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掌少短篇集

神は見えざる手

『その日の午後、殺人事件発生の通報を受けたドゥヌリッブ警察の刑事レオは、ある思いを持って現場に向かい、そして到着すると、先に付いていた後輩刑事クリスへ向け、忌々しげにその思いを口にした。

「おいおいクリスよ、またか、またなのか?」

「嗚呼、先輩。そう、見ての通りに。嫌になりますよ、こんなのが何度も何度もなんて」

 彼等が今居るのは、郊外に広がる平野だった。ドゥヌリッブを支える主要産業は工業で、街の外側には無数の工場や倉庫が並んでいる。ここも本来であればその一つなのだが、しかし計画が頓挫したとかで、数年前から看板だけが付き立てられている侘しい場所だ。所有している筈の何とか言う企業が全く手入れをしないものだから、雑草が伸び放題生え放題である。草原と言った方が的を射ているだろう。

 その予定地である草原は、しかし恐らくこれからも予定であり続けるだろう。二人の刑事は腕を組み、顔を顰めながら、今自分達の目の前にあるもの、看板の上に乗っているものを見つめた。

 雲一つ無い晴天の下、苦悶の表情を示す若い男の頭が置かれていた。首から上だけであり、その下、胴体は無い。周りにも転がっていない。それだけならば唯のバラバラ死体……バラバラ死体が唯なのかの是非は一先ず置いておくとして……なのだが、しかしそこには、幾つもの奇怪な特徴が見受けられた。

 一つ目は傷口である。まるで最初から胴と頭が離れていた様にすべらかな切断面をしている。傷と言うのも躊躇われる程だ。血も綺麗に拭かれていて、汚れ一つ無い。二つ目は毛だ。髪から髭、眉、果ては睫に至るまで、全てが無くなっている。剃られた後も無く、赤子の様な肌をしていた。その肌も奇妙な点の一つだ。まだ正確な死亡推定時刻は算出されていないけれど、しかし発見者が警察を呼び、その警察がやって来るまでの間、少なくない時間が経っている筈である。にも関わらず、この死体には腐敗が見られない。今日の様ないい天気では、考えられぬ事だ。加えて蟲もたからぬとは、一体どういう事なのか。

 レオは眉間に皺を寄せながら、物言わぬ男と睨み合った。驚きと怯えに満ち溢れたその表情は、熟練の刑事として見慣れたものであり、死者の顔にも相応しいものであるが、不気味な事に代わりは無く、そしてどれだけ見ていようと、真相を語ってくれはしない。

 そうして彼が溜息を付きつつ目線をずらすと、クリスを介して部下が報告して来た。先程連絡があり、首無しの死体が発見された、と。それも、ここから何キロも離れる都市部にて、胴の無い首と似た様な特徴を持って。レオは、もう一度深く息を吐くと、おお神よ、と嘆いてから、こう呟いた。

「一体これで何度目だ? 何度目で、そして、何が起こっているんだ? この街で、このドゥヌリッブで」


 その言葉に応えられる者は彼も含めて誰も居なかった。誰も、ドゥヌリッブに住む者全てがレオと同じ疑問を抱え、解答を求めながらも知る事が出来ずに、次は自分が襲われるのでは無いかと震えている。

 それ程までにこの不可解なバラバラ殺人事件は頻発していた。元来は平穏極まりないこ街で。皆が何時より起きていたのか忘れてしまう頃から、何人が殺されたのかに興味が持てなくなるまでに。

 現場は都市のあらゆる場所であり、被害者はあらゆる階層の市民だった。全ては無秩序で法則性など殆ど無い。あると言っても死体の状態と、そして全員が、死体として発見されるまで行方不明であった事位だ。その死体や現場から、証拠になる様なものは一切出ておらず、犯行読み取れる事も、加害者が狂人か愉快犯かの程度である。詰まる所、犯人への手掛かりすらも無く、今に至っている。

 そもそも方法が解らない。穢れの無い二つの屍を、遠く離れた場所へ置き捨てる、それも素早く大量に、誰にも気づかれずに隠れ、隠れる事すら隠して行う手段。一体どうやってそんな事が出来るというのだろうか? もし仮にあるとして、それが可能な人間が、人間達がこの世に居るのだろうか? 本当に?


 ドゥヌリッブの警察署まで戻るパトカーの助手席で、レオは過去何度も考えた問い掛けを自分にしていた。彼以外の多数が挑み、そしてしくじっていったそれの解は、やはりこの度も得られない。苛立ち、貧乏揺すりが起こり出す。運転するクリスがちらりとその方を見たが、何も言っては来なかった。

 と、その時、ふいにパトカーが停止した。慣性によって前に倒れ掛けたレオは、舌打ち一つして、

「安全運転はいいが、行き成りは困るぜクリス。今度は一体何だってんだ」

「先輩、あいつらですよ。また、とも付けたいですがね、アルトゥフの連中です」

 ブレーキを踏むクリスが首で促す方を向く。正面、都市を抜けて隣街まで直走る道路の先に人だかりが居た。白衣の様な、フード付きの白いローブ姿の一団で、子供の様に甲高い叫び声で何事か言いながら、手に手に持ったプラカードを振いつつ、こちらへと向かっている。白いキャンバスには派手な色彩と激しい書式で、終末論を謡う過激な文句が刻まれていた。

 アルトゥフは科学を信奉するカルト的な一派だが、純粋な科学者では無い。彼等は科学という学問を教義として神を崇める宗教家達である。元々無神論的に世界を理解しようと邁進していたが、学道を究めた結果、皮肉な事に神を信ずるより他なくなってしまったらしい。曰く、世界を構成する究極の原子はブロック状の形をしており、それらが積み木の如く重なって全ては造られている。その原子を生み出し、組み立てていったのが、神だというのだ。無論、レオを始めとする多くの市民達はそれを世迷言と捉えている。自分がブロックであり、神に組み立てられたなどと、何処の誰が信じられようか。

 しかし最近は違った。あの事件が規模を増させるにつれ、彼等の数も増えていっている様なのだ。今パトカーを通り過ぎて行くローブの者達の数は、百を裕に超えているし、彼等が訴えている事も、事件が神の仕業であり、遂に愚かな人間達へ罰が下されているのだと主張している。確かに、そう叫びたい気持も解らなくは無い。あのバラバラ殺人事件には理解出来ない事が多々あり過ぎており、レオとて人間の犯行なのかどうか、半信半疑であるからだ。

 だが同時に彼は、その様な存在を認めてしまう事を逃げだと考えている。何せ相手は天地創造の主だ。彼の名を出して、説明出来ぬ事などある訳が無い。余りに安易な思考だ。事件を、謎を追う者として、相応しい態度では無いだろう。少なくともレオはそう思った。遠い昔、彼がまだ少年だった頃に成りたいと思った警察の姿ではあるまい。彼は顎鬚を弄りながら、アルトゥフが去った道を見つつ、

「クリス、クリスよ」

「何ですか、先輩」

「神様だ世界の終わりだなんて、何時だって誰だって言える生易しい言葉だ。そうは思わないか?」

 クリスもまた正面を見据えるままに首を縦に振る。

「えぇ、その通りです先輩。だからこ僕達がするべき事はたった一つ、」

「黙って事件を追う事、だな。嘆いて叫んで悪かった、さぁ車を出してくれ」

 そして踏み込まれたアクセルはパトカーを、二人の刑事の職場へと運んでいった。


 けれども、たかが一刑事の一人や二人が交わした意気込み程度で事件が解決する様であるならば、ここまで困難な展開になる筈も無かろう。レオとクリスが決意を新たにして捜査に乗り出したのをまるで嘲笑うかの如く、死体の数は増えて行った。事件は時を置かず一日に何度も起こる様になり、そしてその内容も、例えばドゥヌリッブの両端と中央に、首、胴、果ては脚に分けられて置かれるといった風へ、より複雑怪奇なものへと転じた。死体置き場は人体を構成する部品で溢れ返り、違う人間の部位が一緒に安置され、解剖の時まで気づかれなかったという笑えぬ笑い話まで広がっている。別の話では、切り離された幾つもの首が、まるで塔の如く積み上げられていたというのもある。これに関しては眉唾である事が解っているが、その噂の中には、見えざる怪物が人々を中空へ攫って行くのを見たというものまであり、実しやかに信じられているのだから始末に終えない。

 この様な状況には、レオを始めとする警察も流石に弱っていた。皆、署か家か酒場に篭り、頭を抱えて悩んだ。何せ調べに行って解る事など、事実確認以上の何者でも無いのだから、やる気が出ないのも当然である。彼等の職務は急速に、死体片付けと愚痴を垂れる事へと集約されていった。

「畜生、畜生め。何処のどいつだか知らないが、一体何のつもりでこんな……」

 己が嘆きを悔いたレオも、呟いて爪を噛むばかりである。先輩のそんな姿には後輩も黙るより他無い。

 そして署の前の道路は、今や数百人規模へと達したアルトゥフの行列で埋め尽くされていた。誰にも邪魔される事無く、行進の中で市民を取り込み、白い軍勢は神の裁きを唱えて歩いて行く。


 こうして物事が悪い方へ悪い方へと流れるだけの日々が幾日か経過したある日の朝、自室で浅い眠りに付いていたレオは、外から響き渡る凄まじい怒号によって飛び起こされた。

 慌てて窓辺に駆け寄り、外を見れば、アパートメントの三階にあるそこから、狂乱して逃げ惑う市民達の姿が見えた。彼等は言葉になっていない言葉を吠え立て、それにも負けじと辺り構わず駆けずり回っている。走っている最中、前を見ていないのか、他の者達にぶつかる事があったが、しかし誰も気にも止めず、ただただ無作為に往来を行き来していた。

 よくよくと眼を凝らすと、道に居るのは狂人だけでは無い。アルトゥフの特色である白いローブを着込んだ者達の姿もあった。だがそれより目に付くのは、今や馴染みとなったあの死体である。頭、胴、脚、そして何故か両腕と、計五つにまで分けられてしまっているが、確かにレオがその謎を求め、挫折しかけていた者が、いや物達が、平然とその辺りに転がっていた。幾つも、そうだ、幾つもだ。

 レオは強烈な眩暈と共に嘔吐感を覚え、思わず片手で口を押さえた。何が起きているかは全く解らない。だが何かが起きている。恐ろしい事が、世にも恐ろしい事が、自分が危惧した以上の災いが、見えなくも確かな形となってこの街を襲っているのだ。このドゥヌリッブを。

 その時、彼の背後で甲高い鐘の音がした。急ぎ振り向くと枕元で携帯電話が鳴っている。

「も、もしもし、もしもしっ」

「あ、嗚呼っ、良かった出てくれたっ。先輩、僕ですっ、クリスティアンですっ」

 画面表示も見ずに飛び出れば、愛しの後輩の声が耳に届いた。レオは漸く人心地付いた思いで息を吐き、だが直ぐに我に帰れば、今でもまだ聞こえる外からの声にも負けぬ大声でこう叫んだ。

「クリスクリスっ、どうしたんだこれは何の騒ぎだっ、朝起きて見たらこうなっていたぞっ、まるで世界の終わり、いやそんなのは認めないが、だが、だが何がっ、何が起きてっ」

「落ち着いて落ち着いてください先輩。いいですか、テレビです。テレビをつけてくださいっ」

 自身決して落ち着いてはいないクリスの声に付き従うと、レオはテレビに張り付く。即座に電源を入れると、映し出されたのは何処ぞの議会場、そしてそこで大演説をしているアルトゥフの姿だった。

「あいつらついにやりやがったんですよっ。電波を奪ったんです、どのチャンネルも、ずっとキアクだかクアキだかいう親玉が映ってて、気違い見たく喋ってるんだっ。外の大騒ぎはその所為です、手に負えたもんじゃないっ。今そっちへ向かってますが、何時付くか嗚呼、もう畜生、またはねちまった……」

 電話の向こうでクリスはそう悪態を付き、そして気付けば既に電源は切れていたのだが、その時既にレオの眼中から、後輩の存在は掻き消えていた。周囲の喧騒も。あるのは唯二つ、呆然とテレビを見つめている自分と、そしてそのテレビの中で同じ事を繰り返し叫ぶアルトゥフの首領キアクの姿である。


「市民達よ、このドゥヌリッブ、いやこの世界に住む唯一の住人達よ、落ち着いて聞いて貰いたいっ。いやこの事実は、そうだ、私がこれから語るのは紛う事無き事実だが、それは君達にとってとても受領出来ぬ代物だろう。だが今はただただ黙って聞いていて貰いたいのだっ。その真偽を定めるのは後に任せ、私の話を聞いて貰いたいっ、このキアクの、唯一絶対にして無二たる言葉をっ」

 目深にフードを被った壮年の男は大仰な身振り手振りでそう言うと、両手を広げて続けた。

「我々は、日頃から学問の道を求めてきたっ。大科学の礎を胸に、狂いなき観察眼を持って、深く、広く、そして大きく、この都市を、この世界を、そして神の御姿を捉えんとした。そして遂にっ」

 遂にっ、ともう一度いい、キアクは両手を高々と頭上に挙げ、

「私は、私達は、究極の原子、この世界の遍く全存在を構成する、物質の最小単位を発見したのだっ。これは我々の弛まぬ努力と、そして何よりも神の啓示あってのものであるっ。そうだ住人達よ、君達が殺人と称し、恐れ戦いていた事象は、我々に真実と、そして終焉を知らせる神の教えであったのだっ」

 言い終えたと共に、ぱっと彼の上に何かの写真が表示される。おぼろげで、不鮮明なそれは、だが良く良く眼を凝らすと、長細い正多面体を拡大したものの様に見える。そこには無数の凹凸に似たものもあり、そしてその凸部分には、アルファベットと捉えられる四つの文字が見受けられた。こちらに至っては、本当に掠れてしまい、何と書いてあるかは解らない。

「ここにある写真こそ、我々がかねがねブロックと呼び、探し続けてきたものに他なるまいっ。神を信じぬ愚か者どもが屍を通して、我々がこれを発見せしめたのであるっ。見るがいい、ここに刻まれた四つの文字こそがその証明であり、神の言葉に他なるまいっ。その意味は、こうだ、『組み立てよ』っ」

 キアクの感極まって放たれた言葉に、レオは幾つもの事柄を思い出した。アルトゥフが唱えていた思想。積み重なる究極の原子。そして苦笑いで応えていた、別々の部位なる死体。

「だが、成る程、今映像で見せているこれだけでは証拠としては不十分と言わざるを得まいっ。なればこそ、我々はこの原子より導き出されたもう一つの真実を語ろうっ。その衝撃はこれまでの非では無く、真実を知ると同時に正気を失う者も居るだろうが、しかし啓蒙を促す者としてあえて言わせて貰おうっ……ずばり聞く、今これを見ている住人達よ、君達に幼い頃の記憶はあるかっ?」

 これは扇動だ、熱に浮かされているだけだ。レオはそう考えたが、しかしその声は小さく、掻き消える程のものであり、彼は言われるがままに記憶を辿ると、忘却へと手を伸ばし、伸ばそうとして愕然とした。

 無いのである。記憶が、子供の頃、少年の頃、青年の頃の事が、無いのである。思い出せないとか忘れただとか、そんなレベルでは無い。本当に、完全に、情け容赦無く、記憶が存在しないのだ。

 レオは脂汗を垂らしながら、必死で頭を振るった。だが駄目だ。何も出て来ない。

 例えば、自分は何故警官に成ろうと思ったのだろう。確かに、成ろうとは思った。考えた。だが、何故? 何を持って、自分はそう成ろうと欲したのか? そこに至る過程が出て来ない。成ろうとかつてのレオ少年は願った、その言葉だけが頭の奥でぷかぷかと浮いている様な印象である。

 そうしている間にも、キアクの言葉は続く。冷酷に、冷静に、言葉だけは更に煮え滾って。

「出て来ないだろうっ? 何も、どう足掻いても、何も出て来ないだろうっ? そんなのは沢山ある筈だっ。例えばドゥヌリッブとは何なのだ? 工業都市というが何を造っているのだ? 郊外にある空き地は、何時になったら再開発されるのだ? 所有者の企業とは何という名前なのだ? そして何時からだ? あの地が空き地なのも神の啓示が始まったのも我々が産まれたのも今生きているのも、一体何時の頃からなのだっ? それら一切が忘却されたとしても、何故記録にすら残されていないのだっ? 上げてゆけばきりが無く、君達は不安になるだろうっ。だが案ずる事は無いっ」

 そこで言葉を切ると、狂科学の担い手は何とも言い難い表情で自身を示し、

「私もだっ。私も、何故、どうして、アルトゥフなる団体を造ったのか思い出せないっ。そもそもアルトゥフとは何だ? この言葉は何処からやって来たのだ? どういう意味が存在するのだ?」

 そして沈黙。だが、それも少しの間で、

「まるで解らないっまるで最初からあったかの様だ……だが、正にそれだっ。最初からあったのだっ。我々が産まれた時、その瞬間から、意志は、言葉は存在したのだっ。それを示す証拠はブロックにあるっ。我々は、それを巧みに観て行く中、この原子が、殆ど傷を持たぬ事を見つけたっ。最初はそれが何を意味するのか解らなかったが、存在しない記憶と記録を知った時に理解したっ。我々は、造られて新しいのであるっ。我々は歳月を経ておらず、既製品として放たれたっ。この世界、数多のブロックが織り成すこの世界は、私も、君も含め、神の工場で設計され、製造されたのだっ。その他に何者も存在しないのだっ」

 キアクはそこまで言い切ると、険しくなった呼吸を整え、そして最後に、偉く冷静な口調で、

「……私の言葉を信じるも信じぬも君達の自由である。だが、記憶の在り処と神からの宣告を如何に説明するというのか? 否定の言葉を叫ぶのなら、私に説明して欲しい……そうだ、教えてくれっ、頼むっ、本当はどうなんだっ、神は一体何を持って我々を造り、放ち、そして滅ぼそうとして、」

 いるのか。恐らくそう告げようとした言葉は、だが紡ぐ事は出来なかった。その瞬間、何か、不可視の力が加わり、彼の体が分解を始めたからである。悲痛な叫びが上がった。耳の奥へ、何にも増して鮮明に残る悲鳴だ。それが完全に途切れる前に、キアクの首は胴より離れた。血は出て来ない。続いて体毛が霧消し、脚が取れ、腕が飛び、彼を映していたカメラにぶつかって、それを転がした。

 暗転。

 次には空きチャンネルの砂煙が舞い起こり、やがては蘇った教祖がまた叫び始める

「市民達よ、このドゥヌリッブ、いやこの世界に住む唯一の住人達よ、落ち着いて聞いて――」

 そんな余裕は彼にはもう無かった。気付いた時には、レオは外に出ていた。着るものも着ず、取るものも取らず飛び出した彼は、先程上より見下ろしていた狂人同然の格好と言えるだろうけれど、しかし実際の所、今の彼は狂人であり、また正気の人でもあった。あんな言葉を聞いて、誰が正気で居られるのか? もし居られるとするならば、それは狂人に違いあるまい。

 と、同時にレオは悟った。市民達は、先のキアクの一世一代の演説に急かされ、意味も無く走っているのではないのだ、と。今、自身がその一員となってはっきりと解った。眼が冴えた様に。

 彼等は逃げているのだ。アルトゥフの団長を襲った脅威から。窓辺に居る時は見えなかったが、市民達は次から次に何かに捕まえられ、捻られ、引っ張られ、のたうちながらバラバラにされている。

 アルトゥフの団員に至っては最初扇動しているのかと思ったが、そうでは無かった。彼等は祈っているのだ。終わりを謡っていたにも関わらず、土壇場になって生を祈っている。神様どうか助けてください神様、と。だが駄目だ。彼等が教えと言った行為は、彼等もまた巻き込み、そして分解して行く。

 レオはただ呆然と立ち尽くしていた。どうすれば良いのかさっぱり解らないでいる間に、目の前を泣きながら走っていた少女が捕らえられ、そして中空へ上がりながらに分けられている。次は我かも知れぬのに、それすら他人事の様に見ていた時、市民達を跳ね飛ばして一台のパトカーが彼の前へと止まった。

 先輩っ、と叫んでクリスが扉を開ける。その言葉に我を取り戻したレオは、急いで助手席に飛び乗った。

「良かった、間に合ったみたいですね。怪我も無くて、一安心ですよ、先輩」

「あ、あぁ、どうにか、な……それよりお前はどうなんだクリス」

「何がですか?」

 クセルを全開にして突っ走る後輩の瞳を、レオは不安げに見据えた。この青年は、どうしてこうも平然としてられるのか? 或いは本当は逆に、すっかり狂ってしまった後なのでは無いか?

「何が、って……お前は聞いていたんじゃないのか、あの演説を?」

 自分で驚く程怯えた声を発するレオに、クリスは、嗚呼あれですか、と鼻で笑って言う。

「くだらない狂信者の戯言ですよ。真に受ける方がどうかしてるんだ。それより僕達は刑事なんですよ? だったらやるべき事がある筈だ。まだ正気がある人達はとっくに都市の外へ向かっています。残っているのはろくでもない奴等だけです。敵が襲ってきているのは確かで逃げなくちゃいけない。僕達警察官は、そんな彼等の為に戦わなくちゃいけない、違いますか?」

 レオはその台詞を、クリスが瞳に宿った光を見つつ聞いた。そして解する。

 この男は何も解っていない。目の前に広がる事象に対して経験だけを物差しに図る空想力の乏しい相手だ。つまりは若造なのだ。あやふやな足場の中、培われた職務という熱意だけで強弁に立っている。阿呆である。だが、羨ましい。揺らがぬ馬鹿は何と幸福だろう。仮令、今走らせているパトカーが、守るべき筈の市民を敵よりも早く轢殺しているのだとしても、自分の意思が前にはちっぽけなものなのだ。

「……そうだな、いや俺が悪かった、その通りだ」

 だからこそ、今はこの青年に縋ろうと、レオは頷いた。彼の中には、もう行動の火種は残っていない。

 そしてクリスが走らせるパトカーが、邪魔な障害を次々に弾き飛ばし、それを何かが掴んでは契る中、二人はビルとビルの間、隣町へ至る(のだと思っていたが、しかし実際の所どうなのだろう? 誰か一人でいい、隣町へ行ったという者は居たのだろうか? 誰も知らない)という道路を駆け抜けようとした時、その眼前、建物が消える都市と外との境界線上で、異変が起こっていた。

 成る程、後輩が言った様に、そこには既に逃げ出して来た市民達が居た。だが誰も先に進もうとはしない。自動車であれ徒歩人であれ、誰も、だ。逆に都市部へ戻ろうとしている者まで居る。

 疑問は直ぐに解けた。レオ達の前で、次々に自動車が中空へ浮かび上がっているのだ。クレーンで吊られている様な、だがそんなもの等存在せぬ虚空へと急速に上がったそれは、呆気に取られている間に、中の市民ごと、五つ以上のパーツとなって、再び地面へと舞い戻って行く。

 その様子に、レオもクリスも言葉無く、ごくりと唾を飲み込む。と、横の方から轟音が上がった。さっと首を振れば、何階層もありそうなビルの群れが次々に倒壊している。強力極まりない力が側面の壁に叩き込まれたかの様に見えたビルは、一度身震いすると、無数の瓦礫と化して落下して行く。

 どうやら神はてっとり早い方法を選ぶ事にしたらしい。

「な、何という事だ……」

 レオは思わずそう呻いた。今や彼の中で事態は明白なものである。キアクの最期の台詞を思い出した。神によって造られた我々とこの世界はその神によって今、滅ぼされようとしているのだ。強烈な無力感と脱力感が全身を突き抜け、動く力がふわふたと抜け出て行きそうになる。

 それを引き止めたのは、車体の突然な加速だった。

「っ――な、何をするクリスっ?」

 ぐっと前にしがみ付いたレオは、後輩を向いて叫ぶ。クリスは、一点を見据えながら真剣な面持ちで、

「突破しますっ、捕まっていてくださいっ」

「ばっ、」

 馬鹿な、と言おうとした時には既にパトカーは都市の外へ出んとしている所だった。捕獲と破壊が前の自動車と横のビルへ向けられている間に、それは幾つもの成れの果てを越えて行ったのだ。

 おおっ、とレオは感嘆した。行ける、これならば行けるっ。

 そうして車体が出ようとした時、びたりとその車輪は地を噛むのを止めた。完全に停止し、びくりとも動かない、どころか一瞬で遥か彼方まで持ち上げられる。捕獲されたのだっ。

 もう駄目だ、おしまいだ、とレオは思い、ぐっと瞳を瞑った。

 そこに、抉る様な鋭い一撃が叩き込まれ、眼を開けると、彼は中空に放り出されていた。頭上の方で、先輩と呻く様に叫ぶ声が聞こえる。見上げれば、既に頭皮を剥ぎ取られたクリスが、パトカーより身を乗り出し、下へと手を向けている。もう決して届かぬ距離だが、それでもしかと伸ばしている。

 地面に向けて落下しながら、レオもまた手を伸ばした。だが、どうしようも無い。

 不意を付いて、鈍い衝撃が強かに背中を襲い、彼が身悶えしている上で、パトカーと、そしてクリスは、彼が囮にした者と物と同じ様に分け隔てられた。絶叫が響き渡る。

 ばらばらと、かつてそうだった物が降って来る。その様子を唖然と見ていたレオは、落下物が頬に触れた事で、正気の色を取り戻すと、急いで立ち上がり、都市の外目指して走り始めた。何が何でどうすればいいか、そんな考えはもう砕け散っているけれど、それでもまだ逃げなくてはという思いだけはある。

 彼の背後では、いよいよ勢いを増させた大崩落が盛大に巻き起こっている最中だった。


 何処まで歩いたのか。どれ程歩いたのか。もしかしたら、最初から歩いてなどいなかったのか。

 その何れであれ、レオはふと脚を止めた。

 周囲に眼を向ければ、辺りには何も無い空間が広がっている。自分が居たと思っていた道や、その周囲を囲う様に生えていた草木等、影も形も無い。ただ白い、空白の地平だけが何処までも続いていた。

 じぃとそれを見詰めていた彼は、ふと気になり、背後を向く。

 その遥か彼方、としか形容出来ぬ距離を持って、何時の間にかブロックの山が聳え立っていた。それがブロック状の物質だと解ったのは、そうだと言われたからである。しかし、確かにレオにはそう見えていた。かつて自分が居た場所、生きていた場所、共に生きていた物達の全てが、唯の図形の集まりとして転がっている。その中に含まれる筈だった自分を感じ、彼は震える体を抱え込んだ。

 だが、同時に解った。今ここに居る人間は、自分ただ独りであるという事を。それはつまり――

 思考するよりも早くに、それはやって来た。恐るべき力がレオの体に掛かり、苦しさに息が毀れる。実際に捕らえられて初めて解るだろうが、これは手だ。見えないが、手で掴まれているのだと確信する。

 その指一つ一つに力が入った。そして、別の手が自分の頭部へ伸び、それを胴より離そうとしている。ぐりぐりと、体の内側が捻られ、ブロックの結束が緩むのをレオは感じた。自分がこれで終わりなのも。

「……神よ……」

 だからこそ、彼は叫んだ。刑事という役割を担う者でも、キアクの声に当てられた狂人でも無く、この世界、この大地、この空間、この地平に存在するレオという存在として、高らかに、非難と疑問を絡めて。

「神よっ、見えているのだろう? 聞こえているのだろう? 解っているのだろう? これで満足か? こんな事をして、これで満足なのか? お前は、それともお前達か? どちらかは解らないが、糞くらえがこの野郎っ。一体、何が目的だったんだ? 何がしたかったんだ? なぁ神よ、応えてくれ、何でお前は俺達を造ったんだ? 或いは組み立てたんだ? どんな理由で、どんな想いで、」

 しかし、それは案の定、最期まで紡がれる事は無く、レオという存在は、その先例が示して来た様に、音も無く外され、そして、物言わぬブロックは、同胞達の山の中へ、躊躇無く放り捨てられる。

 ただ一つだけ違った。彼は最後の一瞬、神の御姿を見たのである。

 自分とは比べくも無い程に巨大であったが為に気付かなかった。気付けなかった。意識が拒絶していた。その姿は、誰がどう見ようと、穢れを知らぬ無垢な幼児の姿をして、』


「いたのだった――、と。よし、完成だ。どうだ、俺はちゃんと締め切りを守る、出来た男だろう?」

 四方を書棚に囲まれた書斎が中央、年期の入った書き物机に座り、デスクトップパソコンを前にして、一心不乱にキーを叩いていた作家は、回転椅子を一度部屋の隅でブロック遊びに耽る息子に向けてから、斜め後ろにて神妙な顔立ちをしている担当へにやりと笑った。が、直ぐにその笑みを歪め、尋ねる。

「おい、どうしたんだ。ちゃんと俺は書き上げたんだ、もっと喜んでくれよ」

「はぁ、でもですねぇ先生」

 担当は、作家とモニタを交互に見比べた後、実に言い難そうな顔で言った。

「玩具を使ったメタフィクション。こういう話、最近読みましたよ? ぱくりですか? 唯でさえ先生のネタはぎりぎりなのに、また一悶着起こそうって言うんじゃないでしょうね。だったら御免ですよ自分」

 その台詞に、作家は心外だと実際に口にしてから、続けて語った。

「この手のネタは実に使い古されて来たネタじゃぁ無いか。今更ぱくりも糞も無いってものだよ。大体だね、全ての作品の起源を辿って行けば、その本質はおのずと聖書やら神話やらに行き着くもので、それに、」

「はぁ、あぁ、もう解りましたよ」

 担当は作家の語りが始まると、直ぐに辟易し、そして中途で打ち切らせる。この作家が語り出したら停まらないのは、業界ではかなり有名だ。しかも、それっぽいだけの屁理屈なのだからたちが悪い。こういうのは勝手ながらに終わらせるのが世の為人の為自分の為なのを、担当は身を持って知っているのだ。

 良い所で話を切られたのが癪に障ったのか、作家は少し憮然とした表情を作る。しかしながら、それも直ぐに崩すと、彼はにこやかな調子で立ち上がり、息子の元へと寄った。その頭へそっと手を伸ばしつつ、事もあろうに途切れさせられた話の続きを話し始め、

「それにだね、俺のネタは、自分でいうのも何だけど、結構無いんじゃないかな、って思うんだ。うん、大事なのはネタだよ、ネタ。何もかもが過去の遺物の積み重ねで個の由来が定まらぬ中、如何にして個を持つのか? 重要なのはそこだよ。ま、気付かせてくれたのはこのブロック好きのこいつなんだが、ね」

 作家は息子の頭を撫ぜた。担当も、苦笑いを浮かべつつ、彼の方を見る。

 その頭がぽろりと取れた。ごろごろと転がり、唖然とする作家と担当の間で停まったそれには、首の断面へ『O・G・E・L』と書かれているのが見え、そして、

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