19,
秋の釣瓶落としとはよく言ったもので、外は既に宵闇につ包まれていた。星が瞬き、月が穏やかな光を降り注ぐ景色を、ロアは与えられた部屋の窓際から、見るとはなしに眺めていた。
重い息を吐きそうになるのを堪える。
初めて報告を聞いてから、もう四時間が過ぎようとしていた。
***
どうにか激情を抑え込んだあの後、小会議室で街の様子を探っていた隠密の男からの報告をロアも共に聞いていた。
彼はロアの監視や母の護衛をしていた変態ではなく、その交代要員で定時報告後、クレアの警護に当たる予定だったらしい。
その予定が狂ったのは、午後四時過ぎ。
クレアが珍しく外出していたので、男も早めに仕事を切り上げて、街中で合流、引き継ぎとなるはずだった。
妙だと気がついたのは、交代の時間が近づいた時。
護衛の変態が、血相を変えて突如動き回り始めたらしい。
非常事態かと気配を頼りに男が合流すると、クレアの姿を見失ったそうだ。近くを探したのにどこにも見当たらない。
その救いようのないど変態バカの隠密は、そのまま捜索に入り、男が報告に城に来たということらしい。
何も手がかりはなく、動ける者が総動員でことに当たっていると言われた。
本当だったら変態を殴ってやりたいが、探す人手は多い方がいい。
ロアも探しに行きたいが、勝手をすればロアの護衛などに人が割かれて、指揮系統が乱れる恐れがある。
「ロア、焦る気持ちはわかるけど落ち着いて」
「わかってます」
ロアは王の言葉を遮って、セオルドに向き直る。王の言葉を遮った時点で、冷静でないことは全員、誰よりもロアがよくわかっていた。
唇を噛んで、頭を下げる。
「私は部屋に戻り、おとなしくしております。勝手に動いたりはしませんのでご安心を。ただ餌として必要な時はおっしゃって下さい。多少危険でも構いません。その際の私の行動には、私が責任を持ちますので」
悔しいが、ロアに出来ることは何もなかった。動けば迷惑がかかって邪魔にしかならない。出来るとしたら、彼らの指示と監視下のもと囮として、誘き寄せる餌になることくらいだ。
「母の事を、宜しくお願い致します」
今後の対応に関する会議か始まるだろうと、ロアは速やかに退室した。ルースの視線を受けて、エリーが付いていく。彼女の案内で、ロアは与えられた部屋に戻った。
***
部屋に戻ってからは、宣言通り大人しくして、もどかしい時間を過ごした。
食欲はなかったが、何かあった際に動けないと困ると思い、無理にでもスープとパンを詰め込んだ。
王都で八つ鐘が鳴った。
残響が微かに響いて、届いた。
未だに何の知らせもない。
どうか無事でいてと願わずにはいられない。どうしようと不安で思い詰めたら、キリが無かった。
「ロア様、庭の方へ少し散歩に参りませんか? ずっと部屋にいるのも窮屈で、気が滅入ってしまいますから」
エリーの気遣いを感謝して受け取り、ロアは庭へと向かった。その際もエリーが何かと気にしてくれる。
庭園へと案内してもらいながら、ロアが作ったクッキーが使用人の中で好評だったとか、そのために取り合いも行われたとか、エリーの作ったクッキーは早速学生寮にいる弟に送ったとか。
ロアは今ここに一人じゃないことを、ありがたく思った。
***
机仕事を片付けて、ルースは月の光に照らされた幻想的な庭を窓から見下ろした。
人影を見つけて目を凝らすと、二人の少女が歩いていた。
エリーがロアの手を引いて、庭を進んでいく。
下ろしたロアの黒髪が月光を弾いて、風にたなびいていた。
その様子を眺めながら、数時間前、小会議室で激しい感情を露にしたロアを思いだし、申し訳なさにルースの胸が痛んだ。
その後の彼女は、とても冷静で正直拍子抜けした。装っているだけというのはわかっていた。
声も表情も口調も乱れず、平静そのもの。
ただ一点、黒々とした眼だけは怒りと後悔と不安と、様々な感情がごちゃ混ぜになり、ゾッとするほど輝いていた。
それでも冷静さを瞬時に取り繕えるだけ、立派だろう。その上で、的確に判断を下したことに、感動にも似た驚きを味わった。
こちらの無能さを詰って非難してもいいのに、餌になることを承認し、罵倒もせずに母を頼むと、頭を下げた━━あらゆるものを呑み込んで。
参ったと、素直に感嘆した。
それは他の面々も同じようだった。
ロアが退室した後、すぐに対応策が講じられ、出来る限りの人数を動員してクレアの捜索が行われた。朗報はまだない。
初めて対面した時は慣れないことに怯え、戸惑っていた少女。
言動は実直で、嘘の多い権謀術数の中で育ったルースたちには新鮮だった。
もちろん、謀とは無縁の天真爛漫な令嬢も、政治に強い頼もしい子息もいる。でも彼らとは違った。
平民だからと言えばそうなのかもしれないが、それだけではないだろう。
見聞が広く、耳聡く、情報の取捨選択、話の関連付け、予測立て。情報統制されている中で、街娘の彼女より、遥かに質の良い詳細な話を早く多く確実に手に入れられる貴族の中に、一体どれだけそういったことのできる者がいるだろうか。
然り気無く自分の要求をまじえながら、情報を引き出し、相手の反応を窺い確かめて、交渉する。
突発的な事にも冷静に切り返し、対応する。彼女の図太くふてぶてしいは、度胸があって頼もしいだ。
さすが賢者の一族稀代の天才と高名な彼を師事しただけある。聡明さにはその師が大いに関わってくるだろう。だが、それを約三ヶ月教わっただけで、自分のものとして使えるようになるかどうかは、本人に因るところだろう。
上に立つ者の資質。
魔法師や騎士や兵士を任せても見事に指揮を執れるような。それが彼女にはあるように思えた。
感心する一方で、彼女には疑問も残っていた。
記憶の齟齬と頑ななまでに否定する女魔法師の件。状況は彼女を指し示しているのに、本人は魔力量か違うから自分ではないと逃げる。
魔法を使えば、隠密から行方を眩ませることができる。六度逃げたロア然り、その母クレアの件も然り。ただクレアは魔法を使えないので、誰か別の人間が行ったと考えられた。
そして新たに出てきた食事や紅茶に魔力を込めるやる方。
本人は魔力の少ない自分でもできるものくらいに思っていたが、そんなのルースたちは初めて知った。
実際に食した父は体調を持ち直すほど回復し、幸運にも好転した。
なのに、本人は誰に教わったのか、どうして出来るのか覚えていない。記憶があやふやだ。
師のアルスマかと思い話を振ったが、違うらしい。
小会議室での協議後、まだあるという例のクッキーを貰った。
シンプルなものなのに、美味しく食べやすい。何枚でも食べられそうだ。そして、父と母の土産を思いだし、懐かしかった。
劇的な変化はなかったが、連日多忙で頭も体も目も怠く重かったのが、すっきりした。クリスとカインからも同じような感想を貰った。
他には悩ませていた問題が進んで片付いたり、夕食が好物だった等ちょっとしたいいこともあったらしい。ルースにも朗報が二つ届いた。
不思議な捉えどころのない少女。
記憶を改竄されているのかと思うが、それでは強力な魔法を使える魔力の説明がつかない。
彼女自身やアルスマの知識ではない、別の誰かから教わった知識と、別人のような魔法の使い手。
ルースは読んだロアの報告書を机の上に置いた。
反乱分子の集会に参加しているのに、民の身勝手な言い分であればその組織に怒って潰しているのに、まっとうな言い分を主張したレイヴンの話には耳を傾けている。
女魔法師は、国が滅んだ方がいい明確な理由があれば、協力も惜しまないと宣言したそうだ。
見え隠れする別の誰かの影。
「これは一体どういう状況なんだろうな。国が滅んだ方がいいなんて、まるで革命の皇女みたいだ」
五百年前に、千年続いた帝国が歴史から消え去るきっかけとなった皇女。無能で腐った皇族と貴族たちを断罪し、民衆を導いて革命を成し遂げ、四国に分けた後、姿を消した各国の王族のみが知る歴史の真実。
ルースは小さく息を吐いた。
迷路のような薔薇の庭園を見下ろすと、中央の噴水を通り過ぎて、庭園の奥、池がある拓けた場所に二人はいた。灯りを持った兵士が巡回している。
二人は池の側にある鳥籠のような休憩場所に入っていった。
実はルースには、誰にも言わずに独断で動いた件が二つあった。先ほど届いた朗報もその件だ。一先ずどちらも上手くいきそうでほっとした。
小会議室を出た後で、クリスとカインにはその件を教えていた。二人は驚いた顔をした。
「意外です。てっきりあなたはそういう事を嫌ってしないと思っていました」
「確かに好きじゃない。けれど、今の先の見えない状況のままの方がもっと嫌だった」
本当に時間がないのだ。無駄にはできないし、結論は早く出したかった。
それでも悲しませるのは本意じゃない。
ルースは迷った末に、結局甘いなと思いながら、部屋を後にした。
***
池の水面に映る月を眺めていた。
時折風に吹かれて、水鏡の中の膨らんだ月が歪む。
見回りの兵士が遠目に歩いていくのを見かける以外に人影はなく、とても静かだ。
エリーは少し寒くなってきましたねと、ショールを取りに行った。ロアの気持ちを汲んで一人にしてくれたのだろう。
草の踏まれる音がして、ロアはふっと顔を上げた。
ルースがこちらに歩いてきたので、鳥籠の形をした休憩所から出て、軽く腰を屈めて頭を下げた。
足音が、ロアの前で止まる。
「そんなに畏まらなくていい。顔を上げて普通にしてくれ」
言われた通りに面を上げて、真っ直ぐ立った。辺りを見ていたルースの空色の目が、ロアに向く。
「エリーはどうした?」
「寒くなってきたのでショールを取りに行ってくれました」
「そうか」
「はい」
暫く二人の間に沈黙が落ちた。お互いに会話の糸口が掴めない。
何の用だろうかと考えて、もしかしてとロアは淡い期待を胸に、謁見の間より小会議室よりも近い距離で白皙の顔を見上げた。
「もしかして母のことで何か情報が?」
「えっ、あ、いや、そういうわけじゃないんだ」
「そうでしたか。勘違いをして失礼しました」
明らかに落胆したロアに、ルースが困った顔をした。
「……すまない。勝手にこちらの都合で連れてきておいて、試すような真似をして、危険に晒した」
「いえ、えーと…はい。謝罪は受け取ります。なので頭を上げてください」
赦すとは嘘でも言えなかった。母に何かあれば、きっとロアは恨むだろう。
それを理解したように、顔を上げたルースが微苦笑した。月明かりに照らされて改めて見る整った顔を、きれいだなとぼんやり思う。
「私に何か用が……囮の件ですか?」
「それも違う。というか、危険なことを嬉々として言うな。そうじゃなくて」
ルースがどう話したものかと考える様を、ロアは静かに見守った。
「………報告書を見ていて気づいた。明日が誕生日をだったな」
「…あ。そういえばそうでした」
ロアの様子にルースがやや呆れた。が、それどころではない状況だったので、それも仕方ないと納得してくれたようだ。
その様子を見つめながら、意外に表情が変わるんだなぁと呑気に考える。
少しだけ強ばりが解けて、ふっと肩から力が抜けた。
「気にしないで下さい。忘れていたくらいなので、私は気にしてませんから」
「……クレアを利用して悪かった。もちろんロア、お前のことも。だから……いや、わかっている。欲しいのは謝罪じゃなくて、無事だという報せだよな」
ルースが苦しそうな顔で、口を噤んだ。
ロアはじっと苦悩するルースを見て、ふと何かに引っ掛かる。けれどこれは彼から聞くべきだと思った。
実際に大切なことを言おうとしてくれている。だからわざわざここまで来てくれたのだろう。
急かすことはしたくない。少し考えて、ロアは疑問に思っていた事を聞いてみることにした。
「皆さんは師匠の事を知っていたんですよね。どうして賢者の一族だと知っているんですか?」
「約千五百年前ノーザルス帝国の建国時から、建国に貢献した一族として、代々皇族にのみ伝えられて悪用されないよう庇護してきたらしい。五百年前に帝国が滅んで今の四国に分かたれたが、この国はかつての帝国の帝都で今の王族の俺たちは帝国皇族の傍流。そんな理由で、その一族が変わらない庇護を求めてきたんだよ。以前は村だったのに、今ではだいぶ減って十人もいない。それでも一族をまとめる長とその候補は必ず決められていて、長はカルマンの姓を名乗る。それに人数が少ないから、集落を出る一族の者は何かトラブルに巻き込まれた際に、助けを求められたら動けるよう名前や容姿を王族にのみ伝えてくるから」
「それで賢者の一族と呼ばれる彼らの事を知っていたんですね。でもそれなら、彼らに助けを求めることは出来なかったんですか?」
今の国の状態は子供でもよく知っている。ノーザルス帝国から分かたれた四国。このファウス国は現在、三国から肥沃な土地、高度な学問技術、魔法研究といったものを狙われている。それというのも、今まで他国への牽制、抑止力として一人で国を相手にできる実力者、魔法師を束ねる魔法師長がいたからだ。
その脅威がこの三十年、いない。
他の三国より魔法師が多く、魔法研究も進んでいるとはいえ、三国を相手にするには限度かある。ましてや三国が協定を結んで、一斉攻撃を受けたら確実に滅びるだろう。
王が何とか外交を駆使して時間を稼ぎ、魔法師長に頼らない体制として魔法騎士を作り、王太子や宰相が国の体制を根本から見直して、魔法寄りの国を改革しているが、時間が足りない。
手っ取り早く今をどうにかできるとしたら、暫定的にでも魔法師長を立ててその力を他国に示し、四国の均衡を戻すこと。
それなら魔法に長け、博識な彼の一族など最適だろう。庇護を受けているのだから、その分を返しても罰はあたらない。
「……賢者の一族は今、長を含めて八人。その半数がいつ亡くなってもおかしくないほど寝たきりの高齢で、長を除けば強力な魔法を使える者はいないのが実情なんだ。魔法の知識もあり博識であっても、一般の魔法師と能力は変わらない。それでも十分に戦力にはなるが、本人たちの意思なく表舞台に引っ張り出すことは、庇護の契約と同じく禁止されている」
「でもここまで追い詰められる前に手伝って貰えることもあったんじゃないですか? ……申し訳ございません。差し出口でした」
ロアは謝罪して頭を下げた。いつもはもう少し分を弁えているのに、関わっていいことではないのに、口にしてしまった。話の修正を試みる。
「旅に出ている師匠の特徴を知っていたから、私との関わりもわかったんですね」
「それもある。いや、最近までは知らなかったんだが、知り合いにロアの存在を教えられて気づいた。そうしたら、女魔法師の繋がり件も出てきた。魔法師を探してはいたけど、まだ絞り込めてはいなかったから渡りに船だった」
意外な事実にロアは、軽く目を見開いた。
「そうか、そっちの件もあった…。や、でもそれはあいつ本人に説明させて謝らせればいいか」
「あの意味がよく解らないのですが?」
「そうだな、悪い。どこまで話していいのか迷っていたが、お前は真っ直ぐ誠実だったから、俺もたまにはそうしてみるか」
「え?」
「ロア、クレアは無事だ」
「えっ!?」
「不安にさせて悪かった。本当は━━」
「ルース様、ロア様! お逃げ下さい! 今すぐにここから」
ルースの言葉が切羽詰まって駆け寄るエリーの声でかき消された。
振り返ると、エリーの後ろに二つの人影あった。ロアは瞠目して、息を飲んだ。
「お母さん!? ━━と、ジェナス!? 何で━━」
突如、ロアの声が爆音でかき消された。
視界が黒いルースの服で塞がれ、耳が痛くなり、熱を感じた。
次いで、爆風の衝撃と城壁の残骸が礫となり、襲いかかってくるが、ロアは守られているので痛みはなかった。
けれども、見てしまった。
駆け寄ってきていた三人が、爆発に巻き込まれたところを。
三人が走っていた辺りが爆炎に包まれて、今も夜空を焦がす勢いで赤々と燃え上がっている様を。
「あ、ぁあ……!!」
何を言いたいのか、自分でもわかっていなかった。ロアは何も考えられず、茫然自失の状態でただ、燃え盛る炎を見つめた。
そして、弾かれたように体が動き出す。それを強く守るように抱き締めていたルースが留めた。
「放して!!」
もがいて腕の中から出ようとするが、訴えても叩いても力を込めても、解放してもらえなかった。
「ダメだ、ロア!!」
「だって早くしないと! なくなっちゃう!!」
ルースが恐慌を来したロアを逃がすまいとさらに強く抱き締めて、崩れた城壁から気軽に敷地に足を踏み入れてきた男たちを、きつく睨み据えた。