「ヴァイトとラックス、不穏な気配」
「なるほど、そんなことが…それは災難だったね」ヴァイトは、僕の渡したメモに目を通すと、ふむふむと唸った。「オレンジターメリックなら、ちょうど先日に入荷したのがあった筈だ…今取ってくるから、そこら辺にでも座っておくといいよ」そう言って、ヴァイトは書類でできた山の辺りを指差すと、店の奥へ消えた。
「は、はい、ありがとうございます…?」ところが、彼女が指差した場所には、椅子はおろか何も腰掛けられるようなものは無い。一先ず、邪魔にならないようにと、部屋の隅にある座布団に座った。
その時 ––– 、
「おい小僧、そこは俺様のスペースだ。勝手に使うんじゃない!」
「え、あっ、す、すみません!」
急に降ってきた言葉に、僕は弾かれたように立ち上がった。
「全く…近頃の若者はなっていないぜ。よっこいしょと…」声の主は、座布団に座ると、鋭い目つきでこちらを捉えた。
「ね…猫が喋ってる…!?」座布団の上でふてぶてしくこちらを睨んでいるのは黒猫だった。
「猫じゃねぇ、俺様にはラックスって言うちゃんとした名前があんだよ。覚えとけ小僧」ラックスは、その丸々と肥え太った体を揺らして言った。まるで焦がした餅みたいな風貌だが、妙な貫禄がある。
「は、はい!ラックスさん」僕が返事をすると、ラックスはうむ…と唸った。
「…ところで小僧、この街のフランスパンは食べたか?」しばらくの沈黙が流れた後、ラックスはその琥珀色の眼光を僕に向けた。
突然な上に単純すぎる質問で、僕はちょっと言葉に詰まる。
「え…あぁ、昨晩の歓迎会で頂きましたけど…それが何か?」
「いや、あれくらいの固さなら、武器くらいにはなるだろうと思ってな。お前、ちょうどパンも頼まれてるだろ?」
「は、はい…」さっき買う物のメモを見たのだろうか?
「念のためにも買っておけよ」なにやら忠告じみたラックスの言葉に、こくりと僕は頷いた。なんだかよくわからないけど、買っておこう。フランスパン。
すると、店の奥からヴァイトさんが戻ってきた。その手には、植物の葉が突き出た紙袋が抱えられている。
「おまたせ。おや、ラックスさんが知らない人に頭触らせてるなんて、珍しいね」ヴァイトは、僕に撫でられて喉を鳴らしているラックスを見ると、優しげな笑みを浮かべて言った。
「まぁな、ちょっと忠告しただけさ」
「また変な未来予知?千里眼だかなんだか知らないけど、この子はこの街に来たばかりなんだから、からかっちゃダメだよ?」ヴァイトに窘められるように言われたラックスはへいへい、と適当な返事を返した。
ヴァイトは呆れたようにため息をつくと、古びた魔道具のボタンを押した。
すると、その魔道具は小刻み揺れながら一枚の紙切れを吐き出した。ヴァイトはそれを見事に空中でキャッチし、書かれていたものを読み上げる。
「さて、オレンジターメリックと鴨ミール、ペッパーミント、漢方で…銀貨5枚になります」
僕は用意していた財布の中から、きっちり5枚取り出した。今まで持ったことない額に、少し手が震える。
ヴァイトは銀貨を受け取ると、毎度あり!と笑った。
お会計を済ませた僕は、薬草が入った紙袋をしっかりと携えてお辞儀をした。
「それでは、お邪魔しました」
店の中に広がる闇で、琥珀色が光った。「おう、フランスパン買ってけよ〜」
その奥でヴァイトが手を振る。「ギルドみんなによろしくね〜」
こうして、僕は"猫の帽子屋"を後にしたのであった。
♦︎
猫の帽子屋を出発した後、僕は再びマージ通りを訪れた。先程とは打って変わり、通りにはいつもの賑わいが溢れていた。
「ええと〜…パン屋、パン屋……あった!」緩やかな石畳の坂を登っていくと、目的地が見えた。可愛らしいウサギの描かれた看板が、煉瓦造りの店の屋根から吊るされている。
"ウサギベーカリー"
この街では知らぬ者がいない程、人気のあるパン屋だ。年に一度、お城にて開かれるパーティでは、毎年のように様々なパン料理を提供しているらしい。その為、ここで作られたものは半日も経たずに売り切れてしまうことが多い。
そして今日もまた、
「うわぁ…人多いな…」
まるで1つの生き物のような人集りが、店の入り口を覆い尽くしていた。
♦︎
その頃、マージ通りの路地裏にて
「兄貴、奴の居場所がわかりました」饅頭のように丸々と太った身体を揺らして、男は先ほど届いたスパイから
聞いた情報を彼の兄貴分に話した。
「くっくっくっ…かかったな……!」
それを聞いた兄貴こと、ガリウスは、不敵な笑みを浮かべて口元に手をやる。「野郎ども、今回の標的には厄介な用心棒が付いている。だが、ラッキーなことにそいつは今日は休みらしい!これは今しかないチャンスだ。絶対に逃すんじゃねえぞ!」
その言葉に、周りにいる数十人の荒くれ者たちが、それぞれ賛同の唸り声を上げた。
これから、その身にどんな危険が振り返るか、標的はまだ知らない。