第六話・教会の空室
「ねぇ、そろそろ機嫌直してよ。明日は僕も手伝うから」
古びた教会の裏庭で、くたびれた少年の声が飛ぶ。しかしそれを受けた少女は、その言葉を聞き入れる様子はない。
それはもうカンカンと呼ぶにふさわしい状態であった。
すでに日は傾き、石の街は暁に染まっている。
アイルたちは、あれから黙々と掃除を続け、絶対に今日中には終わらないだろうと思われたすべての部屋の埃の取り除きを終え、外に干してあったシーツを取り込んでいる最中だった。あれからアイルはいたたまれない空気の中、驚異の集中力を発揮し掃除をし終えたのだ。アイル自身驚くほどの手際であったが、エリカの機嫌は一向に収まらない。因みにエリカの服は、再び魔法の笛で元に戻っている。
「当たり前です。明日来なかったら本気で殺します」
エリカはすっかり殺戮モードに入っており、先ほどから何度かアイルが機嫌を取ろうと試みたが、がるるるると獣のように威嚇するばかりだった。
これはもうしばらく機嫌は直りそうにない。
こりゃだめだと諦めたアイルは、これ以上エリカが機嫌を悪くしないよう、せっせと働くのみだった。
しかし、何度も何度も教会の物置と裏庭を往復していると、ふと疑問も湧き上がってくるのである。
――はて、なぜ自分は今日名前を知ったばかりの女の子に、戦々恐々としながら掃除をしているのだろうかと。
当然、その理由はアイルの普段の行いと、本日起こした不祥事の後始末であり、自業自得といわれてしかるべきである。
だがしかし。であるならばである。
もう一人、自分の隣で掃除をしなくてはいけない人間がいるのではなかろうかと、アイルの胸には疑問が募り始めていた。
「ドロンたち、どこに行ったんだろう?」
募る感情は気を抜けば抜くほどに口に出やすくなるようで、アイルの口からはここにいない相棒に対して恨みの念が滲む言葉を吐き出した。
「まったく。僕がこんなに掃除をしているというのに」
「おや?もしかして、あなたの待遇に何かご不満が?」
しかしアイルがため込んだ鬱憤をここにいない誰かにぶつけるような惰性を、エリカは見逃したりなどはしない。
一度アイルが愚痴ろうものなら、手には穂を外し柄のみになった箒を握り、アイルを映す瞳を嗜虐で揺らした。
「あ、あはは。そんなことありません!せっせと動きます」
アイルはぶんぶんと首を振り、急いで次の洗濯物を取り込むために裏庭へ走る。
……まるで、神父にいたずらの罰掃除をさせられているようだ。
しかし。このような重労働を自分一人で受けるなど、アイルだって問屋が卸さない。
「ねぇ、明日はドロンも連れてきていいよね?」
絶対にこの苦痛をドロンにも味合わせてやると、アイルはその小さな胸で硬く誓った。
「…………」
そしてやはり、アイルはいたずら小僧ではあっても根は素直というか、わかりやすいのである。エリカも当然アイルの胸の内はわかっていた。
しかしただ、掃除には人手があった方がいいということも事実ではある。
問題は連れてきた人材は本当に掃除をするのかどうかということなのだが……。
「まぁ、連れてきたいのならいいんじゃないですか?」
エリカも、今日一日アイルを見て、少なくともアイルは逃げ出さないだろうと思っていた。
よしっ!とアイルは心の中でガッツポーズをする。
「ただし、明日の掃除はおじさんも一緒ですから」
「…………え?」
ピシッと、アイルが石のように固まる。
アイルの握っていた洗濯物がアイルの手をすり抜けそうなところで、エリカが眼光を鋭くし、アイルを現実に引き戻した。
「……マジ?」
「おおマジですよ」
このおにぃ!とアイルは心の中で叫ぶ。
このアイル、すっかり神父恐怖症なのである。
しかも今日神父を本気で怒らせてしまっただけに、明日のこのこと教会に足を運べばどうなるか。……自明の理だった。
だからこそ、こんな後になって神父の参加を告げるエリカを、悪魔を見るような目でアイルは見る。
所詮、休み明けには教会に足を運ばなくてはならないのだが、明日怒られるか明後日怒られるかという違いは、アイルの心の中で天秤を傾けるのには十分すぎた。
「言っておきますけど、明日おじさんが参加するのは、もともと決まってたことですからね?」
「でも隠してた」
「隠していたわけではなく、単純に言うタイミングがなかったんですよ」
エリカの弁論に、アイルが納得できるはずもない。
戦々恐々としながらも、アイルはエリカに対して鋭い眼差しを向けていた。
「はぁ」と、エリカは溜息を一つ。
掌中の珠なる自分の体を余すことなく一望しておいて、神父の来棒を知った程度でピーピー鳴くとは。もう少しありがたみのようなものを持ってもいいのではと、エリカは胸中思うが、それがまたアイルであるとエリカも理解していた。
「明日参加してくれるのなら、今日の掃除をしてくれたことでおとがめなしにするよう、おじさんにお願いしておきますから」
エリカがしかたないとため息を吐くと、アイルは飛び上がるように言った。
「え!?ほんと!?」
「だからさっさと片付けてください」
「はーい!やるやるぅ!」
「……調子いいんですから」
アイルは軽い足取りで教会と裏庭を往復する。
言葉一つであからさまな態度の変わりようを見て、エリカはため息を吐いた。
「……ほんと、調子いいんですから」
それでも悪い気分に話なっていないようで、アイルの見ていないところで、その小さな頬を緩ませていた。
「おわったー!」
すべての洗濯物と掃除用具を収め終わったところで、夕暮れ色に染まった草花が一面を埋め尽くす裏庭を前にして、アイルは叫んだ。
「あぁ、これで帰れる。そういえば何で僕こんなところで掃除してんだっけ?……どうでもいいか」
芝が生い茂る大地に大の字になって横になる。太陽は見えずとも未だに沈み切ってはいないようだ。空に浮かぶ星々は、未だ紅の海に沈んでいる。
情緒を感じることの少なく、理解することもできないアイルではあったが、感じる風はこの上なく心地がいいと感じていた。
呆然と空を眺めるアイルの目の前に、小さな手がふらふらと振られる。
「お疲れさまでした、アイル。こんなところで寝たら、風邪ひきますよ?」
「大丈夫。子供はかぜの子って言葉があるから」
「……そのかぜと、私の言った風邪は違います。風邪をひかないのはバカです。つまりアイルはバカです」
「辛辣だねぇ」
たはは、とアイルは笑う。しかし、しょげる気にも怒る気にもならなかった。どうやら気分がいいらしい。
「エリカも寝ころんだら?気持ちいよ」
「生憎ですけど、服が汚れるので私はこのままで」
嘘つけぇとまたアイルは笑う。真っ白な服を着て掃除に臨むほど豪胆で、その上魔法の笛まで持っているというのに、その理由は適当すぎる。
「明日もありますからね。いつも授業が始まる時間と同じ九時にここに集合です」
「…………」
「あからさまに顔が引きつりましたねぇ」
「そういえば明日もあるんだっけ」
つい五分ほど前にエリカに告げられていたことを今一度思い出し、アイルの眉間には僅かなれど、しわが寄った。
そして今更ながら、芝に投げ出した体に深い疲労感を覚える。
「もう一生分の掃除をした気がする」
エリカが聞くと鼻で笑ったが、アイルにとっては一日を掃除に費やすというのは初めての経験で、胸の中にはそれなりの充実感も芽生えていた。
そしてその実感を感じている自分の隣にいるのが、ドロンではなくエリカであるということに、アイルは不思議な気分に浸っていた。
「ねぇ、本当に今更なんだけど、エリカって神父のこと、おじさんっていってるよね。……どして?」
そこでぽつりと、ふと頭に浮かんだ疑問をアイルは吐き出した。
「私は、この教会で育ったんです。四年前まで、私はずっとおじさんに育てられてましたから。その時の名残です。……おじさんには直せと言われてるんですけどね。全然直りません」
「教会で?教会に暮らしてたの?」
アイルは寝返りを打ち、アイルの横に腰かけていたエリカの顔を視界に収めた。
「私は捨て子でしたから。今でもたまにあります。身寄りのない子供を教会が預かって育てることは」
エリカは、先ほどまでのアイルと同じように、空を仰いでいた。
アイルはフーンと鼻を鳴らす。さらりとエリカの言葉に触れていいのか迷う言葉があったものの空を仰ぐエリカの顔は、一切歪むことはなかった。
「じゃぁ今日掃除してたあの部屋って……」
「私たちが使っていた部屋です」
それを聞き、再び部屋の内装を思い浮かべたアイルは、うげぇと舌を出した。
「神父に育てられながらあの部屋に暮らすって、……なんだかすごく暗いね」
「まぁ、少し窮屈だったかもしれませんけど。……でも、おじさんは優しかったですよ。アイルとドロンが不真面目なだけです」
エリカの毒づきに、アイルは「うっ」と言葉を詰まらせる。
「それはまぁ、否定しないけど。……でも、それならどうして、今更掃除なんかしてたの?」
「…………」
その時、エリカが浮かべていた笑みが消えた。
「……もうすぐ、あの部屋が必要になるからです」
エリカの声から、柔らかさのようなものが一切削がれた声で、エリカは言った。
――きっと、アイルがもう少し自分の生きる世界のことに詳しかったのなら、エリカの言うことを理解できたのだろう。
しかし、アイルにはその言葉の意味が分からない。
「……どういうこと?」
その一言を聞いて、エリカもまた、アイルがそのことを知らないことを理解する。
「……もうすぐ、この教会には身寄りのない子が大勢やってくることになる。そういうことです」
エリカはただ微笑み、そう告げた。