「こいつ、動くぞ…!」
「う…ぐぬっ…うぅ…っ…」
一歩足を踏み出そうとするだけで、人の流れで外に押し出されそうになる。人々の押し合いへし合いと色んな香水の匂いに溺れて息ができない。
何故、たかがパンを買うためだけにこんなことになるんだ…。僕には到底理解できなかった。もはや、今回は何も悪くないパンに対して、訳の分からない怒りさえ湧いてくる。だが、ここまで来た以上、買わない訳にはいかない。僕は全体重を足に集中させて、また一歩踏み出した。
「はぁ…はぁ…皆んなそんなにパンが食べたいのか…理解できないな…」
踏まれたり殴られたりすったもんだあったが、なんとか無事に店内へとたどり着くことができた。
店内の様子は、外とは打って変わってとても静かで居心地が良い。明るい木目の色合いが、パンと良く合う。内接しているカフェで朝食をとってる人もいるらしく、珈琲の香りが鼻孔をくすぐった。
すると、店員の1人が僕に気がついたらしく、声をかけてきた。
「いらっしゃいませ、店内でお召し上がりでしょうか?」
振り向くと、うさ耳を着けた人間種の若い女性が、こちらに愛想の良い笑顔を向けていた。
「い、いいえ。今日はうさぎパンとフランスパンを購入しに…」うさ耳…まさか、ウサギベーカリーだからか?都会には、メイド服を着た女性店員たちが、自分のことをご主人様と呼ぶお店があると聞いたが…。もしや、此処はそんな店なのか?
「かしこまりました。ちょうど今から焼くので、良ければそちらの席でお待ちください」
「は、はい…」戸惑いながらも、店員さんに案内されるがままレジ横のカウンター席に座った。こんなハイカラなお店には馴染みがないので、あまり落ち着かない。最初は、うさぎ型の窓から外の喧騒を眺めたりしていたが、結局厨房をひたすら見て待つことにした。
厨房では目つきの鋭い寡黙そうな男が、火の焚かれた大窯と睨み合っている。まさに職人と言ったオーラだ。ほんのりと甘い香りが店内に漂い始める。
次の瞬間、男はカッと目を見開いて、素早く窯から鉄板を引き出した。
鉄板の上には、ウサギの形を模したパンが綺麗に並べられていた。
それに、女性たちがうさぎパンの目となるチョコレートを付けていく。
非常に手際の良いその動作に、店内の客は全員息を呑んだ。
そして最後に、男がキメ顔で七色に輝く粉を鉄板の上に撒いた。
「おぉぉ〜!」
マジックのような手際の良さに、店内でちょっとした歓声と拍手が起きた。だが、驚くべきはそこからだった。粉をかけられたウサギたちが、勝手に動き始めたのである。
「動い––– うわぁっ!?」僕は驚きのあまり椅子から転げ落ちた。
先ほど案内してくれた店員が駆け寄る。「だ、大丈夫ですか?」
僕は「ええ、なんとか…」と上体を起こした。
改めて観察してみると、開いた口が塞がらなかった。
文字通りのうさぎパン。長くピンと伸びた耳に、時折ヒクヒクと動く鼻とくりっとしたチョコの瞳。リアル過ぎて、正直食べるのは可哀想な気がする。
可愛らしく鉄板の上で走り回るうさぎ達に呆けていると、店員が声をかけてきた。
「見るのは初めてですか?」
「えぇ、はい。まさかあんなにリアルだとは…」
店員はクスリと笑うと、再び口を開いた。
「安心してください。素手で触ると魔法の効果が切れるようになってるので、動いたままのうさぎを食べることにはなりませんよ」
僕はその言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろした。流石に動いてるのを食べるわけないよね。
「でも…」
次々と袋に詰められていくうさぎ達を眺めながら、店員の言葉にに耳を傾けた。
「動いてるのを食べたいというお客様も居るみたいですよ」
「え…へぇ、それはまた奇特な方もいらっしゃるものですね…あはは…」
聞きたくなかったな…その情報…。
グロッキーな情報のダメージを食らって俯いていると、再び店員に呼ばれた。お会計らしい。
僕は購入額ピッタリにお金を支払うと、パンの入った紙袋を持って、再び喧騒の中へ飛び出した。
「ありがとうございました!またのご来店をお待ちしております!」背後の人混みから、先程の店員の声が聞こえた。
さて、あとは帰るだけ…ん?
その時、前方の下り坂で何やら人が一列になっているのに気がついた。
「なんだろう…」
これでは道が塞がって帰ろうにも帰れない。迂回していくか…と考えたが、振り向くとまた同じような列が道を阻んでいる。
どうなっているんだ?と困惑していると、列のうちの一人が前に出てきた。
サングラスをかけた、怪しい男だ。
男は僕の目の前まで来るとサングラスの下から鋭い目付きでこちらを睨んだ。
「お前が、ジュナか?」その声からは冷たい殺気が込められていた。