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パーティー会場に婚約者の姿を見つけ、アルザスは頭を切り替えた。
ブロファーユ侯爵令嬢との婚約は、孤児であるがゆえに蔑まれている自分にとって本当にありがたい話だった。
なぜブロファーユ侯爵が娘を血筋の知れぬ孤児に嫁がせる気になったのか、アルザスは知らない。
オーデリカはあまり素行が良くないようだから、そういったことに悪い噂の無いアルザスに娘を矯正させようとしているのかもしれない。
もしくは、娘が好きに生きるためには偉そうな口を叩けない、立場の弱い夫が相応しいと思ったからかもしれない。
どんな理由でもアルザスは構わなかった。肯定的に評価されていればもちろん嬉しいが、そうでなくとも仕方がないと思っている。
ブロファーユ侯爵家は由緒正しき家柄であるし、裕福である。
オーデリカとの結婚にあたっても、莫大な持参金が約束されていた。
彼女と無事結婚できれば、ランメルト伯爵家に報いることができる。
それが、アルザスがこの縁談を二つ返事で受け入れた理由だった。
貴族の世界では計算づくの結婚などよくある話である。
義妹にはそういう結婚をしてほしくないと思っているが、自分については何のこだわりもなかった。
むしろ、家のためになる結婚をしたいと思っていた。
「オーデリカ様、貴女もいらしているとは思いませんでした。お会いできて嬉しいです」
アルザスが微笑んで頭を下げても、オーデリカは口元を扇で隠したまま不潔なものを見るようにこちらに視線を送るだけだった。
アルザスは内心苦笑しながら、他愛も無い話を始める。
オーデリカは手強い婚約者だった。
正直言って、アルザスは彼女が苦手である。
彼女はアルザスを軽蔑していた。産まれはもちろん、この作り笑いが気に入らないらしい。
けれども、他にどういう顔をしたらいいのか、アルザスには分からない。メイアなどの家族の前ではこんなことは無いのだが。
オーデリカを前にすると、アルザスはどうしても一歩引いてしまう。
彼女が持つ自分と自分の血統への絶対的な自信に圧倒されてしまう。
アルザスにとって彼女は、目の前に立ちはだかる血統主義という伝統の壁の象徴ともいえた。
その壁を打ち砕きたいと思ってずっと努力してきたけれど、現実は壁の象徴に対して媚びへつらうように笑って世間話をしている。
仕方がない。壁を打ち砕きたいなどと言いつつ、結局自分も貴族社会の中で生きているのだ。
郷にいては郷に従うしかない。
アルザスは今日も笑顔で婚約者に話しかける。
俺の作り笑いが気に入らない? 貴女も孤児に産まれてみれば分かりますよ。
それは胸の内だけで告げた言葉だった。
腐っても婚約者なので、その辺の取り巻きの男よりはオーデリカの傍にいられる。だからといってどうということも無いが。
「そうだ、アルザス」
アルザスの話をぶった切って思い出したようにオーデリカは言った。
「何でしょう」
変わらぬ微笑でアルザスは受ける。
「お父様が今度の日曜貴方を夕食に招待したいとおっしゃっていたわ。来られるでしょう?」
「はい。光栄です」
「ならそういうことで」
今日の社交パーティーで自分と彼女が交わしたまともな会話はそれくらいだった。
慣れているので気にしない。
彼女の手の甲に接吻し、別れの挨拶をしてからアルザスは彼女のもとを去った。
オーデリカのことは、別に、嫌いではない。苦手であるのは事実だが。
彼女はプライドが高くて気難しいけれど、悪い人ではないのは分かっている。
それでも、アルザスはため息をついてしまいそうになる。
きっと彼女も彼女でアルザスの十倍くらいため息をついていると思う。
早く帰りたい。けれども、それを態度に出すわけにはいかない。
当然のように末席に座らされることも、時おり使用人のように雑用を指図されることも構わないのだが、メイアのことが気がかりである。
変な男を連れ込んではいないだろうか。
連れ込んでいたところで、メイアがそれでいいなら義兄の自分に何かをする権利も無いのだが。
今日は熱を出していたからそういった心配は無いだろうと思うが、もちろん風邪も風邪で心配である。
傍にいてやりたい。
氷のような婚約者の隣で、アルザスは落ち着かない気持ちでいた。
お互い良い思いをしないだろうにブロファーユ侯爵が度々自分を夕食に呼ぶのは、単に慣習に従ってのことであるようだった。
縁談を持ち掛けてくれたくらいだから、侯爵はアルザスを嫌ってはいないようである。どちらかというと気に入ってくれている感じがした。
けれどそれは、思い通りに動く下男を可愛がるのに似ていた。自分が使用人のような扱いに甘んじているせいでもあるのだろう。
だが、その気に入られかたを素直に喜ぶほどアルザスもプライドを捨ててはいない。
結局は、何も言わずに笑っているのだが。
自分が情けない。
オーデリカに宝飾品を贈らなければと思ったのは、お呼ばれした夕食の席で侯爵夫人にやんわりと催促されたからだった。
自分と夫の思い出話として、誕生日にはあれをもらい、婚約何か月記念にはこれをもらい、何とか記念にはそれをもらい、と延々聞かせてもらった。
婚約しているのに贈り物の一つも寄越さないとはけしからん、ということらしい。
そして花とか食べ物飲み物とかそういうちゃちなものを贈る人は何を考えているのか分からない、本当に相手のことを想っているならそんなしょうもない物は普通贈らない、とのことだった。
アルザスが婚約祝いにオーデリカに婚約指輪と共に花束を贈ったことを知らないわけではないと思うのだが、容赦のないお言葉だった。
ちなみに婚約指輪の方は「こんなださいのいらない」と冷笑と共に突っ返され、彼女が好みの指輪を作ってその請求書だけこちらが貰い受けるという形で作り直した。
最初からこうすれば良かったのかと思いつつ、さすがにアルザスも傷ついた。
以来彼女に物を贈ることは避けてしまっていたのだが、それはそれで失礼かもしれない。
それでも気乗りはしない。
同じ過ちを繰り返さないようにオーデリカに何か欲しいものは無いかと尋ねたところ、「別に、何だって良いわ」とどうでも良さそうに答えた。
アルザスから贈られるものについては端から期待していないようだった。
けれども一応、何かしらを贈ることにした。
また突っ返されたら、売ればいいのだし。
アルザスは憂鬱な気持ちで使用人に宝石商を呼ばせた。
待っている間、婚約指輪のことを思い出していた。
返された指輪は自室の机の上に置いておいたら、メイアが見つけてこれはどうしたのかと聞いてきた。
返品された婚約指輪だとは言えなくて、物置を漁っていたら見つけたんだと嘘をついた。
メイアは指輪に関心を持ったようで、私に下さいと言ってきた。
彼女は自分の物は大切に扱う。
義妹が貰ってくれるなら、自分が作った指輪も報われるだろうか。
そう思ったけれど、アルザスは許さなかった。
メイアはふくれっ面になってしまったが、アルザスはその手から指輪の入った小箱を取り上げた。
メイアが返品された婚約指輪を嵌めているのを見つけたら、オーデリカが何を言うか分からない。
義妹に恥をかかせるわけにはいかない。
それに、もし彼女に何かを贈るなら、それは他の誰かのために用意したものを回すのではなくただ彼女のために贈りたい。
だから、結局婚約指輪は売って処分した。
アルザスには宝飾品のデザインの良し悪しは分からない。
宝石商の意見を聞いて選んだ婚約指輪は突っ返されてしまったし、そうなると今度はメイアの意見でも聞いてみようか。
年頃の女の子だから、自分よりはよほどその辺りの感覚は優れているだろう。
根は優しいので、頼めばちゃんと相談に乗ってくれると思う。
お礼はどうしようか。
いや、考えてみれば、これはメイアに何かを贈るいい機会なんじゃないか?
そうひらめいた瞬間、アルザスは目が覚めたように気分が高揚した。
この機会を利用すれば、メイアのために贈り物ができる。
しかも、長い間持ち続けるであろう宝飾品を。
メイアが自分の贈ったものを身に着けてくれたなら、とても幸福だろうと思う。
ひょっとしたら、彼女が結婚するときにだって嫁入り道具に紛れて持って行ってもらえるかもしれない。
血の繋がらないアルザスとメイアを繋ぎとめる、小さな絆になってくれるかもしれない。
アルザスは俄かに息を吹き返した。
婚約者の贈り物を選ぶついでにそれを手伝ってくれた義妹にも何かを与えるという形だったが、アルザスの中ではそれら二つは逆転していた。
オーデリカへの贈り物はもはや口実に過ぎなかった。
メイアには何が似合うだろうと思うとそれだけでわくわくしてくる。
この際メイアは最悪同席してくれるだけでも良かったのだが、彼女はきちんとした助言をくれた。
もしかしたら「お義兄様の選んだものなんか彼女はいらないと思いますよ」くらいのことは言うかなと 思っていたので、アルザスは彼女の真面目な助言にかえって動揺したくらいだった。
いや、もちろん、アルザスと婚約者の仲を応援してくれてのことなのだろうから、ありがたいことはありがたいのである。
それでも昔「おにいさまとけっこんします!」と言ってもらった身としては、少しくらい妬いたり寂しがったりしてくれてもいいんじゃないかという思いが生まれてしまう。メイアはもうそんなに子どもではないと分かっていても。
我ながら、甘ったれた義兄だった。
メイアの助言に従い、紫の首飾りを選んだ。
「君は何か気に入ったものはあった?」
アルザスは婚約者への贈り物選びを済ませ、肩の荷が下りた気持ちでメイアに尋ねたが、彼女の反応は芳しくなかった。
メイアは宝飾品に関心が無いわけではないのだろうが、どうしたのだろう。
少し気に掛かりはしたが、アルザスは義妹に贈るものを選び始めた。
メイアのほっそりした指には、指輪がよく映える。
何をはめても似合って見える。困ったものだと頭の中で零しつつ、その実全然困ってなかった。むしろ楽しかった。
彼女の手は白くてふっくらとしている。
こうして手をとって指輪をはめてやると、まるで特別な仲になれたかのような錯覚を覚える。
それでも、左手の薬指に触れることはできなかった。
そこはアルザスが触れてはいけない聖域である気がした。
ここに指輪をはめることが許されるのは、彼女が生涯連れ添う相手として選んだ男だけだ。
いつか、それもそう遠くない未来に現れるであろうその男は、メイアの手をとってこんなふうに指輪をはめるのだろう。
それもこんな戯れごとではなく、ごく真剣に、この左手の薬指に。
その時メイアは無上の幸福の中にいるのだろう。
それが正しい。そうなければいけない。
メイアには、幸せな結婚をしてほしい。
「女性は……好きな人が心を込めて選んで贈ってくれたものなら、贈られたもの自体はどうであろうと、相手のその気持ちに喜ぶと思いますよ。というか、人間ってそういうものなのではないですか」
メイアは指輪を見つめながらそう言った。
突然、何の話だろうと思ったが、アルザスとオーデリカの話だろうか。
オーデリカはアルザスを好いていないから、実際にはメイアの言葉は当てはまらないが。
「……お義兄様は本当にオーデリカ様のことがお好きなのですか」
そう静かに尋ねられ、アルザスの心臓が跳ねた。
動揺を悟られまいとするけれど、メイアの手に触れている左手がかすかに震える。
応援してくれているんじゃなかったのか。いや、応援してくれていればこそ、切り込んできたのだろうか。
分からないけれど、その質問はアルザスの心を暴力的に揺さぶった。
アルザスにだって、覚悟はあった。
義父母やブロファーユ侯爵夫妻に同じようなことを尋ねられたことはある。
その時自分は笑顔で「もちろん、私は彼女を心から愛しています」と淀みなく答えた。
それでも、メイアにだけは聞かれたくなかった。
君にだけは。
もちろん、俺はオーデリカ様を心から愛している。そう言わなければいけないと分かっているのに、喉が震えて何の言葉も出てこない。
彼女にだけは嘘がつけない。
本当は、心から愛しているのは君だけなんだ。
今までもそうだったし、これからも、きっとずっとそうなんだ。
ただ君だけを愛している。
言えない。
「いいです。これを下さい」
メイアの言葉にはっとして、アルザスの意識は現実に引き戻された。
アルザスは支払いを済ませ、宝石商を見送るまでのあいだ、ずっと放心状態だった。
メイアはアルザスに目を合わせることなく自室に戻ってしまった。