○2
適当に暇そうな紳士や友人と話し、終わりごろには今日も婚約者相手に苦戦していた義兄と合流し、そうして無事社交パーティーは終了した。
友人とおしゃべりするためだけに来ているようなものである。
あとは何の楽しみもない。
帰りの馬車では、義兄はいつも通りメイアと向かい合って座っていた。
合流したときもそうだったが、今も香水の匂いが気になる。
メイアはあまり香水をつけない。義兄もそうである。
義兄のまとう、おそらくはオーデリカの香水の匂いが嫌だった。
「お義兄様、くさいです」
直球をぶつけてみた。
「な、臭いって……そういうのは少し遠回しに言うものだよ」
そうぶつくさ言いながら、兄は上着を脱いで脇に置いた。
狭い馬車の中では着ていようが脱ごうが大した効果も無い。
それでもメイアは義兄が婚約者の香りを体から離したことに満足した。
「そうだ、今度ブロファーユ侯爵家で夕食をごちそうになることになった」
メイアの気も知らず、義兄はのんきにそんなことを言う。
「その晩は君はタウンハウスで一人で過ごすことになるけれど、構わないだろう?」
「構わないですよ」
「戸締りにはいつも以上に気を付けるように使用人には言いつけておく。あとは早く寝るのが一番だ」
義兄はメイアにいい子で早く寝てほしいらしい。
義兄のいない家なんて空っぽ同然でつまらないからさっさと寝るのだが、メイアは見栄を張った。
「どうでしょう。ベビードールが大活躍するかもしれません」
「なんだ、いい人が見つかったのか?」
親戚のおじさんみたいな反応をしないでほしい。
義兄には何の非もないと分かっていても傷付く。
だから、なおのことメイアは余裕ぶらないでいられなくなった。
「お義兄様がオーデリカ様に尻尾振っている間、私だって暇をしていたわけではありません」
「別に尻尾を振ってなんかないだろ、婚約者と一緒に過ごしていただけで……。まあ、いい人が見つかったならいいけど……」
義兄はなんだか言い切れない様子である。
「何ですか」
「……野暮なことを言うかもしれないが、やっぱり……いや、すまない。何でもない」
「何です」
「いや……そいつは、変な男じゃないんだろうな」
結局話を逸らされたようだが、仕方ない。
義兄はわりと肝心なところをはっきりと言わない人である。
メイアは義兄のそういうところも嫌だった。
「そんなの蓋を開けてみなければ分かりません」
不愛想にそう言うと、義兄は目を見開いた。
「そんなっ……、その程度の信用しかない男に身を預けるのか!?」
「お義兄様には関係のないことです」
メイアの返しに義兄は言葉を詰まらせた。
その瞳は傷ついているかのように見える。
けれど、メイアだって傷ついていた。言い出したのは自分だというのに。
どうしてか分からないけれど、胸が痛くて仕方がなかった。
貴方が兄面して私のことを気に掛けてくることが、私をどんなに深く傷つけるのか、貴方は知らない。
胸の中だけでそう責めた。
もう何回目になるか分からない。
絶句していた義兄だったが、やがて静かに言った。
「俺は、……心配なんだ。君が傷つけられることがあるんじゃないかって。だから、自分のことは大事にしてほしい。それだけだ」
うるさい。
メイアは泣きそうだった。喉がつんと痛くて、視界が滲む。
うるさい、うるさい、うるさい。
血も繋がっていないくせに。
私が何を思い何に傷付くのかなんて、微塵も分かっていないくせに。
貴方なんか大嫌いだ。
メイアの父と母、すなわちランメルト伯爵夫妻の間には長年子供がいなかった。そして出来る見込みもほとんど無かった。
そのため養子縁組という選択肢をとったのだが、これは別段珍しいことではない。
珍しかったのは、その養子に親類縁者や他の貴族の子ではなく孤児を選んだことである。
父母が言うには、一通り顔をあわせた中で一番見込みのある子を選んだら自然とそうなったのだそうだ。
そうしてアルザスは、ランメルト家の長男になった。
父母の見込み通り、彼は優秀で気高かった。
将来を期待される跡継ぎとなった。
けれどそこで事件は起こった。
メイアができて、産まれた。
ランメルト伯爵夫妻の血をひく子どもが誕生してしまった。
けれど、夫妻の意向は変わらない。
娘はどこかよそへ嫁に出し、伯爵家は養子である長男に継がせる。
けれども本当にそう上手くいくのだろうかとメイアは思う。
貴族の血をひかないどころか、どこの誰の血を引いているとも分からない彼への風当たりは強い。
ブロファーユ侯爵令嬢が彼を邪険に扱う理由の最たるものがそれだった。
他の貴族も彼の産まれを蔑視している者が多い。
そのせいなのだろうか。
優秀で優しく気高い義兄は、時おりメイアが悲しくなるほど卑屈な態度を見せるのだ。
ブロファーユ侯爵令嬢を前にした彼は、まるで下男のようだとメイアは思う。
出生なんか関係ない、血なんか意味は無い、大事なことは実力と志だと、そういった考えのもとで父母は彼を選んだと言っているのに。
彼自身がそれを否定したら、彼の居場所はどこにあるというのだろう。
それを思うと、メイアは涙さえ出てくるのだ。
下らない、そんな馬鹿な女を構わないでほしい。
ランメルト伯爵家のことを思って、持参金のために膝を屈しているのかもしれないが、そんなことは誰も望んでいないと気付いてほしい。
メイアは真面目で口うるさくて優しい義兄が大好きだった。
ずっとそういう彼でいてほしいと思っていたし、今でも思っている。
だからメイアの目標は、人がいい無能と結婚することなのだ。
嫁入りの形でも、メイアの夫になる人が義兄が認めるくらい優秀だったなら、兄はランメルト伯爵の称号もその人に託してしまうかもしれない。
持参金の建前で、義兄が自分の存在を抹消してしまうのではないかとメイアは気が気でなかった。
だから義兄が「こいつは駄目だ」と思うような相手と結婚すると決めていた。
義兄が時おりメイアを悲しい瞳で見つめることに、メイアは気付いていた。
メイアのせいで自分の地位が脅かされることになったのに、彼はメイアに意地悪一つしなかった。
むしろ甘やかされて育って好き放題やっているメイアをいつも心配してくれている。
意識して好き放題やっているわけでもないのだが、彼の優しさにはちゃんと気付いている。
お義兄様に幸せになってほしいと、それがメイアの願いだった。
義兄は度々婚約者の家へお呼ばれするようになった。
いや、週に一度程度だから、度々というほどではないのかもしれない。
けれどメイアからすれば十分「度々」で、ゆえにメイアは機嫌が悪かった。
社交シーズンであるため、領地にある本邸ではなくタウンハウスで過ごさなければいけないというのも憂鬱だった。
父母さえいないと、一人の夜はいっそう寂しく心細い。
彼の帰りが遅い日などは、何をしているんだあの助平くそ義兄貴などと思いながら、馬車の音が聞こえてくるまでぐるぐる部屋を歩き回っていた。
メイアが熱を出しても、心配そうに気に掛けてくれはするものの、義兄は婚約者に会いに行く。
行かないでと言えたらどんなにいいだろうと思いながら、メイアは黙って見送るのだった。
珍しく義兄が家に宝石商を呼んだ。
古い宝飾品の修理でも頼むのかと思いきや、何か買う気でいるらしい。
なぜかメイアも呼ばれ、なかなか見られないくらいに機嫌が良い義兄の後に続いて義妹も客間に入った。
「オーデリカ様に贈るのはどんなものがいいのだろう。君は女性だから、男の俺よりこういうものが分かるかと思って」
義兄の用件はそれだった。
端正なその顔をぐーでパンチして立ち去ることができたら良いのだが、そうする気力さえ湧かない。
「ついでといっては何だけれど、気に入ったものがあったら買おう。まあ、予算の縛りはあるけれど」
婚約者に物を贈るのがよほど嬉しいのか、明るい瞳でそんなことまで言ってくる。
おこぼれなんてもらったところで嬉しくはない。いっそう惨めになるだけだ。
メイアの胸の奥は泥が詰まったみたいになって、宝石の輝きすらも鬱陶しくて仕方がなかった。
宝石商の男は胡散臭いくらい笑顔だった。
「黒髪の女性でしたら、赤が映えると思いますよ。ですが、そうなると赤はたくさん持っていらっしゃるかもしれないので、他の色でもいいかもしれませんね」
あれこれと商品を見せながら語る宝石商の話を、義兄は顎に手を当てて真剣面して聞いている。真剣面というか真剣なのである。
彼は美的センスが無いので、こういった面ではいつも以上に真面目に人の話を聞く。
婚約者への大切な贈り物と思えば、なおさら気合も入るのかもしれない。
「紫も似合うと思いますよ」
そう言ってにっこりと商人は笑うが、義兄は難しい顔をしている。
「紫は暗すぎないか……? 君はどう思う」
義兄があまりにしっかり悩んで真面目に聞いてくるので、メイアにもどうすることもできない。
「彼女は結構紅とか群青とかを好んで身に着けている感じがするので、紫は暗くていやだということは無いと思いますよ」
そう答えると、義兄は驚いたようだった。真面目に質問に応じると思っていなかったんだろうか。
だったらなんで呼んだんだ。
「そうか……ありがとう」
そう言って、義兄は結局紫色の宝石がはまった首飾りを選んだ。
「君は何か気に入ったものはあった?」
本題が済んですっきりしたような表情で義兄は問うてくる。
メイアの手を取って適当に指輪などを嵌めながら、遊んでいるようにさえ見えた。
メイアは虚ろな瞳でそれを見ていた。
この義兄は、いつか、それもそう遠くない未来に、あの女性の手をとってこんなふうに指輪をはめるのだろう。
それもこんな戯れごとではなく、ごく真剣に、左手の薬指に。
そのとき義兄は満足だろうが、はたしてオーデリカ=ブロファーユは幸福なのだろうか。
ブロファーユ侯爵家はランメルト伯爵家よりずっと裕福だ。
義兄がこうして時間をかけて選んだ贈り物を受け取ったとき、本当にオーデリカが喜んでくれるのかどうか、メイアには分からなかった。
言ってしまっては悪いが、義兄が買える物は彼女とて苦労なく手に入れられるだろう。
心の結びつきがあればそう言った現実的な話はどうだってよくなるのだが、それだけの精神的なつながりが義兄と彼女の間にあるとは思えなかった。
義兄がどうなのかは知らないが、オーデリカは彼を愛してはいない。
どころか、軽蔑している。
だから、メイアには恐ろしい。
「女性は……好きな人が心を込めて選んで贈ってくれたものなら、贈られたもの自体はどうであろうと、相手のその気持ちに喜ぶと思いますよ。というか、人間ってそういうものなのではないですか」
でもオーデリカは義兄を好いていない。だから怖くなってしまう。
義兄がこうして心を込めて贈ったものが、彼女によって踏みにじられないことを願わずにはいられない。
彼女に嫉妬するくせに、彼女に義兄の贈り物を喜んでほしい、そして二人が救われてほしいと身勝手な願いを抱くのだった。
「……お義兄様は本当にオーデリカ様のことがお好きなのですか」
指にはめられたサファイアの指輪を見下ろしながら、メイアは静かにそう問うた。
問うた直後に後悔した。
肯定されても否定されても、自分の胸は千々に砕けてしまうだろう。
「いいです。これを下さい」
何がいいのかも分からないままそう言って、その時指にはめられていた指輪を買ってもらうことにした。
メイアは宝石商が片づけをして去っていくのを見送る間、義兄の方を一瞥もせず、そのまま自室に戻った。
買ってもらったのは、小さなサファイアがあしらわれた指輪。
なんとなく左手の薬指にはめてみたら、惨めすぎて泣けた。