妖精姫、パン屋さんでアルバイトをする①
明けましておめでとうございます。
のんびり更新の本作ですが、読んで下さる皆様ありがとうございます('◇')ゞ
今年もちまりちまりと書いていけたら良いなぁ。
「こんにちはーっ……って、あれ?」
薫風香る初夏のある日。
セレスティアは友人と連れ立ってやってきた馴染みのパン屋の前で、開かないドアに困惑した。
セレスティアは侯爵令嬢であるが、かなりの庶民派である。
侯爵令嬢であるだけでなく、皇太子殿下の婚約者―――――つまりは次期王妃予定なのであるが、城下町の常連だ。
王立学園からの下校には紋付きの馬車を使うが、必ずと言って良い程街に立ち寄り、そこここの屋台や大衆向けの店に顔を出す。
侯爵家のシェフが腕を振るう豪華な料理は勿論美味しいが、屋台や大衆料理屋などで供される料理も美味しいし、パン屋や菓子屋、総菜屋で売られている物もそれぞれに美味しくて通うのをやめられない。
そんなだからセレスティアは、街中でも顔を知られている。
初めは変わり者のお貴族様のオジョウサマとして遠巻きにされていたが、今はもう馴染みの「姫様」だ。
侯爵家の姫君であるのに、小さい頃から見守ってきた近所のお嬢ちゃん並みに可愛がられている。
それだから、開かないパン屋のドアの前で困惑しているセレスティアに当たり前のように隣のジュース屋の女店主が声を掛けた。
「あら、姫様。今日はジャンの店は休みですよ。というか、暫くは開かないでしょうね」
「ええ!?どうしたの?何かあった?」
驚くセレスティアに、女店主は苦笑交じりに返す、
「大した事じゃありませんよ。ちょいと女将さんがぎっくり腰になっちゃったみたいでね」
ジャン一人じゃあ店の切り盛りまでは出来ませんからねぇ、と、続けるジュース屋の女店主に、なるほど、と、セレスティアも納得した。
パン屋の店主のジャンは、職人気質といおうか、ともかく焼き上げるパンは絶品なのだが、愛想というものがとんとない。
それを補って余りあるのが女将さんだ。
その女将さんがぎっくり腰ときては、ジャンも店を開きたくても開けないだろう。
「お見舞い……しても迷惑じゃないかなぁ」
「あら、むしろ喜びますよ。何ならお土産にうちのジュースなんてどうです?」
「ぎっくり腰に効くジュースってある?」
「それは難しいですねぇ。でも、女将さんの好きなジュースは知ってますよ」
「じゃあそれください!お土産にするわ!」
「毎度あり!」
意気込むセレスティアが可愛くて、クスクスと笑いながらジュース屋の女店主はメロンのジュースを用意した。
パン屋の女将は立ち仕事が多くて疲れる所為か、殊更甘いメロンのジュースが好きなのだ。
お気に入りのセレスティアが見舞いに来てくれただけでも喜ぶだろうが、ジュース付きならそれも倍増するだろう。
「やだわぁ、セレスティア様にミナお嬢さんにまでご心配をお掛けしてしまって……」
「おば様、腰を痛めてしまったと聞いたけど大丈夫なの?」
「これ、良かったら使ってください。うちの店で取り扱ってる湿布薬です」
ミナが差し出した包みから、少しだけツンとしたハーブの香りが漂う。
「ありがとうねぇ。全く、粉の袋を持ち上げようとしてぎっくり腰になるなんて、パン屋の女将失格だねぇ」
あっはっはと笑い飛ばす女将は、笑った衝撃で痛みが走ったのか、あいたたたと背中を押さえた。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫と言えば大丈夫ですよ。悪い風邪に罹ったわけでも、骨が折れたわけでもないですし。まぁ一週間も経てば治るでしょうけどねぇ」
その間、店が開けられないのがねぇ……と、ほうと女将は溜息を吐いた。
旦那一人ではとても店の切り盛りは出来ないことは長年連れ添っているだけあって分かっているのだ。
「パン屋さんは一週間お休みかぁ……」
「残念だけど、仕様がないわよね」
「悪いねぇ。そういえばお二人とも、今日はパンを買いに来てくれたのかい?」
女将の問い掛けに、二人はこくりと頷いた。
「そうなの。今日は学園が午前中だけだったから、おば様のお店のパンを買って、公園でピクニックをしようと思って」
「おやまあ、それは悪いことをしちゃったわね」
申し訳なさそうに謝る女将に、セレスティアとミナは首を振った。
***
「あーあ、おば様のお店のパンも暫く食べられないのかぁ」
「一週間だけだけど、これが食べ納めね」
そう言って、ミナが丸パンを一つ口に運んだ。
焼き立てではないがふんわりとしたミルクの甘みが口に広がる。
パンは今日の朝に店頭に並ぶはずだった物を見舞いの礼だとジャンが詰めてくれたものだ。
今日はそういう気分でもなくなってしまったので、公園でピクニックは取りやめにして、ニゲラーテ家の庭でセレスティアとミナは向かい合ってパンと紅茶を味わっていた。
ちなみに、二人の前にはパンと紅茶の他に、教科書とノートも広げられている。
セレスティアは極力それらから逃げたかったが、ミナが許してくれなかったのだ。
ミナはプリムジア王国でも有数の商会であるベルギア商会の娘である。
兄二人が既に家の手伝いをしているが、ミナもまた学生ながらに賢く、少しではあるが家を手伝っており、社交界でも才女と知られている。
栗色の肩より少し下くらいのウェーブヘアーに瞳と同じ翡翠色のリボンがトレードマークの少女だ。
賢いだけではなく剣技も得意で、小さな怪我くらいであれば治せるだけの聖術も操れる。
身分はセレスティアの方が上であるが、ミナはセレスティアの憧れであり、自慢の友人の一人だ。
今日、何故学園が午前のみなのかというと、明日にテストが控えているからだ。
日頃から予習復習をきちんと行っているミナは問題がないが、セレティアに関して言えばお察しである。
初めからピクニックの後にはお勉強会が控えていて、ピクニックを取りやめたとなれば繰り上げてそちらがやってくるのは当たり前と言えば当たり前だった。
「おばさまは腰を痛められてしまうし、パンは暫くお預けだし、明日はテストだし……あーあ」
「気持ちは分かるけど、テストで補修になったらお店が再開しても買いに行く時間がなくなるわよ」
「うう、分かってるわよぅ……」
だからこそ、お勉強会なんてものを計画したのだ。
本当に、ほんとーっに嫌だったけれど、背に腹は代えられない。
セレスティアだって、補修で街に行けなくなるのは何が何でも避けたかった。
「でも、でもね、ミナちゃん」
「うん」
「私、算術は大の苦手なのよおぉぉぉ」
開いた教科書に整然と並ぶ(セレスティアにとっては)意味不明の公式達。
世の中、足し算と引き算が出来ればどうにかなる筈なのに、それで許してくれないのが学園だ。
いや、掛け算と割り算もどうにかしようぜとは余人の思うところであるが。
ともかくセレスティアは勉強が苦手、中でも算術は絶望的なのである。
「そうは言ってもね、セレスティア」
「……言わないで」
「いいえ、言うわ。この間の小テスト、いくら何でも12点はないでしょう、12点は」
ミナが言うのは入学後数日で行われた小テストのことだ。
通常、貴族の子は入学前に家庭教師が付いているものであるし、裕福な商家の子も似たようなものである。
当然セレスティアにだって家庭教師は付いていた。
身に付いていないのはどこまでもセレスティアが勉学に疎いことと、それ故に幾度も逃亡を企てたからに他ならない。
姉のレビオラが何度諫めようと聞かなかったのだ。
セレスティアは勉強と書いて敵と読む程にはとことん勉強が苦手だった。
なお、12点は100点満点中の12点であることを付記しておく。
「あら、貴方達何をなさっているの?」
「お姉様!」
艶やかな銀糸の髪を靡かせて現れたのはレビオラ・ニゲラーテ。
セレスティアの姉だ。
切れ長のガーネットの瞳は燃えるような赤なのに、彼女自身を色に例えるなら氷の透明さを思わせる。
「お茶会……いいえ、お勉強会かしら?」
「い、一応?」
「はい、明日は小テストがありますので」
集中していないことが後ろめたいのか、口ごもりながら答えるセレスティアに代わって、ミナが答える。
「そう。勉学に励むのは感心ね。……ところで先ほど、『12点』という言葉が聞こえたのだけれど?」
「げっ」
「セレスティア、淑女が何という言葉遣いをするのですか」
「ご、ごめんなさいっ」
「ミナさん、前回の小テスト、セレスティアの成績はどうだったのかしら?」
確か王立学園では入学して少ししたら小テストが行われるのよね?と、にっこり微笑むレビオラの背後にセレスティアとミナは雪吹き荒れる氷河を見た。
お勉強、頑張ってね?
そう言って立ち去ったレビオラに、セレスティアはがっくりと肩を落とした。
「上手く隠せたと思ったのになぁ」
「悪いことはバレるものよねぇ」
12点の小テストは実はこっそり隠蔽したのだ。
見られたら怒られるのは必至と、チェストの鍵の付いた引き出しに仕舞い込んだ。
知っているのはエドワードとミナだけだけど、後でレビオラに提出を求められるのは間違いない。
レビオラはどこに出しても恥ずかしくない、令嬢中の令嬢だ。
美しく賢く、凛とした背に憧れる令嬢も少なくない。
セレスティアにとっても自慢の姉なのだが、一つだけ苦言を呈したいところがある。
誰に言っても苦笑一つで終わらせられてしまうのだが、
「お姉様……だからどうして母上ポジションなのよぉ」
そう、レビオラは姉というよりも母のような立ち位置でセレスティアの教育に余念がないのだ。
実の母も健在だが、こちらはおっとりと、セレスティアのことはレビオラに任せておけば安心だと考えている節がある。
厳しいばかりでなく優しく愛情深い姉ではあるが、如何せん、細々と世間の母親のように口煩い。
ミナもこれには緩く笑うしかない。
幼い頃から出入りの商会の娘としてニゲラーテ家に足を踏み入れていたミナだが、本当に子供の頃からレビオラのセレスティアに対する態度は姉を通り越して母と云うに相応しいものだったのだ。
勉学は勿論、行儀作法に芸術科目、エドワードとセレスティアの婚約を実の親を差し置いて最も喜んだのもレビオラだった。
当時は王家と縁続きになって嬉しいのだろうと子供ながらに思ったものだが、ニゲラーテ家との繋がりが深くなるにつれて、それも何だか違うように思えてきた。
何と言ったら良いのか分からないが、レビオラは王家と縁続きになることで、ニゲラーテ家の更なる発展を目指している訳ではないように思えるのだ。
では何故エドワードとセレスティアの婚約を喜んだのかと言われると難しいのだが、レビオラは本当にただ純粋にエドワードとセレスティアが結ばれることがセレスティアの幸せだと信じている節がある。
二人が結ばれる姿を見ることが自分の一番の夢なのだと、何かの折に、それこそ母のような表情で語られたことすらあるのだ。
本当に、まるでセレスティアの母のような姉なのだ。
ちょーっとシスコン気味よねぇ、とは、ミナの心の声である。