論しようとしたところをすかさず止めろと掌で制した吉岡さんは静かに怒っていた。
「黙りなよ馬鹿市ノ瀬。何を言われても私の知ったことじゃないよ。私は市ノ瀬に言った筈だよね。屋敷をよろしくってさ、頼むってさ」
「それは…そうですけど」
「私と張り合うとかさ、どういうつもりか知らないけど、あんた達はさ、これからでしょうが。これからだよこれから。屋敷は言ってたよ。人生を閉じるまでだって、それまで一緒に生きていきたいってね」
「そんなことを?屋敷が?」
私の反応を見た吉岡さんが、あれ?コレ言っちゃ駄目だったかなと呟いている。けどすぐに、ま、いいか、もう言っちゃったしとまた呟いて、屋敷の話を聞いて呆然としていた私にとどめを刺した。
「市ノ瀬。自信がないなら屋敷は諦めな。あるならくだらない嫉妬なんか捨ててしまえ。意味ない張り合いとか要らないから。私と同じ、違うな、私よりもと思うなら、屋敷が望む死ぬまでの、それだけの時間を二人で一緒に過ごしてさ、そうなれるようにすればいいだけだよ。なぁ市ノ瀬、人と自分を比べるな。私は私。市ノ瀬は市ノ瀬。屋敷が好きなのは、いま恋人なのはいったいどこの誰なんだろうね。市ノ瀬、お前まじでさ、自信がないならやめておきなよ。他でもない、屋敷のためにさ」
吉岡さんは私をじっと見ている。その顔には何もない。怒りも呆れも一片の感情もない。道端の石ころを見るのと同じだった。
「やめませんよ」
私はなんとか声を絞り出した。その石ころを見るような無表情な顔や言われてしまったことには堪えたけど、屋敷は私のよすが。私は諦めるなんてことは決してしない。
「諦めるなんて絶対にしない」
私は挑むように声を出し吉岡さんを睨む。その瞬間、緊迫した空気が私達を包んだ。いや、それはたぶん私だけ。吉岡さんは私の言葉に眉を少し上げただけで何も感じていないように見える。
目を合わせる私達。私にはとても長い時間だった。
もう無理かもと視線を逸らしてしまいそうになった時、それまで私をじっと見ていた吉岡さんが不意に無表情を消して、満足げに頷いてそれでいいよと笑って私の肩をぽんぽんと叩いた。
「市ノ瀬、屋敷をよろしくね」
「はい」
吉岡さんはいま満面の笑みを浮かべている。私は緊張を解いてふぅと溜めていた息を吐き出した。ぎゅっと握っていた両手を開くと小刻みに震えている。
だってね、正直に言うとね、私は吉岡さんが凄く怖かったの。粗相はしないで済んだけど、まだちょっと泣きそうなの。
「泣くの?」
「泣きません」
「泣くなら私の胸を貸してあげる。ほら市ノ瀬、GだよG」
G?うっそ。気づかなかったけどまさかまだ育っていただなんて。私のヤツはいまだ目覚めてもいないというのに。
「くっ」
というか吉岡さん、こんな場所で胸を張ってなにを言っているんですか。あ、分かった。私は馬鹿だけど吉岡さんは…
「あほですね」
「まあね」
「市ノ瀬。私にはね、三つ下の妹がいたんだよ」
「いた、ですか」
「うん。いた、だね」
私が一方的にこてんぱんにされた緑と風の広場の戦い。その戦場跡で私達はベンチに座っている。そして吉岡さんは私達のあいだに争いごとなどなかったかのように唐突にそんな話をし始めた。
どうして私にと訊こうとしたけど、たぶん話したいのだろうと思ってやめておいた。
それを察した吉岡さんはありがとう、すぐに終わるからちょっと聞いていてと私に言った。だから私は頷いて何も言わずに黙って耳を傾けることにした。
「いまさらな確認だけど、市ノ瀬も屋敷と同じだよね」
「はい」
「そっか」
吉岡さんの遠い目は今はまたどこかを見ている。きっと、そこに懐かしい人を思い浮かべているのだと思う。吉岡さんは今とても優しい顔をしているのだから。
「妹もね、屋敷や市ノ瀬とおんなじ同性愛者だったみたいでさ、周りに何か言われたのか自分でそう思ったのかわからないんだけど、何にしてもあの子はそれを受け容れられなくて、そんな自分が嫌で嫌で仕方なかったみたいでさ、自分で命を絶ったんだよ。あの子が居なくなってもう十二年になる」
「え」
衝撃。驚愕。私は何も言えなかった。確かにそういった話があることは知っている。聞いたことはある。自分の抱えたモノについて検索しているうちにたまたま目にしてしまったこともある。
私達は、同性が好きだと気付いた時点で自分は普通とは違うとか異常だとか特殊だとかそう思ってしまう。なんで私がと、何故だろうと悩みながらも私達は徐々にそれを受け容れていく。少なくとも私はそうだった。おそらく屋敷もそうだろう。
けど、自分の性別と、その恋愛対象や性的指向にどうしても折り合いを付けられない人もやはりいて、そういう人が自分が同性愛者であることを心から嫌ってしまったら、もはやそれを受け容れることはとても難しくなってしまう。もしも周りにいる誰かに心無いことを言われてしまえば尚更だ。悩んでいるうちに疲れ果て、どうしても受け容れられずに精神のバランスを崩してしまう人もいる。そして自分が同性愛者であることに耐えられなくなって、ついには自ら死を選ぶ人もいる。衝動的に、もしくは意図的に。
同性愛者だと悩むこと、その重さや受け止め方は人によって違うけど、その悩んでいる過程を乗り越えることができたなら、自ずと私達のようになっていくのだと私は思う。
「あの子と私は仲が良かったんだよ。小さい頃は」
私は頷いた。
「でも、大きくなるに連れて、特に私が大学生になってからは、お互いの生活のリズムみたいなヤツができてきてさ、あんまり一緒にはいられなくなってね」
私は頷いた。
「あとになって思えばさ、あの子が居なくなる前、活発で明るくて人生を謳歌していた筈のあの子がさ、段々と口数が減って、好きだったダンスも部活も辞めて、家では部屋に篭るようになってね、なんていうかこう、ぽつんとして暗い感じでさ」
吉岡さんは変わらず遠い目でどこかを見ている。優しかった表情は辛い感じに変わっている。きっと、そこに見ている人がとても辛そうにしているからなんだろう。そう思うと吉岡さんがとても痛々しく見えてしまう。
けど、そう見えていても、私は特に声をかけることはせずただ頷くだけ。黙って吉岡さんの話を聞いているだけ。
「もっとあの子をよく見ておくんだったとかもっと話をするべきだったとか、もっと仲良くしておくんだったとか世界はそんなに狭くないよと見せておけばとかさ、あとから色々と考えたこともあるんだよ。そうしておけばあの子はきっと、ってさ」
吉岡さんは遠い目をやめていきなり立ち上がって二、三歩進んでベンチから離れた。それからくるりと私の方を向いて、仕方ないな教えてあげると言った。辛そうだった顔はもう消えて笑顔になっていた。
「ま、そんなわけでさ、ぽつんとしていたあの子の姿がさ、見かけるたびに教室の端でぽつんと座っていた屋敷と重なったというか重ねたというか、私が屋敷に声を掛けた理由はそういうことなわけ。私は私の理由で屋敷と付き合っているんだよ。先輩として、友だちとして、姉としてもね。だからお前が思うような何か特別なものなんてありゃしないんだよ。わかったか?この馬鹿市ノ瀬」
「…はい」
「あ、いや、ちょっと待て。屋敷は私の可愛いかわいい後輩ちゃんで友だちで、あとは、妹。となるとやっぱり特別と言えば特別だな。けど、それでもいいよね?市ノ瀬」
「はい。もちろん」
馬鹿な私は頷いた。私は納得できたから。
「ならいいよ」
私に向けて一度微笑んだあと、吉岡さんはまた遠い目をしてどこかを見ている。また優しい顔をしている。妹さんとの楽しかった頃の姿でも見ているかなと勝手な想像して、私もまた姿さえ知らない吉岡さんの妹さんのことを思い浮かべてみることにした。
もしかしたら私だってそうなっていたかもしれない。私は運が良かっただけなのかもしれない。それを想像すると怖くなる。けど、私は今もこうして生きている。前を向いて。
そうやって考えていると、私は妹さんがどんな女性だったのか分からないことがとても残念に思えてきてその人柄を知りたくなった。だから、そのうちに吉岡さんに聞かせほしいと頼んでみようかなと、吉岡さんの優しく微笑んでいる横顔を見ながら私はそう思っていた。
「ああ、ごめんね市ノ瀬。変な話をしちゃって」
「いえ。私が望んだようなものですから」
「それでもだよ。私も久しぶりに聞いてもらえてよかったからね」
「はい。じゃあ受けておきますね」
吉岡さんはありがとうと頷いた。
そして私はふと気づく。とにもかくにも私の憂いていたことが綺麗さっぱりなくなっていることに。そう思うとよかったうふふと自然と顔も綻んでしまうけど、私の喜びを邪魔する吉岡さんの声がする。
「ところで市ノ瀬」
「なんです?」
「なんか落ち着いているけどさ、恥ずかしくならないの?私に妬くとか張り合うとか、それを平気で私に見せちゃうとかさ。私だったら絶対キツいけどなぁ。耐えられるかなぁ。いや、むりだろうなぁ」
吉岡さんはにやりと笑った。いや、やめて、こっち来ちゃうからほんとにやめてと私は思った。私はいま思い切り嫌な顔をしていると思う。黒いヤツが来るから。
「市ノ瀬。そこに黒いヤツがいるよ」
「いやー」
「ふはははははは」
吉岡さんはどこかのお昼の番組の悪魔宜しく笑っている。それはもう、気持ち良さげに高らかに。
一方私は穴を探している。どうやら緑と風の広場にはそんなモノはないみたいだけど、私は今もの凄く入りたいの。この際蝋人形にしてくれても構わないです。
「黒歴史、だな。市ノ瀬」
「えっ。また来るの?いやだー」
言われた途端にまた悶え始めた私を見て吉岡さんはずっと笑っていた。お腹が痛くて辛そうだから私は身悶えながらもちょっとだけざまぁと思った。
「やっば、超お腹いたい。これは市ノ瀬のせいだからな。今度お土産持ってきてよ。甘くて美味しいやつね」
「あ、はい」
私を指差してお腹を押さえ、ふははははと笑っていた吉岡さんはもう満足したらしくそんなことを言った。私も当然、はいよろこんでと返事をした。
「やった。屋敷と食べよう」
「むっ。ずるい」
「妬くな。当然、市ノ瀬もね」
「あ、はい」
吉岡さんのお説教と私に話してくれた妹さんことは私の馬鹿な対抗心や的外れな嫉妬が意味のないものだと納得させるには十二分過ぎる程のものだった。
妹さんの話は寧ろ、私なんかに話してしまって良かったんですかと訊いてしまったくらいだった。
いいんだよと吉岡さんは笑っていた。
起こったことは変えられない。ましてやそれをどうにかすることだってできはしない。だから私は耐え切った。
今でも堪らなくなる時はある。けどそれも私の人生の一部、欠かせないモノ、欠かしたくないモノだからねと笑っていた。
私はそう話す吉岡さんにはやはり敵わないなと思った。
「市ノ瀬。妹は千春。よかったら覚えておいてほしい」
「千春さん…わかりました。けどなんでまたそんなことを?」
「千春はもう居ないけど、それでも千春を知ってくれている人がいたら嬉しいからだよ。ただの私の自己満かな」
「そうですか」
「それにさ、市ノ瀬は千春のことを聞いてくれたからね。ありがとう市ノ瀬」
そう言って頭を下げたあと、お願いねと私の肩をぽんっと叩いた吉岡さん。
今まで屋敷を介してそれなりの付き合いはあったけど、私は今日、初めて吉岡さんのことを知ったというか知り始めたような気がしていた。きっと、私と吉岡さんは屋敷を抜きにして私達なりに親しくなっていくのだと思う。
「戻ろうか」
「はい」
オフィスへ戻る道すがら、吉岡さんはあの黒いヤツってこわいなーと私をからかい続けていたけど、こんなことも言ってくれた。
「そうそう、市ノ瀬」
「はい」
「今から花ちゃんと呼ぶことを許す。嬉しいだろ、市ノ瀬。特別だからな」
吉岡さんは、ん?ん?どうよどうなのよと私を肘で小突き出した。
「はい」
全く持ってその通り、私はなんだかとても嬉しくなった。だからさっそくそう呼んでみることにした。
「花ちゃん」
「なによ?市ノ瀬」
横を見れば吉岡さ…花ちゃんは前を向いたままにこにこと笑っている。私も同じ、にこにこと笑っている。鼻唄を奏でながら。
読んで不快な思いをした方がいたらごめんなさいです。
大丈夫、たぶんいけた、はず。
あと、花ちゃんは一応彼氏がいる設定です。
くそう。
読んでくれてありがとうございます。