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1 それでも地球は回っている

固く瞑っていた目を開けると、目の前はぼんやりした真紅色が広がっていた。俺の血か、それとも黄泉の国ってやつか。


しばらくして目の前がはっきりしてくる。これは真紅なのは生地みたいだ、ベルベットの。


となると棺桶の中とかだろうか。今俺の葬儀でも行われているのかもしれない。葬式が終わるまで空気を読んでじっとしておいたほうがいいのか。でも誰もいないところに安置されているのかもしれないし、そもそもトイレとか大丈夫か不安だ。


ちょっと待て、俺は塔から落ちたはずだ。介助なしでトイレに行けるんだろうか。


手を自分の前に持ってくる。よかった、ちゃんと指が10本揃っている。足をこすり合わせてみるとこっちも無事のようだ。違和感はあるもののどこも痛まない。どこから落ちたんだろう。


足が生地に当たったが、ふわっとした感覚があるだけだった、どうやら俺がいるのは棺桶の中じゃないみたいだ。腹筋の要領で起き上がってみる。


天蓋付きベッドってやつか。どうやらいいホテルに運んでもらえたみたいだ。全体真紅なのは若干気後れするけど。ただ豪華な割になぜかベッドは短くて、俺の身長だと足が出そうな勢いだ。


ベッドのカーテンを開けてみると、部屋は広いがガランとして暗く、やや殺風景だった。離れたところにある窓だけ光って見える。


ドアのあたりにこちらに背を向けて何かを絞っている女性がいた。多分ホテルのスタッフだろうが、随分奇抜な黄緑色のワンピースを着ている。ふと自分の服装を見てみると、H&Mかどこかで売っていそうなひらひらの白いシャツを着ていた。着心地は良い。ただ琥珀色のボタンだけ妙に豪華そうでアンバランスな感じだ。


「あの、」


声を出すとホテルの方がビクつくように飛び上がった。こっちに一礼すると、踵を返して部屋を出て行ってしまう。パタパタと逃げ出すような足音が聞こえた。


無理もないか、ピサの斜塔から落ちた奴が生きているんだから。俺だってそんな奴が目をさましたら逃げたくなるはずだ。でも今のスタッフは本当に若かった。下手したら中学生くらいじゃないかっていう年齢に見える。家族経営か何かで手伝っているのかな。


逃げ出したい、という言葉でふと我に返った。俺が落ちた下に人がいたとしたら多分巻き添えで助からなかっただろう。何か請求されるのか。斜塔のどっち側に落ちたのかによって被害が違いそうだけど、ニュースとかで取り上げられたらいたたまれない。保険外交員の母さんにこういう時こそ何か聞いておけばよかった。


頭を抱えているとドアが開いて、今度は黒っぽい服装に十字架を下げた初老の男性が入ってきた。俺が死んだと思って、誰か牧師様でもよんだのだろうか。しかし牧師様はみるからにホッとした表情で、死人が起き上がってびっくりした様子ではない。


「パウロ様、ご無事で何よりです」


パウロ様?聖人か誰かに祈っているんだろうか。

でもそれよりも驚いたのは、牧師様はイタリア語を話しているのに、なぜか俺が理解できていることだった。イタリア語なんてピザの頼み方を練習しただけだったのに。しかも理解できるというより、日本語みたいに自然と入ってくる。ひょっとすると、、、


「牧師様、ここはどこですか?」


やっぱり、口から出たのはイタリア語だった。しかも声が変わっている気がする。落ちた時の衝撃で頭と喉に何か異変があったのだろうか。だとしたら便利なショックがあったもんだ。


「ボクシー? こちらはピサで伯父様が懇意にしていた商人の家にございます。」


牧師様が首を傾げながら答える。やっぱりピサなのか。しかし伯父さんって浜松のおじさんのことだよな。ピアノメーカーで働いていた気がするけど、イタリアにまでコネがあったとは思わなかった。


「そうだ、家に連絡をしないと。先生や学校のみんなはどこですか。」


「ご無事だと先ほど伝令を出しました。先生やボローニャのご学友は実家に戻っている時期かと」


みんな日本に帰っちゃったのか。ボローニャに行くなんて聞いてなかったけど。


「伊東は?」


「イトー様、ですか。パウロ様のご学友は完全には把握しかねておりまして。」


確かに現地の人に質問してもわからないだろう。伊東は責任を感じてないといいけどな。そもそもインド人と俺のジョイントプレーのせいで落ちたんだけど、もし落ちてるところを見ていたらトラウマになりそうだな。


日本に帰ったら伊東に謝らないといけない。ただ俺がイタリア語しか喋れなくなってたらどうしよう。


「アイウエオ、カキクケコ」


喋ってみる。いける、声は変わっているけど日本語もちゃんと発声できる。でも牧師様がいよいよ不審な目でこっちを見てくる。


「パウロ様、大変失礼なことをお聞きしますが、、、」


パウロ様はどうやら精霊とかじゃなく俺のことらしい。


「羊の足は何本ですか?」

「4本です」


なるほど、気がおかしくなったと思われたみたいだ。確かに習ったこともないイタリア語を自分で話しているこの状況、気が狂ったと言われても仕方ない気もする。牧師様は続ける。


「空は何色ですか?」

「青です」

「旧約聖書でアブラハムが犠牲に捧げる息子の名前は?」


いや、急にレベル上げすぎでしょ牧師様。賞金が出るクイズ大会の難易度だよこれ。いくら牧師様だからってそんな身贔屓というか、日本人に分かるわけがないでしょう。それにうち仏教徒だぜ。


「四択でおねがします」

「四択?」


困っている牧師様をみているうちに、修学旅行中にフィレンツェで見た絵が浮かんできた。おじいちゃんが孫を殺す絵があったはず。あれは確か、、、


「イサク、イサクの犠牲だ」


美術館歩き回っただけで大してじっくり見ていなかったけど、まさかこの場面で役に立つとは。


「パウロ様、私も安心いたしました。」


いかにもホッとした様子だが、そろそろパウロ様呼びの真相を聞いても良いんだろうか。


「念のためもう一問、パウロ様の勉強具合を試させていただきましょう。」


牧師様はいたずらっぽそうにニヤついた。受験は来年だと思ってまだあんまり勉強してないけど、まあとりあえず日本の高校生の評判を傷つけないようにしよう。


「地球の周りを回っている惑星は幾つですか?」


私立文系コースの俺にはきつい質問だ。水金地火木、、、ん、地球の周り?


「一つ、月だけです」


自信たっぷりに答える。しかし牧師様の表情は硬くなった。「近頃の大学はなってない」みたいなことを呟いている。俺、まだ高校2年だし地学はやってないから許して。いやでも地球の周りを回っているのはどう考えても月だけだろう。


そうか月は惑星じゃないんだ。引っ掛け問題じゃないか!


「タイム、ゼロ、ゼロ」


「パウロ様、手紙には勉強に励まれている様子が書かれておりましたのに」


牧師様は悲しそうだ。初対面の日本人の学力にがっかりするなんて不思議な人である。とはいえ、深刻な雰囲気がない


「牧師様、俺にけがはありませんでしたか?病院には行ったのですか」


母に言わせると旅行保険の請求はかなり面倒らしい。領収書を持って帰らないと。


「ええ、気を失われたときは皆慌てましたが、幸い斜塔の2階からの落下でしたので、お命に別状はなかったのです。医者にも健康との診断をいただいています」


2階?頂上から落ちたと思ったけど。困っている俺を気にせずに牧師様は続ける。


「ところで、ボクシーとはなんですか?」


それを言ったらパウロって誰だよ、と突っ込もうと思ったけど、そういえばイタリアはカトリックだっけ。カトリックは牧師じゃないと誰かが言っていた気がする。司祭、だったか。でもそういう細かい呼び名はわからないし。


牧師様の顔が曇る。


「まさか、このテオバルドをお忘れですか?」


旅行中に宗教関係者にあった記憶はないけど、ピサの大聖堂を案内してくれた人だろうか。


「すみません、ちょっと記憶があやふやで」


牧師様はあからさまにショックを受けた顔をしている。


「パウロ様、今がなんの季節かお分かりですか。」


「夏ですよね」


そう、白シャツでも暑いのに牧師様は黒服は見ているだけでも暑苦しい。


「では今が何年かお分かりですか」


「えっと、2019年」


牧師様の表情がさらに曇る。


「どの暦を使われたかわかりませんが、今日はユリウス暦1301年の7月13日でございます。」


言い終わるのと重なるように、斜塔の鐘がなるのが聞こえた。


1301年、教会独特のカレンダーか何かだろうか。とりあえずもっと普通の人に応対して欲しいんだけど、市役所の人とかいないのかな。


「お疲れのようですから、ひとまずお休みください。」


牧師様が水の入ったボールを差し出す。何かゴツゴツして使い古された感じのボールだが、綺麗に磨かれている。


じっと映っている自分の姿を見てみた。顔にけがはないようだ。でも目が大きくなっている気がする。鼻が高くなったようで肌も綺麗だ。あと髪にウェーブがかかっている。美男子だ。


顔から落ちて整形されたのか。やたらハンサムだけど、でもこれじゃあどうみてもイタリア人だ!別人じゃないか!日本でどうやって暮らしていけるんだ。


「そうですね、眠らせてください。」


返事を聞く前に俺は倒れこんだ。


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