○5
白く薄明るくなっていく窓の外をぼんやりと眺めながら、メイアは絶望的な気持ちで朝を迎えていた。
ついに、義兄が、帰ってこなかった。
だからといって、特にすることも無い。できることがない。
のたのたとベッドに潜り、目を閉じるだけだった。
睡魔のおかげで助かった。
意識が明瞭だったなら、きっとまた泣いてしまっていた。
起きると昼前だった。
おかしい。
真面目で規則正しい生活を好む義兄は、遅くとも朝食の時間の三十分前には使用人にメイアを起こさせる。
直々に起こしに来ることもある。
眠るメイアが放っておかれるのは、体の具合が悪いときくらいである。
のそのそとベッドを出て、一人で朝の支度を簡単に済ませる。
昨日、というか今朝、夜が明けてしまったことは考えないように努めた。
もはや昼食となった朝食を摂るが、義兄はやはり姿を見せない。
適当な使用人に声を掛け彼がどこにいるのか聞いたところ、本邸へ帰ったと連絡が来たまま、まだ帰っていないという。
本邸へ帰ったとは何事だろう。
婚約者と一夜を共にしたら結婚を早めたくなったとかそういうことだろうか。
あの真面目な義兄がそんなことを言い出すとは思えないが。
よっぽどの何かがあったのだろうか。
想像するだけ憂鬱になるので、メイアは寝直すことにした。
馬車が停まる音で目が覚めた。
反射的に寝台を飛び出して玄関を覗くと、義兄が帰ってきていた。
目尻とこめかみの間に白い四角いガーゼが張られている。
何があったのだろう。
「お義兄様、そのお傷は……」
メイアが思わず飛び出すと、義兄は分かりやすく眉を顰めた。
「そんな格好で玄関に出てくるんじゃない。部屋へ戻るんだ」
「そのお傷はどうしたんですか」
無視してもう一度問うと、義兄は気まずそうに目を逸らした。
「……大した傷じゃない。ちょっとぶつかって切っただけだ」
何をどうしたらそんなところをぶつけて切るのか分からない。
けれど義兄はすり抜けるようにメイアのわきを通り、自分の部屋へ行ってしまった。
メイアは振り返り、義兄の後姿を見送った。
いつになく、その背中は落ち込んでいるように見えた。
自室の扉がノックされ、入ってきたのは義兄だった。
裸足になりソファの上で三角座りをして娯楽書をめくっていたメイアは驚き、本を閉じて机に置いた。
「ずいぶんお行儀の良い姿勢だね」
義兄の嫌味に言葉は返さず、ただ足を下へ下ろす。
いつもだったら憎まれ口の一つも返すのだが、今日は義兄の声と表情の暗さからそうすべきでないと判断した。
用件をすぐ言って立ち去るかと思いきや、義兄はメイアの方を見たまま特に何も切り出さない。
義兄に向かいのソファに座るよう促すと、彼は従った。
何の用があるのだろう。
控えていた女中がお茶を淹れると、義兄はカップを手に取ってその液体を見つめていた。
こくりと一口口に含んで、音も無くカップを下ろす。
メイアはその様子を注意深く見守っていた。彼の顔に浮かぶどんな表情の変化も見逃さないように。
はあと一つため息をついて、義兄は話を始めた。
「オーデリカ様との婚約は解消した」
「……ええ!?」
驚愕に目を見開いた後、メイアは思わず身を乗り出した。
「ど、どうしてですか!?」
「俺の個人的な事情によるものだ。昨晩オーデリカ様やブロファーユ侯爵家の方々にお伝えして、そのまま本邸へ帰って義父上と義母上にお伝えして、今こうして君に伝えている」
個人的な事情とは何だろう。
しかも、彼の独断であるかのような言い方である。
「オーデリカ様と何かあったんですか?」
メイアがそう尋ねても、義兄は「別に何もない」と首を横に振るだけだった。
「何も無かったら、解消なんてことにならないんじゃないですか」
「……」
メイアは未だに信じられなかった。
義兄がブロファーユ侯爵令嬢に執心だったのか、彼女の持参金や土地に執心だったのかは知らないが、彼がこの婚約に積極的であったことはよく知っている。
ブロファーユ侯爵家と婚戚関係を結べることはランメルト伯爵家としても幸運なことであったし、出自ゆえに貴族の社会で軽蔑されがちな義兄のもとへ来た縁談としては、とても条件の良いものだった。
それを理解していたからこそ、義兄も下男のようにあの女性に付き従っていたのかもしれない。
義兄がオーデリカと結婚しなくて済むのだから、それはメイアにとっては悪くない話である。
けれども、メイアの中には静かな怒りが渦巻いていた。
あの高慢なご令嬢がこの優しい義兄を傷つけ切り捨てたのではないかと気がかりで、もしそうならメイアは絶対にオーデリカを許せない。
「オーデリカ様が何かおっしゃったのですか」
メイアが膝のあたりで握りこぶしを作ってそう言うと、義兄は慌てたように否定した。
「違う、そうじゃない。確かにオーデリカ様は此度の縁談に乗り気ではいらっしゃらなかったが、それは解消とは何の関係も無い。あくまで俺が悪い」
焦ったような言い方がかえってオーデリカを庇っているように聞こえて、メイアは兄を睨んだ。
「それで、だから、君には謝らなければいけない」
「私に?」
意味がよく分からず、訝しむように目を細めて首を傾げた。
兄は頷き、やや俯いたまま続けた。
「俺の身勝手で婚約解消なんてしてしまったから、醜聞になるだろう。ランメルト伯爵家の看板に泥を塗ってしまった。社交の場に出れば、心無い人が君に対しても何か言ってくるかもしれない。それを謝りたい。俺は本邸に引っ込んだ方がいいんだろうけれど、義母上はまた病状が良くないようだし、義父上は仕事が立て込んでいて手が離せないそうだ。だから、今シーズンの終わりまで俺はここにいる」
「……分かりました」
メイアは自分が口が悪いので他人の悪口も気にしない方だが、義兄はそうではないようだった。
自分で解消したというわりに、その副作用に明らかに落ち込んでいる。
けれど、所詮義妹に過ぎないメイアには、実際のところ何がどうなってこうなったのかは分からない。
とりあえず、もう一つ聞かなければいけないことがある。
「お義兄様のそのお顔の傷はどうなさったんですか?」
今一度、彼の顔の一部を隠すガーゼについて尋ねた。
「だから、これは……ぶつかって、少し切っただけだ」
義兄はやはり目を合わせない。
「どこにどうぶつかったんですか?」
「……柱の角に。寝ぼけていたから」
「ぶつけて切るような鋭利な柱があったんですか?」
「だから、寝ぼけていたから」
義兄はしつこい質問に苛々しはじめたようである。だが、メイアもとっくに苛々している。
「誰にやられたんですか?」
それはいじめられっ子に問いただす保育者のような言い方になった。
「誰にでもない、自分で切ったと言っているだろう。もう話は済んだから、俺は失礼するよ」
立ち上がり、逃げるように立ち去ろうとする義兄をメイアは追い、彼の手首を掴んで引き留めた。
「私は心配なんです。お義兄様が誰かに傷つけられているのなら、私に教えてください」
「うるさい!」
握った手を乱雑に振り払われ、メイアは固まった。
直後に義兄もはっとして、メイアの方を見た。
「……出て行って下さい。早く」
メイアは努めて冷たい声を作ってそう言った。
義兄は数秒の沈黙ののち、そのまま部屋を出て行った。
「っ……」
メイアは立ち尽くしたまま、溢れる涙を指で拭った。
義兄が感情を露わにしてメイアを拒絶したのは初めてのことだった。
振り払われた手が痛い。
けれど、胸の痛みはそれ以上だった。
義兄とのことでメイアの気持ちは酷く落ち込んでいたが、そっとしておいてくれるのは気の利く友人くらいである。
親しくも無い大半の貴族は義兄の醜聞を面白がっているようで、メイアにも絡んできた。
いやあこの度はまことに残念でしたね、まあでも男と女の仲というのは色々あるものですから、などと言いながら、その眼も声も明らかに嗤っている。
不愉快極まりないが、「此度は皆さまにご心配をおかけして申し訳ありませんでした」「大変お騒がせしました」などと言ってメイアはペコペコ頭を下げた。
メイアは義兄のいないところではきちんと淑女らしくしているのである。
というか、メイアがふざけるのは義兄の前でだけだった。
口の悪さを披露するのも義兄と親しい友人に対してだけである。
つまりは一種の甘えだった。
いつもは部屋の隅の方で友人と適当に無駄話していれば時間が過ぎるのに、義兄の婚約解消以降は貴族にやたら声を掛けられるせいで疲れる。
義兄はその出生と優秀さから地味に有名人なので、皆面白がっている。
事の真相を掴もうとメイアに探りを入れてくる者もあるが、メイアも何も分からないので無駄な真似だと笑ってやりたい。
意外にそういう者が多く、メイアはいよいよ憂鬱になった。
できもしない詮索をされることよりも、義妹なら知っていて当然だろうという態度をとられるのが苦しかった。
本当は何も知らないし、教えられてもいないから。
メイアの方こそ、どうして義兄が婚約解消なんて大胆なことをしたのか知りたい。
そうするデメリットというものを、義兄はよく知っているはずなのに。
打ち身になっているはずもないのだが、義兄に振り払われた手は今もじんじんと痛んでいた。
社交パーティーから帰ると、義兄は心配そうな顔でメイアを出迎えた。
「メイア、大丈夫? 何も言われていないか?」
「大丈夫です」
本当は、メイアは出席するたびに好奇の視線と嘲笑うような嫌味の言葉に囲まれているが、義兄に心配されたくなかったし、これ以上彼に気を使わせるのも嫌だった。
「もし居心地が悪いなら、今シーズンもう休んでもいいんだぞ」
「大丈夫です。友達もいますし」
そもそも社交の場がメイアにとって居心地のいい空間であったことが無い。
家の方がずっと居心地がいい。義兄も傍にいてくれる。
でも今はそれさえ怪しかった。
義兄は家内奴隷のようにメイアの顔色を窺ってばかりで、メイアが寝巻で家の中をうろうろしても、食事の時に食器のぶつかる音を立てても何も言わない。
オーデリカの婚約者だったときのような、卑屈な顔をしていた。
メイアはそれに腹が立って仕方がなかった。
そんなに申し訳なさそうにするなら、どうして婚約解消なんかしたんだ。
別に、メイアは社交の場で何を言われてもいい。それくらいは我慢できる。
我慢ならないのは、義兄がやたらに気を使ってくることだった。
自分の判断で婚約解消したのなら、胸を張っているべきだ。これが自分の選んだ道であると、力強く踏みしめるべきだ。
そうすれば、メイアの我慢も報われる。あの義兄の意志なのだ、義兄が望んだ道なのだと、それを支えに気持ち良く頭を下げられる。
それなのに、義兄は婚約解消を悔いているようだった。
自分で解消したのだと言っているが、未練たらたらであるように見える。
そのうえ、何の説明もしてくれない。メイアは彼の義妹なのに、何も教えてくれないし、打ち明けてくれることも無い。
日ごろの行いが悪いからなのだろうが、それでもメイアは悔しかった。
彼が本当のことを打ち明けてくれたなら、きっと受け止めてあげられるのに。
あんな冷たい婚約者とは違って、この腕で彼をしっかりと抱き締めてあげるのに。
けれど現実は、義兄はメイアに何も話さず、ただ卑屈に顔色を窺って繰り返し謝ってくるだけだった。
口うるさいけれど、優しくて気高い義兄はどこへ行ってしまったのだろう。
「でも――」
「うるさい」
義兄の言葉を遮り、メイアは彼の横をすり抜けて自分の部屋の方へ戻っていった。
背中に義兄の視線を感じるが、振り返らない。
「貴方なんか、私のお義兄様でも何でもない」
そう吐き捨てて部屋に入り、バタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
ドレッサーの引き出しを開け、蒼い石のはまった指輪を取り出す。
窓を開け、ほんの少し躊躇ったあとにそれを彼方へ投げ捨てた。
はぁと深く息を吐き、窓を閉めてその場にしゃがみこむ。
メイアが大好きだったお義兄様はいなくなってしまった。