第九話
続きです。
よろしくお願いします。
「らららーら、らららーら」
「わーわーわー」
いま私の耳に聴こえているのはお風呂から漏れる気持ち良さげに奏でられている幸の鼻唄とベッドで私があげている声。らららは幸でわわわは私。
ついつられそうになるけれどべつに合わせたいと思っているわけではない。
幸の鼻唄が聴こえてきたとき一瞬だけその曲は今はどうなのよと思ったけれど幸が楽しいのなら、まぁそれでいいことにした。私は今それどころではないのだから。
幸が泊まると決まったあと、幸はベッドの横にいそいそと布団を敷いてから、そうだ、お風呂にお湯をためないと、ちょっといってくるねと立ち上がって部屋を出ていこうとしていた。
私は珍しいなと思ってその背に声を掛けた。
「幸ってシャワーだけの人じゃなかったっけ?べつにいいんだけど」
「え?あー、ほら、最近は寒いからお湯に浸かるようにしてるの」
「ふうん、そうなんだ。もう歳だから寒いの?」
「夏織。それはブーメランだよ、あはは」
「あ、そっか。ふふふ」
私は湯船にゆっくり浸かる派だから、部屋に戻って今度はスウェットとか黒を基調としつつも可愛いヤツとか色々と用意を始めたやたらとご機嫌な幸をちょっと羨ましいなと思いながらもふふふと微笑んでその様子を眺めていた。
私はまだ風邪っぴきだから明日出社するにしても体を拭く程度で済ませるつもりでいる。だから今夜は幸の浸かっ……使ったお風呂には入れ……らない。それに関しては全然悔しくないなんて絶対に言えない。
その理由は既にお分かりの通り、私が湯船にゆっくり浸かる派だからです。はい残念。
「くそう」
「ん?あ、溜まったみたい。じゃあ入ってくるよ」
「え、あ、うん。タオルとか適当に使ってね」
「うん。ありがとう」
「ふんふんふん、らららー」
こうして幸は今、幸せいっぱいな気持ちで鼻唄とともに私の湯船に浸かっている。幸だけに。私の湯船に、いま幸が…
「わーわーわー」
そして私はそのせいで、いや、それだけが理由じゃないけれど、いま布団の中でころころと転がりながら身悶えているところだ。まさに煩悩と戦っているところなのだ。
だって、幸のナニな姿は私が妄想を掻き立てるのには充分過ぎる程の素敵な素材なんだから。色々と妄想しちゃうと鼻血とか出そうになっちゃうんだから。
「っ、わーわーわーっ…ふぅ、今のはかなりヤバかった」
けれど、それはいい。べつにどうということはないの。私は平気、大丈夫。
幸とこうなったからにはいずれ本物を拝める筈だし、ちょっとはあるからねと言い張っている胸だってそのうち確かめることができる筈だしお風呂にだって一緒に入れる時が必ずやって来る筈だから。
それに今この部屋に幸が居ることは、それだけでも凄く嬉しいことだから。そして何より私達は、今とても幸せだから。
「ららららーら、ららららーら」
私が悶える理由は別にもうひとつある。そしてこれこそが問題なヤツだ。
それは、私の告白までの心境というか心模様というか、それが少しだけ、ほんとにほんの少しだけ小っ恥ずかしいものだったから。
私は幸を眺めながら私と幸のことを考えていただけで、本当にただそれだけだったのに、なんか勢いがついてしまったというか盛り上がってしまったというか、思い返すととにかくキツい。
だったら思い返すなよと思うかも知れないけれど、そこはほら、人間不思議不思議ということなわけ。
それを口に出していたわけじゃないから私にしか分からないことだけれど、いま思っても恥ずかし過ぎて私はどうにも居た堪れない気持ちになっているところでもある。
「わーわーわーっ、あーもうっどっかいけって、ばーか、ばーか」
「らーら、ふんふん、らーら、らららー」
気が気でなかった幸のお泊まりをお互い何でもないことのように軽い口調でどうにかしたあと、私達は心の中ではほっと胸を撫で下ろしていたと思う。
事実わたしはそうだったし、普段と違ってぽんこつと化していた幸は驚いたあとあからさまに大きく息を吐いていたんだから。
「えっ?いいの?ほんとに?」
「そう言ったでしょ。布団あるし、時間も時間だし」
「そっかぁ、よかったぁ」
こんな感じであくまで軽く。それは上手くいったけれど、私もまた取って付けたようなばればれな台詞を吐いていた。時刻は午後九時過ぎで、もう遅いからどうのこうのと心配するような時間ではなかったから。
けれど、幸はそんなことにも気づかなかった。それどころかもの凄い浮かれようで、そんなぽんこつ幸を見ていたら私も緩む顔を抑えることができなくなってしまった。
というか、もう抑える必要もないかなと思って、またしてもいってしまった人の真似をして静かに喜んでいる幸のことを私は微笑んで眺めていた。
「おおおー」
「ふふふ。二度目でも変わらずぐうかわさすが幸」
私は微笑んでいた筈なのに、幸の眺めているうちに気づけば涙を浮かべていた。
私は泣きたかったわけじゃない。それはただただ浮かんできたもの。けれど、それを留めることはなぜかできなかった。
私の溢す涙に意味はある。それはきっと、今日のこの短い時間で色々な姿を見せてくれた幸の気持ちを慮るとそれだけで胸がぎゅっと締め付けられるくらい堪らなく愛おしいと思えたから。
こんな私にも私のことで笑ったり喜んだり怖がったりぽんこつになったり焦ったり心配したりしてくれる、なってくれる女性がいてくれることを知ったから。
それがなんて幸せなことなんだろうと、そんな女性に出逢えたことは掛け替えのないことなんだと、凄く特別なことなんだと分かったから。
そして私は今、何の躊躇いもなくその女性の名を、想いを口にする。
「幸。好きだよ」
幸は今日、いつかの私のように一所懸命頑張ってくれたのだ。私はそれに報いたい。結局それは、言ってしまえば自分のためなのだけれど、幸のためにも私はそれを叶えたい。
「幸」
幸の名を呼ぶ私はもう我慢できなかった。決意したあの日から元々する必要もなかったことかもしれない。なら、粛々と進める方針はもうやめだ。今すぐにこの手を伸ばして幸に触れたい。
だから踏み出すことにした。再び燃やした幸への想いが、抑えがたい衝動が、さぁいってらっしゃいと私の背中を押しているのを感じてい…る?
え。ま、待った。いってらしゃいとか今いらないから。
私はすぐさま自分を励ますように頭を振って嫌な予感を吹き飛ばしてやった。
「だ、大丈夫、大丈夫だから」
そう。すべてが私の勘違いでないのなら、いま言葉にすればきっと私達は同じ道を、時には先に、時には後に、普段は一緒に並んで歩いて行ける。それならいま私のやることはひとつだけ。
喜ぶ幸を見つめながら、私は深く息を吸って、ではいってきますと吐き出した。
「ねぇ、幸」
「おお、お?どうかした?」
「あのね」
「泣いてる?」
涙を溢したままの私に気づいた幸は笑顔を消した。すぐに心配そうな顔になって私の傍までやって来ると、どうしたのと手を伸ばして私の髪を優しく撫でてくれた。
「大丈夫?」
それは引き金だった。私は弾かれるように幸の胸に体を寄せてぎゅっとしがみついた。
「なななっ」
突然のことに幸は固まってしまったようだけれど、それでも幸はしがみついた私に腕を廻して優しく抱いてくれた。
「あのね」
幸の匂いに包まれて、幸の温かさに触れて、さらに滲んでくる涙を溢しながら私は想いを告げる。
「わたしね、幸が好きなの」
私は顔を上げて幸を見る。ゆるふわも何もない、ただ幸を見て浮かんできた微笑みと涙を添えて私は想いを告げた。
「なゃなゃなゃっ」
「…ぷっ、なゃなゃ?なによそれ?ふふふふふ」
動き出したけれどまたぽんこつと化した幸の反応が可笑しくて私は笑ってしまった。
笑って少し待っていると、幸は私を抱いたままびっくりしたなぁと呟いて上から私を覗き込んでくる。
「えっと。ねぇ夏織、もう一度言ってくれない?わたし、いまちょっとなんか、ね」
「いいよ。何度でも言ってあげる」
偉そうに言ってあげるとか言っているけれど、いざ想いを口にしてみるとこうして自分の想いを伝えられるということは、実はとても凄いことなんじゃないのかなと思えてくる。私のような人の中には伝えたくても伝えられない想いを抱えている人達がきっと大勢いると思うから。
だから私は私の想いを幾らでも伝えたくて聞いてほしくて堪らなくなっていた。
私はほんの少しだけ、幸に包まれている体を引いて下からその目をじっと見つめる。少し窮屈な感じがするのは私が離れようとしても幸が私を離そうとはしなかったから。
「幸」
私の呼び掛けに幸はただ頷いた。一度言葉にしていた私はそうでもないけれど幸は凄く緊張した面持ちで私の言葉を待っている。
「私は幸が好き。私と付き合って」
「ぐっはっ」
幸が何かを言いたそうにして暫くあうあうと口を動かしていた間があったけれど、徐々にその顔を赤く染めていく幸はこれまでその口からは一度も聞いたことのないとてもか細く小さな声で、はいと頷いてその場に崩れるように蹲った。
私もまたそんな幸から目を逸らしていた。幸が可愛い過ぎて見ているのが辛かったから。どうやらこういうときの幸は無垢ではなくても乙女のようになってしまうみたいだった。
「もうね、乙女とかかわいすぎかよさすが幸」
その幸がもぞもぞと動き出す。どうやら復活するようだった。それに気づいて私は幸に目を向けた。
「夏織」
幸がふらふらと立ち上がるその姿はまるでどこかの墓地からのそのそ出てくるゾンビようで少し怖いけれど、私の告白で一旦確実にいってしまうというスーパーでスペシャルなリアクションを見せてくれた今の幸では仕方がないかなと思って私は逃げずに我慢することにした。
「私も夏織のこと大好きなの」
幸は私が焦がれていた言葉を言ってくれたあと私をそっと、けれど完全に包み込むようにしっかりと抱き締めてくれた。
「大好き」
幸からその言葉を聞けて、幸が抱きしめてくれて私は本当に嬉しかった。
嬉しかったけれど、なぜか頭のほんの片隅にゾンビ映画で最初に襲われてしまう定番の高校生の女の子が浮かんできてしまってもいた。だから私はいま邪魔をするとかふざけんなとソイツが浮かんでくるたびにそのイメージを消していくということを、幸に抱き締められている幸せを噛み締めながら、馬鹿らしくも懸命に繰り返していた。
「それとね。私はね、あのね、えっと…」
そのあと幸は何かを伝えようとしていたけれどその先が出てこないようで口ごもってしまった。
私はもう分かっていた。恵美さんの感じた通り私と幸は同じだった。
若い頃ならそうでなくてもあり得たと思う。けれど、将来のことを色々と考えるようになるこの歳になっても私を好きだと言ってくれたということはそうであること以外にはあり得ない。私と幸は同じビアン、それ以外には絶対にあり得ない。
だから私は幸だってもう分かってる筈なのにどうしていつまでも思い当たらないのかなと呆れつつ、ぽんこつ幸が少しでも楽になれるようにと思って、私らしく水を向けることにした。
「ねぇ。ここから断られる展開とかあり得ないと思うんですけど」
「ち、違う違う。そうじゃないよ。そうじゃないけど私達は女性同士でしょ?私は全然いいんだけど、夏織はほんとに私でいいのかなーなんて思ったりして」
あわわと慌てて手を振りながら否定する幸を見て私は、よし、やったっ、とほくそ笑む。そして私はもうひとつの伝えたいことを伝えることにした。
「幸、わたしね、実は同性愛者なの。ビアンなの。だからわたしは幸がいいの。ごめんねずっと黙ってて。やっぱひく?」
「えっ…あっ、なに、そういうこと」
幸は驚いたあと、今までの流れとか私の告白とか、いま伝えたもうひとつの告白を聞いてようやく全てに気づいたようだった。例の腑に落ちて納得した感じの笑顔を見せている。
「なーんだ、やっぱりそうだったんだ。ひかないよ。だってわたしも夏織と同じビアンだからね」
「わたしそれ知ってたから」
「えっ、うそっ?いつから?」
「さっき」
「なにそれ。あはは」
「ふふふ」
「へへへ」
こうして告白を終えた今、幸は私を抱きながらだらしない声で笑っている。私は幸に縋ってまた泣いている。恋が叶ってほっとした途端また涙が浮かんできてしまったから。
私も幸と同じように怖かったのだと思う。いくら強がってみせてもいくら自信があってもいくら確信を持てたとしても怖いものは怖いのだから。
それに私は私だからと、これが私だからと、それがどうした私は全然大丈夫だと、生まれ持っているモノを受け入れて生きていたって不安になって独りで泣いてしまうこともたまにはある。もしも周りに気づかれて拒絶されたらどうしようと心の奥底ではいつだってそんな思いを抱えているのだから。
「ながないで」
「いや、ぶづゔになぐでじょ」
聞こえてきた幸の鼻声に顔を上げれば笑っているなと思っていた幸も泣いていた。私に抱えるものがあるようにきっと幸にもそれはある。
「なんでざぢがなぐのよ」
「ぞんなのわがんないよ」
それもまたそうなのだろう。全ての涙に理由を付けられるわけじゃない。色んな感情や思いがごちゃごちゃになってどれかひとつを理由にはできないこともある。上手く説明できなくたって自然と流してしまうときもある。幸は今そういうことなのだと思う。
その幸はいま私を優しく気遣って夏織、泣かないでなんて言っているけれど、私より酷い顔をして泣いているのだから笑ってしまう。
「酷いがお、ごわい。うぐっ、ふふふふふ」
「おだがいざまだよ、うぐっ、あはははは」
私達はこうなった。結局、私達はビアン同士だったわけだし、結果だけを見れば落ち着くところに落ち着いたのだと思わないこともない。
けれど、幸を想ってわちゃわちゃもやもや過ごした日々は、いま思えば私の中で若い頃のように輝いていたこともまた事実。幸を想って喜んだりとか落ち込んだりとか、私はこの恋を叶えようと一所懸命頑張ったのだ。
そして今、私の恋は私だけのものではなくなった。私の想いとか幸の想いとか、過ごした日々とか時間とか、笑ったりとか泣いたりとか、嬉しいこととか悲しいこととか、有ったこととか無かったこととか、抱えるモノとか捨てたモノとか、その全てが繋がって私と幸は相思相愛、私達ふたりの恋になっていまからあらたに始まるのだから。これからは別々だった互いの時間をひとつに重ねて過ごしながら、ふたりの物語を紡いでいくのだから。
とまぁ、私の心境には色々と恥ずかしいものがあって、耐えられないから穴があったら入りたいけれど、穴がないから布団に潜り込んだりして何とか忘れようとして頑張っているところでもあるの。
「ふんふんふん、らららー」
「わわわー」
くっ、最後の最後でつられるとか…
「幸、寒くない?」
「平気。ダウンも着てるし大丈夫」
幸の言葉に私はふと、荷物からダウンジャケットが出てきたところを思い出してくすりと笑ってしまった。
「いっぱい泣いちゃったね」
「うん」
私はベッドの上で、幸はその横すぐ隣で布団にくるまっている。純然たるピロートークとは言えないけれど私は風邪っぴきなのでこの状況で我慢をしているのだ。私だけが、いや、たぶんお互いに。
「どうする?」
「なにが?」
訊いた私はベッドを指す。すると幸は呆れ顔をしてため息を吐いた。
「あのね、夏織は風邪でしょう。大人しく独りで寝てください」
「でも、私達恋人同士でしょ。離れて眠るなんて意味分かんない」
「私に移さないでくれる?来週には大口の契約を獲るんだから体調崩したくないの」
「え、まじで。わたし負けるの?」
「そう、夏織は負けるのよ。あはは」
こうなったら風邪を移してしまおうと私は暫く駄々を捏ねていたけれど幸は受け入れてはくれなかった。あの愛すべきぽんこつ幸はもはや存在しなかったのだ。ぽんこつ幸であればきっと一緒に寝てくれた筈なのに。
「くそう」
そんなわけで、私達はこうして大人しく別々に寝ているのだ。
「あ、そうだ」
幸は起き上がるとベッドの端、私の枕元の側に顔を乗せた。
「ね、夏織」
「ん?」
私は呼ばれて顔を向けた。幸は素早く顔を寄せてくると、好きよと囁いて私にキスをした。触れるだけのとても優しいキスだった。
突然のことに私が呆然としていると、幸はにっこり微笑んだ。
「恋人だからキスくらいはいいかなと思ってさ」
そう言って自分の布団に戻っていった幸は、おやすみ夏織、くくくくくと笑っている。私はその瞬間の姿勢のままで呆然として固まっている。
私はキスのことはすっかり忘れていたのだからそれは仕方のないことだ。
こうなりました。
深夜のテンション超こわい。どうかお察しください。
読んでくれてありがとうございます。