━━━第一章・深き緑の隠れ里━━━ 8
「きゃああああああああああああああああっ、後ろに立つな近づくなぁ! しっし!」
そこには、この隠れ里で長老と呼ばれる男が立っていた。がばっと振り向いたキサは、ハエを払うような仕草で露骨に嫌がり、後ずさる。
「しっし……って、まったくヒドイですね、この娘は……」
飄々《ひょうひょう》としてトボけた表情の、どことなく猿を連想させる面長の彼。
藍色を基調に尾長鳥丸の有職文様が入った優雅な直衣、鶸色の袴を藤立涌の文様がおぼろげに彩る。ちなみに直衣とは、平安時代の貴族が用いたフォーマルに近い普段着の事。立烏帽子からはみ出た白髪混じりの髪によって、かろうじて五十過ぎの年齢だと伺える。
ただ──随分と若く見えるので、長老と呼ぶのに違和感をもっている里人も多い。キサもその一人だった。
「うっさい! それ以上、近づくなって言ってるでしょうがっ」
身の危険を本能的に感じたキサは、両手をクロスさせてムネを庇い、キツネの尻尾を回り込ませて股ぐらをガードする。痴漢対策はこれでばっちりだ。
「もうヒドイなぁ……、まだ何もしてませんよ?」
手をがっちりと後ろに組み、これまた飄々とした笑みでゆっくり歩み寄ってくる長老。キサは一瞬、言葉に詰まった。
「うぐっ……、何もしてないって、これからするとこだったんでしょうがっ!」
そう、振り向く間際にキサは見ていたのだ。背後から来た長老の手が、卑猥な動きをしていたのを。
長老からセクハラされるようになったのは、一年ぐらい前。キサが人の姿を得る事に成功してからである。キツネの時は全く見向きもしなかったのに、今では毎日のように触ってくるこのエロじじぃに殺意が芽生える──どころか、いつ爆発するか分からない。
「えーっ……、するもなにも……、そんなペッタンコなムネ、触ってもしょうがな……」
思いっきり残念そうなその言葉を遮ったのは、キサのパンチ。空を裂く鋭い音が、当たればタダでは済まない威力を物語っている。
「もぉ、危ないですねぇ」
まさに間一髪、首をねじってそれを避けた長老。ニンマリと、いやらしい笑みを浮かべる。
「ほーら、やっぱりペッタン……」
見事なクロスカウンターだった。ただし長老の手は、感触を楽しむようにキサのムネを這っている。
「きゃあああああああああああああっ、いやああああああああああああっ、この変態っ!」
キサの全身に鳥肌が立った。それはもう、狂ったように手足を振り回す。もちろん、格闘の基礎はしっかりしている。流れるような身体さばきで、的確に急所を狙ってはいるのだが──。
当たらなければ、どうという事は無い。長老は彼女の全てを見切ったかのような動きで、その攻撃をかわし続けた。
やがて、ここまで階段を登ってきた青春真っ盛りのキサと、一応長老。どちらが先にスタミナが尽きるかと言えば──。
「はぁっ……、はぁっ……、近づかないでよっ……、この変態じじぃ」
視界が揺らいで意識が飛びかけたキサは、かなり大きく間合いをとって膝をつく。当然の如く、ボサボサ尻尾で隠す事は怠らない。
「いけませんねぇ……。そのようにすぐ癇癪起こすようじゃ、嫁の貰い手がありませんよ?」
年老いてもなお精力絶倫が自慢の長老。
彼──碓氷 厳時は、鎮西地方に知らぬ者はいない豪傑なのだ。
タフさも、まだまだそこらの若い者には負けないはず。ただ、その名前と素性を知る者は隠れ里でもごく僅かで、キサや双七郎も知らない事だった。
「うっさい! 誰だって怒るわよっ」
「それにしてもどこへ行ってたんですかぁ? 双七郎君もまだ来ないし……、人が呼んでる時は早く来なさい。それが常識というものです」
キサの反論をよそに、やれやれと自分の肩を叩きながら溜め息をつく長老。
「アイツの事なんか……。なんで、あたしが知ってなきゃいけないのよっ!」
お雪を見てデレデレする双七郎を思い出し、口惜しさのあまり地団駄を踏むキサ。
その時、噂をすればなんとやら。隠れ里の出入口──つまり、ここの真下から双七郎の声が聞こえてきた。
「お多満ババァ、ただい……」
瞬間──何かを砕く、ものすごい音が響き渡った。
「あたいの事はお姉様って、それ以外クチにしたらタダじゃ済まないって言ってるでしょお?」
いやもう、ただごとじゃないんですけど──。
おそるおそる下の様子を覗いてみると、血まみれになった双七郎の姿。
吹っ飛ばされて崖に激突したのか、ぐったりしている。ぴくりとも動く気配がない。
「ま、いいでしょう。実は……」
そんな崖下で起こった惨事を華麗にスルーして、本題を切り出そうとした長老に、
「やだ」
キサは即行で拒否。二人の間を険悪な空気が流れる。
「まだ、何も話してませんよ?」
「いやっ!」
さっきセクハラされた直後に、はいそうですか、と素直に話を聞けるデキた女の子は、どこを探してもいないだろう。喧嘩腰な態度を崩さず、返答を断固として変えないキサ。
「実はですね……」
「やだって言ってるでしょ!」
理不尽な出来事によって満身創痍に陥った双七郎が、よたよたした足取りでここにたどり着くまで、このやり取りは延々続くのだった。