一瞬の
「あーあ、退屈だった」
誰よりも早くに口を開いたのがキエンだった。しかしその声も直ぐに湧いて出た喧騒に紛れる。さっきまで口元を縛られていた、言葉を止められない人形たちが、一勢に動き出したみたいだった。静けさというのは何も無い空間ではない。そこには口を開きたいという鬱憤、不満、欲望が渦巻いているのだな、ということを学んだ。
「それにしても長い入学式だったね」
ムエンは相当疲れているみたいだった。肩を落とし、キエンに寄りかかる。キエンはそれを華麗に避けたものだから、ムエンは支柱を失ったカカシのようにバランスを崩した。床に倒れ込んだムエンを見て、キエンがケラケラ笑う。向日葵のような声が辺りに響き渡る。空間は大勢の声で埋め尽くされているというのに、キエンはいとも簡単にその声を蹴散らしてしまう。すごい。すごいと思った。でも世界はわたしと同じ思考をしなかった。
「なんだあいつ、今年も黒の奴は問題児みたいだな」
それは新入生ではなかった。こなれた制服を身にまとった男子生徒が数人で群がっている。彼らは目を鋭くしてわたしたちを一瞥した。言葉を発した者が、一番わたしたちのことを長く見た。そして、地面に、唾のような黒い空気の針を吐いた。初めて見る空気の動きだった。
空気は地面と衝突すると、そのまま地面に沿って散らばり、やがて色を失くした。紛れもなく、誰かの空気だったもの。
わたしたちの周りに薄く、靄のように黒い空気が立ちこめはじめた。これは誰かのもの?紛れもなく、誰かの空気だったもの?
そうではない、という気がした。キエンやムエンの顔色が変わった。男子生徒たちも、今はしっかりとわたしたちに対峙している。見つめ合う、という行為に黒い空気がつきまとうことなんて、そんなことが、あるんだ。そんなこと……。
「ちょっと、さっきわたしたちのこと悪く言ったでしょ?」
向日葵は燃えていた。朽ちるのではなく、自らが火へと染まる。
キエンが固く握りしめた拳から、色んな色の空気が吹き溜まりになって流れたと思うと、行く場所を見失ったようにゆらゆらと飛んで行った。飛んで行くものは、様々な色だったのに、それはすぐ黒い空気に紛れて、見えなくなった。地面には汗が滴っていた、水。人から生まれ出づるもの。
「そうだ、お前らが周りの空気も読まずに騒いでいたからな、お前らが悪いんだぞ。よく見ろ、周りを。ほらな、みんなお前らを迷惑そうな目で見てるぞ」
いつしかわたしたち三人の周りを囲むようにして、一定の距離を挟んだ空間が出来ていた。群衆たちは空間の外側にいて、それぞれわたしたちを見ている。一人一人の瞳がやがて群衆という一つの瞳を作り上げているような、そんな錯覚に陥った。
それは一瞬だったかもしれなかった。それでも、わたしたちは群衆を見た。同じ瞳を従えた兵士たちを。
「おーい、一年黒組、どこだー」
チュウギの声が遠く、わたしたちを囲む空間に向かって矢を射った。空気がぱちんと割れて弾ける音が聞こえた。そうして分かれていた空間は一つになった。
「おい、お前ら今からホームルームだ。俺について教室まで上がれ」
わたしたちは一同にチュウギの瞳に従った。その場で、チュウギだけが群衆ではなかった。
それは一瞬のことだった。