炎のように
その少年に出会ったのは随分と昔、彼女が六歳だった時だ。いつも泣き腫らしたような、脆い眼をした少年だった。
彼女と少年は政略により夫婦となった。
はじまりはただそれだけのことだった。
少年は彼女よりも十歳年長だった。しかし、それでも六歳と十六歳では夫婦らしくしようもない。かれらはまるで兄妹のような生活を始めた。
彼女は故郷を懐かしむことなく、知己の無い異郷を嫌うことなく、ただ夫である少年だけを見つめていた。
幾年かが過ぎ、彼女は次第に自分の置かれた場所がひどく苦しい板挟みの立場であることに気付いていった。
嫁ぎ先の家臣は誰も、まったく打ち解けようとしなかった。自ら進んで彼女と言葉を交わすのは、彼女についてきた侍女たちを除けば、夫とその父、弟の三人だけだった。
彼女は幼かった。それが普通だと思っていたし、武家に嫁ぐということは「そういうこと」だと思っていた。
些細な違和感が少しずつ彼女の常識を蝕み、彼女は少しずつ息苦しくなっていった。
木曾家での新生活の守りに、と父から与えられた懐剣を取り出して、真理は深く息を吸った。
吸い込んだ異郷の空気をゆっくり吐きながら、柄に掛けた手に力をこめて、そろりと鞘を払う。にびいろに光る刃が、陰鬱とした真理の顔を映してきらめいた。
懐剣を抜いて、何をしようと思ったわけではない。ただ無性にくるしかったのだ。故郷を遠く離れた場所で、家族を思い出す縁を眺めれば、いくらかでも胸の内にこごる苦しさがやわらぐかと思っただけだった。
渡されたきり仕舞いっぱなしで、ろくな手入れもしていない懐剣の刃は、意外なほど澄んだ鋼の色をしていた。
真理はそっと、呼吸をした。こめかみでどくどくと鼓動の音が聞こえた。喉の奥がきりりと痛くなって、胸の苦しさはかえって増したようだった。
部屋に一つだけ灯された灯台の灯りが、いくすじもの光線を刃紋の上に伸ばしていた。
不思議と何の感傷も涌いてこなかった。望郷や追憶を呼び起こすには、真理の中の故郷の記憶は少なすぎた。
「……遠いのね、ここは」
ぽつり、唇から無意識に呟きが漏れた。耳が拾い上げた独り言が、また、胸を締め付ける苦しさを強くした。
「……遠くて、届かない……」
真理の心の中の声は、ここからでは誰にも届かない。誰も聞こうとはしない。ここでは、誰もが真理を「いないもの」だと思っているのだ。
その理由を真理ははっきりとは知らなかった。だから理解は出来なかったが、ただそういうものなのだろうと納得はしていた。
「…………」
けれど、苦しいものは苦しいのだ。
懐剣を握る真理の手が、無意識に鋼色の刃先を持ち上げた。背後で障子が開いたのはその時だった。
「何をしてる」
不意にかけられた声に、我に返って振り向いた。見上げる真理の目線の先、義昌が厳しい表情で立っていた。
「あ……」
「何をしてるんだ」
後ろ手に障子を閉めた義昌は、真理の手の中の懐剣を見ると、眉間に深い皺を刻んだ。二十歳そこそこの若者の表情にしては、あまりに厳しすぎた。
真理は慌てて抜き身の刃を隠そうとした。が、それより早く、伸ばされた義昌の手が懐剣を掴み、反対の手が真理の腕を掴んだ。
「よせ、馬鹿。自分に刺さる」
「は、放して……」
「お前が放せ」
強い口調で言われて、思い出したように真理は懐剣の柄を握り締めていた手を開いた。刃を掴んだ義昌の掌から、赤い血の筋が溢れた。
橙色の灯火に照らされた赤色は、毒々しいほどはっきりと、鮮烈に、真理の瞳に映された。
「怪我を……手当てを、しないと……!」
「いいから、お前は大人しくしていろ」
「でも……!」
「いいと言ったんだ。鞘はどこだ?」
真理が差し出した鞘に血を拭った懐剣を納めると、義昌はそれを懐に仕舞った。
掌の傷に布を巻きながら、平静な動作で腰を下ろす。夫の顔を直視できなくて、真理はそっと目を伏せた。
「手遊びの玩具なら、もっと安全なものにしろ。俺ならともかく、お前は傷なんか作るな」
「……ごめんなさい」
「これは、輿入れの時に持ってきたものか?」
黙って頷いた。
義昌はしばらく考えて、悪いがこれは預かる、と言った。
「大事なものだろうが、刃物は刃物だ。お前がもう少し落ち着くまで、俺が預かっておく」
「私は……ちゃんと、落ち着いてる」
「だったらぼんやり匕首なんて眺めたりしないだろう。何か悩みでもあるなら、俺に言え。話を聞くくらいは出来るからな」
はっとして真理は顔を上げた。相変わらず仏頂面の義昌と目が合った。
「嫌なら別にいい。あんまり思い詰めなければ、俺は何も口出ししないさ」
「……本当に……?」
「ああ」
ふと義昌の目許が優しくなった。それが彼の微笑だと気付くまでに、真理はしばらくの時間が要った。
じわりと瞼の裏から涙が込み上げてきた。瞬きと同時にぽろりと零れる。胸が締め付けられるようだった。
「おい、どうした?」
突然泣き出した真理に尋ねる義昌の声が、さらに涙を溢れさせた。
嬉しかったのだ。仕方無しに結婚したものだとばかり思っていた。自分などどうなろうと気にしないと思っていた。けれど違ったのだ。
真理は、初めて接した義昌の優しさが嬉しかった。
(きっと、苦しいのはこの人を慕っているからなんだ)
その感情を「恋慕」と呼ぶのだと、真理は思った。
後から後から流れ落ちる熱い涙を、そっと義昌の大きな手が拭った。頬を撫で、髪を撫でる。義昌の掌は温かかった。
「……ありがとう……」
嗚咽の隙間からそう言った。困ったような義昌の表情を、初めて愛おしいと思った。
はじまりは、ただそれだけのことだった。
彼女が抱いたその感情は、やがて激しく燃え上がり、彼女の意志の篝火となる。
真理姫(真竜院)と木曾義昌
「誰も愛さないで欲しいから」に繋がります。