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woman  作者: しは かた
11/102

閑話 幸と花

続きではなく閑話です。


よろしくお願いします。

 


「おはよう市ノ瀬」


「あ、吉岡さん、おはようございます」


 私がトイレから出たところで書類だか資料だかを両手で胸に抱えている屋敷の学生時代からの先輩、花ちゃんこと吉岡さんとばったり会った。抱えているそれは中々の厚みがあるように見えるのに、さらに厚みのある胸に押されてぐにゃりとひしゃげている。


「なに?じっと見て」


「いや、勝者だなと」


「なに言ってんのよ。あったらあったで大変なんだから」


「私には永遠に理解できませんねー」


「まぁそうだろうねー」


「あはは」


 吉岡さんは私の胸を見て大きく頷いている。私は気にしていないと笑っている。

 勝者の余裕、ある意味では敗者も余裕。そんななんとも言えない不毛な会話のあと、私はオフィスの入り口を指す。


「ウチに用事でも?」


「それはもう終わったよ。コレだよコレ。例のシステムの。こっちが無駄に面倒臭くなるヤツ」


 吉岡さんは本当に嫌そうな顔をしながら勝者の胸を張ってひしゃげたままの書類を強調している。それが例のシステム関連の資料か何かなんだろう。

 私がそれについて何か返事をする前に、吉岡さんはすぐに、あ、そうそうと話しを続けた。


「さっき屋敷のところの森さんと話したんだけどさ、あの子、今日は休みなんだって。風邪だって。なんか凄い声だったって言ってたよ」


「えっ」





 屋敷が風邪で休みだと吉岡さんから聞いてから、私は仕事をこなしながらも気が気でなくそわそわと過ごしていた。

 それは屋敷の病状がどの程度なのかが分からなかったからで、そのせいもあって私は多少イラついてもいた。まぁ、ほんの少し、多少。



「はぁ」


「市ノ瀬、ちょっといいか?来月の計画の数字な、ここのとこなんだけどな」


 止まらないため息を吐きつつ、足繁く通った末にやっとこさ来月に纏まるところまで漕ぎ着けた大口の契約について確認していると課長がのこのこやって来てそんなことを言う。


 正直、うるさい。


「ちっ」


 こういう時、私の容姿はとても役に立ってくれる。

 私はイラついている気持ちを隠すことなく素直に顔と口に出しながら椅子を回して課長の方に向いた。それはもう、限りなく冷ややかに。


「あ?何か問題がありますか?」


「あ、いや、こ、ここの数字がな」


「だ、か、ら、何か問題でも?」


「な、ないな。うん、ないな」


「そうですか」


 それならこれ以上話すことはないですねと私は椅子を回してデスクに向き直った。


「…こえぇよ」


 何か聴こえたけど知ったことではないし、このやり取りを見ていた周りが騒ついていたけど気になることは他にある。

 虫の居所も悪い今の私にはそんなことはどうでもいい話。


「ったく…はぁ」



 風邪程度で何をと思うかも知れないけど、屋敷の場合、風邪をひくことは鬼の霍乱とも言うべき凄い珍事だから、変に重くなったりしていないのかと私はとても不安になっていたの。

 しかも、午前中に送ったメッセージの一度目には返信がなかったし、二度目の返信には、助けて幸と伝えて来たんだから私がこうなるのも当然だと思う。誰に何をどう思われたって、屋敷は私が恋する女性なんだから。


「はぁ」






「ちょっと市ノ瀬、落ち着きなよ。もぐもぐ」


 そして午後四時過ぎ、私はだだっ広い休憩スペースで向かいに座る吉岡さんに私は屋敷のことをとても心配しているんです、どうしたらいいですかと一方的に話し続けていた。


「すいません。わかってはいるんですけど心配でつい…」


「何度も言うけどさ、もぐもぐ、ただの風邪なんだから、もぐもぐ、大丈夫でしょ」


「だといいですけど…」




 今、やっぱりこの店のやつは美味しいねと私の用意したお土産、チョコでコーティングされたバームクーヘン十二個入りのうちのひとつを食べている吉岡さんは屋敷と同じで甘い物が凄く好きだから、出先から戻ったその足で、お土産片手に忙しいところすいませんちょっと話しを聞いてくれませんかと誘ってみたら見事に喰いついてくれた。

 屋敷のことが気になってどうしても落ち着けなかった私は誰かに話しを聞いて欲しくて、それには屋敷をよく知っていて普段から屋敷と仲の良い吉岡さんが一番だと思ったのだ。



「他でもない市ノ瀬の頼みならしょうがないな。聞いてあげる」


 そう言いながらも吉岡さんの視線は私の持つお土産に固定されていた。それを左右に動かせば、吉岡さんの瞳も確実に左右に動いていたと思う。

 この辺りも屋敷と同じ。さすが仲の良い先輩後輩。やはり類は友を呼ぶんだなと私は少しだけ頬を緩ませた。




「ね、もうひとついい?」


「もちろん。どうぞ」


「やった。さすが市ノ瀬」


 私は頷いてバームクーヘンの入っている箱を吉岡さんの近くまで押しやった。


「いっただきまっす」


 吉岡さんはさっそくそこからひとつ手に取ってまたもぐもぐと食べ始めている。


「やっぱ美味しいねこれ。もぐもぐ」


 そんな吉岡さんを見ていると、喜び方も私の褒め方も何となく屋敷っぽく感じてしまう。私はつい屋敷を思い浮かべて、もぐもぐ食べている吉岡さんの姿に屋敷の姿を重ねながら再び屋敷について話し始めることにした。


「屋敷はいまどうしていると思います?きっと熱や咳で苦しんでいる筈です」


「そりゃあ、熱があればダルいし関節が痛くなることもあるし咳で苦しいし鼻は詰まるしできっと大変だろうね」


「吉岡さん、屋敷が苦しんでいたら可哀想じゃないですか?どうにかして楽にしてあげたくなりますよね?」


「楽にしてって、そんな怖いこと言ってないでよく考えてみなよ市ノ瀬。風邪なんだよ風邪。みーんなひくやつだから屋敷も大丈夫でしょ」


 私が必死になって訴えても、どこ吹く風の吉岡さんはなんの心配もいらないよと取り付く島もない。あっという間にふたつ目のバームクーヘンを食べ終えたあと、私の心配をよそに美味しかったご馳走さまとコーヒーを手に取っている。


「でも…」


「うーん。そんなに心配ならお見舞いにでも行ったらいいんじゃないの」


 お見舞い。吉岡さんのそのひと言はまさに天啓だった。

 けど、さっそく何をどうするべきか色々と考えようとする私を制するように、吉岡さんは思い切り呆れた顔でちょっと待ちなさいと手のひらを私に向けた。


「当然今日はダメだよ」


「なななっ、なにゆえっ?」


「屋敷はね、いま戦っているの。ウイルスとね。それはね、布団で寝ながらやらなくちゃいけない孤独な戦いなんだから。薬と白血球さん達以外はなんの役にも立てないのよ。ん?たしか…」


 吉岡さんは、あー、そういえばそんな感じのアニメを見たことがあったような気がするなと呟いている。

 でも私はそれを知らないから私に安心をもたらす材料にはなり得ない。


「でも屋敷、死んじゃうかもってっ」


「はあ?死なないから。それに市ノ瀬が行ったら屋敷があなたの相手をしなきゃならないでしょうが。風邪をひいて熱のある屋敷に市ノ瀬はそんなことさせられるの?できないでしょう?」


「ぐっ」


「それにね、市ノ瀬がその調子だとぴりぴりして周りが落ち着かなくなるから。ここは会社なの。仕事をするところなの。市ノ瀬、あんたはね、自然と周りを下に置く人間なのよ。もっと自分の影響力を自覚しなさいよ」


「…わかりました」


 いつまでも馬鹿なことを言っているんじゃないよと吉岡さんは顔と口調を厳しくして私を(たしな)めた。心配するのは勝手だけど良い加減にしておきなよということだ。


「まったく、子供かっての」


「すいません」


「謝るのは私にじゃなくて市ノ瀬の周りにでしょ」


「はい」


「ならいいよ」



 聞いて貰いたかった話はそれで終わった。

 いま指摘されたことはその通りだと思う。私が周りを下に置くかどうかはどうだっていいけど、戻ったら課のみんなに謝らないといけない。そして何よりこの私が屋敷に負担をかけるわけにはいかない。

 吉岡さんの言葉に納得した私はようやく冷静になることができた。


 そして私はこのあと絶対に酷く恥ずかしくなってしまうだろうなという気がもの凄くしていた。これが世に言う黒歴史とやらになるのかも。


「嫌だなぁ」



 私を厳しく見つめていた吉岡さんは、そんな私の心の動きを察したのかその表情と口調は柔らかなものになっていた。


「それはしょうがないね。けどね、自分を恥ずかしいと思えること自体はいいことだと私は思うよ」


「はい」


「それにしてもさぁ、凄い心配の仕方よね。相変わらず仲良いんだね、あなた達。なんか安心した」


「はい。同期で友人ですから」


「それだけとは思わないけどね」


「えっと、それはどういう意味ですか?」


「ああ、ごめん、何でもない。まぁとにかく風邪ごときであわあわしない。それと、お見舞いに行くなら明日以降だからね」


「あ、はい」


「でも明日か明後日には出社しているかもよ。なんたって屋敷だからじゃないや、ただの 風 、邪 だから」


 吉岡さんはそう言うとさっと時計を見て、私はもう行くからまたねと立ち上がった。

 その時ほんの少しの間だけどこか遠い目をしたように見えた。その目を閉じて深く息を吐いた後も、もう行くねと言った筈なのにその場から動かずに真顔で私をじっと見つめている。


「なんですか?」


「市ノ瀬。屋敷をよろしくね。あれでもアレは私の可愛い後輩ちゃんだからさ」


「はい。もちろん」


 屋敷をよろしくと言った吉岡さんの声はとても優しかった。普段から屋敷のことを気にかけているのは知っているけど、その声だけでも吉岡さんが屋敷をどう思っているのかが分かる。

 いいなぁ、私もいずれそんな声で屋敷について話したいなぁ、と思ってしまうくらい本当に優しい声だった。


 そして吉岡さんはどういう訳かそんなことを言ったあと、テーブルを回って私の側にやって来ると私の肩に手を置いて耳元でそっと囁いた。


「できるなら傷つけないでやって。おねがいね」


「えっ、と、はい。そんなことしません」


 なぜそんなことを言うのか全く分からないけど私は絶対にそんなことはしない。する筈がない。

 私はなぜなのかその理由を訊きたかったけど、よく見れば吉岡さんはそうさせない雰囲気を纏っていた。


「そっか」


 訊けないことでいまいち消化不良な私とは逆に、私の返事を聞いて満足したらしい吉岡さんはぽんぽんと私の肩を軽く叩いてにこっと笑った。


「じゃ、またね市ノ瀬」


「吉岡さん、ありがとうございました」


「いいよ。他ならぬ市ノ瀬の頼みだからね」


 そう言ったあと吉岡さんは箱を指差した。


「ねぇ、もうひとついい?」


「どうぞ。いくつでも」


 既にふたつ食べておいて今更に感じてしまう台詞、ひとつでいいよ太るからと独自の基準を口にしながら吉岡さんは箱からバームクーヘンをひとつだけ取ってくるりと踵を返した。私はその背中に失礼しますと声をかけた。


 吉岡さんが最後に見せた何とも言えない、そして何も言わせない雰囲気は既に消えていて、やれやれなんの話かと思えばとか、孤独な戦いって私は何を言っちゃってんだろうとか、いつもの吉岡さんらしいことをぶつぶつと呟きながらこの休憩スペースから出て行った。




「あれは…」


 どういうことなのかなと、ニ、三(に さん)気になることを言われて戸惑いながら吉岡さんの背中を見送っていた視線を戻すとバームクーヘンの箱が目に入る。


「あはは。ほんとにひとつだけだとは思わなかった」


 箱に残ったバームクーヘンは九個。

 屋敷ならいくつでもと聞いた時点で、じゃあ遠慮なくとか言って残りの半分以上、割り切れないからと五個は持っていった筈。箱ごと持っていくことだって平気でしていた筈だ。


「くくく」


 私は嬉しそうに箱を抱えている屋敷の姿を思い浮かべて、気づけばくくくと笑っていた。





「ふぅ」


 吉岡さんと話をしたことや屋敷の姿を思い浮かべたことで完全に冷静さを取り戻した私は、思った通り今日の私の態度や晒してしまった醜態を思い出して急激に恥ずかしくなってきてしまった。


「うわー、きたー、恥ずかしいっ。いっそ私をころ…いや死にたくないからそれはないー」


 私はこれで暫く苦しむだろう。だからというか吉岡さんとの会話の中にあった気になる言葉や、やけに真剣だった囁きの意味を考える頭はなかった。あの何とも言えない雰囲気についても無意識にでもそれを考えることを避けようとしているのかも知れない。


 ただ、その会話や囁き、そして吉岡さんからも嫌な感じは少しも受けなかった。私達は己を守るためにそういった感情にはとても敏感に反応する。だから考える必要はないと私の優秀なセンサーである頭と心がそう判断したのだろう。


 それに、もしも吉岡さんが何かを知っていても、何かに気がついていたとしても、私はともかくあの吉岡さんが屋敷を傷つけることは絶対にあり得ない。

 それならそれでいい、何の問題もないなと私は思った。


「さてと」


 私はオフィスに戻ることにした。残ったバームクーヘンを手土産にして、先ずはみんなに謝らないといけない。

 明日実行するつもりのお見舞い大作戦は帰ってからゆっくりと考えるとしよう。





読んでくれてありがとうございます。

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