彼の黎明
朱弘は真新しい家屋の陰で息を潜めていた。隣で同じようにじっと縮こまっている相棒の厳栄も、別の物陰に隠れている子分たちも、追っ手の目を眩ますために静まり返りながら、思った以上の大きな獲物に興奮を隠し切れない。
弘は二十人ばかりの悪少年を纏める頭役だった。今上帝の墳墓として茂陵の開発が始まってから、じきに二月が経つ。弘たちが茂陵に来てからの時間と同じだけ、建設の為の時間も過ぎていた。
いま、吹きっ晒しの野原だった茂陵の地は、徐々に活気の出始めた新興の町へと変貌していた。
「……よし、やりすごしたみたいだぜ。やったな弘、大漁じゃねぇか!」
「おい、でかい声出すんじゃねぇ。見つかったらどうすんだ」
こっそりと辺りの様子を窺っていた栄が振り返って笑う。弘は大声を出すなと制しながら、緩む頬を押さえきれない。
今までで一番の上物なのだ。しかも数もかなりある。
店を構えたばかりの肉屋に品物を運ぶ車だったようだ。奪った樽からは干し肉の塩の匂いが漏れ出ている。貼り付けてある覚書を見れば、仕込んだばかりの良い肉で、すくなくとも一樽当たりの値段はそこらの肉屋の物の二倍から三倍は見込めるだろう。もとは肉屋の倅だった栄がそう言うと、子分たちのみならず弘の顔も輝いた。
金はいつだって有るに越した事はないのだ。決まった職に就いていない弘たちは、食っていく為に盗んだり奪ったりを繰り返す。素行が悪いだとか出来が悪いだとか、彼らはだいたいのところ、社会に馴染みづらい人々だった。職が無いなら親の脛を齧り、脛が無くなれば他の誰かから奪う。少なくとも弘にとって、それは単純な仕組みだった。
「どうするよ、弘。一樽は俺たちで食うとして、残りは売るか?」
「ああ、そうだな……」
元が良い品だ。多少色をつけた所で買い手が逃げ出すとも思えない。あんまりぼったくると怪しまれるから、栄の見込んだ値段の二割を上乗せして売りに出してみようか。
弘がそんな事をつらつらと考えていると、沈みかかった日が照らしていた背中がすっと寒気を憶えた。
「?」
「落し物を拾ったんだから届けに行くってのはどうだ?」
訝しんだ弘が振り向くより先に、背後から低い声が話しかけてきた。聞いた事のない声だ。子分たちは二十人足らずで、全員馴染みだから当然声も覚えている。
では、誰が?
「どこかで見た手口だな。しかも、どこかで見た顔だ」
「だっ、誰だテメェ!」
振り返った先、弘たちが隠れていた家の壁にもたれかかって、すらりとした長身の男が立っている。弘の位置からは逆光になって顔は分からない。
不意を突かれた上に背後まで取られて、弘は動揺を隠そうと空威張りの勢いで誰何した。
「さあ、誰だろうなぁ。俺のことより、お前らに訊きてぇな。龍門の小僧のうち……さて、王温舒か李讃か朱弘か……」
「――ッ!!」
「朱弘か。フゥン、自分の名前を言われただけでビビるたぁ、肝が小せぇにも程があるぜ」
「何者だ、テメェ! 俺たちの縄張りでも取りに来たのか!?」
ほとんど虚勢の栄の叫びにも、逆光の男は動じる様子は無い。
くく、と喉を鳴らして笑い、組んでいた右腕をすいと伸ばして肩をすくめて見せる。
「同業者だよ――もとは、な。だが今はちょいと真面目に働いてンだよ。そいつを邪魔されンのは、ちぃっとばかり頭に来る。なあ、弘」
「な、なんだよ」
妙になれなれしく呼びかけた「元同業者」の男に、反射的に弘は答えていた。なめんじゃねぇや、と凄むのも忘れていた。
影になった顔の中、いやに鋭い目の光が弘を捕えてしまっていたのだ。身動き一つすら自由にならないという錯覚に陥る。
「いきなり声かけて驚かせちまったからよぉ、どうするかなんて急に決めらンねぇだろ? 三つの内から選んでくれよ、その方が楽で良い」
「……は?」
「一つ、さっき俺が言ったように、そいつを肉屋に返しに行く。二つ、そいつを俺に渡してとっととずらかる。三つ、」
「ちょ、ちょっと待てよ! なに勝手に決めてんだよ! こいつぁ俺たちの獲物だぞ!?」
完全に相手の調子に呑まれていた栄が、慌てて声を上げる。せっかく手に入れた上物だ。そう簡単に手放すわけには行かない。
しかし、やはり長身の男は相手にしなかった。栄の叫びなど聞こえていないかのように、自分の話を続けていく。
「三つは、その獲物を守る為に俺とやりあって、ボコボコにされて泣きべそをかく。さあ、どれがいい? おすすめは二番だぜ」
逆光の中でも、男がにやりと笑ったのがはっきりと見えた。弘は自分の耳を疑う。
――俺らとやりあう、だと?たった一人しかいねぇくせに、何をコイツ……。
男は一人で現れた。だが、弘たちは総勢で二十を越している。どう考えても勝ち目など無いのだ。なのに、その男は明らかに己の勝利を疑っていない。
「……馬鹿抜かしてんじゃねぇぞ! さてはテメェ、肉屋のモンだな?」
「お? もしかして三番か?」
「うるせぇ! 誰がこんな上物渡すモンかよ! やっちまえ!!」
やけくそで叫んだ弘の怒号に、真っ先に栄が反応した。立ち位置も姿勢も変えようとしない男に殴りかかる。
その瞬間、にやにや笑っていた男の顔が豹変したのを弘は見た。
まるで肉食の猛獣――例えば腹を空かした虎が、生餌を前に笑ったような、そんな獰猛で酷薄な笑みが浮かんだのだ。
「じゃあ、忠告だ。その一、お前らは盗みと喧嘩の現行犯、つまり捕まったら牢屋行き」
「ぐっ!」
ふっと男の上体が動いたと思った次の刹那には、栄の顎に強烈な上段蹴りが炸裂していた。
「その二、俺はそんなに弱くねぇが、一人で二十人に勝てるほど強くもねぇ」
「ぎゃあっ!?」
弘の近くにいた子分が殴り飛ばされる。
「!?」
「その三、俺が一人だと思ったか?」
「……ッ、な……!?」
「全員捕えろ」
男の冷徹な一言で、いつの間にか弘たちを包囲していた柄の悪い男たちが一斉に襲いかかった。
「残念だったな。茂陵に来たお前らの不運を呪え」
「――ふむ、良い働きだな。朱弘以下二十一名、全員が龍門の者か。よく調べた」
「昔に見かけたことがありまして。ついでに言えば、全員が怪我人ですが、労働には使えます」
「肉屋との後始末が済むまで牢に入れておけ。済んだら建設現場へ送る」
「はい」
悪少年たちと相対していた時とは別人のような澄ましぶりで、義縦は頷いた。張湯の細い目が満足げに縦を眺める。
「推薦を受けたときは、ただの悪餓鬼だと思っていたが、なかなかやるな。その調子で厳しく取り締まっていけ」
「任せてくださいよ、ああいう手合いなら考えることは大体分かります」
「そのうち、餓鬼の相手ではなく、法に基づいた摘発にも行ってもらう。そのつもりでいろ」
「分かりました」
深めに一礼して、縦は上司の部屋を後にした。
茂陵に来て二ヶ月。獲物のにおいを嗅ぎ付けて流れ込んでくる悪少年たちを取り締まる日々が続いていた。
前歴の無い縦は、まだ非合法な店を摘発したり隠匿している財産を押収したりという仕事には就いていない。今は暇をみて法規を覚えているところだった。複雑かつ細密なそれを全て頭に叩き込んだときが、縦の法技官としての初陣のときだった。
(今はまだ見習いだ。粋がりてぇ小僧の相手も、いずれ必要になる捕り物の練習と思やぁ苦でもねぇやな)
造られたばかりの役所の廊下を歩きながら、縦は膨大な法規を思い浮かべる。
(俺なら、どうやってその穴を突くか……)
法規の天才と名高い張湯は、無学な縦に法規を憶えろと命じた時に、そう言い添えたのだ。お前ならどうやって法の網の目をくぐるか。同じ事を実際にしている者たちを片端から牢に放り込んで裁くのが自分の役目、そいつらを捕まえてくるのがお前の役目だ。
出会って間もない冷酷な上司が、縦は好きだった。ああいう人間が役人だと、町に不法ははびこらない。かつて散々法を冒してきた縦だったが、誰彼構わず迷惑を掛けていたつもりは無い。同じ様な悪少年たちとの喧嘩に明け暮れ、時々あくどそうな人間を見つけると一芝居打って荷物をごっそり頂いた。横穴に造られた墓に忍び入って副葬品をちょろまかしたりもした。それでも、真っ当に働いている人からは何も奪った覚えは無い。だから、今日捕えた朱弘たちのように、手当たり次第に強盗を働くような少年たちは大嫌いだった。彼らが狙いをつけた肉屋は、質の良い肉と高すぎない値段、店主の実直な人柄から地元で評判の高い店だった。一度も脱税などした事は無く、客や仕入先を相手に詐欺を働いたことも無い。良民の手本のような人間なのだ。その代わりに蓄財は少なかったが、店主も家族も満足していた。彼らはただ、美味い肉を皆が食べられれば良いと思って商いに精を出している。法とは、そういう人々を守る為の、最強の武器だった。
(美味い肉は俺も好きだ。他の奴らだってそうだろう。だからあの肉屋は皆に好かれて、ここへ移動する時も随分引きとめられてた。茂陵は、いや、町ってのは、そういう人が住む為の場所なんだろう。そして、その町を守るのが法と法技官なんだ)
縦が悪少年になったのは、いくら働いても一向に楽にならない暮らしに嫌気が差したからだった。実家は薬を作っていた。いつの時代、どこの町でも、薬は皆が欲しがる。転んで擦り剥いた膝小僧につける軟膏から、骨折の激痛と熱を和らげる鎮痛剤、腹下しの薬に解毒剤。縦の両親も姉も、そうした数々の薬品を自在に調合できた。薬草取りと雑用が仕事だった縦も、傷薬などの簡単な薬なら自分で調合できる。家族全員でせっせと働いても、翌日の食い物に困る事はままあった。朝から晩まで汗みずくになって作った葛篭いっぱいの薬を安く買い叩かれた事もあった。それでも彼らは必死で働いた。そんな生活が、いつからか苦痛で仕方なくなったのだ。
いつも苛々していた。若さゆえに持て余した力を、同年代の少年たちとの喧嘩で発散した。家族は素行の悪い長男を嘆いたが、家財や僅かな金銭を持ち出したりすることはなかったので、そのくらいなら仕方が無いと諦めていた節もある。
(それが、今じゃあ真っ当に仕事してンだからな。かっぱらわなくたって飯は食えるし、働きゃあ働いた分だけ給金も貰える)
前非を悔いて、などという殊勝な動機から、法技官になろうと思ったのではない。
縦はただ、暢気に昼寝が出来る町に住みたいのだ。法に基づいて正しく商業が行われれば、馬車馬のように働く苦しい生活をしなくて済む。法に基づいて正しく町が治められれば、追いはぎや野盗に怯えることなく町を歩ける。
誰にも言ったことは無かったし、これからも言うつもりは無いが、そういう平和な町を作って家族を呼んで暮らしたいと縦は思っていた。
「おうい、縦! 取調べを手伝ってくれ!」
顔馴染みの記録係が雑居房の並ぶ一角から縦を呼んだ。
「ああ、分かった」
考え事を切り上げて、縦は呼ばれた方へと足を向ける。
「取調べって誰のだ?」
「見りゃあ分かるぜ」
示された雑居房を覗いてみると、ぶすくれた朱弘たちがひとまとめに押し込められていた。
「なんだ、お前らか」
「……テメェ、役人だったのかよ」
納得いかない、と顔中に書いてある弘の問いに、縦は肩をすくめて答えた。
「そうさ。残念ながら、優しいお兄さんじゃあなかったわけだ」
「ふざけんな! テメェだって元は俺らと同類の悪党じゃねぇか!」
「あ? 俺を知ってンのか?」
「顔ォ見て気付いたぜ。テメェ、平陽の義縦だろう。散々悪さして求盗に追い回された挙句、尻尾巻いて逃げ出したんだってなぁ! それが今じゃ役所の犬たぁ、札付きの前科が泣くぜ!」
げらげらと周囲の子分たちが同調して囃し立てた。役人(この場合は記録係だ)の目の前で過去の悪事を暴かれれば、気取った冷静な面も崩れるだろう、と思ったに違いない。牢に押し込められていながら、やけに態度が大きかった。
「龍門でも派手にやらかしたって聞いたぜ。なんでも王温舒の稼ぎを横取りしたんだとか。ケチくせぇ真似しやがるぜ! ええ、お役人様よぉ!?」
「そうだなぁ、護衛を雇った後ろ暗い奴らよりも無防備な良民を狙う、狡すッからい坊ちゃんには言われたくねぇなあ」
「な、何ぃッ!?」
「ちなみに王の野郎も茂陵にいるぜ。建設現場の方で目ェ光らせてるってよ。上も手ェ焼くような厄介者なんだと。よかったなぁ、地元出て辿り着いた先で、偶然にも同郷の奴に会えるんだからよ」
びくっと弘の肩が跳ねた。
「お前、龍門で王の野郎と揉め事でも起こしたんだろう。そうだよなぁ、あいつは鼻持ちならねぇ奴だからな。それで居づらくなって飛び出してきたってところか。どうってこたぁねぇ、いつぞやの俺と同じ……いや、追っかけてくるのが役人か悪党かってのが違うな、大違いだ。さぞかし速い逃げ足なんだろうよ。羨ましいこった」
「おい、縦。あんまり苛めてやるなよ」
いかにも見かねたように記録係が割り込んだが、同情や親切心からではない。ずばずばと心理を暴いていく縦の厳しさを和らげてやって、口を軽くするのが目的なのだ。
「それでなくても散々ぶん殴られた後なんだぜ。それにな、お前みたいに次から次へ話されちゃぁ、記録をとるこっちが苦労するんだよ。穏便にやってくれ、穏便に」
「穏便って何だよ。俺ァ生まれてこの方、穏便なんてのとは無縁だったんだぜ? いきなり言われたって困らァ」
「分かった分かった、じゃあ俺が聞くよ。お前は代わりに記録してくれ」
「俺は字なんて書けねぇ」
「手ェかかる奴だな。いいさ、じゃあそこにいるだけでいい。一人ってのは退屈なんだよ」
この即興の寸隙の間に、弘はどうにか気を取り直したらしい。
縦が呼ばれてきたときよりも数倍仏頂面で、記録係を睨み付けた。
「はいはい、怖いからあんまり睨むな。俺は優しいお兄さんだからな」
「…………温舒の野郎と顔ォ合わせたら、俺らはぶっ殺される。労役でも何でもするが、あの野郎と会わねぇようにしてくれ」
「そうしたら喋ってくれるか?」
「そっちが先だ」
記録係がちらりと縦を見遣る。
意図を汲んで、縦は溜息を吐きながら弘の注意を引いた。
「あのな、お前らは一応罪人なんだ。罪状が決まってから刑罰が決まる。その順番は動かせねェんだよ」
「…………」
「やった事ォ洗いざらい喋りな。そうすりゃ、上役にどう裁くか聞いてやる」
「…………本当だな?」
「ああ。ちゃんと聞いてくる」
それで弘は不承不承ながら話し始めた。記録係がせっせと竹簡にしたためていく。全員の氏名と出身、龍門に居た時の悪事、茂陵に来てからの悪さと手口など、事細かに語られる内容を簡潔に纏め終わると、やれやれとばかり伸びをして記録係は縦に声をかけた。
「お前、ホントに上役に聞いてくるのかよ?」
「当たり前だ。俺ァ約束した事は守るぜ」
「じゃあついでにこれも提出してきてくれよ。俺はあっちの房の奴も調べなきゃなんねぇからさ」
たった今作った竹簡を受け取り、縦は記録係に手を振って上司――張湯の執務室に向かった。
彼を追いかけてくる声は無い。
(甘っちょろい餓鬼だな。あれでよく温舒なんぞに喧嘩ァ売ったモンだ)
縦は雑居房の中の少年たちに言わなかった一つの事実を思い返して、ひそりと笑った。
龍門で幅を利かせていた悪党の王温舒は、確かに茂陵の建設現場にいる。上役も手を焼くほどの厄介者である。ただし、温舒は役人に追い掛け回される立場ではない。縦は未だに不愉快だったが、温舒もまた縦と同じ法技官なのだ。墳墓の建設という肉体労働に従事する荒っぽい男たちを、更に荒っぽいやり方で取り締まっている。温舒に比べれば、縦は確かに「優しいお兄さん」といえるかもしれない。
(張さん、あいつら労役だっつってたからな。まあ、俺は嘘は言ってねぇから、あいつらの頭の鈍さが祟ったってとこだろうなぁ)
上役にどう裁くか聞いてくる、とは言った。しかし、温舒に会わないように計らう、とは言っていない。
(もっと狡賢くならねぇと、法の目を潜ってる奴らは見抜けねぇ。張さんの言う「法治」のためには、もっともっと狡賢くならなきゃ駄目だ)
ようやく歩き慣れてきた廊下を、これからも数限りなく往復するだろう。執務室で待つ湯に大物を引き渡す瞬間を想像すると、縦はどんなつまらない雑用も無駄なこととは思わなかった。湯は正しい男だ。正しい男の正しいやり方で初めて、法治は成る。そうすれば平和な町が出来るのだ。
(ここは張さんが良い町にする。そうしたら、いつか俺も自分で……)
密かな決意を奥底に秘めて、縦は執務室の扉を叩いた。
終
前漢 義縦と張湯
朱弘と厳栄は架空のモブです。李讃はどうだったか忘れた。