落ち葉散る公園で
私も、あの人も、数えきれないほどの人と出会ってきたはずで。
好きな人が、自分を選んでくれる確率って、どれくらいでしょう。
「可愛いなあ、本当」
デレデレと言ってもいいほどの満面の笑みは、全然、見たことのない顔で。
そんな顔を、彼は私の前でだけ見せる。
――いや、正確には、私が連れているゴールデン・レトリーバーの、ハチの前で。
「なあ、ほーら、よしよしよし」
私は呆れながら、持っているリードをぷらぷらさせる。
ハチはハチで、もともと人懐っこい犬だったのに、最近ではすっかり彼――鹿野先輩に懐いてしまった。
イチョウの葉っぱがひらひら、私達の間に落ちてきた。
◇
私が玄関の扉を開けると、床を引っかく爪の音がして、すぐにハチが顔を出す。ワッフワッフと息も荒く、飛びかかるようにくるハチを鞄で避け、私は自分の部屋に行く。
尻尾を振りまくってワフワフ言うハチに、私はやけくそみたいに言った。
「あー、もう、分かったから、散歩でしょ、散歩!」
高校の制服を着替えて、外に出る。今やっと学校から帰ってきたばかりなのに、本当に面倒くさいったらない。ちょっと寒いような気がしたので、適当なジャンパーを羽織って出た。
ハチは、もう散歩が楽しくって仕方ないというように、ぐいぐい私を引っ張っていく。私はといえば、ここ一年ですっかり体が大きくなってしまったハチの力についていくのが精一杯だ。
「待ってってば! あーっ、もう」
この秋から、日課になったハチの散歩。近所をぐるっと一周して帰ってくるだけなんだけど、テニス部の練習で疲れた後なんかだと、もう勘弁してよって思う。
ちょっと駆け足気味に散歩コースを回っていく。最後に角を曲がって、家の方に向かおうとすると、ハチがぐぐぐっと反対方向に私を引っ張った。
「え? 何よ、もう帰るよ」
「ワフフッ!」
ハチは駄々っ子みたいに首を振って、キラキラした目で別の方を見ている。私もそっちを見て、えー、と思った。公園だ。ハチはそこに行きたいらしい。
公園といっても、ブランコやすべり台があるような町の狭い公園じゃなくて、それなりに広くて、木もたくさんあって、バーベキュー場もあったりする、自然公園で、確かにあの中を歩いたら、散歩好きのハチも大満足するだろう。だろうけど。
「行かないからね。って、ちょっと、こら!」
ハチは私の制止を完全に無視して、私を引っ張っていった。私はリードを離すわけにもいかなくて、半ば引きずられるように、公園に入っていく。
どうして急に、公園に行きたがるんだろう。もしかしたら、お兄ちゃんと散歩してた時なんかは、よく行ってたのかもしれなくて、それを覚えているのかも。
公園の中は、少しひんやりするように感じられる。木が多いからかもしれない。植物の匂いがして、あと、ちょっと薄暗い。
広いところに出たからか、完全にテンションの上がったハチは、尻尾を振って、イチョウの落ち葉がたくさん積もっているところに、ダイブするように飛び出した。
「こら、ハチ!」
あ、ダメだ。
大型犬の力は強い。咄嗟に、リードを離した方がいいかもしれない、と思った。だけど、リードを離したら、それこそどこまで走って逃げちゃうかもしれないし。
そんな一瞬の迷いの間に、前につんのめってしまうのは当然の結果なわけで。
「っ!」
ぐうん、と視界が回転。黄色い落ち葉が視界に迫り、思いっきりイチョウの落ち葉に飛び込むように転んだ。
顔面から倒れるのだけは意地でも避けたいと思って、手をついた。ついた手の先に、ぬるっとした感触。
「ぎゃあっ!」
何か潰した!? 虫だったら嫌すぎる!
ぞっとして、慌てて手にへばりついたものを振り払うと、鼻をつく、くさい臭い。
「うわ、最悪だ……」
ギンナンの実が。べっとりと手についていた。
慌ててその辺になすり付けるようにして黄色いベトベトを取るけれど、臭いは全然取れない。
「くうん……」
ハチが、今更ながら、おとなしく横で座っていた。私はハチを睨む。
なんで私がこんな目に遭わないといけないのよ。全部ハチと、ハチを残していったお兄ちゃんのせいだ。
ハチを引きずって、もう帰ろう。そう思った時、声をかけられた。
「……馬場? 大丈夫か?」
呼ばれて振り向くと、テニス部の先輩である、鹿野先輩がいた。
部活の先輩といっても、私は女子テニス部で、先輩は男子テニス部で、練習も別々だから、あんまり一緒になることはない。それでも、私は先輩を知っていた。
「えっ、先輩っ、何してるんですかっ!?」
思わず、先輩がそこにいるのを責めるような口調になってしまった。
――だって、何で、よりによって、こんな時に、先輩が、ここに。
慌てて立ち上がって、濡れた落ち葉のついたジャンパーをぱたぱたはたく。こんなところで座り込んでいるのを見られたのが、恥ずかしくて仕方ない。
「何って……ランニング?」
先輩はジャージ姿で、どう見てもランニング中にしか見えない。馬鹿なこと聞いたなと思うけど、それでも恥ずかしくて、ごまかすために、何か話さないとって思って、私の口は勝手に色々喋りだす。
「もう部活、引退したのにですか?」
「勉強ばっかりしてると、体動かしたくなるんだ」
そう。三年生は、夏の大会が終わって、引退した。秋のこの時期は、受験勉強が忙しい時期だけど、学校で勉強して、それから、家に帰ってからも勉強漬けだったら、確かに息が詰まりそうだ。
「馬場、犬飼ってたんだ?」
先輩の目は、私の横で舌を出してハッハッと言っているハチに向けられた。自分が構ってもらえそうな雰囲気を察したのか、ハチの目が先輩をロックオンしたのが感じられる。
まずい。うちの馬鹿犬が、先輩にご迷惑をかけてはならない……!
「そ、そうですねっ! あ、あの、お疲れさまでした! 失礼します!」
急いでハチを引っ張っていこうとするけれど、ハチはそれより早く、遊んでオーラを出して先輩に飛びかかっていく。
あああ!
私が慌てるのをよそに、先輩は嬉しそうにしゃがんで、ハチを抱きとめるように受け止めた。
「おおっ、人懐っこいな! よしよし」
そうして、目を細めてハチを撫でまわす。ガシガシ撫でられるのが嬉しいのか、ハチの尻尾が千切れそうなくらいぶんぶん振れた。私の気を知ってか知らずか、調子に乗ったハチは先輩の顔をぺろぺろ舐め始めた。いやああ。
ところが、先輩はむしろ嬉しそうで。
「よーしよしよし。可愛いな、ははは」
「…………へっ? あの、嫌じゃないんですか?」
「何が?」
満面の笑みを浮かべる先輩は、今まで全然見たことがない顔をしてた。私の記憶の中では、先輩は、いつも冷静で、クールな感じだったのに。
試合中で相手に点を取られた時だって、見ているこっちがハラハラしているのに、当の本人は涼しい顔でいたし。
二年間、テニス部で金網越しに遠くから見ていたけど、こんな顔、見たことなかった。
「あ、あの、……」
「あ、ごめんごめん。つい嬉しくなっちゃった。俺、動物好きで」
「そう……なんですか」
改めて、自分が先輩と向かい合っているという事実に慌ててしまう。あれ、今朝、寝ぐせついてたの、もう直ってたっけ?
思わず髪に手をやるけど、あっ、ダメだ、右手はギンナンで汚れてたんだ。挙動不審に手を動かす私に構わず、先輩はハチを撫でていた。
「名前、何ていうの?」
「えっ、あ、ハチです」
「そうかー、いい名前だなあ」
ニコニコしながらハチを撫でる先輩は、立ち上がって、リードを渡してくれた。
「大型犬に引っ張られて転んじゃった?」
「あっ、はい、そうです」
見透かされている。転んでた自分を見られていたことを思い出すと、また恥ずかしくなってきて、赤い紐を受け取る時は、先輩の手だけ見るようにした。すぐにハチが駆け出そうとするので、慌てて両手でつかんで踏ん張る。
「犬に引っ張られてたら、ダメだよ」
「でも、すごい、力強くて……」
「まず、犬を自分より先に歩かせない」
そういうと鹿野先輩は、私に一歩近付いて、私とハチを繋ぐリードを持った。
「もっとリードは短く持って。これくらいでいい」
まるで、テニスのラケットの持ち方指導をするくらいの距離で――といっても、男子と女子でテニス部の練習は一緒にしないから、鹿野先輩から直接指導を受けたことはなかったんだけど――先輩は私にリードの正しい持ち方を教えてくれた。
いきなりの至近距離に、私はもう頭が真っ白。
えっ、あ、ちょっと待って、今私ギンナン臭いんだよね!?
「ちょっとそこ歩いてみて」
「えっ、あの」
「もしハチが前に出そうになったら、すぐ引っ張る」
思考が麻痺しながらも、言われた通りに歩く。何回かダメ出しされながら、言われた通りに歩いているうちに、驚くほどハチは大人しく私に付いてくるようになった。
「すごい……」
「犬は賢い動物だから、飼い主がちゃんとしてれば言うこと聞く」
「あ、ありがとうございます」
私は頭を下げた。先輩は、またハチの頭を撫でた。
「名残惜しいけど、暗くなるから、そろそろ帰った方がいいな」
「そう……ですね」
公園を出たところで、先輩と別れた。手を振って走っていく先輩に、そういえばランニングの途中だったなと思い出した。
家に戻って、ハチの足を拭いた。今日は公園で土の上を歩いたから、いつもより念入りに。それから手を石鹸で一生懸命洗う。やっと臭いが気にならなくなったところで、自分の部屋に戻って、ベッドにダイブした。
ああ、何だろう、もう、色んなことがありすぎた。
先輩って、あんな風にも笑うんだ……。
ずっと見てたけど、知らなかったな。
思い出せば思い出すほど、何だかどうしたらいいか分かんなくって、枕を顔を埋めて、ぎゅってするしかなかった。
ハチが私の部屋の前で、クウクウ鳴きながら、今か今かと待っている。
私は制服から、セーターとスカートに着替えて……。うーん、でも、スカートは寒いかな? お気に入りのコート出しちゃおうかな。
最後に鏡で、髪が跳ねてないかチェックして、ようやくハチにリードをつける。
「じゃ、散歩行くよ」
「ワフッ!」
ハチは相変わらず私を引っ張っていこうとする。それじゃダメだって、昨日先輩に教えられた通りにハチを誘導するけど、やっぱりちょっと私が小走りみたいになっちゃう。
走るリズムが、ちょっと早い心臓の音みたいで。
そして、いつもの角を、反対に曲がって……公園に行く。
いや、うん、だってハチが行きたがるからね。
公園に入ると、ハチはまたあのイチョウ並木の方に行こうとする。落ち葉を巻き上げて走ったのが本当に楽しかったみたい。
先輩、また走ってるかな。
そわそわしながら、イチョウ並木の方に足を向けてみると――先輩がいた。
一回、髪を撫でつけてから、深呼吸。
私は、今日もいつも通り散歩してたら、また偶然会ったんですね――みたいな感じに聞こえるように、先輩に声を掛けた。
「あれ、先輩、こんにちは……」
「ん、馬場」
やっぱりランニングの途中だったのか、先輩はジャージを着ている。小走りでこっちに来ると、しゃがみこんで、すぐに顔をデレデレに崩して、ハチを撫でまわし始めた。
「ハチも、な。よーしよしよし」
「ワフワフ」
先輩はたまらなく嬉しそう。そして、ハチも嬉しそうだ……。あれ、何だろう、この疎外感。飼い主は私だよね。
「じゃ、行くか」
「行くって、どこですか?」
「この先に、犬が走れるくらいの広いところがあるんだよ」
そう言って先輩は、ジャージのポケットから、汚れたテニスボールを出した。かなり毛が抜けてボロボロのやつ。テニス部だと、もう捨てる感じかな。
「な、ハチ、ボール遊びしないか?」
「えっ、わざわざ持ってきたんですか!?」
うちの犬と遊ぶために?
何だか、期待しながらも、偶然を装っていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。だって、先輩は、思いっきり狙って(ハチに)会いに来てる……。
そういうしつけをしてないから、ボールを投げても取ってくるかどうか分かりませんけど、と言うと、先輩は大丈夫だろう、と言う。
「ゴールデン・レトリーバーは、狩猟犬だから、捕った獲物を持って帰ってくるのが仕事だし」
最初は近くに投げたボールを、ハチが口にくわえた時点で取って褒めることから始めた。ちょっとするうちに、ハチはボールを持ってくる楽しさを覚えたのか、先輩が放り投げたボールを、ちゃんと取りに行くようになった。そんなハチを先輩がさらに褒める。するとずっと遠くまで投げても、尻尾を振りながら喜んで追いかけるようになる。
……トップブリーダーだろうか、この人は?
「先輩って、犬飼ってるんですか?」
だって、犬の扱いが上手だから。まあ、これだけ犬好きなら飼っててもおかしくないよね。
「前にね」
「え?」
「小さい頃から一緒だったけど、二年前に死んだよ。すごい長生きだったけど」
「……そうなんですか」
先輩は、ふっと遠くを見るような目をした。
「すごい大切な家族っていうか。大好きだった」
そう言う先輩の目は、一瞬、ちょっと切なそうで。
でも、それだったら、ハチと遊びたがるのも納得かも。先輩の言い方からすれば、他の犬は飼ってないみたいだし。
先輩が一際高く、思いっきりテニスボールを放った。それが、部活の練習中の姿を重なって。部活の練習の時は遠くから見ていただけだったけど、今は、すぐ横にいる。
しかも、とびっきりの笑顔で。
何だか、信じられない。
ハチも、いつもより楽しそうに見える。
こんなふうに遊んであげたこと、私はなかったからなあ。
「……うち、まだ犬飼って一年くらいで。それに私は、今まであんまりお世話したことないから、多分、遊ぶのも下手で」
「ん?」
「ハチ、元々お兄ちゃんが飼いだした犬なんですけど……。お兄ちゃん、今、北海道にいるんです。大学で」
それで、この秋から、平日は私がハチの散歩をすることになったのだ。
そう話すと、鹿野先輩は首を傾げた。
「この秋から?」
「――夏休みの前までは、共通過程が東京だったから、家から通ってたんですけど。後期から専門課程らしくって、北海道のキャンパスだから、寮に入って」
「もしかして、北野大の獣医学部?」
私が頷くと、鹿野先輩はへえ、とため息をついた。
北海道には行ったことがない。とにかく寒くて、遠いところというイメージしかない。もう北海道では雪が降り始めたらしいと、お兄ちゃんのメールにあった。
「そっか……馬場のお兄さん、北野大なんだ」
「はい」
そういえば、先輩はどこの大学に行くんだろう。先輩の志望校、知らないんだよね。知りたいな。
でも、私なんかが聞いて、どうなることでもないし。
延々ボールを投げているうちに、先輩の方が疲れてきたらしい。もっともっとと、ねだる目を向けるハチの顔に両手を添えて、もう参ったよ、と言って、毛をわしゃわしゃ撫でる。
「ホント、可愛いなあ、また明日遊んでやるからな」
「え、明日ですか?」
「そうか。木曜は女子テニス部の練習か。散歩はしないのか?」
テニスコートは、男子と女子で曜日を決めて代わるがわる使っているのだ。月・木が女子、火・金が男子に割り当てられている。
「散歩しないわけじゃないですけど……私が練習終わった後だから、今日よりその分、時間は遅いです」
「じゃ、それくらいの時間に来ようかな」
「えっ」
「俺が勝手に来るだけだから、馬場が来たときにいなくても、気にしなくていいよ」
先輩はそう言うけど。
それって、待ち合わせ、みたいな?
明日もまた会って、話せるって、期待していいんだよね?
「えっ、えっと……じゃあ、お疲れ様です」
「じゃあ」
分かれ道のところで、先輩が手を振ってくれたので、ちょっと控えめながらも、振り返す。
きっと顔が赤くなってるのは、暗いから気付かれてないはず。
「どうしよう、ハチ」
先輩、明日も来るって。
こんなにハチの散歩が楽しみなの、初めてかもしれない。
今日も鹿野先輩は、イチョウ並木のところで待っていた。先輩を見るなり、ハチが駆け出したので、わざとリードを放した。
「うおっ! ハチ、元気だな! おー、よしよしよし」
ダイナミックに飛びかかっていくハチを、先輩は驚きながらも受け止めて、デレデレの笑顔で撫でまわす。先輩の笑顔も見慣れてきた。笑顔の先輩はいつもハチの方を見てるから、こっそりと横顔を見てる。
「よ、馬場」
「先輩、こんにちは」
ボール! ボール! という心の声が聞こえそうなくらい、キラキラした目で先輩を見つめるハチ。ハチを可愛い可愛いと撫でる先輩。それを見てる私。
今日の先輩はジャージじゃなかった。グレーのニットにジーンズ。
……私服、初めて見たなあ。ジャージや制服の時より、なんだか……うん、違って見える。
「今日はランニングじゃないんですか?」
「寒くなってきたからな」
「そうですね」
確かに、朝、布団から出るのがしんどくなってきたなあ。走り込みの練習の時はきつい。
黄色い葉っぱでいっぱいだった公園のイチョウ並木も、もうすぐ幹と枝だけになってしまいそう。
今日もハチと先輩はテニスボールで遊んでいる。先輩が投げたテニスボールを、ハチが空中でキャッチした時は、おおうって、先輩と二人で声をあげてしまった。
私もボールを投げさせてもらったけど、先輩ほど遠くに飛ばせないから、ハチはあっという間に取ってきてしまって、ちょっと不満そう。
「よーしハチ、これならどうだ!」
先輩は、かき集められた落ち葉の山に目掛けてテニスボールを強く真っ直ぐ投げた。
サクッと音がして、ボールはイチョウの中に埋もれて見えなくなる。枯れ葉と汚れたテニスボールは、色も近いからもうわからない。
ハチは、落ち葉の山に豪快に突っ込んで、かき回す。いいのかな、散らかして。
「あはははっ、ハチ、後ろ後ろ、そう、いい子だ!」
先輩が前に飼っていた犬はチワワだから、広いドッグランでフリスビーとかボールとか、そういうダイナミックな遊び方はできなかったんだそうだ。
ハチも楽しそうだし、先輩も楽しそうで。ようやくボールを取ってきたハチに引っ掛かった乾いた落ち葉を、私は一枚一枚取ってやった。
「あ、馬場。俺、今度の日曜まではここ来れないから」
「……え?」
「予備校で、模試がある」
「そう……ですか」
私はなんて言っていいか分からなくて。
頑張ってください、と言うのが精一杯で、先輩はああ、と言ってたような気がする。
また一枚、黄色い葉っぱが落ちた。
家について、ハチの足を拭いてやる。その間、一緒にしたボール投げのことを思い出して、胸がぎゅってなるくらい嬉しくて……あんまりにも楽しすぎたから、思わずため息が出た。
「……ハチはいいよね」
先輩と遊んでもらえて。
見つけたら、目を輝かせて走っていってもいいんだ。
可愛いって言ってもらえるのが、自分だったらいいのに。犬のハチが羨ましい、とさえ思う私は、なんて馬鹿なんだろう。
高校一年の時から、先輩が好きだった。
最初は、他の男子達と違って、落ち着いた人だな、という印象くらいだったと思う。それがきっかけは自分でも分からないけれど、いつの間にか好きになって、目で追うようになっていた。
ずっと、遠くから見ていることしかできなかった。
テニス部の練習をしてる姿を、遠くから見てた。偶然、廊下ですれ違った時も、何でもないような顔で通り過ぎた後、ドキドキしながらそっと振り返った。それだけ。
接点なんて、テニスコートや備品を共有していて、たまに用があれば話すくらいで。その機会だって、どれくらいあっただろうか。先輩が部活を引退してからは、その機会さえ、全くなかった。
好きだったけど、告白しようなんて、ちょっとでも思わなかった。
だって、叶うはずがない。
私は先輩にとって、接点なんて、隣の部の後輩ってだけ。先輩にはもっと仲のいい女子だってたくさんいて当然だ。
先輩に関わるたくさんの人の中から、自分が選ばれる確率なんて、考えるほど、あるわけがないから。
このまま先輩は、高校を卒業して、どこかの大学に行く。そしたら学校ですれ違うこともなくなるし、その先、会うこともなくなる。
ほんの三日だけだったけど、二人で一緒に話すことができたのが、きっと幸運だった。
先輩の、あんな無邪気な笑顔も、見れたから。
「……うん、いいんだ」
クウン、と鳴きながら鼻を押し付けてくるハチの頭を、しばらく撫で続けた。
次の日も、ハチの散歩は私の役目だったけど、公園には行かなかった。ハチを引っ張って、いつもとは違う方に散歩した。
どこ行くの? って感じで、ハチは楽しそうについてきたけど。
我ながら現金だなって思うけど、でも、行って、枯れ葉ばかりの公園を一人で歩いたら、寂しいから。
その次の日とさらに次の日は、土日だったから、お父さんが散歩に連れてった。
お腹が出てきたのを気にしているお父さんは、土日だけ、ハチを散歩に連れて行って、ちょっと運動をするようにしている。
「あーあー、もう、ハチは元気だからついていくのが大変だよ」
お父さんは汗をかいて帰ってきた。ハチは家につくなり玄関でお座りし、脚を拭いてもらうのを待っている。私は仕方なくタオルを持ってきて、ハチの足を拭いてあげた。その間もお父さんは顔を赤くしてふうふう言っている。
「お父さん、ハチを先に歩かせちゃダメだよ。犬を人間のペースに合わせるようにさせなきゃ」
「そうなのか?」
うん、教えてもらった。
「そういえば、由紀は最近、あの公園に行ってるのか?」
「え?」
思わず、声が上ずる。
「なんで?」
「ハチが行きたがったんだ。いつもの散歩コースとは違う方に行きたがったから、最近由紀が連れて行ってるのかなって」
「あ、うん。大型犬だから、運動不足にならないように、時々ね。……ハチ、ご飯にしよ!」
何でもないようにごまかすのは、我ながら得意だと思う。
なるべく早くハチの足を拭き終えて、エサ皿を取りに行く。頭の半分が散歩、もう半分がご飯でいっぱいのハチは、嬉しそうについてきた。
月曜日、部活の練習の後で、私はベッドに倒れこんだ。
部屋の外で、ハチが爪で扉をカリカリ引っかいてる音がするけど、無視を決め込んで、枕に顔を押し付ける。
「今日はまだ行かない」
「クーン、キュウン……」
ハチが切なそうな声で、部屋の前をぐるぐる回っている気配がする。だけど、これはハチのためでもあるんだって。
行って、鹿野先輩がいなかったら、ハチもがっかりするでしょ? それだったら、ハチが先輩を覚える前に、会わない方がいい。
ハチが先輩を覚えた気配が、私を寂しくさせる前に。私がこれ以上、先輩を好きになる前に。
……遠くから見ていることしかできない私が、いい恋だったって、忘れられるように。
そのうちに、お母さんが仕事から帰ってきた。気が付けば時計は七時を回っていて、外は真っ暗になっている。いい頃合いだと思ったから、私はコートを着て、ハチの首輪にリードを繋いだ。
お母さんは、私がまだハチの散歩に行ってないことに驚いた。
「どうかしたの?」
「んー、部活の練習で疲れたから休んでただけ」
外は真っ暗で、街灯の白い光が、点々と道を照らしている。空を見上げたら、星がいくつかチラついていた。
「暗いから気をつけなさいよ」
「はーい」
日が落ちてしばらくしたからか、かなり寒かった。風も冷たいし、もう秋というよりは冬に近いのかな。十一月だし。自前でふわふわの毛皮を持っているハチは、全然へっちゃらって感じで、元気にしているけど。
いつもの曲がり角。右に曲がれば家に戻る方向で、左に曲がれば、あの公園。
私はハチより先に歩いているから、ぐいっとハチを引っ張って、右に曲がろうとした。
だけど――
「ワフォッ!」
急にハチが、吠えた。驚いた私が、思わずハチを振り返った瞬間、ハチは、私に突進してくるように飛びかかってくる。思わず距離を取ろうとした時、サッカーのフェイントみたいな動きで身をひるがえし、そして公園の方へ猛烈に駆け出していく。
「えっ、ハチ!?」
金髪の毛並みがダイナミックに揺れ、赤いリードの紐が、地面に付かないくらいの勢いで、暗闇の向こうに消えていく。
私は慌てて走って、ハチを追いかけて公園に入った。
ハチの姿は見当たらなかったけど、迷わずイチョウ並木の方へ行った。
落ち葉がいっぱい積もったイチョウ並木。木々の間に、ハチの姿を探すけど、見つからない。次に、先輩とボール遊びをした辺りまで行って、呼びかけた。
「ハチー! ハチってば!」
ハチは、私の呼びかけに応えなかった。
乾いた風が枯れ葉を鳴らす。ガサガサという音に、段々不安になってくる。
公園にも街灯があるけど、木が多いせいで、全体に見通しが悪くて暗い。人気もなくて、……不審者も目撃されたことなんかもあって、夜には近付かないように、なんて言われている。
「どうしよう……」
きっとハチは、鹿野先輩を探してるんだ。
それであちこち、走り回って探しているのかもしれない。それでそのまま、迷子になっちゃったら。公園から飛び出したら、車の通る道路だってある。早く見つけなきゃ。
焦って、でもどうしていいか分からなくて、立ち尽くしてしまう。冷たい風に体が冷えて、震えてきた私の前に。
「……馬場っ! 大丈夫か!」
現れたのは、大好きな人だった。
「何かあったのか!?」
「先輩、ハチが!」
「ハチ? それより、馬場は……」
「ハチが、いなくなっちゃって、あの、それで」
つっかえながら先輩に必死に説明していると、先輩は変な顔をした。
「……ハチなら、そこに」
「え?」
先輩が後ろを振り向く。視線を追うと、お座りをしている、ハチがいた。
唖然として、先輩を見る。
「連れてきて、くれたんですか?」
「いや、俺のとこに、急にハチだけが来た。それで俺を一生懸命引っ張っていくから、ハチについて、ここまで来たんだ」
「……えええ?」
ハチは、舌を出しながらこっちを見ている。どこかドヤ顔に見えるのは何故だろう。ハチの顔を両手でつかみ、思いっきり引き伸ばしたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢する。
「……すみません、ハチが、迷惑を……」
「いや、いいよ。もう来ないのかなって思って帰ろうとした時に、ハチだけが来たから。馬場に何かあったんじゃないかって、心配した」
「あ……いえ」
私は、申し訳なさとか、恥ずかしさとか、あと、どうしていいか分からない気持ちで、俯いたままだった。
「……こんな、時間まで」
「ん?」
「こんな時間まで、待ってたんですか?」
もう遅い時間だ。寒いし、暗いし、犬と遊ぶような時間じゃない。そこまでハチは、受験勉強で疲れた先輩の心のよりどころになってたんだろうか。
だとしたら申し訳ないけれど――でも、ハチはうちの犬なわけで。
そんなことを思っていると、先輩は、ちょっと頭をかいた。
「……昔飼ってた犬のこと、思い出した。似てるなって」
「はあ……」
犬って犬種が同じなら、大体同じように見えるような気もするけれど――でも、先輩の飼ってたの、チワワって言ってなかったっけ。そう思っていると、先輩は話を続けた。
「マロン――あ、犬の名前。アイツ、家族みんなで同じように飼ってたのに、なぜか家の中で俺だけに特別懐いてた。別に俺が何かしたってわけじゃないと思うんだけど、いつも何かと真っ先に俺のことを見てたんだ」
「……先輩が、犬の扱いが上手だからじゃないんですか?」
「マロンがうちに来たの、俺が生まれるより前だったよ」
赤ん坊の先輩は、犬とボール遊び……はしないだろうなあ、さすがに。
うちのハチは、お兄ちゃん、お母さん、私、お父さんの順に懐いているけれど、それは、子犬の時から一番面倒を見てたのがお兄ちゃん、今はご飯をあげているのがお母さん、お父さんはあんまり家にいない――という理由があるから、懐き方に差があるのは、まったく不思議ではない。
「それは、不思議ですね」
「でも、今日、時間も忘れるくらい待ってみて、別に不思議なことじゃないかもしれないなって、考えた。きっかけは些細でも、待てるものだったから」
「……?」
言っていることがよく分からない。
私が先輩の話を整理しようと、言われたことを頭の中で繰り返していると、先輩は犬を撫でる時みたいな満面の笑みで手を伸ばして、くしゃくしゃって――私の、髪を撫でた。
「テニス部の時から、俺のこと見てただろ。ここで話してても、俺がハチを見ている間だけ、横目でこっち見てるの気付いてたよ」
「部活の練習でも、ろくに話したこともないのに何でだろうなって、思ってた。でも、ここで一緒にいるうちに、マロンのことを思い出した」
「……犬と一緒みたいな言い方で、失礼かもしれないけど。俺を特別扱いしてくれるの、それだけで、嬉しいなって、思ったら」
――色々、言われていたけど。ほとんど内容が入ってこない。
だってその間も、先輩の手は私の両耳の辺りに添えられたままだから。
「せ、せんぱ、い?」
「俺、馬場が」
「ワオン!」
先輩の声を遮るように、すぐ傍でした犬の鳴き声。はっとしてみれば、ハチが鼻先で、先輩の腰の辺りをつつきながら、キラキラした目で見上げていた。
自分も撫でて! ということ、みたいだ。
先輩はきまり悪そうに、私から一歩離れて、ハチの頭を軽くぽんぽんと叩くように撫でた。私は――耳が熱い。あと、ううう、とか、あうう、とか言うばかりで、ちゃんとした言葉が出てこない。
一回顔を覆って下を向いちゃったら、全然先輩の方を見れない。さっきまで寒いくらいだったのに体中熱いくらいだし、心臓がバクバク言って周りの音が全然入ってこない。
恥ずかしすぎて、でも、嬉しくて、どうしよう。
「……可愛いなあ、本当」
いつもより落ち着いた声で言ったその言葉は、自惚れじゃなければ、私に言ってくれてるんだ。
でも、たくさんの人の中から好きになってくれただけで、好きになる理由は十分かもしれないから。
企画に飛び入り参加させてくださったアンリ様、読んでくださった皆様、ありがとうございました。