皇子誕生
昔むかし、ヤマト王権が倭国(日本)での勢力を少しずつ伸ばし始めていたころのことです。
このころ、ヤマト王権の支配がまだ及んでいなかった倭国の端に、とある小さなクニがありました。そこでは、クニの祖先たちが代々伝えてきた狩猟や採集と、大陸からやって来た渡来人が持ち込んだ農耕や古墳造営などの技術がうまく共存し、小さいながらもそれはそれは平和で豊かなクニでした。
さて、このクニを治めていた王さまには、一つの悩みがありました。それは、愛する后さまとの間に皇子さまが生まれなかったことです。王さまは、十五歳の時に后さまと婚礼を結び、三人の皇女さまをもうけましたが、自分の後継者となる男子がいないことが王さまの気がかりでした。
そんなある年のことです。后さまが四人目の子どもを身ごもられ、このことはすぐ王さまの耳にも入りました。
「な、なんと。でかした。今度はきっと皇子だ。立派な皇子を生んでくれよ」
「まあ、王さまったら。気が早いこと」
后さまは、普段の冷静さを崩さないまま答えます。一方王さまはというと、皇子が生まれるのはまだか、と毎日のように言っておりました。
そうして日を重ねていくうちに、后さまのおなかは徐々に大きくなり、稲が豊作となった月に、后さまは臨月を迎えられました。
「おお、そろそろ皇子が生まれるころだな。どれ、体調はどうだ。すぐにでも名のある薬師や呪い師を呼ばせるか」
「まあ、王さま。そう焦らなくとも、和子さまはきっと無事に生まれてきますよ」
王さまと后さまがそうやり取りしたのもつかの間、后さまは突然の病に倒れられたのです。
王さまは、すぐに薬師や呪い師を呼び寄せました。けれども、后さまの体調が良くなる気配はありません。幼い三人の皇女さまたちも、后さまを心配して、顔を赤らめています。
そして一晩が経ち、王さまがこうした状況にしびれを切らしていたとき、呪い師の老女が一人、王さまのもとに近づき、深く礼をしました。彼女は、呼び寄せられた者たちの中で最も年長であり、王さまもそんな呪い師を前に思わず固唾を呑みます。
「王さま、畏れながら申し上げます。后さまは、どうやら根の国の神の機嫌を損なわれたようで、神がお怒りになって后さま、和子さまへ災いをもたらしているようです」
「根の国の神が……そうか」
呪い師の言葉に、王さまは神妙な面持ちで応じます。根の国とは、死んだ後に行く場所であり、一度そこに行ってしまえばまず帰っては来られないと伝えられていました。
「ですが王さま、あきらめてはなりません。后さまと和子さま、お二人を根の国の神から解き放つ方法がございます」
呪い師がそう告げるや否や、王さまの目の色が変わりました。王さまの目線が眼前の老女に注がれていきます。
「なんと。して、その方法とは」
「このクニの者たち、すべてが一丸となって后さまと和子さま、双方のご無事を祈るのです。人ばかりでなく、草木や虫魚、禽獣に至るまで……生きとし生ける者、みなで祈るのです。さすれば、根の国の神はその力を恐れ、お二人を解放なさいます」
「まことか」
王さまは、にわかには信じがたいといった様子で呪い師を見つめていましたが、しばし沈黙したのち、意を決したかのように小さく頷きました。
「分かった。二人の生命を助けるにはそれより他に方法がないというなら、余はそれに従おう。さっそく臣下の者、クニの民に命じて、后と皇子の快癒を祈らせよう。けして二人を根の国へ行かせはせぬ」
こうして、王さまはすぐにクニ全体へ二人の無事を祈るよう、命令を出されました。
王さまの側にお仕えする豪族たち、クニを守る兵士たち、それぞれの生活を送る子どもから老いた者に至るまで。さらに、古墳造りに従事していた者たちも、このときばかりは作業を休んで、ひたすら祈り続けました。
それでも、后さまとおなかの子どもは危険な状態でした。
「余の命令をクニ全体に伝播させ、民や兵士たち、さらには余の娘たちもみなが祈ってくれているというのに、まだ足りぬというか。それならば」
すると王さまは、宮殿の外へと飛び出しました。すると突然、大粒の雨が降り始め、その勢いは間もなく大滝のごとく激しさを増していきます。
それでも、王さまは裸足のまま、ぬかるんだ地を踏み、大仰に両手を広げると、空を仰ぎます。
「天地の神々よ、あらゆる神と共にこの地に根付きし者たちよ、聞け! 今まさに生まれようとす生命が、このクニの空気を吸うより前に、根の国に誘われようとしている! 神々よ、草木よ、虫魚、禽獣よ。間もなく余の妻と子を幽世へ連れて行く、それが定めだというか。後生一生、余の望みはただ一つ。余の大切な后と子を、無事この現世に留め置くことのみ。他は何も望まぬ。余の願いを聞き届けるならば、天よ晴れ渡れ、万象よ余のもとに集い給え!」
するとどうでしょう。王さまの目の前で降り続いていた雨はぴたと止み、上空にあった雲は、たちまち散り散りになって消えていきました。王さまの目に、赤い夕日と黄色い空が映ります。
さらに、王さまのいる宮殿に向かって、烏や犬猫たちがやって来ていることに王さまは気づきます。蝶や蛾、加えてクニに住む人たちも王さまの宮殿を訪れ、敷地内はあっという間に大勢の人や動物たちでいっぱいになりました。目の前で繰り広げられる光景に、王さまが口をぽかんと開きながら眺めていると、宮の中から元気のいい赤子の泣く声が聞こえてきました。
「おおっ、生まれたのか。皇子よ」
王さまは、すぐさま后さまのいる室へと走っていきました。和子さまの誕生に色めき立つ豪族や侍女たちにも構わず、真っすぐに后さまと和子さまのいらっしゃる一室へと入っていきます。
「おお、后よ。よう生んでくれた。ようやった」
王さまは、息を整えながら后さまに向かって言いました。対する后さまはというと、顔中に大量の汗を浮かべ、荒い息を落ち着かせながらも、側に控える産婆へ顔を向けます。産婆の骨ばった手の中で、全身を真っ赤に染めた和子さまが元気な泣き声を上げていました。
産婆は、そんな和子さまの声にも負けないほど、はっきりとした声で王さまに言いました。
「皇女さまでございました。御目出度う御座ります」
産婆の言葉を耳にした王さまは、しばし呆然としたのち、その場で両膝をつきました。王さまは、肌が赤い皇女さまへと満面の笑顔を向けます。
「そうか、皇女であったか。そうか、そうか。この世に生を受けるより前に、大いなる神の定めを乗り越えたそなたは、皇子ではなく、皇女であったか」
王さまは噛みしめるように言うと、生まれたばかりの皇女さまの頭をゆっくりと撫でられました。后さまと産婆は、互いに顔を見合わせると、静かに微笑まれました。近くに控えていた三人の皇女さまたちや、薬師や呪い師も、穏やかな面持ちで二人の様子を見つめられ、室の外からはクニの民や兵士たちの大きな歓声も聞こえてきます。
「大勢の者たちから祝福されて生まれたそなたは、きっとこの先、どの男子よりも立派にこのクニを、あるいは倭国を、治めてゆくのやもしれんな」
王さまが得意げに呟くと、皇女さまの真っ赤な顔は見る見るうちに笑顔になりました。やがて、産婆の手から王さまの大きな手へと渡った皇女さまは、王さまの温かい手のひらに包まれて、元気な産声を上げられました。
皇子誕生/おしまい