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○1

「メイア、まだ支度をしていないのか。俺は七時に出ると言ったよね?」

 男の呆れたような大きな声を聞いても、メイアは全く動じなかった。

 気楽な普段着姿でソファに寝転がり、娯楽雑誌をぺらぺらとめくる。

「メイア!」

 男は叱りつけるようにもう一度大きな声をあげた。

 部屋の隅で女中がびくびくしながら二人の様子をうかがっているのを見て、仕方なくメイアは起き上がった。

「そんなに大きな声でおっしゃらなくても聞こえます、お義兄様。今から着替えますので、さっさと出てってください」

「今から着替えること自体がおかしいと言っているんだ。それに、義兄に対してその口の利き方はどうなんだ? 君には周りへの気遣いと敬意が足りないといつもいつも――」

 なおも説教を続けようとする義兄アルザスを無視し、メイアはドレスの紐の結び目をしゅるりと解いて脱衣を始めた。

「ばっ……脱ぐんじゃない!」

 義兄は露骨にうろたえ、ばっとメイアに背を向けて扉の方を向いた。

「今から着替えますと言いました」

「っ……早くするように。馬車の支度はとっくに済んでいるんだ」

 そう最後に言って、義兄は扉を開けて部屋を出て行った。

 脱いだ衣服をすとんと足元に落としつつ、メイアはくすくす笑っていた。

 部屋の隅の女中は困り顔である。


 しばらくして、メイアの部屋の扉が叩かれた。

「メイア? もう着替えは済んだろう」

 扉の向こうから義兄の声がする。

「はい、済みました」

 メイアが返事をすると、カチャリと扉が開けられた。

「なっ……、……」

 入ってきた義兄はメイアを見て絶句した。全身が硬直している。

 メイアはにやにや笑って義兄を見つめ返す。

 女中はまた一戦あるのかと青い顔をしている。

 メイアは義兄の質問に答えたとおり、着替えを済ませていた。

 ただしそれは社交パーティー用のドレスではなく、薄手のベビードールである。しかも丈が短く、太腿がほとんど露わになるような代物だった。

「何だその格好は!」

 我に返った義兄が叫んだ。

「見て分かりませんか? ベビードールです。既製品ですけど、なかなか悪くないでしょう?」

 そう言ってメイアはその場でくるりと回って見せる。フリルの付いた裾がふわっと広がり、舞踏会用のドレスなんかよりよっぽど可愛く素敵に思える。

「ドレスは、ドレスはどうしたんだ!」

「着替えますけど、とりあえずこれをお義兄様に見てほしくて」

 顔を赤くして、自分から若干目を逸らして言う義兄がおかしくて、メイアは上機嫌だった。

「ふざけてないで早く着替えるんだ! あと二十分で何とかしろ!」

 そう言うと、義兄は逃げるように部屋を出て行きバタンと扉を閉めてしまった。

 いつも「一挙一動を静かに美しく」と言っている義兄らしくもない。

 メイアはお腹を抱えて笑っていた。

 女中は半泣きである。



 女中に手伝ってもらい、メイアはようやく支度を済ませた。

 今シーズンのために新調した水色のドレスはメイアの限りなく銀に近い金髪とよく合い、それぞれの美しさを引き立たせている。

 合わせるのは海のような深い青の首飾りにしようか、髪と色が近い金のネックレスにしようか。

 迷ったけれど今回は金のネックレスを選んだ。

 女中に髪を結い上げてもらい、化粧を済ませ、爪を少し磨けばメイアの身支度は完了である。

 時計をちらと見ると義兄が部屋を出て行ってから二十五分以上経っていたが、これくらいは許容範囲である。

 あの義兄はいつも早め早めに動こうとするのだ。


 支度を済ませたメイアが階下に降りていくと、義兄はもう玄関で待っていた。

「遅い」

 言われてもメイアはちょっと笑ってそれだけである。

「いくら身内でも、人を待たせたんだからすみませんくらい言いなさい」とか何とか、義兄は小言を言っ ていたがメイアは完全に無視である。

 義兄のため息が聞こえた。

 それでも二人は一台の馬車に乗り、使用人たちに見送られながら社交パーティーへと出掛けて行った。


 馬車での移動中も義兄のお小言は止むことを知らない。

 けれど今日はいつもと少し雰囲気が違っていた。

 いつもメイアの正面に座る義兄は、今日は斜め前に座っている。

 気まずそうにメイアから目を逸らし、小窓を見ながら彼は口を開いた。

「メイア、あんな服……本当に着ているのか」

「あんな服ってどんな服ですか?」

 予想はつくが、すっとぼける。

 義兄は言いづらそうに視線を彷徨わせていた。

「だから、あの……薄手の、寝巻」

「ベビードールですか」

 どうやら義兄はベビードールという言葉を口にしたくないらしい。

 まあベビードールなんて下着や裸と同じくくりにされるものだから、義兄の苦手分野なのだろう。

「そう、それだ」

「あのベビードールがどうかしましたか?」

「本当に着ているのか? あんなに薄い……丈の短いものを」

「着もしないのに買ったと思ってるんですか?」

 我ながら腹の立つ返しである。

 自分がこういう義妹を持っていたらぶっ飛ばすなとメイアはいつも思うのだが、義兄は大人で優しいのでそういうことはしない。

「あんなんじゃ体を冷やすだろう」

 文句を言うように見せかけて義妹の心配をしてくる辺り本当に優しいなあと思う。

 メイアは義兄のそういうところが大好きだった。

 大好きだからおちょくりたくなる。

 最低である。

「大丈夫ですよ、一人寝用じゃありませんもの」

 得意そうな顔でメイアは言った。

 意味が分からないらしく、義兄はメイアの方を見た。

「あれは男性と一緒に寝るときのためのものです。だから、あれを着ていればむしろ体を冷やす心配は無いんです」

 自慢するように言ってやると、義兄は数秒固まって言葉の意味を咀嚼していた。

 その後、かっと顔を赤くして思い切り眉を顰めた。意味が分かったらしい。

 再びメイアから視線を外し、腕組みをして、完全に不機嫌そうだった。

「感心しないな。そんな、ふしだらなもの……」

「お義兄様に感心してほしくて買ったわけじゃありませんから」

「……着て、見せる奴でもいるのか」

「はい?」

 声が小さすぎて、馬車が走る音に紛れて義兄の言葉は聞き取れなかった。

「なんでもない」

 ぶっきらぼうにそう言って、義兄は体ごとメイアに背を向けてしまった。

 メイアはよく分からないまま、一応くすりと笑ってみせてから窓の外を見た。

 夜空には星々が輝いているものの、黒い雲がところどころを隠していた。

 ひょっとすると明日は雨かもしれない。



 目がチカチカするほど明るいダンスホールに着いた。

 義兄はメイアに「ランメルト伯爵令嬢として礼儀正しく、皆様に無礼の無いように」とか「いいと思う男性(ひ と)がいたら積極的に声を掛けるように」とか「変な男に絡まれたり、何かあったりしたら、 俺を呼ぶか周りの誰かに助けを求めるように」などといったいつもと同じ台詞を聞かせると、そそくさと義妹のもとを去ってしまった。

 いつの間に見つけたのか知らないが、黒髪の女性のもとへまっしぐらに向かっていく。

 メイアは無言でその後姿(うしろすがた)を見送った。

「何ふくれっ面してらっしゃるの?」

 声にはっとして振り向くと、友人のルノアが首を傾げてメイアの様子を窺っていた。

 彼女はメイアがそれまで見ていた方向に目を向け、ああ、と納得したように頷いた。

「オーデリカ様もいらっしゃっていたのですね」

「……そうみたいですね」

 メイアは不機嫌を隠そうともせず返した。

 オーデリカ=ブロファーユ侯爵令嬢は義兄の婚約者である。

 艶のある黒髪の妙齢の女性だった。

 友人はメイアを見て苦笑した。

「既にして小姑ですか?」

「ですね。全面戦争です。本当に、あの人には腹が立つ」

「オーデリカ様のこと?」

「お義兄様もです」

 彼方の二人を睨みつけながらメイアは言った。

 義兄は婚約者に向かって笑顔をみせ、何やら世間話でもしているようだった。

 オーデリカは扇で口元を隠し、冷めた目で義兄を見ている。まともな返事をしているようにも見えない。

 扇を持っていない方のオーデリカの手には別の紳士が跪いて接吻していた。

 他にも、彼女の周りには三、四人の男が侍っている。

 義兄は婚約者の冷たい視線に晒されながら、それでも笑顔で何事かを話していた。

「くそ、あの女……領地とチチがでかいからって調子に乗りやがって……」

 歯ぎしりしたい思いでメイアは言った。

「さすがに言葉が汚くて聞き苦しいですわよ」

 咄嗟に友人に注意される。メイアは構わなかった。

 ルノアは二人を睨むメイアを見てくすりと笑った。

「ふふ……しかし、ある家の領地とそのご令嬢のバストの大きさに相関関係があったら面白いですわね」

 人の胸を見ながらそう言うところが感じ悪い。

 しかも当の自分はそこそこの大きさなのである。領地も胸も。

「将来性では勝ってます」

 メイアが言うと、ルノアは口元を隠して笑っていた。失礼な奴だ。

 けれど今一番腹が立つのはこの友人ではない。

「お義兄様もお義兄様です。あんな女相手ににやにやして顔色窺ってぺこぺこしているんですから」

 メイアはそれが悔しくてならなかった。

 義兄は気高い人なのだ。

 あんな下らない女相手にふにゃふにゃしていて欲しくない。

 身分がどうだろうと、生まれがどうだろうと、そんなことは関係ないんじゃないのか。

 メイアにいつも言うように、目の前の女にも「君には周りへの気遣いと敬意が足りない」と言ってやればいいのに。

「でもそれは、まあ、仕方のないことではありませんか?」

 笑いが治まったらしい友人は、苦笑いでそう言う。

「なにせお相手はブロファーユ侯爵令嬢ですもの。持参金も相当と伺いますし、お家のことを考えたら失敗させたくないでしょう」

「だったら媚びへつらわなければいけないのですか?」

「家のことを考えるのなら、そうでしょうね」

 意外に冷たい友人の言葉に、メイアは歯噛みした。

「私は嫌です。嫌いです、あんなお義兄様も、あの(ひと)も。あんなの私のお義兄様じゃない」

「貴女もいつまで経っても義兄離れができなくて困りますね」

 友人の言葉に、メイアはいよいよむくれた。

「まあまあ、そう怒ってばかりいないで。せっかく社交パーティーに来たのだから、楽しくお話しましょう。ほら、さっきからあそこの男の人が貴女をちらちら見ていますよ」

 メイアは不機嫌なままだったが、話題の転換には応じた。

「彼は駄目です」

「あら、どうして?」

「叔父が財務統監で本人も頭がいいんです」

 メイアがそう言うと、ルノアは微妙な顔をした。

 残念そうな、苦笑いのような、アホを見るような不思議な顔である。

 気にせずメイアは言い切った。

「私は人が良い無能としか結婚しません。だから優秀な紳士とは話しません」

 それはメイアが固く胸に誓っていたことだった。

 社交パーティーで話す即ち結婚という図式は短絡的すぎるかもしれないが、晩餐会で隣に座っただけの男との縁談が舞い込んでくるような貴族社会である。

 接点という名の隙はゼロに近ければ近いほど良い。

 そして人のいい無能を見つけてその人とだけ関わりを持ち、結婚するのである。

 それがメイアの目標だった。

 これを義兄に言うと、「君のそれは交際を断った人に対しても、君の将来の夫に対しても甚だしく失礼だ」と言われる。

 ルノアなどの友人には苦笑される。

 それでもメイアは己の道を曲げる気は無かった。

「でもそれって、公言してしまうと難しくはないですか? 誰も、自分を無能と思っている相手と結婚したいとは思わないでしょう」

 メイアはその疑問に得意顔で応じた。

「良い質問ですね。実はそれこそが『人のいい』の部分のテストなんです。自分を無能扱いする相手との結婚に応じられる程度の人のよさと無能さが、私の夫には必要なんです」

 そう説明すると、ルノアはまた微苦笑した。

 メイアは自分の目標を他人に理解してもらおうとは思っていないので、友人にどんな顔をされようと気にしない。邪魔されなければそれでいいし、ルノアはたとえ反対意見を持っていてもメイアの邪魔をするような人ではないと分かっていた。

 ルノアはしばしアルザスを見つめ、それからメイアの方を見て、少し笑った。

「でも貴女は、そんなことを言っておいて……本当は、誰とも結婚したくないのでしょう?」

 静かな声でそう言われ、メイアは彼女の視界を遮るようにぱっと手をかざした。

「貴女のそういう鋭いところは嫌いです」

 メイアが言うと、友人はくすくすと笑った。

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