序章 2
続きです。
本日二話目ですのでご注意を。
よろしくお願いします。
「あ、屋敷」
エレベーターで地下まで降りていつもと違う地下鉄の駅に向かって歩き出そうとすると私を呼ぶ声がした。私はそれが誰のものなのか直ぐに分かった。
その声のした方に顔を向けると、私の同期、市ノ瀬幸が小さく手を振りながら笑みを浮かべてゆっくりと近づいてくる。私も自然に浮かんだ笑みを幸に向け、小さく手を振り返して幸の側へと近寄っていく。
どうやら幸は、同じようなタイミングで着いたふたつ隣のエレベーターから出てきた私を見つけたようだった。
「お疲れ、屋敷。いま帰り?」
「お疲れ、幸。そうなの。もっと早く帰れると思っていたんだけど、部長と取引先に捕まった」
「そっか。私も似たようなものよ。うちの部長はミーティングが大好きだから。相変わらず無駄に長くてさ」
「あー」
お互いにその場面を想像して、それはそれできっと面倒臭いんだろなぁと、私達の笑みは苦笑いに変わっていった。
幸は私と同い年の三十歳。部とフロアは違うけれど同じ営業部門に属している。
同期ということもあって、何となくお互いに競い合ったり、相談し合ったり、愚痴を言い合ったりくだらない話で盛り上がったりと、入社してから何年もそんな感じでやって来た。
幸とは話が合うし一緒にいると楽しい。私達は誘い誘われよくふたりでランチをしたり飲みに行ったり、たまには遊びに行ったりもする。
ここ一年は私の都合でその回数は減ったけれど、その理由にはもうケリを着けた。
だから今はまた以前のようによくふたりで過ごしているから、幸も私のことを同じように思っていると思う。
その幸は綺麗で格好いい、自信に満ちた魅力的な女性だと私は思う。
今この瞬間も私が見惚れてしまっている幸は、奥二重の切れ長の目にほんの少しだけ上を向いた鼻と薄い綺麗な桜色の唇が頗るバランス良く収まっている小さな顔と、たぶんそこは上乳だろうなと思われる辺りまである明るい茶色の大きく波打つ髪が、彼女が皆に抱かせる強い女性というイメージをより鮮明にしているように思う。
一六六センチの私より六センチ背が高く、その細身の体型は大抵の服を難なく着こなせるという特徴を持っている。今も幸の装いは、私の目には、まあまあな私と違って完璧なものに映っている。
その代わりなのか何なのか、幸は引っ込むところは引っ込んでいるけれど、出ているところが少ししか出ていない。それは明らかにAですねと言ったところだ。天は幸に二物を与えなかったのだ。
けれど本人はそれをまるで気にもしていない。なんでと訊いてみたら、私は今の自分に満足してるからさ、無ければ無いでべつにいいのよと言ったあと、いや、ちょっとは有るからね、見る?と笑っていた。
やはり幸は綺麗で格好いい女性だと私は思う。
「屋敷、どうかした?」
「え?いや、なんでもない」
「そう?ぼけっとして、熱でもあるんじゃないの?」
幸はそう言って素早く私のおでこに手を当てる。こんな場所でも周りを気にすることなくやりたいことをやってしまう。それも幸だ。
「屋敷。なんか顔が赤くなってる。やっぱり熱があるんじゃない?」
「気のせいでしょ」
不意に伸びてきた幸の手に、私は固まったままどきっとして顔が火照るのを止められないでいる。ケリは着いていても止められないものは止められない。
このままではまずいなと、私はなんとかして誤魔化すために口を開いた。
「暑いのよ。エレベーターが凄く混んでいたから」
「ふーん。そう。なら大丈夫ね」
「熱なんて無いからね」
触れていた手を離して幸はにやにやと笑っている。私は暑い暑いと両手を顔の前でぱたぱたとして見せる。
けれどそんなことは無駄だった。私の動揺は勘のいい幸にはバレているのだろう、笑っていても少し探るような目で私を見ている。前にもそんな目で見られていたことがあった。それも何度も。
「ほんとにぃ?」
「ないってば。暑いだけよ」
「ならいいか」
それでも幸は何も言わないし、突き詰めて理由も訊かずに私の誤魔化しにそうなんだと頷いてくれる。それは本当にありがたいことだと思う。
幸に見惚れていたなんてとても言えないから。触れられて嬉しくてどきどきしたなんて絶対に言えないから。
私は幸に恋をしていた時期がある。一年前までの話で短くはない三年間。
私の中で火を消して、決して叶う筈がないと諦めた恋を幸は知らない。
そんなの当然なんだけれど。
「屋敷。おーい屋敷」
楽しくもあり苦しくもあった恋を思い出したせいで、またほんの少しぽけっとしていた私は幸が私の顔を間近に覗き込んでいることに気付いて驚いてしまった。
「ふぇぇっ」
「えっ」
「はっ」
幸は何だ今の声と言った感じで、私は変な声を出したことに気が付いて、幸と私はふたりして一瞬だけ固まってしまった。
「あはははは。ふぇぇっ、ってなにそれ。ふぇぇっ、だって。あはははは」
気づくと幸の顔がすぐ近くにあったことで変な声を出した私の肩をばしばし叩きながら笑ってからかう幸。
笑われて恥ずかしくなった私は慌ててそれを否定する。
「笑うな。そんなの言ってないし」
「言った」
「言ってない」
「言いましたー」
「言ってませんー」
「ふぇぇっ、言ったのにぃ」
幸は私がやってしまったように、わざと戯けてふぇぇっとやって見せた。私は思わず笑ってしまう。
「…ぷっ、ふふふふふ。あー、はいはい。言った言った、言いましたー」
「ふぇぇだってさー。あはははは」
私達のあはは、ふふふと笑い合う声が、エレベーターホールに響いている。
「屋敷」
「なに?」
「すっごく可愛かったわよ」
「ふぇぇっ」
私が幸をどう想っていたのか、それが楽しくも苦しい想いだったことが顔に出ていたようだった。幸はからかうことで暗い顔をした私を気遣ってくれたのかも知れない。私は都合よくそう思うことにした。
それなら私はそれに応えないと。私は出来得る限りの飛び切りの笑顔を浮かべて見せた。
幸は私をじっと見つめている。からかうような感じは既になくなっていて、私の笑顔を見てどこか嬉しそうに微笑んでくれたような気がした。
「幸、ありがとね」
「なに急に。なんの話?」
「こっちの話」
「教えなさいよ」
「いやだ」
「いいから教えろっ」
今度は私に軽く身体をぶつけながら、なによー教えろーと騒ぐ幸とそれをつんと横を向いて無視する私。
そんなことをしていると、やって来たエレベーターからぞろぞろと降りて来る人達が、何やってんだこの二人はという顔をして私達を眺めながらそれぞれ歩き去って行くことに気がついた。
「人がいっぱい。なんか恥かしくない?」
「いまさら。もう何度目よ」
「え、うそ。言ってよ」
私は呆けてばかりで気が付かなかったけれど、私達が話をしている間にエレベーターが何度もやって来たようだった。そんなことは当然と言えば当然だ。ここはいくつもの企業や飲食店が入っているオフィスビルなんだから。
一体どれだけの人に見られたのかと思うと、なんかちょっと、ねぇ?
「私はべつに平気だからね」
「…そうだった。幸だった。ごめん」
「どういう意味よ」
「そのまんまの意味よ」
「なんですと」
こうして幸とわちゃわちゃしていると、やはり幸は堪らなく幸なんだと私は思う。
本当に堪らなく幸は幸。それはもう、本当に堪らなくなってくるくらい。
「さて」
「さてと」
いつまでもここで騒いでいても仕方ないと私達は自然に目を合わせ、行きますかと同じ方向に歩き出した。
私は一足早く踏み出して少しだけ早足になって幸を置いて先をいく。
「あ、こら。置いてくな」
「ふふん」
一体何が決め手になったのか、何が私にそう思わせたのか今はまだよく分からないけれど、私は突如湧き上がってきた抑え難い衝動に従おうと思う。私は顔に似合わず我儘らしいから、そう言って譲らない幸にも私の我儘に付き合ってもらうことにする。
どうやら私が消した筈の火は、私の中でいまだ燻ったままだったらしい。消えることなく燻って、早く気付けと私を焦がし続けていたらしい。
それが私の想いなら、それが私の望みなら、消えずに私を待っていてくれたのなら、私はもう無理矢理にそれを消すことはしない。
私は決めた。私の中の燻る想いに火を点ける。私には幸だ。幸がいい。
私は分かっている。いくら私がそう決意しようと、私と幸が恋人になる可能性は限りなく無いに等しい。
けれどそんなことは知らない。私はそれをぐしゃぐしゃに握り潰して脇に放り投げておく。
一度は消火した筈の恋を、新たに燃やして始めるのだ。幸を想ってただひたすらに。
そして私はこの恋を、以前のように私の中で諦めて、悲劇のヒロイン宜しく終わりにはしない。
この恋を終わらせるのは私ではなく幸。この恋が終わるのは幸に振られる時だけだ。
だから幸には辛くて嫌なことを押し付けることになるかも知れない。
けれど、今の私には幸にそんなことさせるつもりは全くない。そんなことは絶対にさせない。絶対に。
なぜなら私、屋敷夏織はまあまあ優秀な女だから。そこそこやる女だから。辞書には不可能の文字もあるけれど、可能の文字もあるのだから。
「ふぅ」
私はそっと息を吐いた。
なんだか興奮して少し熱くなってしまったけれど、ここまで決意するとあれこれ悩んでいたことが急にバカらしくなって、不思議と気持ちは軽くなってくる。
「我儘でごめんね、幸」
「屋敷?なんか言った?」
聞かれないように前を向いたまま呟くと、私に追いつこうと少し後ろを早足で歩く幸の訊ねる声がする。
私を呼ぶ幸の声。そんなことまで嬉しくなってしまう。
「いや、なにも」
「いやいや、なんか言ったでしょ」
「言わない」
「いやいやいや、絶対なんか言ったから」
「言ってませんー」
「言いましたー」
そろそろ私の隣を歩いて欲しくなって足を緩めたその後ろから、よし屋敷っ、飲みに行くぞーとか言って横に並んで肩に手を廻してくる幸。
私はそのお誘いをとても嬉しく思って、幸に向かってにんまり微笑んだ。
「いくぞー」
「おー」
テンション高く声を掛け合う私達はまだ一滴のお酒も飲んでいない。けれど今の私は既に楽しくて仕方ない。隣を歩く幸も楽しそうに笑っている。
どうやら私の期待通り、素敵な出来事が起きたみたい。
「ふふふ、完璧」
久しぶりの投稿でいろいろ手こずりました。
読んでくれてありがとうございます。