━━━第一章・深き緑の隠れ里━━━ 6
* * *
二段川の上流へ近づけば近づくほど、白漣山の麓に鬱蒼と茂る大森林へと入り込む。
川岸に敷き詰められた石は、次第に大きくゴツゴツしたものへと変化していくが、川の流れはそれほど激しくはない。やがて、左右の木々が川へ降り注ぐ光を微妙に遮っていき、幻想的な緑のコントラストを醸し出す。
期待はしていなかったが、それでも時々後ろ髪を引かれるように振り向くキサ。やはり誰も付いてきてない事を確かめると、一層むくれ顔になってずんずん前へ進んでゆく。
(お雪さん、お雪さんって、なにさっ……、ばかばかばかぁ)
「おぉ……かぁ……えぇ……りぃ……」
そんなキサに、いきなり野太い声が降ってきた。テンポも遅い、たどたどしい言葉であった。目をぱちくりさせて見上げても、そこには断崖絶壁がそびえ立ってる──ようにしかみえない。
崖の上には木々が生い茂って辺りを薄暗くしており、そこから無数の蔦が複雑に絡み合いながら、岩肌の模様を覆い隠すように下へ伸びている。
崖の下には結構大きな穴があり、そこからせせらぎと共に清らかな水が、キサの来た方向へ川となって流れている。
きょろきょろ見回して現在地を再確認している様子のキサに、さらにその声は精一杯の様子で言葉を紡ぎ出す。
「ぬぅ……りぃ……かぁ……べぇ……」
それは、声の持ち主の名前。塗壁という[もののけ]である。門番として住人の出入りを管理すると共に、カモフラージュによって隠れ里を外敵から守っている。最近、血眼でこちらを探す鎮西府の役人がいたのだが、彼のおかげで発見されるには至らなかった。まさに隠れ里にとって無くてはならない存在である。
そして同時に、崖の一部が大きな音を立て始めた。
「……ただいま」
複雑な響きを含んだキサの挨拶をよそに、崖の一部がせり出してくる。
「げぇ……ん……きぃ……だぁ……せぇ……」
彼女の様子を察した塗壁は、相変わらずの語調で慰めの言葉を発しながら、ついに崖と自身の、真の姿を明らかにする。
蔦に覆われて気付かなかったが、よく見ると明らかに不自然な崖である。声が発せられた辺りは、きれいに整えられた石壁なのだ。それがスライドして崖本来の姿をさらけ出す。塗壁が右へ移動すると、崖下にあった水の流れる大きな穴が更に開いて、高さ十メートル幅は五メートルほどの洞窟となった。
最後まで見届けたキサは、無言で闇へと歩き出す。
洞窟は、左側が川へと流れ込む水路、右側が通路になっていた。水路は小舟が通るのに充分な広さではあるが、それに対して通路の幅は、人が一人通れるぐらいのものでしかなかった。
だいたい二分ぐらい歩いた所で、洞窟は終わる。出口に近づくほど、水が上から下へ豪快に落ちていく、つまり滝の音が聞こえてくる。
「おやまぁ、キサちゃんおかえりぃ」
洞窟を抜け出たキサに、いつも元気で明るいオバサンの声が響いた。それを皮切りに、周りにいた里人達も、手を一旦止めてキサに挨拶を投げかける。
「たっ……、ただいま」
皆につられて、笑顔で挨拶──したつもりだったが、
「ほらぁ、元気だす! あんたは元気なのが取り柄なんだからねぇ」
いきなり背中をばんばんと激しく叩かれて、よろめくキサ。
ふくよかな体つきで、性格も豪快なオバサン。名前はお多満という。心ない人々の迫害に苦しむ[もののけ]達を匿うのが、本来の目的であるこの隠れ里において、影のリーダーと言われている実力者。もちろん、れっきとした人間である。
「そっ、そうよねっ……オバサン! あたしの取り柄で、あの娘とは違った良さで、勝負すればいいんだわ。ありがとっ!」
そう、お多満が皆から慕われている理由はこれだった。どんなに落ち込んでいても、彼女に励まされれば不思議と力が沸いてくる。前を向いて、ポジティブに行こうと決意できるのだ。
「キサちゃん……」
「なーにっ?」
だが、急にお多満の目つきが鋭くなった。空気が変わる。