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祈り

作者: 安藤優

 アパートから最寄り駅まで徒歩十分。


 その途中のお稲荷さんで、いつも祈りを捧げるスーツ姿の中年がいた。何かにすがるように、一心不乱に懸命に。


 ぼくはいつもその様子を見ながら、神社の脇を急ぎ足で過ぎていく。会社へ遅刻しないのか。一体誰に、何を祈っているのだろうかと。


 なぜかはわからない。


 ただぼくには、その男がなぜ祈るのか、何に向かい祈るのか、感覚的に理解することが出来た。そして、いつか自分も通勤途中のお稲荷さんで、祈りを捧げてみたい。


 長いことそんな風に考えていた。

 ある日のことだった。


 誰もが下を向き、寝ぼけ眼で灰色の地下鉄へ吸い込まれていく。ぼくは灰色のスーツに身を包み、灰色の街を歩いていた。いつもと変わらない、色のない朝だ。


 そしていつものように、お稲荷さんの方を見た。男がいるのではないか。出勤時間ぎりぎりまで、今日も何かに祈っているのではないか。そんな期待とともに顔を上げた。


 しかし、そこに男の姿はない。男がいないことで、神社にはぽっかり不在が浮いていた。あるべきものがそこにない。住む者がいない住居のようなバランスの悪さがある。


 だからというわけではないだろう。しかし、気づけばぼくは神社へ吸い込まれていた。吸い込まれるように鳥居をくぐると、いつもの男をなぞるように、祈りを始めていた。


 一体何に?


 わからない。


 キリスト、ブッダ、世界平和に健康、素敵な出会い、あるいは宝くじが当たりますように……馬鹿な、当たるわけがない。


 そんな風に思考が泳ぐ。すると、意識だけが徐々に離れていく感覚があった。意識が身体を離れ、渦へ吸い込まれていく。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。上も下も、右も左もわからない。我を失う感覚。案外悪くない。


 心地良い。


 そう思い目を開けた瞬間、ぼくは砂漠に立っていた。


 砂漠だ。


 テレビなんかでよく見る砂漠。なだらかな丘陵が地平の果てまで、どこまでも続く。人も草も花もない、孤独な世界。


 びゅう、と風が吹いて、足元の砂が巻き上げられる。


 すると、一続きの鉄塊が姿を現した。それは細長く、どこまでも遠く伸びている。線路だ。


 鈍色の線路の出現と時を同じくして、立て看板が目に入る。初めからそこにあったのだろうが、まるで気づかなかった。看板は砂から身を守るように、首をすくめそこに立っていた。


 ぼくは看板へ近づき、こびりついた砂を払い、表面を観察した。どうやら駅名を示しているようだ。字はこすれ読むことが出来ないが、ここがどこの駅で、電車は次にどこへ向かうのか。かつては、そんな情報を含んでいたのだろう。


 失われた地名を見て考える。ここにいても、きっと電車は来ないだろう。


 じりじりと照りつける太陽に、乾ききった地面。そこに、スーツ姿で立ち尽くすぼく。鞄も携帯も手元にない。このまま大人しくしていては死を迎えてしまう。兎にも角にも、歩き出さねばならない。


 それでぼくは、最初の一歩を踏み出した。


 なんとなく太陽を目指す。他に目印がなかったから。真上にあってちょうどいい。南だ。やがて傾くだろうが、まずは太陽目指し、南へ向かう。


 緩やかな丘陵を上がり下がり、進む。上着を脱いでも、シャツが肌にまとわりついてくる。靴や服、目に耳。砂は隙間を見つけては、容赦なく侵入を繰り返す。溜まった砂を地面に落とすため、ときどき立ち止まらなければならないほどだった。


 小一時間ほど歩いただろうか。


 景色は変わらない。コピーして貼り付けたような地表が、どこまでも果てしなく続く。繰り返しをプログラムされた、コンピューターのような世界。終わりがない世界を、ぼくは終わりもなくひたすらまっすぐ歩き続ける。太陽はまるで傾かず、相変わらず空の真上にぎらぎら浮いている。


 やがて限界がやってきた。渇き。そして疲れ。一時間分のダメージが、堰を切ったように襲いくる。

もうだめだ、これ以上は歩けない。


 諦め立ち止まりかけたところで、視界の隅で何かを捉えた。一瞬固まり、すぐに思い直して歩き出す。まさかということもある。他に当てなどないのだ。汗で重くなったスーツを引きずり、最後の力を振り絞った。


 だが、一歩近付くごとに希望は失われ、目標物に手で触れた時、落胆だけが残る。


 そこにあったのは、駅の立て看板だった。プラスチックの剥げ具合。文字らしき刻印。看板は、一時間前と寸分たがわぬ様子でそこに佇んでいた。


 一時間歩き、元の場所へ戻った?


 太陽を目印にひたすら直進したはずなのに。


 太陽は南天したままだ。相変わらず、ぼくの頭の真上から砂漠を照りつける。じりじり、じりじりと。


 南天したまま?


 そうだ。それがおかしい。太陽が南天したまま静止するなど、ありえない。


 そう思い視線を地上へ戻したところで、汽笛の音が鳴り響いた。遠くから列車の音が届く。線路へ手を当てると、確かに振動が伝わってくる。


 そして、立ち上がり線路から離れた瞬間、見計らったようなタイミングで列車が姿を現した。


 けたたましい音とともにブレーキがかけられ、目の前に停車する。二両編成の、路線バスのように小さな列車。扉が開くが、誰も降りてこない。当然乗る人間もいない。それでもぼくは足を踏み出し、列車へ乗った。


 列車の中には何人かの乗客がいた。ただ、乗客といっても、人間なのか判別がつかない。どことなくうっすら透けていて、しゃべることもない。音もなく、列車の振動に合わせて静かに揺れている。


 どこに行くのかわからない。いつまで乗っていれば良いのかも。

そもそもこの先、駅はあるのだろうか。このまま、どこまでも止まらないのではないか。そんなぼくの疑問をよそに、列車は走り続ける。


 規則的な線路の音と、外に広がる無限の砂漠。


 単調な景色、単調なリズム。


 それらはやがて、ぼくを眠りの世界へいざなう。重くなる瞼。


 ほどなくして、意識は遠くへ消えていく。




 次に目が覚めた時、ぼくはまだ列車に揺られていた。


 さっきまでと違うのは、そこが地下鉄で、周りの人間も透けていないということだ。皆うつむき生気のない顔をしているが、確かな実体を持ち、列車に揺られている。


 ぼくは座席に座りながら、深い安堵感と少しの落胆を覚えた。咽喉が妙に乾いていたので、鞄の中からペットボトルのお茶を出し、ひと口ごくりと飲み込んだ。


 やがて列車は速度を緩め、会社の最寄り駅がアナウンスされる。ぼくは重い身体を持ち上げる。自然とため息が出てしまう。


 そして、なんとも形容しがたい気持ちで、地下鉄の薄暗いホームへ吐き出されていく。

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