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●6

 数十日前、アルザスは一つの決心をした。

 それを告げる日はひどく懊悩して、出掛ける間際には胃の中の物を全部吐くほどだったけれど、それでも気持ちは変わらなかった。

 変えられなかったと言った方がいいかもしれない。

「申し訳ありません。貴女とは、結婚できません」

 二人きりの部屋でそう告げると、オーデリカは目を見開いた。

「……どうして」

「愛している人がいるからです」

 アルザスが真剣な顔でそういうと、オーデリカは口角を上げた。

「はあ? そんなことが何の理由になるの? 私にだって、あんたなんかより好きな人はいくらでもいるわ。それとこれとは別でしょう」

 確かに、彼女の言うとおりだ。

 少し前まで自分もそう考えていた。

 貴族の結婚はしばしば計算づくで、それは感情とは別に存在するものだ。

 結婚は利益を見込める相手と行い、恋がしたいなら愛人でも作ればいい。

 お互いがそのつもりで結婚するなら、問題も起こらない。

 でも、もうその理屈はアルザスには通用しなかった。

 あの狂おしい感情を思い出してしまったから。

「俺はそうは思えません」

「だから解消するというの? 馬鹿にしないで。絶対後悔するわよ」

「分かっています。それでも、貴女との結婚には耐えられない」

 言葉を選ぶべきだったと気付いたのは、オーデリカが顔色を変えた直後だった。

「――何様よ、孤児の分際が!!」

 ガッと頭蓋に衝撃が走り、肌が切れた痛みが走る。

 彼女がいつも持ち歩いている扇で殴られたようだった。

「言葉が過ぎました。申し訳ありません」

 アルザスはひたすら頭を下げるしかない。

 もう余計なことを言わないで、ただ謝罪するよりほかに仕方がないと思った。


 オーデリカに限らず、ブロファーユ侯爵家の人々は当然アルザスに激怒した。

「二度と貴様らが表に出られないようにしてやる」とまで言われ、追い出されるようにアルザスは侯爵家のタウンハウスを出た。

 馬鹿なことをしたと思う。

 それでも、もう選んでしまった道だ。

 とにかく義父母に謝らなければと、アルザスはランメルト伯爵家のタウンハウスに戻ってすぐまた馬車で出発した。


 婚約解消を打ち明けると、案の定義父母は驚いていた。

 理由を聞かれても、「オーデリカ様と夫婦になることはできないと思いました。私の個人的な感情の問題です。本当に申し訳ありません」としか答えられなかった。

 義父は目を伏せ何も言わなかったが、寝台の上の義母は責めるような目を向けた。

 貴女はなんて身勝手なの、と責めなじる言葉が今にも聞こえてきそうで、アルザスは拳を握る。

「そんなに合わない相手なら、どうしてもっと早く言わなかったの」

 義母は眉間に皺を寄せて目を瞑っていた。

「……申し訳ありません」

 彼女の言葉は家のことではなく養子のことを心配してのものだと伝わってくるから、アルザスは苦しかった。

「婚約解消自体は別にいいのよ。彼女の持参金が無くともうちはやっていけるし、ブロファーユ侯爵家は由緒正しい家系で裕福でもあるけれど影響力は大したことないから、しばらくは風当たりが強くなるかもしれないけれど、表へ出られなくなるとも思えないしね。……ただ、まあ、無理は続かないわよ。それを覚えておきなさい」

「はい」

「……私たちの方こそ、貴方がそこまで無理をしていたことに今まで気付いてあげられなくてごめんなさい」

 最後に義母が言ったのはそんな言葉だった。

 義父は黙して頭を下げた。


 傷の手当てをしてもらい、アルザスはタウンハウスに帰るべく再び馬車に乗った。

 義理の両親の言葉がありがたくて、申し訳なくて、少し泣いた。

 それでも自分は彼らの愛情と信頼を裏切っているのだと思うと、頭を抱えて叫びたくなるほど辛かった。



 メイアに婚約解消の説明をしている間、彼女は厳しい視線を義兄に送っていた。

 けれど、それも義父母と同じようにアルザスを心配してくれてのものだと分かっていた。

 自分は彼女に心配される資格など無いというのに。

 メイアはアルザスの顔の傷はオーデリカによるものだと思ったようだった。

 義妹は相当怒っているようで、もし事実を言おうものなら社交の場でオーデリカに噛みつきかねない様子だった。

 それに、彼女の推測は表面的には間違っていないが、傷の原因はアルザス自らが作ったものでもある。

 だから何とか誤魔化したかったのだが、メイアは引かなかった。

 触れないでほしい。

 こんな傷は早く忘れたいと思っているのに。

 この傷のことを意識するたび、婚約を解消したことを鮮明に思い出してしまう。

 そんな馬鹿な過ちを犯すほど、君に強烈に惹かれていることを思い出してしまう。

 辛くて痛くて苦しくて、できることなら全部忘れてしまいたいのに。

 何もかも、無かったことにしたいのに。

「誰にでもない、自分で切ったと言っているだろう。もう話は済んだから、俺は失礼するよ」

 立ち上がって部屋を出て行こうとすると、メイアに手首を掴まれ引き留められた。

「私は心配なんです。お義兄様が誰かに傷つけられているのなら、私に教えてください」

 握られた手首から伝わる温かさと優しさが、アルザスの心を深く抉る。

「うるさい!」

 気付けば自分はそう叫んで、彼女の手を振り払っていた。

 はっと気づいてメイアを見ると、彼女は大きく目を見開いている。

 しまった、と思ったけれどもう遅い。

「……出て行って下さい。早く」

 メイアの声は冷たかった。

 こちらを気遣ってくれたのに、それをあんな風に拒絶したのだから当然だ。

 きっと、彼女を傷つけてしまっただろう。

 何か声をかけなければと思うけれど何も言えなくて、そのままアルザスは部屋を出て行った。

 俯いたまま、廊下を歩く。

 傷付けたのはこちらなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。


 メイアの顔を見るのが辛い。

 彼女が寝巻で家の中をふらふらしていても、ソファに寝転がっていても、もう何も言えない。

 今まで、ランメルト伯爵家の跡継ぎとして自分なりに精一杯やってきた。

 自分は産まれこそ卑しいけれども、産まれた家に甘えて怠惰な生活を送っている人間よりは家と社会の役に立つという自負があった。

 血を継いでいないからこそここまで必死になれたとするなら、それに感謝しなければいけないと思うことさえあった。

 孤児であろうと何だろうと、自分はランメルト伯爵家の次期当主であるという誇りがあった。

 血統で言えばアルザスよりよほど跡継ぎに相応しいメイアに対して義兄として接することができたのも、心の根底にその自負があったからかもしれない。

 けれど、どうだろう。

 あんなにもランメルト伯爵家に有益だった縁談を、個人的な感情で潰してしまった。

 家の名を汚すようなことをしてしまった。

 そんな人間に、家を継ぐ資格があるのだろか。

 もちろん、世の中にはアルザスよりもよほど酷い放蕩息子が跡を継ぐ家もある。

 だが、そこには必ず「血」があるのだ。

 アルザスには無い血の繋がりが。

 婚約解消のことは食が細くなるほど後悔しているけれど、やめておけばよかったとは思えない。

 それは、進めば絶対に沼にはまると知っている一本道で、けれどもアルザスにとっては他の道は無いも同然だった。

 その時にはもう引き返すことはできなくて、あれは選択とも呼べない選択だった。

 分岐点は遥か後ろ、もうどこにあるのかも分からない。

 メイアへの恋情を思い出してしまった瞬間か。

 メイアを愛してしまったと気付いたときか。

 メイアが産まれたときか。

 アルザスがこの家に貰われてきた、あの日か。

 そして、それでもまだ道は続いているのだ。

 アルザスが死ぬまで、延々と続く。

 残酷なことだ。

 自分は感情に突き動かされて、次期当主として最良に近い縁談を捨ててしまった。

 前例ができてしまった。

 いつかまた、同じように感情に振り回されて立場を忘れた行動をとってしまうのではないか。

 メイアを想う気持ちは尽きる兆しも見えないのだから。

 それは恐ろしかった。

 アルザスがここまで築き上げてきた次期当主としての自信と矜持を、いとも容易く打ち砕いてしまった。

 そして、もはやメイアの義兄でもいられない。

 彼女を愛してしまったから。


 ランメルト伯爵家の次期当主たる資格も無くメイアの義兄でもない自分が、どの面さげて彼女と一つ屋根の下で暮らしているのだろう。

 アルザスにはもう何も分からなかった。

 ただ、辛かった。


 母は特別心配することはないという反応だったけれど、アルザスはメイアが社交の場で何かされていないかとても心配だった。

 表へ出られなくなることは無いとしても、嫌味を言われたり嫌がらせされることくらいはあるかもしれない。

 もし彼女が嫌な思いをしたら、それは全部アルザスのせいだ。

 愚かで浅ましい感情に振り回されて、絶好の機会だった縁談を駄目にしてしまった。

 先方の恨みを買い、家族にまで迷惑を掛けている。

 自分は、役に立たないならこの家にいる意味がないのに。

 大切にしたいと思っている少女さえ、義兄である自分の勝手な婚約解消によって不利な立場に置いてしまった。

 声を荒げてメイアを拒絶してしまったことへの申し訳なさもあり、アルザスは社交パーティーへ出掛けるメイアの後を追いたいくらいだったが、自分が人目のあるところへ行くのは逆効果である。

 気がかりでたまらなくて、社交パーティーから戻って来たメイアに様子を尋ねたら「うるさい」と遮られた。

 血も繋がっていないくせに兄面するなと、そう言われた気がした。

「貴方なんか、私のお義兄様でも何でもない」

 彼女のその言葉と悲しそうな悔しそうな顔が、ずっと胸に残った。


 ふらふらと空いている部屋に入り、長椅子に座ってゆっくりと息を吐いた。

 真夜中だが、蝋燭の灯がいらないくらいに明るい。

 こんなときくらい曇ってくれてもいいものを、と思いながら青白い光を注いでくる月に目をやる。

 そのとき、中空にキラリと光るものがあった。

 目の錯覚かと一瞬思ったが、何が光ったのか見に行ってみることにした。

 泣きたい気分で、夜の散歩でもしてみようかと思ったせいでもある。


 外へ出てみると、月の光は青白いというよりは銀に近い金だった。

 それは、まるでメイアの髪色のような。

 遠い遠い空の彼方で、アルザスの目を焼くように輝いている。

 美しく、残酷な光だった。

 アルザスはしばし月を見つめ、それから光ったものが見えた場所の辺りをうろついた。

 やはり何も無い。ただの気のせいだったようだ。

 そう思って屋内に戻りかけたところで、視界の下の端に部屋の中で見たものと同じ光が見えた。

 はっとして見ると、やはり光っている。

 地面に落ちている何かに月光が反射していた。

 そこへ歩いていき、アルザスは光の正体を見つけた。

 そういえば、この二階はちょうどメイアの部屋だった。

 思い出しながら、アルザスは身を屈めてサファイアの指輪を拾った。

 アルザスは知っている。メイアは、自分の物は大切に扱う子だ。

 その彼女が、アルザスが贈った指輪を投げ捨てた。


 こんなもの、今さら拾ってどうするのだろう。

 メイアが持っていてくれないなら、何の意味も無いのに。

 それでも、拾った指輪を未練がましく机の引き出しに仕舞う自分がいた。

 惨めな思いで窓を見ると、それでも月は白々しく輝いている。

 不意に、メイアの笑顔がたまらなく恋しくなった。



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