○9
青年貴族たちの個人情報や本邸に届いた縁談を聞かされながら、メイアはむっつりしていた。
「お気に召さないか?」
義兄は苦笑交じりにそう尋ねてきた。
「私は人のいい無能がいいとかねてから言っているはずです。お義兄様のおっしゃる話は皆優れた紳士ではないですか。私はそんな人望んでいません」
眉間に皺を寄せてそう言うと、義兄はため息をついた。
「だから、性格が良ければ学や能力は問わないというのは分かっているが、その言い方はよせと言っているだろう。失礼だ」
「性格が良ければ学や能力は問わないんじゃないです。性格が良くて学と能力は底辺な人がいいんです」
「……」
義兄は難しい顔でメイアの方を見ていた。たぶん、分かっていない。
「……性格が良いというのはともかくとして、どうしてそんな男が良いんだ」
「人の性的嗜好にケチをつけないでください」
「せ、っ……」
そこで言葉に詰まってしまうのが義兄のいい所だと思う。
義兄は一つ咳ばらいをし、話を戻した。
「……とにかく、君の好みは分かったが、希望通りの相手と結婚できるとは限らない。ランメルト伯爵家のことを考えるなら、ある程度の知識と技量は求められることになる」
「どうして私の結婚にランメルト伯爵家が関わってくるんですか」
すかさずメイアは尋ねた。
貴族の結婚はしばしば政略結婚となるので、メイアの夫選びに伯爵家の都合が付きまとうのは当たり前のことではある。
けれども義兄の言い方に、メイアは嫌な予感がした。
義妹の問いに、義兄は気まずそうに目を逸らした。
「……君の夫となる人に、ランメルト伯爵家を任せてはどうかと思う」
静かな義兄の言葉に、メイアはすっと目を細めた。
「どうしてですか」
既にしてメイアは徹底抗戦の構えを見せていた。
義兄は一旦口を噤み、やがて開いた。
「俺には他に道は無いように見える。きっと、定められていたことだったんだ。何もかも」
義兄の物憂げな横顔が、メイアの目に沁みた。
彼の目はどこか遠くを見ていて、そこにはメイアも彼自身も映っていない。
「俺は孤児でランメルト伯爵家の血を継いでいない。そんな俺がこの家を継いでしまったら、ランメルト伯爵家の中に流れる一族の血は途絶えてしまう。それだけじゃない。ただの平民の血を守らんとする貴族として、この先ずっとランメルト伯爵家が後ろ指を指されることになるだろう。でも、君か君の夫が継げば、家の名も血統も守られる。将来的には、子どもを複数人産んで誰か一人に継がせてもいいし、君の夫の称号と一緒に跡継ぎに継がせてもいい。どちらにせよランメルト伯爵家はあらゆる意味で守られる」
「……本気で言っているんですか」
メイアの唇は震えていた。
義兄は相変わらず涼しい目で遠くを見ていた。
「ああ。本気だ」
それから彼は重苦しいため息を一つつき、後を続けた。
「本当に俺がこの家を継いでもいいのか、ずっと悩んでいた。跡継ぎとして立派な人間にならなければいけないと思って、勉学だって剣術だって自分なりに努力してきたつもりだ。でも、平民の血統の優秀な人間と貴族の血統の平凡な人間なら、後者の方がこの貴族社会では歓迎される。それに納得しているわけではないけれど、でも現実の話としてそういう強烈な風潮がある。それでも足掻こうと思っていたけれど、俺は一人じゃないと気付かされた」
義兄はぱっと顔を上げ、メイアの目元を撫でた。
オーデリカによってつけられた傷は、まだいくらか残っている。
「俺がこの家にいるせいで、君が貶められる。ランメルト伯爵家が笑われる。俺がオーデリカ様との婚約を解消したせいで、俺だけではなく君の縁談も難しくなってしまった。それでも、伯爵領と称号を手土産にすれば、いい相手と巡り合えるだろう。だから、義父上と義母上の希望に沿うことはできないけれど、これが俺の出した答えだ」
「……それで、お義兄様はどうなさるおつもりなんですか」
「え?」
「私の夫に爵位を譲って、そのあとお義兄様はどうなさるのですか」
メイアが問うと、義兄は首を傾げて微苦笑した。
「さあ、どうしようか。ただ、ランメルト伯爵家には一生掛かっても返せない恩があるから、跡継ぎという形でなくとも生涯尽くすことを誓っている。君のご主人の許可を得て、下男にでもなろうか」
その言葉と態度にかっとなり、メイアは手元にあったクッションを引っ掴んで隣に座る義兄を殴った。
殴ったといっても所詮は綿の詰まったクッションで、ぼすんと鈍い音を立てるだけである。
そんなちっぽけな一撃では義兄の心をどうすることもできない。
義兄は驚いたようだったが、「クッションは人を打つものではないよ」といつもの調子で言って、弾んで転がったメイアのなけなしの武器を拾った。
「メイア、ほら。恵まれた境遇であればこそ、物は大事にしないと。メイア……」
そういってふかふかのクッションをメイアに押し付けると、不意に彼の声が揺らいだ。
「メイア、お願いだから……。そんな悲しそうな顔で泣かないでくれ……」
メイアだって泣きたくて泣いているわけではない。自分がどんな顔をしているかなんて知らない。
ただ、義兄の選んだ道に心臓が潰されてしまいそうだった。
拭っても拭っても、涙が止まらない。
義兄はメイアの肩を抱き、背中を撫でてくれた。
優しくされるほど、いっそう涙がこみ上げる。
あんまりだ。
父と母は、彼に血統を実力で乗り越えて欲しいと願っていたはずなのに。
義兄も、それを分かっていたはずなのに。
メイアが産まれてしまったせいで、ランメルト伯爵家には別の道ができてしまった。
義兄はそれを選んでしまった。
義兄は次期当主としてここまでの長い道のりを必死に歩んできたのだろうに、最終的に辿り着いた選択肢は、自分が歩んできた道のりを全否定するというものだった。
それは自分の存在を否定することと同じだ。
「ごめんなさい……わたしのっ、せいで」
メイアは産まれてきたから義兄に会えたのに、産まれてきたことで義兄の居場所を奪ってしまった。
「違う、君は何も悪くない。だからどうか、自分を責めないでほしい」
義兄はメイアを抱き寄せたまま、しきりに背中を擦っている。
メイアも義兄の背に手を回し、ぎゅっと強く抱きしめた。
「俺は、君に幸せになってほしい。それだけだ」
義兄の手のひらが頭や背を撫でる。
幼いころはよくこうして慰めてもらっていた気がする。
懐かしくて、温かくて、愛おしくて、メイアはさめざめと泣いていた。
ひとしきり泣くと、毒素が抜けたかのように心が落ち着く。
あるいはそれは、義兄が抱きしめて撫でてくれていたからかもしれない。
泣き止んだメイアは一度深呼吸し、義兄から少し体を離した。
「落ち着いた?」
その問いかけに、こくりと頷く。
泣いたせいで、きっと目元は腫れて見苦しいことになっているだろう。
けれども義兄は優しく微笑んで、頬に残る涙の筋を温かい手のひらで拭ってくれた。
「よしよし」
言いながら、頭を撫でてくれる。
本当に、小さいころのようだ。
あの頃はただ、感じるままに望むままに、「おにいさまとけっこんします!」と言い張っていられた。
今も言えたらいいのに。
けれどもう、二人はそこまで子どもではない。
メイアはもちろん、義兄もまだ一人前とは言い難いだろうが、それでも異性と結婚できる歳である。
色々なことを考えなければいけない。
メイアは今一度深呼吸し、切り出した。
「そんなことは許されません」
自分で想像していたよりも、落ち着いたはっきりとした声が出たことに、密かに安堵した。
一方で義兄は驚いたように固まっている。
メイアは続けた。
「私はもちろん反対しますし、お父様もお母様もお聞きにならないと思います。お二人にはもう話したのですか」
そう聞くと、義兄はさっと視線を泳がせた。
「お義兄様が私のことを思いやって下さるお気持ちはとても嬉しいです。ですが、そのような願いはとても聞き届けられません。中途半端なところで投げ出すような真似はお止めください」
義兄の手を両手で握り、彼の瞳を見据えながらメイアは言った。
残酷なことを言っているとは分かっていた。
アルザスは、辛いのだ。ずっと苦しい思いをしてきた。
今のメイアは、そんな彼にこのままずっと苦しんでくださいと言っているようなものだ。
それでも、それは言わなければいけないことのように思えた。
「ランメルト伯爵家の跡継ぎはお義兄様ただ一人だけです。他の誰にも、その資格はありません。お義兄様だけが、この家を継ぐために長い間努力を重ねてきたからです。お一人では大変だというのなら、お父様もお母様もいらっしゃいます。使用人たちも、味方になってくれます。私も、大したことはできないかもしれませんが、お力添えします。ですからどうか、やめてしまわないでください。私のお義兄様は、お義兄様ただお一人しかいらっしゃらないのです」
精一杯心を込めて告げると、義兄は辛そうに眉間に皺を寄せた。
それを見ただけで、メイアの胸が裂けそうに切なくなる。
「俺はもう、君の義兄ではいられない」
「いいえ。貴方は私のお義兄様です」
「俺には、君の隣にいる資格なんか――」
彼の言葉がこれ以上彼を傷つけてしまわないように、メイアは咄嗟に彼の口を封じた。
本当に突発的な行為で、何も考えていなかった。
気付けばメイアは義兄の言葉を遮るように彼に口付けていた。
はっとして、顔を離す。
義兄は驚愕に目を見開いていた。
彼の瞳に、同じように目を見開いている自分が見える。
なんてことをしてしまったんだろう。
自分が何をしたのかを理解して羞恥と後悔が俄かに湧き起こりかけたが、それも中断させられた。
今度は義兄がメイアを抱き寄せ、その頬に手を添えて口付けてきたからだった。
「んっ……」
驚いて、目をきゅっと瞑る。
お義兄様とキスをしている。
どうしてこんなことをしているのだろう。
分からない。
けれど、それは甘く切ない口づけだった。
メイアは何故か義兄とキスをしていて、そしてそれはすぐには終わらなかった。
繰り返し、少しずつ角度を変えながら義兄は唇を押し当ててくる。
メイアは目蓋を閉じて、大人しくそれを受け止めていた。
まるで睦まじい恋人のように、幾度も唇を重ねる。
そのうちに、メイアの口唇をそろりと撫でるものがあった。
それが彼の舌だと気付き、密かに動揺しながらも少しだけ口を開ける。
「んん……」
義兄の舌が口腔に挿し込まれる。
不慣れな感覚に、メイアの体が強張った。
腰に手を添えられ、優しくソファに押し倒される。
義兄に圧し掛かられるような体勢のまま、深い接吻は続いた。
「ぁ……んっ」
自分のではないものが口内を這い、上あごや歯列を撫でている。
怯えるように奥に引っ込んでいた舌を絡めとられると、メイアの身体から力が抜けた。
「ふぁ、ん……」
自分でも聞いたことが無いような、鼻に掛かった甘い声が喉を抜けた。
義兄の接吻はとても優しくて、気持ち良いような変な感じが体の奥に広がっていく。
気付けばメイアは義兄の口吻に応えるように自分からも舌を絡めていた。
頭がぼうっとして、体が熱い。
ずっとこうして、唇を重ねていたい。
義兄はようやく少しだけ顔を離し、鼻先がぶつかるような距離でメイアを見つめてきた。
メイアも義兄を見つめ返す。
彼の眼はうっすらと潤んでいて、その瞳の奥で小さな焔が揺らめいていた。
きっと自分も、似たような眼をしているだろう。
「おにいさま……」
彼を呼ぶ声は、吐息が零れるようだった。
義兄ははっと目を見開いた。
弾かれたようにメイアから離れて起き上がり、信じられないものを見るような目でこちらを見た。
メイアも驚き、上半身を起こす。
彼は手の甲で口元を拭っている。
その目は明らかに泳いでいた。もう潤んでいるようにも焔が揺らめいているようにも見えない。
「俺はっ……。すまない」
そういうなり立ち上がって、鼠のような速さで部屋を出て行った。
バタンと大きな音と共に閉められた扉を、メイアは呆然と見つめていた。




