優しい顔で笑う人がいた
幾夜の昔か、独り寝が、まだ怖かった頃。
三郎二郎は眠い目をこすりながら、枕を抱えて兄の部屋へ通った。暗くなった部屋の隅になにかが潜んでいるような気がして、そのなにかが三郎二郎に話しかけてくるような気がして、ひとり目を閉じる事が恐ろしかった。
「なんだ、また来たのか」
眠り灯台のほのかな灯りで読み物をしていた宗太郎は、いつもそう言って三郎二郎を迎えてくれた。
「兄ちゃん、起きてると思ったから」
「もうじき寝るよ」
「あのさ……いっしょに寝ていい?」
おそるおそる三郎二郎が言うと、宗太郎は困ったように肩をすくめて微笑むのだ。
「怖がりだな、三郎は」
そうして、狭い寝床を半分わけて貰って、三郎二郎はようやく瞼を閉じる事が出来た。
弓の稽古をした話、馬の世話をした話、手習いがつまらなくて逃げ出した話、三郎二郎は何でも宗太郎に話した。宗太郎はどんな話でも最後まで聞いてくれた。一緒に喜んだり、褒めたり、時には怒ったり悲しんだりした。三郎二郎は宗太郎と話すと、どんなことでも昇華できた。
「兄ちゃん、暗いところにはなにがいるの?」
ただひとつ、その問いにだけは、宗太郎は答えてくれなかった。答える代わりに、仲良しの兄はこう言った。
「暗い所にいるものは、きっと明るい所ででも見える」
「そんなのやだ、怖いよ」
「怖くないさ。明るい所でなら、そいつの正体だって分かるだろう?」
涙目で窺い見た宗太郎は、それはそれは優しい顔で笑っていた。怖がりの弟を宥めるように。
「……それで、結局何が暗がりにいたのですか?」
長三郎が尋ねた。昔語りの懐かしさから醒めて、義豊はくすりと笑った。
「何もいやしないさ」
「何もいなかったのですか?」
「目に見えるものはね」
おかしそうに義豊は笑った。首をかしげる長三郎に、昔は怖がりだった叔父は昔話の続きを聞かせる。
「兄貴に言いくるめられて、一晩だけ独りで寝たのさ。びくびくしながらね。知らないうちに眠って、朝起きて部屋を見回して、初めて部屋の隅に何もないことに気付いた」
拍子抜けした三郎二郎は、兄のところへすっ飛んで行って報告した。明るい所で見たら何も無かった、と。
「それで、父は何と言ったのですか?」
「よかったな、の一言だけさ。何も無いって知ってたのか尋いても、笑うだけで答えてくれなかった」
「……どうしてでしょう?」
難しい顔で腕を組んだ長三郎に、義豊はにこにこと笑いかけた。
「よく考えてみるのさ。目に見えるものは何もいなかった。でもな、ちゃんといたんだよ、みえないものが」
「えっ?」
長三郎が怯えたように後ずさる。義豊はにこにこと笑ったまま、怖がりの甥に語った。
「人間の情念は目に見えない。それはどこにだって蟠っているものなのさ」
誰かの恨み辛みを向けられていると悟った瞬間から、それは彼らに近付いてくるのだ。ひそりと、音も姿も無く。
「怖がるから感じる、恐れるから追われる。だったら笑い飛ばしてやればいい」
「……どう、やって?」
「影も見せない臆病者がどれほど怖いものかよ、ってさ」
幾夜の昔か、優しい笑みを浮かべていた兄は、きっと同じ事を思っていたのだろう。
義豊はいまも、部屋の隅にうずくまる誰かの情念を、時々怖いと思うのだ。
上松義豊と上松義春
幼名が分からないので義豊→三郎二郎、木曾義昌→宗太郎で代用。
長三郎(義春)は義昌の三男、義豊の養嗣子。