第十話
続きです。
本日二話投稿の二話目ですのでご注意を。
よろしくお願いします。
私の風邪もすっかり治って月も変わった翌週の金曜日午後二半過ぎ、さすがに今は閑散としている例のスペースを私はとことこ歩いている。もういつものと言っていいかも知れない窓際の席でこれからお昼を食べるのだ。
「よいしょっと」
今週の私はずっとこんな感じだった。お昼の時間が早かったり遅かったり、夜は夜で、私にしてはいつもより遅くなっちゃったと言える時間まで仕事をしたり営業の戦略を練ったり取引先の人と飲んだりとまあまあ忙しかったのだ。
「ごはんごはん」
それは風邪で休んだ分を取り返すつもりで仕方なく意識を高くして仕事に取り組んでやったからで、さらに言えば、今週は幸が例の契約の詰めで特に忙しからということもあって、どうせ会えないのならその寂しさを仕事にぶつけてしまおうと思ったからでもある。
「あー、お腹減った」
ただ、今週月曜から始まった私の一週間に渡る頑張りは部長を始めとする周りの同僚達から、屋敷はどうしたんだ、おかしくないか、本当に大丈夫なのかと心配されていた。
毎月それなりの結果を出しているまあまあ優秀な私に向かってなんて失礼なとは思ったけれど普段の私を振り返ってみると然もありなんと思わなくもなかったので、そこはまぁ、病み上がりなのに頑張る私のことを皆が気に掛けてくれて、凄く心配だったのだろうなと思うことにした。
「屋敷。本当に大丈夫なんだろうな?」
「そうですよ屋敷さん。もう定時過ぎてますし、そんなに無理しなくても」
「ただの風邪ですよ部長。もう治りましたし、そんなに心配しなくても大丈夫です。吉田君も大袈裟だから。それに残業なんていつもしてるじゃないですか」
「えっ。なぁ吉田、そうだったか?」
「いっ?あ、あれじゃないですか?ほら、部長がいつも言っているじゃないですか、あれだって。ねぇ部長」
「吉田、おまえっ。えっとな、あ、あれって、アレか。そ、そうだよな、うん、そうだな。してたしてた」
そのとき周りにいた同僚達が、してたっけ?とかあれってなに?みたいになってざわざわしていたけれどそこは私は気にしてない。定時を過ぎても席を立てなかった時点で、それが仕事のためかどうかは関係なく残業しているようなものだと私は思っているのだから。ちなみにあれについては私にも分からないから。
とにかく今週、私は私なりに頑張った。その結果、幸のような大口とは全く言えないけれど、毎月のベースの数字の他に中口と言えないこともない数件の契約を今月中に纏めることができそうだった。
「ふふっ」
この結果は妥当。私はテーブルに広げたお昼ご飯を前に、今日もあらたな成果を上げてきた私はやはりまあまあ優秀でそこそこやる女だけのことはあるなとつい不敵に笑ってしまう。
「ふっふっふっ」
そうなの。私は普段はあまりやらないだけでやろうと思えばやれないことはないこともないの。
私の場合、能ある鷹は必要な時に必要な分だけ爪を使う、それが一番省エネだからそれができるのならそれに越したことはない、というヤツだから。
それに幸との勝負のことも忘れてはいけない。幸が大口一件で勝負するのなら私は数で勝負をしようというわけだから。
「さてと」
これが今週、いや、今月最後の遅めのお昼ご飯になる。週末にはリセットされて、私の高い意識はこれ以上は持たないから。無理だから。だからの省エネだから。
「いいのいいの。じゃ、いっただっきます」
私はコーヒーを一口飲んでから今日の獲物、これは絶対美味いぞ買っておけと私の勘が推してきた見た目メロンパンより少し平べったい円盤みたいなヤツを先ず手に取った。
「あぐっ。お、美味いっ」
私のお昼、あの店は人気のパン屋さんだよ美味しいよと取引先の人に言われてオフィスに戻りがてら買ってみた季節限定お芋のデニッシュたぶん一斤くらいの大きさのヤツと外かりっかりの中ふわっふわっな見た目メロンパンより少し平べったいザラメのついたなんだかよく分からない円盤みたいな、いま一口食べたら予想以上に美味いヤツ。
もぐもぐ
それを、今は殆ど人の居ない広い分だけ余計に孤独を感じてしまう閑散としたこの休憩スペースで話し相手もなくたった独りで窓に向かってぽつんと座ってやたらと近い隣のビルを見ているわけでもなくただ視界に収めながら手でちぎってはもぐもぐと齧っている私。
もぐもぐ
時折、隣のビルと重なるように窓に映り込む私の姿が目に入る。その姿は側から見ればさも寂しげに見えてしまうことだろう。実際に…いや、今はその話はやめておこう。
そしてパンを齧る合間に口にするコーヒーの温かさがやけに身に染みてなき……いや、大丈夫、泣かないから。
だってね、食べてみたらかりっかりのふわっふわっのヤツが甘くて凄く美味いから。甘くて凄く美味くて私は笑顔になっているから。まぁ、今は、なんだけれど。
もぐもぐ
「うん、いいねコレ」
大体、外にいれば取引先の人とランチをする以外はいつもひとりだからこの状況はべつに気にもならないしどうでもいい。
何よりもいま問題なのは、先週恋人になったばかりの幸との時間を先週末から全く取れていないことにある。
つまりもう一週間以上も幸不足が続いていて、私の中でそれが深刻化しているということなのだ。それはもう切実に。
もぐ…
なぜなら私はちゃんと風邪を治すために土日はひとりで大人しくしていたし、今週に入ってからは、私は私で意識を高くしていてそれなりに忙しく、幸は幸で、幸のところの部長を巻き込んで大口の契約のために土日も関係なくとても忙しく動き回っているからだ。
だから、幸が泊まって恋人になった次の日の朝に一緒に通勤してからは幸の顔を見ていないし直接会って話してもいない。いま私達を繋いでいるのは通話とメッセージのやり取りだけなのだ。
も…ぐ
「はぁ」
もちろん今までだって毎日会っていたわけじゃないしぃ、私はそこそこ我慢のできる大人の女性だしぃ、聞き分けの良いかどうかはノーコメントだけれどよくできた幸の恋人の筈だから、お互い仕事だし会えないのは仕方ないなとちゃんと理解できている。
も……ぐ
そうは言っても、このままだと私は深刻な幸不足でかさかさに干からびてしまうんですけど、幸はさぁ、私がミイラのようになってしまっても私を好きでいてくれるんですかーどうなんですかー、なんてことをどうしても考えてしまうわけ。
それは理解することとは違う別の話なわけだから、これくらいのことは私の我儘とかではなくて許容されて然るべきことだと私は思うの。
「ああ、そう言えば幸、午後遅くに契約だとか言っていたけど、もぐ、もう出かける頃かなぁ」
それなら今日で全てが片付くし今日は週末金曜日だから、今夜からゆっくり会えるっしょとかそんなことを言う営業職のくせにマニュアルに書いてなかったのでそれはできませんでした、じゃあ定時過ぎたんで俺帰りますあとよろしくみたいな腑抜けたくっそ甘い考えを持つ今時の、あー、アイツなぁ、アイツ頭はいいんだけどなぁイマイチなぁ的な輩もいると思う。
ぶっぶー。夜は契約成立を祝って向こうの人達も一緒に会食することになっているんだって。そんなものはほぼほぼ接待みたいなものだから終わる時間も読めないし、きっと帰りは遅くなるに決まっている。
だから私は、幸も疲れて大変だろうと思って幸に会うのは明日の夕方くらいからにしておいたんだから。幸とはもうそういう約束だから。
それならそれで会えるんだからべつにいんじゃねとかそんなことを言う何事にも興味ありませんみたいな顔をして冷めた感じを敢えて装って孤高を気取っているけれど、いきなり壁とかどんっとかしちゃってなぁお前は俺の物だから、そんくらい分かれよなみたいな、はあ?そんなもん一ミリだって分かりたくもないわぼけぇと思わずつっこみたくなるような今時のいかにも的な輩もいると思う。
ぶぶぶのぶー。私達は恋人同士になったばかりだから、少しでも早く幸に会いたいし少しでも長く幸と一緒に過ごしたいと私が思ってしまうは当然のことだから。べつにいんじゃねとかあり得ないから。我慢はしても私はそれでいいなんて全然思ってないし思えない。理解することと納得することは感情の上では全くの別な物なんでした。はい残念。
「うー、なんか余計に疲れちゃったな」
今、ほんのちょっとだけ毒を吐きつつ愚痴を零してみたけれど特にすっきりした感じは全然しない。それならせめて甘くて美味いかりっかりで癒されようかなと思ってそれを置いておいたテーブルに手伸ばす。
「あれ?」
気づけば私のかりっかりはもう私の前から消え去っていた。確かあと三分の一くらいはあったと思ったのに。
「なんだ、もう食べちゃったのか」
幸のことを考えながら無意識に口に運んでいたのかもったいないと予想以上に美味かったかりっかりのふわっふわに私なりの賛辞を送る。けれど、こうして食べ終えてしまうと口寂しくなってしまった分だけ幸のことまで余計に寂しくなってしまう。
「くそう。もうこうなったら泣くぞ、泣いちゃうぞ、幸。いいのか幸。恋人の私が泣いちゃうんだからな」
私は続くお芋のデニッシュたぶん一斤くらいの大きさのヤツに手を伸ばしながらそんなことを呟いていた。周りに人は居ないからそこは大丈夫。それに寂しいものは寂しいのだから仕方ない。
「なに馬鹿なこと言っふぇふの」
後ろから不意に聴こえた気がする言わずと知れた幸の声。その声は何かを口に入れていて少しもごもごと篭っているように聴こえる。
「幻聴とか最悪。しかも何か食べているぽい声とか超こわい」
そのあとさらに、外カリカリして中ふわふわなんだねこれ、美味しいねなんて声まで聴こえてくる。
「えっ」
まさかそれは私のかりっかりのこと?
さすがにこれは幻聴はないなと思うけれど、振り向いて万が一にも幸が居なかったら色んな意味で超こわいから、私は窓に向けている目のピントを隣のビルから映り込んでいるかもしれない幸に合わせて確かめてみることにした。
「ん」
あっ、やったっ。そこにはちゃんと会いたかった幸が姿が映っていた。
「幸っ」
「お疲れ夏織」
嬉しい気持ちと、ほんと良かったいてくれてとほっとした気持ちをごちゃ混ぜにしながら私が振り向くと幸は優しい目をして立っていた。手にはたぶんというか絶対に私のかりっかり。それをまた一口と齧りながら。
「それ、私のかりっかり?」
「うん。おいふぃねふぉれ」
「いいけどさ。なんで?」
私はなんで幸がここに居るのかを訊いていたつもりだったけれど幸はそう受け取らなかった。
ちょっと小腹が空いたからと言ったあと手に持っている私のかりっかりを全部口に入れてしまった。
「あっ」
「もぐもぐ…ごちそうさま。凄く美味しかったよこの、えっと、かりっかり?」
私のかりっかりを幸に食べられてしまったのはもの凄く残念だけれど、私の冴えた勘が当たりを選んだことを褒められているような気がして私はついそれを自慢したくなってしまった。
「そうでしょ。美味いでしょ。私の勘がね、そのかりっかりを買え買え買え買え煩かったから買ってみたの。そしたら私の予測よりも全然美味くてさ。さすが私と思うわけよ。でね、そのかりっかり感はね、たぶんザラメの溶けたところが飴みたく固くなって表面をコーティングしてて、さらに形の残ったザラメのせいでって違う違う、違うから。幸、何でここにいるの?」
私は止まらなくなりそうな話をどうにか止めて幸に訊きたいことを訊いた。
幸は私のかりっかりの話をうんうん微笑んで聞いてくれていたけれど、私が何でここにと訊いた途端、ちょっと心外なんですけどみたいな顔をしてぷくっと頬を膨らませた。私は訳がわからずに首を傾げて幸を見た。
「私の恋人に会いに来たに決まっているでしょ。ちょっとでも夏織の顔を見たかったのっ」
そんなことを思ってくれていたなんてと私は嬉しくて顔を綻ばせる。幸は顔を赤くして私から顔を逸らしながら、腕を組んでつーんとかやっている。
「つーん」
わざわざ顔を見に来てくれたのに見ないとか、言っていることとやっていることが違うのはたぶん私が首を傾げたことで発動したゆるふわを目の当たりにしてそれに耐えられなかったのだろう。
「つーん」
もう幸には一の型は通用しないと思っていたけれど、恋人として幸を意識することで私が幸せないっぱいな気持ちになると、私のゆるふわは自ずとレベルを上げてしまうようだった。ならばこれからは一の型(改)と呼ぶことにしよう。いやいや、今そんなことどうでもいいから。
「ごめん幸、拗ねないでよ」
「お、わかる?さすが夏織」
「それだけ頬を膨らませていればね」
「それもそっか。あはは」
「ふふふふふ」
そんなわけで今、どうぞ私の顔でよければ時間の許す限り見ていってねと私は体ごと幸に向いている。さっと隣に座った幸もまた同じようにして私を見つめている。テーブルにはお芋のデニッシュと幸のお土産、貰い物だけどねと渡してくれた筒状になった棒のクッキー、ヨックなヤツが三本ある。
「でね、でね、そのあとにね」
「うんうん」
一人掛けの席に並んで座り、分別のある距離を保ちつつも互いに向き合って見つめ合いながら話をしているこの状況は一体なんだろうかと思はないこともないけれど、鼻唄混じりのご機嫌な幸とふたりでここ一週間の話をしてお芋のデニッシュとモックなクッキーを食べながらだから、私は今週頑張ったご褒美付きのおやつの時間みたいなものだと思うことにした。当然、ご褒美は幸。
なんだかんだと考えていても、私はいま嬉しくて仕方ないの。
「そっか。夏織、頑張ったんだ」
「まぁね。でも今月はもうむり。さすがに持たない。疲れたし」
「ぷっ、夏織らしい。あはは」
私の体はそんな会話の合間に幸が奏でる鼻唄のリズムに乗ってゆらゆらと揺れている。一緒になってふんふんと口ずさんだりもしている。こうして幸が傍に居るとそれだけで私の中の足りなかったものが満たされていくのが分かる。
会えなかった時が一気に埋まった穏やかな時間。幸と過ごす何か特別なと言うわけでもない何気ない日常の一コマ。私の顔は自然と綻んでいて、見れば幸も優しい穏やかな笑みを浮かべている、そんな久しぶりの私と幸だけの時間。
「そろそろ行くね」
その時間はあっという間に終わってしまう。
幸が時計を見て、時間がなくてごめんと言って席を立つ。私は気にしないでと首を振る。一緒に過ごした時間は十五分かそこらもないくらい。それでも私は大満足。今はもう私には何の不満もない。これで私は干からびたりすることはない。泣いちゃうこともない。私は幸に笑顔を向けた。
「うん」
「じゃあね、明日」
「うん、明日。幸、忙しいのにわざわざありがと来てくれて。嬉しかった」
「あはは。言ったでしょう?顔を見たかったのは私もなのよ。夏織はそんなことを気にしないの」
すっと右手を上げて、幸は颯爽と去っていく。私はいつものように幸はこのまま振り返らないだろうなと思いながら見慣れたその後ろ姿に目を向けていた。
普段から堂々として自信に満ち溢れている幸のいつもの後ろ姿に私もいつもの思いを抱く。
「いつ見てもやっぱりかっけーさすが幸」
けれどどういうわけか、幸は出入り口のところでくるっと振り返り、私が幸を見ていることを確認したあと、周りの視線を避けるように開いている扉の影になっている奥に少しだけ引っ込んだ。
「なに?」
その幸が前と左右をきょろきょろしたあとに私に向けて手で何かをし始めたように見える。
「どうした幸」
幸は自分の顔の辺りで手をちまちまと動かしてからそこに顔を突っ込んでいるようにも見えなくもない、よく分からないその動きをやってはまたきょろきょろとしている。
何を伝えたいのか全く分からないけれど、私は分かったよと一応手を振っておくことにした。時間もないのに放っておくといつまでもやっていそうな気もするし、誰かに見られでもしたらちょっと可哀想かなと思うから。
「あ、行っちゃった」
私が手を振ったことで幸は満足したようだった。それまで懸命にやっていたと思われる謎の動きをぴたりとやめて、何事もなかったかのように再び颯爽と歩き出しそのまま扉を出ていった。
「謎過ぎる…ぷっ、ふふふ」
私には幸が扉の影に引っ込んだせいで幸の姿がよく見えなくて何をしていたのかよく分からなかった。だから明日、覚えていたら幸に一体何していたのと訊いてみようと思う。幸はきっと、伝わらなかったのかぁとがっかりするだろうけれど。
「ふふふ、それにしても、ふふ、幸の奴、ふふふ、なんだ今の、ふふふ、ふふふふふ」
暫く笑って少し腹筋を鍛えたあと、私は残っていたヨックなクッキーを手に取ってその袋を開けた。
それを咥えてもぐもぐとやりながら、やっぱり幸は幸だなと、そう思った。優しい幸が私を好きになってくれてよかったなと、そう思った。
第九話の幸の鼻唄が何の曲かわかった人はいますでしょうか?ヒントは幸の台詞にあります。
あと、タグにさす幸を追加しました。
だからなんだという話ですが。
読んでくれてありがとうございます。