第五話・神様の使い
「……はぁ、終わる気がしない」
不本意な掃除を手伝わされ、すでに二時間が経過していた。
しかし片付いた部屋は二部屋のみ。このペースだと日が暮れてもなお、アイルは掃除に付き合わされる計算になる。しかしそれを見越してアイルがペースを上げるかといえばそうではない。アイルは常に惰性に進むことを目指し、着実にエリカの負担になるよう働いていた。もはやアイルがいない方が、掃除は早く済むだろう。
それを理由にこの部屋から除外されることを望んだが、エリカはいくらアイルが役立たずであろうと、的確に指示を飛ばして(時には脅して)掃除に臨んでいた。
どうやらアイルを逃がすつもりは全くないらしい。気を落とし埃が張る床に駄弁るアイルとは対照的に、エリカは変わらずせっせとはたきを片手に壁面の埃を落としていた。
「さあさぁアイル、そんなところで床と会話してる暇はありませんよ。埃落としてる間に、窓にはってるツタを落としちゃってください。それが終わったら、終わったところから掃き掃除です」
「……はいはい」
どこか楽しそうにも見えるエリカのことを不思議に思いながら、アイルは机正面の窓の框を掴み、上へと持ち上げる。
窓が開くと、これまた細かい埃が舞い上がった。相変わらずすごい埃の量である。
「ここってどのくらい掃除してなかったの?」
「えっと……多分三年ぐらいは手付かずだったと思いますよ」
まさかの年月に、思わずげぇと舌を出すアイル。
どうやら今日は久々の大掃除らしい。
「だからこそ、しっかり掃除しますよ。今日は埃をとるだけですが、明日はしっかり磨きますからね」
どうやら明日も掃除をする予定らしい。エリカがわざとらしく、「あぁ、手が足りないなぁ。誰か手伝ってくれたらなぁ」とアイルに聞こえるようにつぶやくが、アイルは断固無視だ。
エリカも明日まで出動を強要する気はないのか、笑って見逃す。
埃臭く陰気な部屋の窓から顔を出して外に目を向けるアイル。その目には再び、風にはためくシーツが目に入った。
「あのシーツって?」
「空き部屋の寝台用のものがほとんどですよ。ずっと棚の奥で眠っていましたから、今日一日お日様に当ててます」
「なんだか初めて見た」
アイルにとって教会の裏庭はドロンとの悪知恵を相談し合う場所であったり、他の子供たちが遊ぶ広場のような場所だった。ほとんど子どもたちに開放されているのが当たり前で、そこに何かが立ち並ぶことなどありはしない。そもそも、教会は寝泊りをするような場所という印象がなく、その裏庭の一角を埋め尽くすほどのシーツがあること自体が驚きだった。
しかしそうではないことを知っているエリカは鼻で笑い、アイルにいった。
「いつも休みの日に教会に来ていないからじゃないですか?」
言われてみればその通りだとアイルは笑う。
「どうして今日は来ているんですか?しかもわざわざ神父を怒らせるようなことをして」
尋ねるエリカは未だに壁面の埃を落とし、本気で聞いている様子ではない。
「神父の秘密を探りに来た」
「……おじさんの秘密?」
しかしアイルの言葉に、純粋な興味でエリカは訊き返す。
「なるほど。普段怒られ続けるのもしゃくなので、何かおじさんの負い目を探ってやろうという魂胆ですか」
エリカに言い当てられ、アイルは目を丸くした後ばつが悪そうに笑った。それを見て子供らしいと内心エリカは思うが、アイルに先を促す。教会に通う子供たちの中では間違いなく自分が一番長く神父と付き合っているという自負もあって、その話には興味がわいた。
「それで、おじさんの秘密は何か握れましたか?」
「とりあえずあの神父の机の中に女の人の写真があったのと、何かのアイドルグループのポスターが部屋のベットの下に隠してあったのだけは知ってる」
「あぁ、写真は多分おじさんの娘さんで、ポスターはパレットのグループのものですね。もう二十年も前のグループですが」
「……」
「……どうしました?」
「いや、なんで僕たちが血眼になって探した戦果を知っているのかなって」
「おじさんとはそれなりに長い付き合いですから。おじさんの部屋の右から二番目の本棚の上の段の本に使われている栞の中にエッチな写真が隠してあるってことぐらいまでは知ってます」
遂に掴むことのできなかった神父の弱みを、事もなさげに話すエリカに、アイルの口があんぐりと開く。
「因みにそのエッチな写真って?」
エリカの情報もさることながら、アイルは写真の内容が気になるようで、エリカに問いかける。勘違いをしてはいけない。アイルはエッチであることに興味があるのではなく、あくまで神父の性癖を赤裸々にしてやろうという思いからの行動だ。そう、何もアイルがその話に興味津々なわけではない。
しかし真顔になってエッチな写真の内容を聞いてくるアイルに、さすがにエリカが引き気味になるのは致し方ないことだろう。
しかもよせばいいというのに、最後はエリカもそれに乗って、
「どうやら、おじさんは巨乳派のようです」
こんなことを言うものだから、アイルの鼻息もさらに荒くなる。
「巨乳派ですかっ!」
はたから見れば、未だ十歳という少年少女が繰り広げるには、少々下劣が過ぎる会話が展開されていた。
しかしどういうわけか、アイルは単純に神父の性癖を暴くために、逆にエリカも神父の好みの女性に興味がわくという妙なシンクロもあり、二人はその会話でひとしきり盛り上がった。
神父は年上好きか、年下好きか。女性の髪の色は何色が好みか。ロリか熟女好きか。今まで神父の心を射止めた女性はどんな人物か。胸かおしりか。女性を前にするとどうなるのか。などという話が展開され、
アイルにとって神父は「ピッチピチの若い年下の女性が好みで、胸がFカップ以上ないと我慢ならない変態紳士」
エリカにとって神父は「少し赤みがかった茶髪のおしとやかな女性が好みで、そういう女性を前にすると固まってしまう可愛げがある」
という結論にすら至った。
「アイルもまだまだですねえ」
その会話が終わるころ、エリカはアイルたちがさほど神父の内面に踏み込めていないことを知り、得意げに笑う。かくいうアイルは神父の性癖を赤裸々に暴いた(と勝手にアイルが思っている)エリカに尊敬のまなざしを向けていた。
「で、どうしてアイルたちはおじさんに追いかけられてたんですか?」
エリカが話を変えると、アイルはまたばつが悪そうに笑う。
「神父の特大級の秘密がアプイルトの像にあるって噂を聞いたんだ。それで、像を動かそうとしたりペタペタ触ったり上ったりしてるとこを見つかって、雷が落ちた」
「アプイルトの像におじさんの秘密があるって、随分な噂ですね。宝探しじゃあるまいし」
その随分な噂に踊らされてアプイルトの像を調べる辺り、アイルたちも必死になっているということだろうか。エリカはアイルを呆れの目で見つめ、それをアイルは少し訝しげに見つめ返した。
「どうしました?」
「いや、……正直エリカにも怒られるって思った。エリカって教会のお手伝いとかしてるのなら、そういうのにはうるさいかなって」
エリカはアイルのその疑問が思いがけないものだったようで、アイルから視線を外して逡巡した。
「そう、ですね……。私はまぁ、そこまで強く神様を崇めてはいないです」
ぽつりとエリカはつぶやく。
「……神様、信じてないの?」
アイルは心底意外だという顔をした。アイルも今まで神様のことを崇め奉る人間に多くあってきた。そうでなかった人間はドロンなど数えるほどしかいない。しかも教会に通っているというこの少女から、そのような言葉が出てくるとは思わなかった。
「信じてないわけじゃないです。アプイルトって神様は、いるとは思います。ただ私はその神様が人の願いをかなえてくれるような存在だとは思っていません。ただの口うるさい役立たずだと思っています」
続く言葉もずいぶんとひどいものである。もしここに神父がいたのならあまりの言葉に失神していたのではなかろうか。
「もしかして、神父にもそんな感じなの?」
「そんなわけないです。さすがにおじさんの前ではいい子さんをしていますよ」
堂々の猫かぶり宣言に再びアイルの口はあんぐりと開いた。
「なんか……思ったよりもドロンみたいな性格してるんだね。エリカって」
「よりによってその名前をあげますか」
「あはは、ごめん。僕あんまり人の名前を覚えるのが得意じゃなくて。そんなに知り合いがいるわけでもないし」
エリカのジト目に、アハハと笑ってやり過ごすアイル。
「でも、そんな風に思ってるのならドロンみたいに外で遊べばいいのに」
話題を変えようと何気なくそう言うと、とたんにエリカは神妙な顔つきになった。
「私はみんなに気味悪がられていますから」
「……え?」
「私はアイルと同じ。友人はいないという話です」
嗜虐が込められた笑みを浮かべそういってから、エリカが立ち上がる。
「僕には友達はいるよ」
アイルは口をとがらせて反論したが、エリカは何も返さずはたきを手にした。
「さて、もうだいぶ話し込んでしまいましたし、そろそろ掃除を再開しますか」
「ぉおぅ。そういえば僕たちって掃除の途中だったんだっけ」
いつの間にか話し込んでしまい、すっかり塗装時のことを頭から飛ばしていたアイルは、これから八部屋も掃除をしなくてはいけない事実を思い出し、げんなりと息を吐く。
それを見たエリカは窓の外を見る。
もう大分日が傾き、教会の影が深く中庭に落ちていた。
「……これは、今日中に終わりそうもありませんね」
それを聞いたアイルの耳がウサギのようにぴょこんと立った。
「これは明日もアイルに付き合ってもらうしかなさそうですね」
しかし続いた言葉に、アイルの耳は怒られた犬のようにぺちゃりとしおれた。
「マジですか?」
「ただとはいいませんよ?」
そういってエリカは懐から銀色の細い筒状の笛を取り出す。先ほど神父を呼ぼうとしていた時に見せた笛だ。
「……神父には黙っていてくれると?」
すなわち僕に対して何一つ利がないが、代わりに最悪の事態にはならないと?本気で脅しかと疑うアイルの目を、エリカは笑って払拭する。
「さっきも見せましたがこれ、実はおじさんを呼ぶものじゃないんです。……っ。ほら、音はしないんです。この笛」
エリカはそういって実際に吹いて見せる。漏れ出たのはかすれた声だけで、アイルが想像していた甲高い音はない。隣にいるアイルがぎりぎり聞こえるか聞こえないか程度の音だ。
「……じゃぁ、その笛何なの?」
「魔法の笛です」
即答したエリカの思いがけない言葉に、アイルは「へ?」と頓狂な声で返す。
「……信じてませんね?」
アイルの反応は織り込み済みと、エリカは笑って見せた。
「……私の体をきれいにしてくれませんか?」
そしてエリカは埃の被ったシスター服を天に見せつけるように、大きく腕を広げた。
「……いいじゃないですか。アイルにわかってもらうには、きっとこれが一番手っ取り早い方法です」
エリカはぶつぶつと何かを呟く。その声はアイルには明瞭に聞き取ることはできなかった。
突然おかしな行動や言動が目立ち始め、いったいどうしたのだろうとアイルがエリカを見つめていると、
――そのエリカに変化が起こった。
突然、エリカの体の周りに薄緑色の朗らかな小さい光が漂う。その光がエリカの纏うシスター服に取り込まれていく。光が収まると、エリカの少し埃で汚れていたはずの服が新品同然に一つのしわなく煌めいていた。
「……?」
わけのわからないアイルは何度も目をこする。しかし何度目をこすろうが目に映っているのは汚れの後が一つもない真っ白なシスター服をまとい、得意げに笑うエリカだ。
「……どうですか?すごいでしょ?」
「……うん。すごいんだと思うけど……」
「おや。思ったより反応鈍いですね……。すごくないですか?」
いつまでも呆けたようにエリカを見つめ続けるアイルの反応に不満をもったエリカが、くるりとその場で一回転し、服を見せながらどうですかと続けた。
「なんか、なんていうんだろう、こういう気持ち。キツネにつままれた?みたいな?なんか現実味がない。っていうか、服がきれいになるって魔法って、なんというか……しょぼい」
そうアイルが言うと、えりかは「むっ」と息を詰まらせて、むくれ面になった。
「それは仕方ないです。神様がそういう些細なお願いしか聞いてくれないのが悪いんです」
「神様?」
「はい。この笛を吹いてお願い事を言うと、神様が叶えてくれるんです。ただ神様はケチなので、すっごく些細なお願い事しか叶えてくれないんです」
エリカの言葉に、アイルはフーンと鼻を鳴らす。
「……バカにしてます?」
いつまでも微妙な顔を続けるアイルに、エリカが顔をしかめる。どうやらエリカは疑われているのが気にくわないらしい。アイルも別にバカにしているわけではなかった。ただ不思議なことが起きているという実感が未だにわいていないのである。
「ねぇ、使わせてもらってもいい?」
「残念ですけどこの笛、私専用なので。私以外には使えません」
「そっか。……だったらまぁ、しかたない」
「そこでっ!今回は大サービスです。明日掃除を手伝ってくれるのなら、一度だけお願い事を言う権利をあなたに進呈します」
バッサリとその話を終えようとしたアイルに、エリカが少々語気を荒げ食って掛かった。アイルも、不思議な力には興味があって、その話を飲むことにした。
「いつお願い事を言います?たぶん今はそれほどお願いしたいこともないでしょ?」
「うんにゃ。もやもやしたのはなんかいやだし、今のうちに使っちゃう」
エリカはアイルが明日の掃除に加わってくれればそれでとりあえずは満足らしく、笛を懐にしまおうとした。しかしアイルも、せっかく手にした不思議な力を使う機会に、少なからず興奮を感じざるを得ず、二人の意見はまたもぶつかる。
「……明日あなたにすっぽかされたら、私の損なんですけど?」
「僕がそれをしたら神父に僕が今までやってきたことを、あることないこと吹き込めばいい」
しかし最後にはエリカもアイルに根負けし、アイルの言うように今ここでアイルの願い事を叶わせることにした
「……」
エリカがその小さな口に筒を運び、小さな肩を張って静かに息を吐いた。
相変わらず激しい運動をこなした人から漏れる息つぎのような、かすれた音が漏れた。しかしアイルもその音を聞いて、不快に思うようなこともない。ずいぶんと心音に浸透してくる穏やかな音だ。
笛を吹き終わったエリカがアイルに視線を送る。
「どうぞ。些細なお願い事であれば、神様が叶えてくれるはずです」
あくまで些細なという言葉を強調して、エリカは言った。
それを受けて、アイルは頭を掻く。
不思議な力を使えるのはいいが、何をお願いするのか決めてはいなかった。しかも、あまりたいそうなお願い事は叶えられないというのである。
不思議な力を目の当たりにすることが目的なのだ。ならば偶然では絶対に説明できない何かがいい。加えて明日も掃除に参加する羽目になりそうだし、それなりにいいことが起こるような願い事がよかった。
そこまで考えて、アイルの頭に浮かんだ願い事の中から一つを選び取る。
「あー……、じゃぁ、エリカの服がほどけてすっぽんぽんになる」
「へ?」
口にした瞬間、エリカの顔からは血の気が引いた。
そして次の瞬間、何の前触れもなく、破れるような音もなく、エリカの纏っていたシスター服とその下に来ていた下着が、はらはらとほどけ、その中に眠る宝石のような柔肌をあらわにさせたのである。
「おぉー」
どうやらエリカの握る笛には、本当に不思議な力があるらしい。自分で使ってみて、ようやくアイルはその実感を手にしていた。
「すごい。さっきの夢じゃなかったんだ。……えりか……、あれ?」
かくいうエリカといえば、ほどけた自分の衣類を信じられないような目で見つめていた。
「……へぇ。そうですか。あなたはこれを、些細な願いといいますか。……そうですか」
いつまでも顔をあげることなく、そして体を隠そうともしないエリカに、さすがにアイルも薄気味悪さと申し訳なさを感じ、エリカの顔をうかがう。
エリカがふと顔をあげると、そこには底がないほどの嗜虐の念を瞳に宿し、頬を緩ませた少女の顔があった。
それを見てようやくアイルは、自分がやりすぎてしまったことを悟った。
「ごめん、あの、あのあのっ、願い事が本当になるとかあんまり信じられなくってさ。今まで半信半疑だったし。だからそのぉ、てっきりかなわないものだと」
アイルの弁明を、エリカは鼻で笑った。
「いいんです。あなたにはささやかながらお礼をしたいと思いましたし、あなたに願い事を一つ叶えるよう進言したのは私です。あなたは何も悪くありません。悪いのは全部、この願い事を些細な願いと断じた神様です♡」
エリカはにっこりと笑い、アイルが放っておいたアイルの背丈ほどある箒を手に取る。
「あ、あははは。えっとぉ、エリカさん?僕が悪くないという割に、箒を向けてくるのは何でなのでしょうか?」
「大掃除です♡」
「掃除にしてはほら、箒の持ち方が違うような気がするんだけどなぁ。なんかそれ、鈍器でだれかを殴り殺そうとしてる時の握り方なんじゃないかな?しかもご丁寧に穂の部分外してるし……もはや鈍器のようなじゃなくて、鈍器だし」
「粗大ゴミですから♡」
じりじりとエリカに迫られ、歩幅を同じくして後退するアイル。しかし当然狭い個室に、逃げる空間などありはしない。アイルにとっての逃げ道はただ一つ……。
「あ、もし外に出ようとしたら、おじさんを呼んで、アイルに服をはぎ取られ、あられもない姿を見られたと泣きついて、あなたを社会的に抹殺しますね♡」
「だったら少しは隠そうとしてよ!?」
「アイルだって、わざわざこんなお願いをしたってことは、そういう思いがあったってことですよね?」
「えっ!?いや、っ、ちょ、ちょっとだけ、ね。でも今はそんな邪な気持ち全然ないから!僕が間違っていたってわかるから!」
「だったら同罪です♡」
「ちょっと待って、さっき悪いのは僕じゃないってっ。……僕に罪はないってっ!?」
「粗大ゴミですから♡」
「お願いだから会話をして!」
「死んでください!」
べチーンと、まるで竹刀で叩かれたような軽快な音が、静かな教会の中に木霊した。