━━━第一章・深き緑の隠れ里━━━ 2
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鎮西地方には、白露様という守り神がいた。
だが、天下を統べる朝廷が白露様の討伐を決定。突如として征討軍を送り込んできた。それに対し、鎮西地方の住民達は義勇軍として立ち上がるものの、全てにおいて朝廷側が優位なのは火を見るより明らかだった。
そう、すべては一年前から始まる。
両軍がにらみ合って、五時間が経った頃だろうか。
肌にちくりと刺さるような凍てつく空気を絡め取った一陣の突風が、この地へ集った者どもに真っ向からぶつかる。まだ紅葉も染まり始めたばかりの季節に、少し太陽が西へ傾いた時刻。日差しをさえぎる雲も無く、空は青く澄んでいるにも関わらず──北国で生計を立てる屈強な男達でも、思わず弱音を吐くほどの寒さであった。
「うー、さむっ! なんでこんなに寒いんだよっ!」
いつも着ている直垂に熊の毛皮を防寒着として背負う、元服間近で望まぬ初陣を迎えてしまった双七郎も、ぶるぶると震えながら苛立ちを露わにする。
「まるで冬が来たみたいだぜっ、ちっきしょう!」
「まさに……、その通りじゃ。あやつが出てくるとはの……」
手の平をスリスリしたり、飛び跳ねたりして、身を暖めようと努力する彼の背後から、気配と共に聞き慣れた声が発せられた。
「……評 利光。冬将軍と畏れられる<もののふ>じゃ」
振り向きざまに見た師匠の表情は、双七郎が初めて目にするものだった。言葉では、うまく言い表せないが──絶望のどん底に叩き込まれたのは感じ取れる。
その視線の先をたどると、敵の総大将らしき姿があった。白い狩衣に身を包み、銀の髪をなびかせた青年だ。狩衣とは、平安時代の貴族が愛用していたカジュアルな普段着である。
黒い甲冑がひしめく軍勢を退かせ、ゆっくりとした足取りで、こちらへ近づいて来ている。
どうやら、<もののふ>による一騎打ちで決着を付ける気らしい。
「人生、何が起こるか……、本当に分からんものじゃのぅ」
うろこ雲に彩られた初秋の空に、染み渡るようなつぶやきだった。
「師匠……」
朝廷の役人として、この鎮西地方の為に尽くしてきたのに。
今では、反逆者の筆頭にされて討たれようとしている。
まさしく、一寸先は闇──である。
しかし、双七郎は誇らしかった。全てを捨てて、正しい事を貫こうとしている師匠を。
「なーに辛気くせぇ顔してやがる。冬しょーぐんだか春ショーグンだか知らんけどよ、なんでもかかってこいってんだ。俺達にかかりゃ、誰が来てもちょちょいのちょいだろ?」
いきなり横合いから現れ、相変わらずのカルい調子で不敵な発言をしたこの男。自称、麗しき天才妖狐のバサラという。
だが、尻尾はどこにも見当たらないし、耳も人間のそれと変わらない。左の耳に赤い宝石のピアスをしているのが、少々目立つぐらいだ。誰もキツネの[もののけ]とは判断できないだろう。
金色に逆立ってパリッとした頭髪は、何を塗っているのかは知らないが、強風にビクともしない。一方、服装は袴や羽織をまったく身につけない着流しスタイルで、登り龍をかたどった金糸の刺繍が背中に入った緋色の着物を、だらしなく纏っている。
実の妹であるキサとの共通点は、派手な着物を好む所であろうか。
「あったりめぇだ、師匠が負ける訳ねぇよ!」
嫌な予感を振り払うべく、めずらしくもバサラに同調した双七郎。いつもは喧嘩ばかりしている二人だったが──。
「そうであったら、いいのぅ……」
大きなため息をつきながら、師匠は意を決したように言葉を続ける。
「ここはワシらが食い止める。双七郎……お前は、白露様をお守りしながら退くのじゃ」
それを聞いた瞬間、双七郎の頭はカッと沸き立った。
「ちょっ、待ってくれっ! なに言ってんだよ、オレも一緒に……っ」
「はっきり言って足手まといなんだよ。テメェはよぅ!」
師匠の胸ぐらを掴もうとする双七郎を、先に体当たりで突き飛ばしたバサラ。
「なにしやがるっ! この……っ、野郎!」
受け身を取れずに地面をなめた双七郎は、矛先をバサラに変えて懐へ踏み込んだ。至近距離から、全体重を乗せた右ストレートを打ち込む。
パシィ──と、良い音が鳴った。
「おーいてっ……、俺はキサと違ってか弱いキツネなんだぜ?」
だが、左手一本でそのパンチを受け止めたバサラ。手首をヒラヒラさせて痛がっているのも、束の間──。
足を引っかけられ、双七郎は再び地面へ打ち付けられた。
「どうだ、これで分かったろ? 弱えぇ奴は引っ込んでな!」
今まで、バサラに喧嘩で勝った事は一度も無い。しかも手加減されているのだ。口惜しさの為か、涙があふれてくる。
「喧嘩はいかんと言っとるじゃろうが。このばかもんっ!」
結末はいつもの如く──勝ち誇ったバサラの頭に、師匠のゲンコツが落ちるのだった。
唐突に、時間を遡ります。