━━━第四章・月下に揺らいで━━━ 9
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一方その頃──。
「先程の揺れは、酔いのせいでは無かったらしいな……」
震源地の九露湖より遠く離れたここ、鎮西地方最大の都市として栄える鶴城でも、地震による騒ぎが起こっていた。警邏の役人が、垣根の外を慌ただしく走ってゆく。彼らのもたらした情報によれば、いくらか倒壊した建物があるらしいが、現時点で火事にはなっていないようだ。
「面倒ごとは、下っ端に任せるがいいさァ」
「…………そうだな、兄上」
今の己に、できる事など何一つ無い。
寝殿造の簀子に立っていた白き狩衣の貴公子は、跳ね上がった蔀戸をくぐり、御簾を分けて部屋へ入る。ちなみに──簀子とは廊下で、雨戸のような役割をするのが蔀戸、御簾は部屋を区切る家具である。
「しっかし、キミも呑んだくれになったもんだねェ」
部屋の真ん中には、黒台盤に海苔オニギリが乗った食器が並び、杯や長柄銚子もある。二人が対面になるように草塾が置かれており、その片方には──黒い狩衣をまとった老け顔の男が、既に腰掛けていた。補足として、黒台盤は黒いテーブル。草塾とはワラを芯にして円く括って錦などで見栄え良く包んだ、円筒形の腰掛である。
「雪音がいなくなったあの日から、<もののふ>にもなれぬ予は……、さしずめ酒将軍と言った所だな、はっはっはっはっはぁ……」
自嘲の笑いを漏らしながら腰掛けた白き貴公子こそ、鎮西地方の支配者である鎮西将軍。そう、双七郎の憎き仇──評 利光その人なのであった。
鎮西地方の守り神を詐称する〝白露ノ大蛇〟を討ち果たす事には成功したが、それと引き替えに、雪音というかけがえのない雪女を失ってしまった。もちろん、この件はトップシークレットなのだが、永遠の伴侶と言うべき彼女が消えてから、こうした酒浸りの日々が続いているのだった。
「キミは、たかが一匹の[もののけ]にこだわり過ぎなんだよねェ」
黒衣の男──評 光房は、蛇のようにギラギラした目つきで、杯の中身を口に流し込んだ。
この二人は、実力立場ともに天と地ほど離れているが、腹違いの兄弟である。今は、プライベートな場ゆえに、本来なら許されない兄の言葉遣いも不問にしていたのだが、
「兄上ぇ……、もののけ[もののけ]であろうが一人の女性! 男ならば、思いを一つに定めるべきだぞ!」
珍しく憤った利光が、黒台盤を両手で叩いて立ち上がり、酔った勢いで熱弁を振るう。絶世の美男子として全国の女性から圧倒的な支持を得ている彼は、意外と純情一直線であった。
「キミは何も分かってないねェ……。女ってのは、使い捨ての楽器なのさァ。鳴き声を楽しむ為にあるんだよォ。試しに、今日捕ってきたコギツネちゃんでも抱いてみないかァ? きっと、イイ声で泣くよォ、くひゃっ!」
隣の部屋で横たわっているキサの影を指して、ニタリと嫌らしく唇を歪めた光房。
「そんなフシダラな事、できる訳ないだろう!」
「キミはまだまだ若いからねェ。でも、いつか分かるだろうさァ」
「ふ……、分かりたくもない……」
話が平行線になる事を悟った利光は、海苔で巻かれたオニギリを手に取って、勢いよくかじった。パリッと心地よく乾いた音がすると共に、ほのかな海の香りが口に広がった。ちなみに海苔は、庶民が決して口にできない最高級の贅沢品である。
ついに、双七郎の仇の視点になりました。




