━━━第一章・深き緑の隠れ里━━━ 4
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狂骨をあっさり倒したキサ達は、上流へ向かって川岸を歩いていた。
鎮西地方で最も高く美しい山である白漣山の麓から、この二段川は続いている。そして彼らの住む隠れ里も、ひっそりと存在していた。一年前、朝廷に反逆して賞金首となった者が集まり、再起のチャンスを伺いながらそこで生活しているのだ。
したがって、川を下る小舟のほとんどは隠れ里の住人が利用している。帰途についた双七郎とキサが遭遇したそれも例外では無かった。
その小舟には二人乗っており、韋駄天の<もののふ>を名乗る空吉が櫂を持っていた。彼は、れっきとした隠れ里のメンバーなのだが、自慢の脚力を売り込んで、朝廷の出先機関である鎮西府の役人となった。つまり、スパイ活動をする為に。
しかし、問題なのは彼ではない。もう一人の方だった。
その姿を見ただけで、双七郎の顔がデレデレと緩んでゆき、キサの表情が険悪になる。
百年に一人の天才と称される兄のバサラとは違って、なかなか人に化ける事ができなかったキツネの[もののけ]であるキサ。周りから落ちこぼれと言われ続けても、彼女は健気に努力した。
バサラと双七郎に、尻尾を筆代わりに使われたり、襟巻きにされたり。時には、とても口にはできない、すごく恥ずかしい事もされたが、まさに血の滲むような努力のおかげで、ようやく成功した──と、思いたい。
キツネの耳とぼさぼさ尻尾がはみ出てる、不完全な状態ではあるけど。
「あ……、双七郎さま……、丁度よかった……」
されど、人間の姿を獲得できた本当のきっかけは一年前、キサのライバルとも言うべきこの少女が、ひょっこり現れた事であろうか。鼻の下を伸ばす双七郎を見て、言い様のないムカムカが湧き出てくる。すぐにでも彼の背中を蹴飛ばしたい衝動を、キサは必死で抑え込んでいた。
「お雪さん、こんな時間におつかい……、ですか?」
天を仰げば、日が西へ傾きかけている時刻。
隠れ里の用事は、大抵が朝からスタートして夕方には必ず終わらせる。お尋ね者とは言え、手配書が近隣に出回っている訳ではなく、堂々と真っ昼間に活動してても見咎められる事はなかった。スパイの空吉曰く、鎮西府は反逆者の残党狩りに消極的のようだ。ただし、夜な夜な動き回っていれば、さすがに捕まるかもしれない。
「きゃ……」
小舟から降りようとして前へ倒れそうになった彼女を、双七郎は今がチャンスとばかりに素早く支える。空吉も背中をフォローしていた。
(絶対わざとよ、媚びちゃってさ。あーもぉ、いつまでもベタベタしてんじゃないわよっ)
前後から挟まれる形で二人の男に密着された彼女を、もの凄い形相で睨み付けるキサ。
「あ……、ありがとうございます……」
年の頃は十六ぐらい。雪のように透き通った白い肌に、しっとりとした藤色の長い髪を持つ、どちらかと言えばキレイというより可愛らしい顔立ちをした童顔の少女。細い眉を優しく覆う前髪の隙間から〝小さくて白い、鱗のような物〟が見え隠れしている。いかにも男達の庇護欲を刺激するタイプで、苦労なんかまったくした事の無い箱入りのお嬢様だったのだろう。
「……すみません。ちょっと暑くて……」
雪女という[もののけ]だから、お雪さん。生まれつき声帯が弱く、消え入りそうな小さい声の持ち主──と、思ったら実はそうでもなくて、地声が透き通る高音域ゆえに聞こえづらい事実が、最近判明した。
しかし、過去に関する一切の事柄、更には本当の名前も明らかになっていない。本人ですら知らないのだ。いわゆる記憶喪失なのである。
そんな彼女が来て、もうすぐ一年が経とうとしていた。