○10
その日のうちに義兄はいなくなった。
本邸へ帰ってしまったらしかった。
メイアは憤慨し、彼を追うことにした。
しかし、タウンハウスには一台しか馬車を置いていない。
義兄が乗っていった馬車が戻ってくるのを待つことができず、メイアは辻馬車を乗り継ぎ乗り継ぎ本邸へ帰った。
家の馬車なら半日で着ける距離なのに、辻馬車だと丸二日掛かってしまった。
メイアは家に着くなり使用人に尋ねた。
「お義兄様! お義兄様はどこです!」
聞いても、使用人たちは困った顔で俯くだけである。
本邸の義兄の部屋や彼がよくいた書斎などを探し回りながら手あたり次第使用人に聞く。
本邸に帰ったはずなのに、義兄はいないし、どこへ行ったのかも分からなかった。
「メイア!」
太い声に振り向くと、父がいた。
領地の見回りか何かから帰ったところであるらしい。
「どうした、今帰ったのか?」
「お義兄様は帰ってきていませんか!?」
父の言葉を完全無視し、メイアは彼の服の胸元を掴んで尋ねた。
父はメイアの気迫に驚いたように一瞬首を引っ込めたが、その直後に重々しいため息をついた。
「あいつは折檻してから追い出した」
その言葉にメイアは息を呑んだ。
「どうして? どうしてそんなことをなさったんですか!?」
噛みつかんばかりに問いかけるメイアに、父は顔を顰めた。
「お前が一番よく知っているはずだ。あれにはもうランメルト伯爵家の跡継ぎたる資格は無い。お前の義兄たる資格も、だ」
「私がキスをしたからですか」
「義妹に邪な感情を抱いたからだ」
「そんな……」
メイアは父を見上げたまま言葉を失った。
しかし、その直後にはきっと眉尻を上げて父を睨んだ。
「要するにお父様は彼を自分の息子だとは思っていなかったということですね」
「いいや、思っていたさ。だからこそ裏切られたことが許せない」
「いいえ。それは嘘です」
メイアは拳を握り、はっきりと断じた。
父が訝しむように眉間に皺を寄せる。
メイアは自分の胸に手を当てて、父を睨み据えながら続けた。
「私だってお義兄様に邪な感情を抱きました。お父様は私のことも折檻して追い出しますか」
迫るように問うと、父は息を呑んだようだった。
直後、父は眉間の皺をいっそう深くし、無言のままに目を逸らした。
「それができないのなら、失礼ですが被害者面しないで頂きたいです。私はお義兄様を探しに行きます」
そう言い捨てて、メイアは自分の部屋に向かった。
身分を隠して出掛けるとき用の平民の服に着替え、着替えと金になりそうな宝飾品を荷物に詰める。
髪も庶民風に結い直し、屋敷を出て行った。
玄関で父に「メイア!」と呼ばれたが、振り向くことはなかった。
家の馬車は使えない。ここへ来た時と同じように辻馬車で義兄を探しに行くことにした。
義兄はおそらく王都へ向かうだろう。
父の追放がどの程度のものだったのか――この家から出て行けと言ったのか、このランメルト伯爵領から出て行けと言ったのか――は分からないが、義兄の律儀な性格からすると言われなくとも伯爵領から出て行くと思う。
ランメルト伯爵領と王都は比較的近い。
それに、経済の中心部である王都なら雇用先も見つけやすいだろう。
そう考え、メイアは王都に向かった。
王都とはいっても、ランメルト伯爵家のタウンハウスがあるような中心部ではない。
義兄はメイアや他の貴族たちに万が一にも見つからないように、周辺地域へ向かうだろう。
王都とはいっても中心部から外れればただの雑多な街だ。
義兄のような人間がうろうろしていたらかなり目立つだろう。
義兄はメイアよりもよっぽど貴族らしい貴族である。
お忍び用の平民服など彼は持っていない。メイアが母に買ってもらって喜んでいたときも、「そんなものは伯爵令嬢には必要ない」と言って渋い顔をしていた。
街にいれば、メイアよりよっぽど浮くと思う。
辻馬車に揺られながら、メイアは義兄を探すためにあれこれと考えていた。
街で義兄がまずすることは何か。
衣食住と仕事の確保を目指すはずだ。
まずあの目立つ貴族の服を質に入れるか何かして、いくばくかの金銭を得るだろう。
服が変わっても挙止動作に育ちが出るから、周りからすればただの人間でないことは一目瞭然だろうが。本人は気付かないかもしれないが。
職は、どうだろう。
義兄の資産というと、何よりもまずランメルト伯爵家の跡継ぎとして教育され、培ってきた知識と教養だ。
それを最大限に生かすことを考えるなら、裕福な商人の家の家庭教師にでも志願するだろうか。
あとは、寝床と食事が付いている仕事を好むだろう。
家庭教師を雇えるくらい裕福でありながら、特に治安のよい中心部ではなく周辺地域に居を構える者は限られているだろうから、まずは職業案内所にでも行ってそういう家で家庭教師を希望していたものがあるか尋ねよう。
駄目なら義兄が選びそうな職をひたすら当たっていくしかないか。
それと同時に街で育ちの良さそうな変わった男がいなかったかも聞き込みしていかなければ。
そこまで考え、メイアははぁとため息をついた。
馬車の窓から外を見ると、もう日が暮れようとしていた。
夜が来るという当たり前のことが、今日はいやに寒く恐ろしく思える。
もし全てが見当外れで、義兄が見つからなかったら。
古びた馬車に冷たい隙間風が入り込んできて、メイアは小さくぶるりと震えた。
義兄は家庭教師にはなっていないようだった。
「素性の知れない奴を紹介できるわけないだろ」と案内所の中年男性に言われ、それもそうだとメイアは納得した。
今の義兄はランメルト伯爵家次期当主とは名乗れない。
ならば何と名乗っているのかは知れないが、得体のしれない人間を紹介して揉め事でも起きれば案内所の信頼に関わる。
家庭教師の斡旋を頼むような家は裕福であり、案内所からしても上客になるのだろうから、変な男は紹介しないだろう。
そうなるともうしらみ潰しである。
メイアは毎日歩き通して店や街の人に聞き込みをした。
平民服に合わせた靴は伯爵令嬢用のそれよりも遥かに歩きやすいのだが、それでも数日後には靴擦れができた。
ガーゼを当ててみても大した効果は無く、皮が剥けて血まで滲む足でメイアは毎日義兄の行方を尋ね歩いた。
宝飾品を売ったお陰で金にはそれなりの余裕がある。
とは言ってもいつ終わるかも分からない人探しであるため、消費は抑えなければいけない。
メイアは捜索範囲に合わせて危なくない程度の安宿を見つけて泊まった。
娘一人が必死になったところで、探せる範囲などたかが知れている。
そう囁く声を頭の隅に聞きながら、安宿の寝台の上でメイアは押し黙ったまま足の傷に気休めの軟膏を塗っていた。
安宿ではせいぜい水浴くらいしかできないのだが、女将さんが気の毒がって石鹸を貸してくれたりする。
気の毒がるとは言ってもメイアは自分が人探しをしている経緯を人に話したことは無いので、自分の見た目が憐れまれるくらいみすぼらしくなっているということだろう。
水浴はできる宿では必ずしているし、服も洗ってはいるのだが、心身ともに慢性的に疲れた状態だからそう見られるのかもしれない。そういえば、お腹が空かないから食事もろくに摂っていない。
けれどもう鏡の向こうの自分の姿を見ても何とも思わないし、人に声を掛けたときに異様なものを見る目で見られてそそくさと逃げられてもどうとも思わなかった。
頭がおかしい女と思われていたとしても別にいいのだが、逃げられてしまうと聞き込みが進まないのでなるべく振る舞いは普通に見えるように心がけた。
聞き込みはあまりはかどらなかった。
一月ほど経ったある時、メイアは自分が街で浮いているのに気付いた。
いつの間にか周辺地域の中でもそこそこ裕福な街に入っていた。
中流の商人などが固まって住んでいるようで、丸きり庶民の身なりで疲れ果てた様子のメイアは馴染めていなかった。
けれど、この街に合わせた服をわざわざ買うのも馬鹿馬鹿しく、そのままの格好でメイアは義兄を探し歩いた。
メイアが義兄を見つけたのは、探し歩いてから一月半経ったころのことだった。
中流の商人の街で寝食付きの求人を出しているところを当たっていたところ、一つのレストランに辿り着いた。
内装と外装は白と金を基調としており、少し成金趣味を感じさせるが高級感のある上等なレストランだった。
窓が大きく、通りからでも店内の様子が見られる。
優雅に行き交うウェイターの中に見慣れた色つやの髪が見えて、メイアの膝から力が抜けた。
その場にへたりと座り込んでしまったが、ここは往来のある通りである。
慌てて下肢に力を入れて立ち上がると、メイアはふらふらとその店の入口へ歩いていった。
店内に入ると、ウェイターの一人が冷たい笑顔でメイアのもとに来た。
「お客様、恐れ入りますが当店は……」
お前のような小汚い娘はお呼びでないという趣旨のことをぐだぐだ言っているようだったが、メイアの耳には入ってこない。
メイアはその男の肩越しに、確かに義兄の姿を見とめた。
「おにいさま」
からからの喉から出た声は酷く掠れて、まともな言葉になっていなかった。
けれど、彼の耳には確かに届き、刹那に義兄は振り返った。
白のシャツに黒のベストを着た義兄は、硬直したままメイアの方を見ていた。
メイアの相手をしていたウェイターがそれに気付いたのか、視線で義兄を呼んだようだった。
義兄は二人のもとまで歩いてくる。
メイアの心臓は止まりそうだった。
「おにいさま……」
メイアの視界は滲む涙で何もかもがぼやけていた。
それでも、変わらぬ義兄の姿だけは克明に見えていた。
「君の知り合いか」
周りに聞こえないように静かな声で給仕の男が尋ねると、義兄は同じような小さな声で答えた。
「いえ、存じ上げない方です」
それだけ言って、義兄は持ち場に戻っていった。
メイアは言葉を失くした。
そのまま、給仕の男にやんわりと店を追い出された。
出血した足が痛い。
そうでなくともメイアの下肢は、腰に太い二本の木の枝をさしてそれで歩いているような感じだった。
足腰はずっと悲鳴を上げていた。
それでもメイアは全てを黙殺して、今日までずっと歩いてきたのだった。
「存じ上げない方です」と言われた。
義兄にとって、自分はその程度の存在だったのだろうか。
今日まで一か月半の間、自分は何をしていたのだろう。
体を痛め、こんな貧相な身なりになってまで。
馬鹿が一人で踊っていただけだった。
それを思うと、もう消えてしまいたくなる。
それでも、このまま帰る気は無かった。
ここで帰ったら、本当に何もかもが消えて無くなってしまう気がした。
今日までずっと、彼に会いたくて歩んできた何里もの道も。
今までずっと一緒に過ごしてきた二人の日々も。
大好きな彼の笑顔も。
メイアはレストランの裏口が見える場所に張り込みをした。
月が高く昇るころ、若い男や女がぞろぞろと出てくる。
その中に義兄の姿を見つけて、一定の距離を保ちつつメイアは彼の後についていった。
走って逃げられでもしたら絶対に追えないので、何か建物に入ってくれるのを待った。
十分ほど歩いたのち、義兄は白壁の集合住宅に着いた。
彼は外付けの階段を上り二階に上がり、右から二番目の扉の鍵を開けて中へ消えた。
あのレストランの寄宿舎なのだろうか。義兄はここに住んでいるようだ。
メイアは義兄が入っていった扉のもとまで行き、夜中なのでベルは鳴らさずノックした。
「はい」
中で声がして、鍵を開ける音の後に木製の扉が開けられた。
が、義兄はメイアの姿を一目見るなりバタンと扉を閉めた。
鍵を掛ける音さえ後に続いた。
以前のメイアだったら扉を殴る蹴るして騒いで開けさせるだろうが、今はそうする気力も無い。
メイアはしょんぼりとしたまま廊下に座り込み、そのまま寝転がった。
もう宿に戻る元気も無い。
さすがに外で寝るのは初めてだが、もうどうでもいい。
とぐろを巻くように小さく丸まり、そのままメイアは目を閉じた。
涙だけが静かに流れた。
体を揺さぶられて、メイアは目を覚ました。
寝ている間も涙は止まらなかったようで、頬と髪が濡れている。
首を少し動かして上を見ると、義兄がこちらを見下ろしていた。
月明かりの陰になり、その表情は分からない。
「入れ」
彼の言葉はそれだけだった。
部屋の中へ入ると、義兄は玄関でメイアの髪や服の土ぼこりを掃ってくれた。
中は小さな部屋が一つだけで、質素な寝台とテーブルと椅子があるくらいだった。
テーブルの上の蝋燭が、辺りを心もとなく照らしていた。
義兄は椅子を引き、メイアを座らせてくれた。
何も言わず紅茶を淹れ、ビスケットも出してくれた。
メイアはそれらに手を伸ばさず、ただぼんやりと紅茶の湯気を眺める。
テーブルに椅子は一つきりしかなく、アルザスはメイアの座る傍らに立っていた。
「帰れ」
義兄の声は冷たかった。
い、と言いかけて喉に引っかかるような感覚を覚え、メイアは数回咳き込んだ。
義兄が淹れてくれた紅茶を一口だけ口に含み、口腔と喉を濡らす。
それから再び口を開いた。
「一緒に帰りましょう、お義兄様」
「俺は君なんか知らない」
「お義兄様」
「知らない」
義兄の態度は頑なだった。
硬くはっきりとした声で、メイアを拒絶する。
メイアは口を噤み、立ち上がった。義兄の後方にはちょうどベッドがあった。
メイアが一歩義兄に歩み寄ると、彼は一歩下がる。
もう一歩進むと、もう一歩下がる。
さらに一歩進んだところで、義兄は下がろうとして下がれず尻もちをつくように寝台に座った。
なおも後ろに下がろうとする義兄に構わず、メイアは彼に覆い被さるように寝台に上がる。
それは手を触れずに押し倒したような状態だった。
義兄はメイアの下で、眉間に皺を寄せている。目を合わせようとしない。
「お義兄様。私の方を見て下さい」
それでも彼は窓の方に視線を逃がしている。
「お義兄様」
催促するように再度呼ぶと、彼は渋々といった様子でメイアの方を見た。
メイアは頭の位置を下げ、額と額をそっと合わせる。
彼の瞳を射貫いたまま、静かに言った。
「どうしても知らないとおっしゃるなら、私を抱いて下さい。今、ここで」
アルザスの両目が大きく見開かれた。
メイアは小さな声で続けた。
「私が、貴方の義妹でも何でもないというのなら」
返事は無かった。
アルザスは無言のまま、メイアを見上げていた。
その瞳は苦しそうで、悲しそうで、けれどもメイアは構わなかった。
額を離し、彼の上に跨るように座る。
そのまま男の胸元のボタンを外しはじめた。
上から三つ目に差し掛かったところで、メイアの手をアルザスが握った。
「……やめるんだ、メイア」
やっと義兄が自分を見て、名を呼んだことに安堵して、メイアはそこで力尽きた。