2 カノッサってなんだっけ
目を覚ますと今度こそ天国、というわけにはいかなかった。相変わらずの天蓋付きベッドだ。
横ではさっきの牧師様が、見慣れない若者に話しかけている。長めの茶髪にすらっとした顔立ちは格好いいといえなくもないが、半ズボンに長タイツという格好がおとぎ話みたいで台無しになっていた。羽ペンで牧師様のいうことを口述筆記しているようだ。外は夕方のようで、小間使いのような人が蝋燭を運んできていた。
俺はだんだん状況を受け入れつつあった。
どう考えてもあの高さから落ちて生き残ったはずがない。背格好はあまり変わらなかったが、今の俺は別人だ。顔も手術の跡がないし、声が全然違う。イタリア語が使えるのもおかしい。おそらくパウロ様ということになるんだろう。
斜塔から落ちた俺の体はどうなっていただろう。両親はイタリアまで遺体を受け取りに来たんだろうか。修学旅行を台無しにされたみんなには申し訳ないし、伊東や遠藤が俺の最期を夢に見たりしたらいたたまれない。絶対NHKのニュースかどこかで報道されただろうし、浜松のおじさんあたりは第一報をニュースで知ったかもしれない。
これ以上考えたくない。でも考えても仕方ないんだろう。前世じゃなくて今世をどうにかしないと。
しかし来世にしてはいろいろおかしい。普通、いや普通の来世というのも変だが、赤ん坊として生まれ変わるものじゃないのか。もしここが本当に1301年だったとしたら、来世で遡るなんてなんだか変な話でもある。
でも、心のどこかで、植物人間になって21世紀に生きるよりはこっちの方がよかったと思いつつある。道徳の授業でそんなこと考えるなと教わったけど、しょうがないよね。パウロ様イケメンみたいだし、さっきの喋られ方から見れば身分も高いようだ。
ぼおっとそんなことを考えていると、牧師様が俺が起きているのに気づいた。
「パウロ様、お目覚めですか、ご気分はいかがですか。」
若者と牧師様が心配そうに覗き込んでくる。よく見ると二人の背後に肖像画が何枚か立てかけてあった。
「早速ですが、この者は誰かわかりますか」
牧師様が半ズボンの若者を指す。
「すみません、わかりません。」
素直に答えると、半ズボンはあからさまにしゅんとした表情を見せた。
「この肖像画の人物はいかがですか」
何やら威厳がありそうな老人の肖像画が掲げられた。
「いえ、全く」
「こちらは?」
今度は颯爽とした兵士の絵だ。
「わかりません」
俺のか細い返事を聞くと二人はまた小声でやり取りした。牧師様が続ける。
「1枚目は伯父上で現大公であらせられるアルベルト・デッラ・スカラ様、2枚目はパウロ様のいとこにあたり、ヴェローナの軍を率いる次期大公、バルトロメオ・デッラ・スカラ様です」
確かに2枚目はバルトレミウス・エスカリウスと額縁にほりこんである。ラテン語読みだろう。
いや待て、ラテン語なんて読んだことないのになんで俺はラテン語だって思ったのか。
「やはり医者は正しかったようですね」
若者がボソッと呟いた。とても不満そうで申し訳ないが、俺にはどうしようも無い。
「パウロ様、この者の無礼をお許しください。パウロ様がお休みになった後、医者と相談をいたしまして、恐らくは塔から落ちた衝撃で記憶を失っているのだろうとのお話でした」
なるほど、気が狂ったと思われるよりも、その解釈はありがたいかもしれない。21世紀から来たとか行ったら精神病院に送られるだろうから黙っておく。
この時代ってそういう病院あったのかな。
「大変な状況になってしまった以上、ご静養いただくことも考えたのですが、、、」
牧師様の歯切れが悪くなる。
「目下、ミラノのヴィスコンティ家がヴェローナを狙っておりまして、スカラ家に対して蜂起するよう、数家に働きかけをしております。この時期に大公一族にスキャンダルを起こすのは望ましくありません。理由を隠して静養する手もありますが、スカラ家はアルベルト様をのぞいて短命の当主が多く、明確な理由のないご静養は一族の健康不安を増長させるだけです。」
イタリア語はわかるんだが言っている内容はよくわからない。とりあえず静養しないってことは、仕事するのかな。
「ヴェローナに帰るまでに私がヴェローナの「社会」をお教えしますので、記憶喪失はなるべく隠したまま、9月にも社交の場に戻っていただければと考えております」
2ヶ月未満で社交界とかレベルが高すぎる、と叫びかけたが、牧師様は反論する前に何かの手紙を懐から取り出し、解説を始めた。
「パウロさま、ピサにはお見合いに起こしでしたので、ちょうどお相手の家に出した紹介文の写しがございます。まずはご一読くださいませ。」
いわゆる釣書ってやつだろうか。見合い先で塔に登って転落というと、パウロさまもなかなかの三枚目だったようだ。ちなみに手紙にはパウロさまの華麗なプロフィールが書かれていた。要約すると;
「大公の甥、パウロは伯爵の位を持つ貴族でもうすぐ20歳になるところ。容姿端麗で詩歌に優れる。ボローニャ大学で法学を学びつつ、アディジェ川沿いの豊かな領地を経営したり、ヴェローナの宮廷で客人をもてなしたりしている。両親はすでに亡くなっており、大公や従兄弟のバルトロメオに可愛がられて育てられた。」
なるほど、俺は17だったから2年分損した計算になるのかな。そもそも死んでいたはずだから十分嬉しいけどね。とりあえず経済的な問題には直面しなさそうだけど、中世の法律なんて勉強できる気がしない。あと詩歌どうしよう。イタリア語みたいに自然に出てくるんだろうか。
「大学は休学できますか」
一番大事なのはそこだよね。
「具合のご心配もありますし無理に授業に出る必要はありません。最終的な学位は論文で審査されますゆえ」
牧師さまはさっきの応答を思い出したのかクスリと笑った。ちょっと悔しい。
「ところで、大変失礼ですがお二人の名前をお聞きしてもいいですか」
申し訳ないが覚えてないものはしょうがないだろう。ということで牧師様と半ズボンの名前を聞く。
「パウロ様に丁寧にされると調子が崩れます」
半ズボンが苦笑している。
「私はあなたの従者、ピエトロ・ウバルディーニ。ここピサの商人貴族の家に生まれましたが、ジェノヴァとの戦争で実家が破綻してしまい、ヴェローナに一家で移り住みました。幼い頃からパウロ様のお側にお仕えして、かれこれ7年になります。」
半ズボンはピエトロというらしい。確かに牧師様と比べて威厳がなく、「半ズボン」がしっくりくる感じだったので、従者と言われれば納得する。速記ができるのは商人としての教育を受けていたからなのかな。7年働いていたにしてはかなり若く見える。
「私はテオバルドと申します。皇帝陛下のお力添えで、ヴェローナ教区の司教をしております。大公殿下よりパウロ様の教育係を仰せつかっておりました。」
司教だったのか。司教が何かわからないけど、偉い人みたいだ。それにしても皇帝と大公の関係がよくわからないけど、それを言ったら今から帰るヴェローナがどこにあるのかもわからないから万事休す。
そこから司教様にレベルアップしたテオバルトの授業が始まった。割と簡潔でびっくりする。
ヴェローナはアデージョ川沿いの歴史ある街で、農業地帯の中心に位置しておりとても豊か。パウロの属するスカラ大公家が治めるが、王様ではなく「僭主」と言われる非公式なリーダーらしい。有力な家が他にも数家あり好き放題に統治できるわけではないようだ。
皇帝と教皇の権力争いの中で、大公アルベルト様は皇帝派諸都市の盟主らしく、息子のバルトロメオ様に命じて教皇派の諸都市を数回にわたり撃破している。しかしバルトロメオ様自身は宥和をおのぞみだとか。
皇帝派と教皇派の対立はヴェローナの中でもあり、皇帝派の中でも強硬なモンテッキ家と、ヴェローナでは珍しい教皇派のカプレーティ家が小競り合いをくり返しているらしい。スカラ家はバランスをとらねばならないのだとか。大公家の方針としてはパウロ様はカプレーティ家、パウロとバルトロメオ様共通のいとこマーキューシオ様はモンテッキ家と親しくし、不安定な均衡を保つことになっている。
つまりは皇帝と教皇のケンカが一都市にも波及してきた、と言った感じのようだ。ケンカの理由はよくわからないが、パウロ様の記憶喪失は街の微妙なバランスを崩す恐れがある、というのはひしひしと伝わってきた。社交界って大変なんだな、と思うが、数ヶ月で人ごとで無くなるのかと考えると鬱になる。高校生には責任が重い。パウロ様の年齢もあまり変わらないけど。
しかし、いとこが軍人となると、俺も出陣する羽目になるんだろうか。日本史選択だったから1301年のイタリアがどうなってたのか全くわからないが、せっかくもらった2度目の命、できれば大事にしたい。
そう思いながら渡されたボールの水を飲む。
「パウロ様、それはお顔を洗うためのものです」
半ズボンのピエトロに突っ込まれてしまった。中世貴族ライフ、道のりはまだ険しいようだ。