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●3

 この家に来た時のことを、アルザスはよく覚えていない。

 記憶が残らないほど幼かったわけではないと思うけれど、ぼんやりしていて、自分がどこへ導かれ、どこへ向かおうとしているのかを理解してはいなかった気がする。

 ただ、数回顔を合わせただけのお兄さんとお姉さんが、その日から「父」と「母」になった。


 もともと本を読んだり人の話を聞くのは好きだったし、運動も苦手ではなかった。

 勉強も運動も存分にさせてもらえて、「息子」というのはいい地位だと思ったことを覚えている。

 月日が経つにつれ、自分がどうしてここに来たのかを理解していった。

 義父と義母にはランメルト伯爵家を継ぐ人間が必要だったが、子どもは望めない体だった。

 だから自分が、次のランメルト伯爵となるべく選ばれた。

 重いと思ったことは無くはないけれど、逃げ出そうとは思わなかった。

 義父や義母には生涯かけても返しきれない恩がある。

 勉強させてもらったことにも、剣術を習わせてもらったことにも。

 毎日の生活の世話をしてもらい、そしてたくさんの愛情を注いでもらった。

 だから、彼らの期待する跡継ぎになろうと思っていた。


 そんな毎日にヒビが入ったのは突然のことだった。

 お前に妹か弟ができるんだよ、と嬉々として教えてくれた義父に対し、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。

 たぶん、自分は笑ったと思う。

 義理の両親のことはとても好きだったし、彼らがとても仲のいい夫婦だということも知っていたから、子供ができたことはさぞ嬉しいだろうと思った。

 おめでとうございます、と言った記憶がある。

 僕はどうなるんでしょうか、とはとても聞けなかった。


 アルザスはその日からろくに眠れなくなった。

 睡眠不足は勉強にも支障をきたすほどだったから、義父母も気付いていたかもしれない。

 僕はどうなるのだろう、と毎日ベッドの中で考えていた。

 捨てられるのだろうか。

 孤児院に帰るだけだと思えばいいか。

 うん。それだけのことだ。

 でも、こんなことになるのなら、愛されない方がずっと良かった。

 何もかも、失う日が来るのなら。


 お産は大変だったようで、分娩している部屋の隣室でアルザスと義父は待っていた。

 外は真っ暗で、赤ちゃんを産むというのはこんなに時間がかかるものなのか、と思った。

 義父はロザリオを握りしめて、ずっと神に祈っている。

 アルザスは同じことはできなかった。


 やがて、夜を裂く産声が上がった。

 義父はもう隣の部屋に飛び込んでいた。

 アルザスも後に続こうとしたが、寝台の上の血の赤を見てひるんでしまって、そのまま部屋で待っていた。

 いくらかして、父は何かを抱いて部屋に戻ってきた。

「ほら、お前の妹だ。可愛いぞ」

 そう言って、ソファに座っていたアルザスに赤ん坊の抱き方を教えながら、義妹を抱かせてくれた。

 白い布に包まれた赤子は眠っている。

 それは思っていたよりずっと小さくて、軽かった。

「どうした?」

 義父に不思議そうに尋ねられても、首を横に振ることしかできなかった。

 涙が溢れていた。

 ごめんなさい。

 産まれたばかりの赤ん坊に、そう懺悔していた。

 僕は、今日まで、君が産まれてこないことを密かに祈っていた。

 君のような尊い存在を、否定しようとしていた。

 君には何の罪もないと分かっていたのに。

 ごめんなさい。



 義妹が産まれてもアルザスはランメルト伯爵家を追い出されるようなことはなく、相も変わらず長男として、後継ぎとして教育されていた。

 どうやら自分の立ち位置は変わっていないらしい。

 そのことには少なからず安堵したが、それでいいのだろうかとも思った。

 義妹は可愛かった。

 本当なら彼女がこの家を継ぐべきなのに、アルザスがそれを奪ってしまった。その意識はいつもつきまとった。

 だからこそ、次期当主として恥ずべきところの無いように振る舞わなければいけないと自分に言い聞かせていた。


 義妹は本当に可愛かった。

 おにいさま、おにいさま、と「さ」なのか「た」なのか怪しい舌足らずで呼んでは、アルザスの方へたたたっと駆け寄ってきて服を引っ張ったりする。

 抱っこやおんぶをしてやると、とても喜んだ。

 母親譲りの銀に近い金髪といい、澄んだ瞳といい、小さな天使が舞い降りたようだった。

 悪戯好きで、よく人のものを隠してしまうのには閉口したが、まあそれくらいいいかと最終的には許してしまえるような憎めない感じがあった。

 アルザスが幼いころに義父からもらった兵隊人形を、彼女が隠して落として腕を折ってしまったときは、さすがに怒ったが。

 活発なわりに人見知りをして、特に知らない大人相手となると駄目らしく、義兄である自分の後ろにぴったりと張り付いて顔も見せようとしないほどだった。

「メイア、挨拶をしなさい」と自分や義父母が彼女に言っても、義妹は義兄の背中にへばりついたまま首を横に振る。

 結局は引きはがして挨拶をさせるのだが、それが済むとまた巣に逃げ帰るようにアルザスのもとに戻ってくる。

 まったくしょうがない義妹だ、先が思いやられるとかなんとか、自分も子供のくせに生意気なことを思いながら、満更でもなかった。


 彼女は勉強が好きではないらしく、よく家庭教師の授業から逃げていた。

 アルザスにとっては、新しい知識を得ることは目の前の世界が少し変わる素晴らしい体験であるから、どうして彼女が勉強を嫌がるのかはよく分からなかった。

 義妹は決して出来は悪くなかった。むしろ、怠けてばかりのわりには成績は良く、もっときちんと取り組めば伸びるだろうに、と家庭教師は口惜しそうに零していた。

 どうしてちゃんと授業を受けないんだ、とアルザスが叱ったら、むくれたまま「だってつまんないんです」と言っていた。学問の面白さというのは一朝一夕には分からないものだ、と言ったら「そんなことは分かってます」と口をへの字に曲げた。

 だったら真面目に勉強すれば良いのに口ごたえばっかりして、結局やる気がないだけじゃないか、とその時は呆れたが、少し後に考え直した。

 ひょっとして、義兄である自分に気を使っているのだろうか。

 確かに、メイアがアルザスより優秀だったらアルザスの立ち位置はいっそう危うくなる。

 いや、あの子がそこまで考えているわけはない、と脳内で言う声もあったけれど、アルザスはそれに確信を持つことはできなかった。

 メイアはわがままで生意気でへそ曲がりなところがあるけれど、根は優しい女の子だ。

 彼女がどうしてきちんと授業を受けないのか、その本当のところは分からない。

 けれどもし彼女が義兄に気を使っていたとしたら、自分がこうしてこの家にいることは、それだけで彼女の人生を圧迫することになるのではないか。

 そう考えると、アルザスは心苦しくてどこかへ消えてしまいたかった。


 義妹は懐いてくれていた。

「おにいさまとけっこんします!」と言い張ってくれるくらいには。

 自分と彼女が結婚できないことは分かっていたので「うん、そうしよう」とは言えなかったけれど、彼女のような女の子と結婚できるなら幸せだなと思った。

 少しずつ大きくなるにつれ、義妹の可愛さは子ども特有のものから女の子特有のそれへと変わっていった。

 特に香水みたいなものをつけている様子は無いのだが、ほのかに甘い花のような香りがする。

 手や指は白くて、ほっそりとしているのに触れるとふっくらと柔らかい。

 彼女の義兄である自分は恵まれていると思っていた。

 彼女にとって一番近い存在であり、ずっと一緒にいられるから。


 当然ながらそんなのは幼稚な考えであり、単なる願望に過ぎなかったと後で思い知らされた。

 義理の兄というのは一番近い存在ではないし、ずっと一緒にいられるはずもない。

 メイアはいつか、誰かほかの男のところへ嫁ぐのだ。

 今は彼女にとって一番近い存在は両親だろうが、それもやがてその男へと移るのだろう。

 アルザスは義兄に過ぎない。

 親しい人間の一人ではあるかもしれないけれど、二人の間の距離は永遠に埋まらない。

 それが自分にとって耐え難いことだと気付いたのは、いつだったろう。

 どうして、彼女を愛していることに気付いてしまったのだろう。

 気付かなければ幸せでいられたのに。

 メイアの義兄でいられたのに。




 いつまでたっても子どもで困る。

 廊下の壁に背を預け、アルザスはため息をついた。

 今日は社交パーティーがあり、夜七時に出発すると朝に言っておいたのに、メイアはまだ支度をしていなかった。

 今から着替えるのでは、予定していた時間にぎりぎり間に合うかどうかといったところである。

 こういうこともあるかもしれないと、時間に少し余裕を持たせておいて良かった。

 メイアはもう嫁に行ける歳で、体も歳相応に成長しているのに、心はいつまでも子どもだった。

 いや、悪戯好きでわがままなのは子どものころから変わらないのだが、可愛げが無くなった。

 昔は天使みたいだったのに、今は白い小悪魔である。

 口を開けば屁理屈やら口ごたえばかりで、ちっとも素直じゃない。

 そのうえ、アルザスの前で平気で着替えはじめたりするのだ。

 メイアはもう年頃の娘で、こちらは義兄とはいえ血の繋がっていない成人男性だというのに、何も思わないのだろうか。

 少しは恥じらってもいいんじゃないのか。

 自分が彼女に男として見られていないことを突きつけられたようで、アルザスは憂鬱だった。


「メイア? もう着替えは済んだろう」

 しばらくしてから声を掛けると、「はい、済みました」という返事が中から聞こえた。

 アルザスは扉を開けて中へ入る。

 そして義妹の姿を一目見て、絶句した。

 色素の薄い金の髪を下ろした義妹は、肌が透けて見えるような夜着を着ていた。

 薄い布越しに陶器のような滑らかな肌が見えて、アルザスの心臓は破裂しそうだった。

 しかも丈は異常に短く、真っ白な太腿は露わになっている。

 そこに小さな黒子まで見つけてしまえば、いよいよアルザスは動揺しないではいられなかった。

 これは、見るべきじゃない。見てはいけない。

 そう思うのに、視線は吸い寄せられるように義妹の身体に釘付けになっていた。

 メイアがくるりとその場で回ると、ふわりと裾が広がって太腿がさらに露わになり、アルザスは本当に辛かった。

 この場に女中がおらず、自分と彼女が義兄妹でなく友人か何かだったなら、どうなっていたか分からない。

 義妹がこちらの反応を面白がって笑っているのが分かるから、いっそうアルザスは悔しかった。

 さっさと着替えろとか何とか言って、急いで部屋を出て行く。

 いつも「一挙一動を静かに美しく」とメイアに言って聞かせているのに、つい扉を勢いよくバタンと閉じてしまった。

 扉の向こうから、メイアの笑い声が聞こえる。

 アルザスは肩を怒らせ、大股で玄関へ向かった。

 まったく、こっちの気も知らないで!


 社交シーズンとは要するに顔を広げることと結婚相手を探すことを集中的に行う期間であるのだが、メイアには特に男の影は無かった。

 けれどそれは、自分が鈍くて気付いていなかっただけで、本当は懇意にしている男がいるのだろうか。

 あの薄いベビードールを着て、夜を共にするような男が。

 別にいいのだ。

 メイアはもうそういう仲の男がいてもおかしくない歳だ。結婚を考えていい歳なのだから。

 彼女はとても綺麗だし、男が放っておくはずはないというのも理解できる。

 彼女はわがままで子どもだけれど、芯は強くて優しいから、そういうところを分かって支えてやれる男がいてくれたらいいと思う。

 本人も、恋愛を通して少しは大人になるかもしれない。

 その男が変な男で、義妹を傷つけるようなことがあれば家族として怒るが、他は義兄が首を突っ込むところではない。

 それを分かっていてもアルザスの気持ちは落ち込んでいて、気を抜けばパーティー会場の手前だというのに足を止めてしまいそうなほどだった。

 いつもより義兄の歩みが遅いのに気付いてか、少し前を行っていたメイアが振り向く。

 金糸の髪がふわりと舞い、睫毛の長い澄んだ瞳がこちらを見つめてくる。

 曇りがちで月もろくに見えない夜だと言うのに、どうしてこの目に映る彼女は光って見えるのだろう。

 月日が経つほどにメイアは美しくなって、アルザスから遠ざかっていく。

 二人の距離は広がっていく。

 これ以上、どうか、これ以上変わらないでほしい。

 それでも二人は、幼かったあの頃に帰ることはできない。


 いつか、その手を握ることさえできなくなる日が来るのだろう。

 いや、もうできなくなっているのかもしれない。



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